100 キッチン 彼女は涙をこばして問い返した。 「じゃあ、そんな態度でも、ずっと田辺くんを好きだったっていうの ? 信じられない もことに、すぐ泊まりに行ったりして、手口が汚い わ。お母さんが亡くなったのを、 私の心の中は、いやな悲しさでいつばいになっていった。 雄一のお母さんが、男だ。たことも、私が彼の家に引き取られた時、どんな精神状態 だったのかも、私と雄一が今どんな複雑な、吹けば飛ぶような関係であるかも、別に彼 女は知りたくないのだ。単になんくせをつけに来たのだ。それで恋がかなうわけでもな いのに、朝のあの電話の後ですぐに私のことを調。へて、仕事場をつきとめ、住所を控え、 どこか遠くからここまで電車に乗 0 てくる。そのす。へてが、なんと悲しくて救いのない 暗い作業だろう。わけのわからない怒りを駆り立ててこの部屋に人。てきた彼女の頭の 中や、毎日の気持ちを想像したら、私は心からもの哀しくなってしまった。 「私も、感受性というものを持っているつもりなんですが。」私は言った。「知人を亡く してまだ日が浅いのは私も全く同じなんです。そして、ここは仕事中の職場です。これ 以上なにかおっしやりたいなら。」 本当は、自宅に電話を、と言おうと思ったのだが、私はそのかわりに、 「泣いて包丁で刺したりしますけど、よろしいですか。」
満 「失礼ですが、どちら様でしたか ? 」 「奥野と中します。お話があって来ました。」 と、かすれた高い声で彼女は言った。 「中しわけありませんが、今は仕事中ですので、夜にでも自宅のほうにお電話いただけ ますか ? 」 私がそう言い終えたとたん、彼女は、 「それは田辺くんの家のことですか ? 」 チ と強い調子で言った。やっと、わかった。今朝の電話の人に違いない。確信して、 キ「違いますよ。」 と私は言った。栗ちゃんが、 「みかげちゃん、もう抜けていいよ。先生には急な旅行で買い物があるからってうまく 言っといてあげるよ。」 と一 = ロ、つと、 いえ、それには及びません。すぐすみますから。」 と彼女は言った。 「田辺雄一くんのお友達の方ですか。」 私はっとめておだやかに言った。
典ちゃんの一日の予定を普通にす。へて把握しているのにもびつくりした。それが、世の お母さんというものなのだろうか。 典ちゃんは、ふわふわの長い髪を押さえながら少し笑って、鈴のような声で母親と電 話をする。 私は、自分とこんなにかけ離れた人生の人たちでも、二人がとても大好きだった。 彼女たちは、おたまをちょっと取ってあげても、ありがとう、と笑う。私が風邪をび いていたりすると、すぐに大丈夫 ? と心配してくれる。二人が白いエプロンで光の中、 くすくす笑っている様子は、涙が出るほど幸福な眺めに思える。彼女たちと共に働くこ キとは、私にとって、とても心の安まる楽しいことだった。 材料を人数分にポールに分けたり、大量のお湯をわかしたり、計量したり、三時まで 満 に細かい仕事は結構あった。 陽ざしがたくさん人る窓の大きなその部屋には、オー。フンとレンジとガス台のついた 大型のテープルがずらりと並んでいて、家庭科室を思い出させる。私たちはうわさ話を しながら、楽しく働いていた。 二時過ぎのことだ。突然、強くドアがノックされた。 「先生かしらね。」 と首をかしげた典ちゃんが言い、
と典ちゃんがほほえんだ。 「ところで、どうして私が行けることになったの ? 」 私がたずねると、 「ごめんね。私たち二人ともゴルフのレッスンを予約しちゃって、行けないのよ。あ、 でももしみかげちゃんの都合が悪いようなら、私たちどっちかがお休みするー。ね、栗 ちゃん、それでいいよね。」 「うん、だからみかげちゃん正直に言って。」 二人が心からやさしい気持ちでそう言ってくれたので、私は笑って首を振り、 「ううん、私、全然平気。」 A 」一一一一口った。 この二人は同じ大学から一緒にここに紹介で人ってきたそうだ。もちろん、料理の勉 強を四年間してきている、プロだ。 栗ちゃんは陽気でかわいらしく、典ちゃんは美人のお嬢様、という感じの人だった。 二人はとても仲が良い。 いつも目を見張るような上品なセンスの服を身にまとい、気持 ちよくきちんとしている。びかえめで、親切で、がまんがきく。料理界には少なくない 良家の娘さんタイプの中でも、この人たちの輝きは本物だった。 時折、典ちゃんの家のお母さんから電話があるが、恐縮するほどやさしく柔らかい
「伊豆 ? 雑誌のお仕事ですか ? 」 私はびつくりして言った。 「ええ : : : 他の女の子たちが都合が悪くてね。いろいろな宿の有名な味を紹介する、作 り方も少し解説して、っていう企画なんだけれど、どうかしら。すてきな宿やホテルに : なるべく早くお返事がほしいん 泊まるのよ。ひとり部屋を手配するようにするけど : だけれど、そうねえ、今日の夜・ : ・ : 。」 と先生が言い終えるより前に私は答えた。 「行きます。」これこそがふたっ返事という奴だ。 キ「助かるわ。」 と先生は笑って言った。 調理室のほうへ歩きながら、私は突然心が軽くなったことに気づいた。今、東京を離 ことのよ、つに思えた。 れ、雄一を離れて、少しだけの期間遠くへ行くのは、い、 ドアを開けると、中ではアシスタント仲間の一年先輩である典ちゃんと栗ちゃんがす でに準備にかかっていた。 「みかげちゃん、伊豆の話聞いた ? 」 と私を見るなり栗ちゃんが言った。 「いいなあー、フランス料理もあるんですって。海の幸もたくさんあるしね。」 やっ
キッチン と言ったのと、あ、ここは人のうちだったと思い出したのはだいたい同時くらいだっ たので、私はあわてて「田辺です。」をつけ加えた。 するとガチャンー と電話が切れてしまったのだ。あ、女の子かなあ : : : と眠い頭で 申しわけなく思い雄一を見たら、まだグーグー寝ている。まあいいか、と思い仕度して そっと部屋を出て、仕事に向かった。今夜もここに帰るかどうかは、昼中かけてゆっ り悩も、つと田 5 った。 職場にたどり着く。 大きなビルのワンフロアー全部が、その先生のオフィスで、スクール用の調理室と、 写真のスタジオがある。先生は事務所で記事のチェックをしていた。まだ若くて、料理 がうまく、すばらしいセンスを持っている、人あたりの良い女性だった。今日も私を見 るとにつこりほほえんでメガネをはずし、仕事の指示をはじめる。 午後三時からのクッキングスクールの準備が大変そうだから、私は今日はその手伝い が終わるまでいればい、 ということだった。メインのアシスタントは他の人がついてい るそうだ。では、夕方より前に仕事が終わってしまう・ : ・ : 月 、ノしとまどった私の頭に、タ イムリーな指令が続いた。 「桜井さん、あさってから伊豆地方の取材があるのよ。三泊なんだけれどね、急で悪い んだけれど、同行してもらえないかしら。」
足で立とうとする性質を持つ。でも私は、彼のこうこうと火に照らされた不安な横顔を 見て、もしかしたらこれこそが本当のことかもしれない、 といつも思う。日常的な意味 では二人は男と女ではなかったが、太古の昔からの意味合いでは、本物の男女だった。 しかし、どちらにしてもその場所はひどすぎる。人と人が平和をつむぐ場所ではない。 霊感占いじゃないんだから。 私はそこまでまじめに空想していたのにふいにそう思いついて笑ってしまった。地獄 のカマを見つめて心中をはかっている男女が見えますね。よって、二人の恋も地獄行き。 って、昔あったな、と思うと笑いが止まらなかった。 キ雄一は、ソフアでそのままぐっすり眠ってしまった。私より先に眠れたことが幸せそ うな寝顔だった。ふとんをかけてやってもびくともしない。私は大量の洗い物をなる。へ 満 く水音を立てないように洗いながら涙がたくさん出た。 もちろん、びとりでこんなに洗うのがつらいからではなくて、じんとしびれるような 淋しいこの夜の中に、びとり置き去りにされたからだ。 翌日は仕事が昼出勤だったので、しつかり目覚ましをかけておいたのがジリ さいなあ : : : と手を伸ばしたらそれは電話だった。私は受話器をつかんでいた。 「もし、もし。」 さび ジリ、つる
囲らどう変わ 0 ていくのか。今までと、なにがどう違うのか。そういうことのすべてがさ ももか、この精神状態じゃあろくな考えになりつこな つばりわからない。考えてみても、 いから、決められない。早くここを抜けなくては。早く抜けたい。今は、君を巻き込め : もしかするとこの二人で ない。二人で死の真ん中にいても、君は楽しくなれない。 いるかぎり、いつまでもそうなのかもしれない。」 「雄一、そんなにいっぺんに考えないでいいわ。なるようになるわ。」 私は、ちょっと泣きそうになりながら言った。 「うん、きっと明日目覚めたら忘れてる。最近、いつもそうだった。次の日に続くもの がないんだ。」 ソフアにごろんとうつぶせになって雄一はそう言った後で、困ったなあ : : : とつぶや いた。部屋中が夜の中でしんと静まって、雄一の声を聞いているようだった。この部屋 もまたえり子さんの不在にとまどっているように感じ続けていた。夜は更けて、重くの しかかる。わかち合えるものはなにもない気分にさせる。 ・ : 私と雄一は、時折漆黒の闇の中で細いはしごの高みに登りつめて、一緒に地獄の カマをのぞき込むことがある。目まいがするほどの熱気を顔に受けて、真っ赤に泡立っ この世の誰よりも 火の海が煮えたぎっているのを見つめる。となりにいるのは確かに、 とんなに心細くても自分の 近い、かけがえのない友達なのに、二人は手をつながない。。 キッチン
ゝげは帰らずにここにいてくれるかもしれない。 とりあえず話を聞いてくれることもあ りうる。そんな幸福を考えて期待するのがこわかった。すごくな。期待しておいて、も しみかげが怒り狂ったら、それこそ真夜中の底にびとりで突き落とされる。こんな感情 を、わかってもらうように説明する自信も、根気もなかった。」 「あんたって本当にそういう子ね。」 私の口調は怒っていたが、目があわれんでしまった。年月が二人の間に横たわり、テ レ。ハシーのようにすぐ、深い理解が訪れてしまう。私のその複雑な気持ちは、この大ト ラ野郎にも通じたらしい。雄一は言った。 キ「今日が終わらないといいのにな。夜がずっと続けばいいんだ。みかげ、ずっとここに 住みなよ。」 満 「住んでも 、いけど。」どうせ酔っぱらいのたわ言だなあと思った私はっとめてやさし く言った。「もう、えり子さんいないのよ。二人で住むのは、女として ? 友達として かしら ? ・」 「ソフアを売って、ダブルべッドを買おうか。」雄一は笑い、それからかなり正直に言 った。「自分でも、わからない。」 その妙な誠実さは、ゝ カえって私の胸を打った。雄一は続けた。 「今はなにも考えられない。みかげがばくの人生にとってなんなのか。ぼく自身これか
キッチン 「電話が、光って見えてた。」彼も笑って言った。「夜道を、酔って帰ってくると電話ポ ックスって明るく光ってるだろ。真っ暗な道で遠くから見ても、よく見えるだろ。ああ、 あそこにたどり着いて、みかげに電話しなきや、 x >< x ー x >< >< >< だって、テレホンカ ードを探して、ボックスの中まで人るんだよね。でも今、自分がどこにいて、これから なにを話すのかを考えると、とたんにいやになって電話するのをやめる。帰ってばたん と寝るとみかげが電話で泣いて怒る夢を見るんだ。」 「泣いて怒るのは想像上の私だったでしよ。案ずるより産むがやすし。」 「うん、突然、幸福になった。」 雄一は自分でもなにをしゃ。へっているのか多分よくわかっていないのだろう、とても 眠い声でほっり、ほっりと話を続けた。 「みかげが、母親がいなくなってもこの部屋に来て、目の前にいる。もし怒って縁を切 られたなら、これはもう仕方ないことだと覚悟していた。あの頃、三人でここに住んで いた頃があまりにもつらすぎて、もう会えなくなる気がした。・ : ・ : 客用のソフアに人が 泊まるのは昔つから好きだったんだ。シーツとかばりつと白くて、自分の家なのに旅行 : ここのところ、自分でもあんまりまともに食ってないんで、 に行ってるようでね。 食事作ろうかなと何度か思った。でも食べ物も光を出すだろう。それで食。へると消えち ゃうだろう ? そういうのが面倒で、酒ばかり飲んでた。きちんと説明さえすれば、み