満 1 15 ないの . よね。無理よって言い続けたら、そうかあ、じゃあひとりでどこか行ってこよう ってしょんばり言うの。あたし、知ってる宿を紹介してあげたんだけれどね。」 : : : うんうん」 「あたし、ふざけて、みかげと行っちゃえ ! って言ったのね。本当に冗談でさ。そし たら雄ちゃん、真顔で『あいつ、仕事で伊豆だもん。それに、これ以上あいつをうちの 家族に巻き込みたくないんだ。今、せつかくうまくやっているところなのに、悪くて さ。』って言うの。あたし、なんだかビンときちゃったのよ。あんた、あれは、愛じゃ ない ? そうよ、絶対に愛よ。ねえ、あたし、雄ちゃんの泊まってる宿の場所も電話も キわかってるからさあ、ねえ、みかげ、追っかけてってさ、やっちゃえ ! 」 「ちかちゃーん。」私は言った。「私はさあ、明日の旅行、仕事で行くのよ。」 私はショックを受けた。 私には、雄一の気持ちが手に取るようにわかった。わかる、気がした。雄一は今、私 の何百倍もの強い気持ちで、遠くへ行きたいのだ。なにも考えなくていい所へ、びとり で行きたいのだ。私も含めたすべてから逃げて、ことによると当分帰らないつもりかも しれない。間違いない。私には確信があった。 「仕事なんてなにさ。」ちかちゃんは身をのりだして言った。「こういう 時、女がしてや れることなんてたったびとつよ。それともなあに、まさかあんた処女 ? あっ、それと
116 キッチン もあんたたちってとっくにやっちゃってるの ? 」 「ちかちゃん。」 それでも私は、世の中の人がみんなちかちゃんみたいだったらいいのに、とほんの少 し思う。ちかちゃんの目に映る私と雄一は、実際よりもずっと幸福そうに見えたからだ。 、月、こまっかりで、そ 「よく考えるけど。」私は言った。「私だってえり子さんのことオ ( れでも頭の中が混乱しちゃっているのに、雄一はもっとすごいと思うの。今、土足でふ み込むようなことは、できないわ。」 すると、ちかちゃんがふいに真顔になってそばから顔を上げた。 「 : : : そうなのよ。あたしね、あの夜、店に出てなくてさ、えりちゃんの死に目にも会 っていないのよ。だからまだ信じられなくて : : : でもあの男の顔は知ってたわ。あいっ が店に通ってるうちに、もっとえり子が相談してくれていたら、絶対にあんなことさせ なかった。雄ちゃんも、くやしいのよ。あんなにやさしい子が、こわい顔してニュース 見て、『人を殺すような奴はみんな死んでい 。』って言ってたわ。雄ちゃんも、ひとり ばっちになっちゃったわね。えりちゃんの、なんでも自分で解決しちゃうところがこん な形で裏目に出るなんて、あんまりよね。」 ちかちゃんの瞳から、次々と涙があふれてきた。私が、あ、あ、と言っているうちに ちかちゃんはおいおい泣きはじめて店中の人がこちらを見た。ちかちゃんは肩をふるわ ひとみ やっ
いけど、彼女といるといつも私のほうがずっと男らしいような気がする。 「ね、あたし今、駅ん所にいるんだけどさ、ちょっと出てこれない ? 話があるの。お 昼食べた ? 」 「まだ。」 「じゃ、今すぐ更科に来てね ! 」 せつかちにちかちゃんはそう言って電話を切ってしまった。仕方ないので、私は洗濯 物を干すのを中断して、あわてて部屋を出た。 チ さんさんと晴れて日陰のない冬の真昼の街を急いで歩いた。駅前の商店街にあるその キ指定のそば屋に人ると、ちかちゃんは上下スウェットスーツという恐る。へき民族衣装で たぬきそばを食。へながら待っていた。 満 「ちかちゃん。」 私が近づくと、 「ひやーあ、お久しぶり ! すっかり女つぼくなっちゃって、近よりがたいったらない 大声で言った。恥ずかしさより、なっかしさにじんときた。これほど屈託のない、ど こに出しても恥ずかしくないわよ的笑顔を私は他で見ない。ちかちゃんは満面笑みをた と言った。店のおば たえて私を見ていた。少し照れた私は大声で、鶏きしめん下さい 113 とり
114 さんが忙しそうにやってきて、どっかんと水を置いた。 「話はなんなの ? 」 きしめんを食。へながら私は切り出した。 彼女が話があるという時はいつもろくでもない相談だったので、今回もそんなところ だろうと思っていたが、彼女は大変なことを言うようにささやいた。 「それがねえ、雄ちゃんのことなの。」 私の心がどきりと音を立てた。 「あの子ね、昨日夜中に店に来て、あー、眠れないー って言うの。調子悪いから気晴 らしにどこかへ行こうって。ああ、勘違いしないでね。あたし、あの子がこーんなに小 さい時から知ってるのよ。変な関係じゃなくてまあ、親子ね、おやこ。」 「知ってますって。」 笑って私は言った。ちかちゃんは続けた。 「あたし、びつくりしたのよ。あたしってばかだから人の気持ちって、あんまりいつも よくわからないんだけど : : : あの子って絶対に弱いところ人に見せない子じゃない ? 涙はすぐ流すけど、だだこねたりしないでしよ。なのに結構しつこく言うのよ。どっか 行こうって。なんだか雄ちゃん、そのまま消えちゃいそうに元気がなかった。本当はっ きあってやりたかったけど、今、お店直してるのよ。みんなもまだ不安定で、手が放せ
キッチン 不思議に感じた。 テープルがないもので、床に直接いろんなものを置いて食べていた。コップが陽にす けて、冷たい日本茶のみどりが床にきれいに揺れた。 「雄一がね。」ふいにえり子さんが私をまじまじと見て言った。「あなたのこと、昔飼っ てたのんちゃんに似てるって前から言ってたけど、本当ーーーに似てるわ。」 「のんちゃんと中しますと ? 」 「ワンちゃん。」 「はあー。」ワンちゃん。 「その目の感じといい、 毛の感じといし 。昨日初めてお見かけした時、ふきだしそ うになっちゃったわ。本当にねえ。」 「そうですか ? 」ないとは田 5 うけど、セントバーナードとかだったらいやだな、と田 5 っ 「のんちゃんが死んじゃった時、雄一はごはんものどを通らなかったのよ。だから、あ なたのことも人ごととは思えないのね。男女の愛かどうかは保証できないけど。」 くすくすお母さんは笑った。 「ありがたく思います。」 私は言った。
112 キッチン やみ : 今夜も闇が暗くて息が苦しい。とことん滅人。た重い眠りを、それぞれが戦う夜。 翌朝はよく晴れた。 旅行にそなえて朝、洗濯をしていたら、電話が鳴った。 十一時半 ? 変な時間の電話だ。 首をかしげて出ると、 「あーっ、みかげちゃあん ? お久しぶり ! 」 と高くかすれた声が叫んだ。 「ちかちゃん ? 」 私はびつくりして言った。電話は外からで車の音がうるさかったが、その声は私の耳 にはっきりと届いて、その姿を思い出させた。 ちかちゃんは、えり子さんのお店のチーフでやはりオカマの人だ。昔よく田辺家に泊 まりにきた。えり子さん亡き後は、彼女が店をついだ。 彼女、とはいうが、ちかちゃんはえり子さんに比。へて、どこから見ても男、という印 象は否めない。しかし化粧ばえのする顔だちをしていて、細く背が高い。派手なドレス がよく似合うし、ものごしが柔らかい。一度地下鉄の中で小学生にからかわれてスカー トをまくられたら、泣きやまなくなってしまった、気の小さな人だ。あまり認めたくな
と典ちゃんがほほえんだ。 「ところで、どうして私が行けることになったの ? 」 私がたずねると、 「ごめんね。私たち二人ともゴルフのレッスンを予約しちゃって、行けないのよ。あ、 でももしみかげちゃんの都合が悪いようなら、私たちどっちかがお休みするー。ね、栗 ちゃん、それでいいよね。」 「うん、だからみかげちゃん正直に言って。」 二人が心からやさしい気持ちでそう言ってくれたので、私は笑って首を振り、 「ううん、私、全然平気。」 A 」一一一一口った。 この二人は同じ大学から一緒にここに紹介で人ってきたそうだ。もちろん、料理の勉 強を四年間してきている、プロだ。 栗ちゃんは陽気でかわいらしく、典ちゃんは美人のお嬢様、という感じの人だった。 二人はとても仲が良い。 いつも目を見張るような上品なセンスの服を身にまとい、気持 ちよくきちんとしている。びかえめで、親切で、がまんがきく。料理界には少なくない 良家の娘さんタイプの中でも、この人たちの輝きは本物だった。 時折、典ちゃんの家のお母さんから電話があるが、恐縮するほどやさしく柔らかい
122 キッチン 私はたずねた。 「デニーズ。なんて、うそうそ。山の上に神社があって、それが有名かな。ふもとはず っと御坊料理とかっていって、とうふ料理を出す宿ばっかりで、ぼくも今夜食った。」 「どんな料理 ? 面白そうね。」 「ああ、君は興味あるか。それがさ、すべてとうふ、とうふなんだ。うまいんだけどね、 とにかくとうふづくしなの。茶わんむし、田楽、揚げ出し、ゆず、ごま、みんなとうふ。 すまし汁の中にも玉子どうふが人っていたのは言うまでもないね。固いものがほしくて、 と待ってたら茶がゆでやんの。じじいになったような気分だった 最後はめしだろう ! 「偶然ね。私も今、空腹なのよ。」 「なんで、食べ物の宿じゃないの ? 」 「嫌いなものばっかり出ちゃったのよ。」 「君の嫌いなものばっかりなんて、すごく確率の低そうなことなのに、不運だね。」 いの、明日はおいしいものを食べるから。」 「いいよなあ。ばくの朝ごはんは見当っくもんな : : : 湯どうふだろうなあ。」 「あの、小さな土鍋を固形燃料で熱する、あれよね。間違いないわね。」 「ああ、ちかちゃんはとうふ好きだから嬉々としてここを紹介してくれてさ、確かにす
せて泣きじゃくり、そばのつゆにほたほたと涙が落ちた。 「みかげちゃん、あたし淋しい。どうしてこんなことになるの ? 神様って、いないの かしら。もう、これからずっと、えりちゃんに会えないなんて絶対いや。」 いつまでも泣きやまないちかちゃんを連れて店を出て、その高い肩を支えて駅まで歩 いて行った。 ごめんね。とレースのハンカチで目を押さえて、改札の所でちかちゃんは私に雄一の 泊まる宿の地図と電話のメモをくしやっと握らせた。 チ さすが水商売、やることはやる。ッポは押さえてるわ。 キと感心しながら、私はその大きな背中を切なく見送った。 私は彼女の早とちりも、恋にだらしないことも、昔は営業マンで、仕事についてゆけ 満 なかったことも、みんな知っているけれども : : : 今の涙の美しさはちょっと忘れがたい 人の心には宝石があると思わせる。 冬のつんと澄んだ青空の下で、やり切れない。私までどうしていいかわからなくなる。 空が青い 青い。枯れた木々のシルエットが濃く切り抜かれて、冷たい風が吹き渡って ゆく。 " 神様って、いないのかしら。 117
「どうぞ ? 」 とか細い声で呼び入れた。 栗ちゃんが急に「あっ、マニキ、ア落としてない。しかられる ! 」と騒ぎ出したので 私がバッグの上にかがんで除光液を探していた時だった。 トアが開くと同時に、女の人の声がした。 「桜井みかげさんはいらっしゃいますか。」 私は急に呼ばれてびつくりして立ち上がった。人口の所に立っていたのは、全く知ら ない女性だった。 顔だちに幼さが残っている。多分、私よりも歳は下だろうと思われる。背が低くて、 ジュの。ハ 丸くきつい瞳をしていた。黄の薄いセーターの上に茶のコートをはおり、べー ンプスをはいてしつかり立っている。足は、少し太いけどまあ色つほくていいか、とい う感じで、全身がそういう丸さだった。せまい額をきちんと出して、前髪もきちんとセ ットされている。すんなり丸い輪郭の中で、赤い唇が怒ったようにとがって見える。 : と私は悩んだ。これだけ見ても少しも思い出せない 嫌いな感じの人じゃないけど : とは、ただごとじゃないわ。 典ちゃんと栗ちゃんは、困ってしまって私の陰から彼女を見ている形になった。仕方 なく私は言った。 ひとみ