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検索対象: キッチン
152件見つかりました。

1. キッチン

キッチン 私は正直に告げた。 「だって。」雄一が笑いながら上がってきて、目の前の床に腰をおろして言った。「整形 してるんだもの。」 「え。」私は平静を装って言った。「どうりで顔の作りが全然似てないと思ったわ。」 「しかもさあ、わかった ? 」本当におかしくてたまらなそうに彼は続けた。「あの人、 男なんだよ。」 ( 力なかった。私は目を見開いたまま無言で彼を見つめてしまった。 今度は、そうま、ゝ まだまだ、冗談だって、という一言葉をずっと待てると思った。あの細い指、しぐさ、身 うれ のこなしが ? あの美しい面影を思い出して私は息をのんで待ったが、彼は嬉しそうに しているだけだった。 「だって。」私はロを開いた。「母親って、母親って言ってたじゃない ! 」 「だって、実際に君ならあれを父さんって呼。へる ? 」 彼は落ち着いてそう言った。それは、本当にそう思えた。すごく納得のいく答えだ。 「えり子って、名前は ? 」 「うそ。本当は雄司っていうみたい。」 私は、本当に目の前が真っ白く見えるようだった。そして、話を聞く態勢にやっと人 れたので、たずねた。 よそお

2. キッチン

いなと田 5 、つ。 ゃんと見つめたい。台所なら、 田辺家に拾われる前は、毎日台所で眠っていた。 どこにいてもなんだか寝苦しいので、部屋からどんどん楽なほうへと流れていったら、 冷蔵庫のわきがいちばんよく眠れることに、ある夜明け気づいた。 私、桜井みかげの両親は、そろって若死にしている。そこで祖父母が私を育ててくれ た。中学校へ上がる頃、祖父が死んだ。そして祖母と二人でずっとやってきたのだ。 先日、なんと祖母が死んでしまった。びつくりした。 家族という、確かにあったものが年月の中でびとりひとり減っていって、自分がひと りここにいるのだと、ふと思い出すと目の前にあるものがす。へて、うそに見えてくる。 生まれ育った部屋で、こんなにちゃんと時間が過ぎて、私だけがいるなんて、驚きだ。 やみ まるでだ。宇宙の闇だ。 葬式がすんでから三日は、ばうっとしていた。 涙があんまり出ない飽和した悲しみにともなう、柔らかな眠けをそっとびきずってい って、しんと光る台所にふとんを敷いた。ライナスのように毛布にくるまって眠る。冷 蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。そこでは、結構安らかに長い夜 が行き、朝が来てくれた。 キッチン

3. キッチン

すべて片づいた私の部屋に射す光、そこには前、住み慣れた家の匂いがした。 台所の窓。友人の笑顔、宗太郎の横顔越しに見える大学の庭の鮮やかな緑、夜遅くに ハの音、カ かける電話の向こうの祖母の声、寒い朝のふとん、廊下に響く祖母のスリ ーテンの色 : : : 畳 : : : 柱時計。 そのす。へて。もう、そこにいられなくなったことのす。へて。 外へ出るともうタ方だった。 のすそをはためかせ 淡い黄昏が降りてくる。風が出てきて、少し肌寒い。薄いコート て私はバスを待った。 ハス停の、通りをはさんだ反対側にある高いビルの窓が並んで、きれいに青に浮かぶ のを見ていた。その中で動いている人々も、上下するエレベーターも、みんなしんと輝 うすやみ いて薄闇に溶けてゆきそうだった。 最後の荷物が私の両足のわきにある。私は今度こそ身ひとつになりそうな自分を思う と、泣くに泣けない妙にわくわくした気持ちになってしまった。 ハスがカー。フを曲がってくる。目の前に流れてきてゆっくり止まり、人々は並んでぞ ろぞろ乗り込む。 たそがれ

4. キッチン

106 ッチン マンも O も、 街は夜だ。信号待ちのフロントグラスの前をゆきかう人々は、サラリー 若者も年寄りもみんな光って美しく見える。静かに冷たい夜のとばりの中を、セーター やコートに包まれて、みなどこかしらあたたかい所を目指してゆく時刻だ。 : ところで、さっきのこわい彼女にも雄一はドアを開けてやっていたのだとふと思 ったら、私はふいにわけもわからずシートベルトが苦しくなった。そして、おお、これ がくぜん かしっとというものか、とわかり愕然とした。幼児が痛みを学習するように、知りはじ めている。えり子さんを失って、二人はこんなに暗い宙に浮いたままで、光の河の中を 走り続けながらひとつのビークを迎えようとしていた。 わかる。空気の色や、月の形、今を走る夜空の黒でわかる。ビルも街灯も切なく光っ 私のア。ハート の前で、車が止まり、 「じゃあ、みやげ待ってるから。」 雄一が言った。今からびとりであの部屋へ帰ってゆくのだ。きっとすぐに草に水をや るのだろう。 「やつばり、うなぎパイかしら。」 私は笑って言った。街灯の明かりがかすかに雄一の横顔を浮かび上がらせている。 「うなぎパイだと ? あれは東京駅の— O cn にも売ってるんだぞ。」

5. キッチン

に力強く苦しんでいても同情の余地はないわ。だって私、体を張って明るく生きてきた んだもん。私は美しいわ。私、輝いている。人を惹きつけてしまうのは、もし、それが 私にとって本意でない人物でも、その税金のようなものだとあきらめているの。だから、 私がもし殺されてもそれは事故よ。変な想像しないで。あなたの前にいた、私を信じて。 私ね、この手紙だけはきちんと男言葉で書こうと思ってかなり努力したんだけど、お つかしいの。恥ずかしくてどうしても筆が進まないの。私、こんなに長く女でいても、 まだどこかに男の自分が、本当の自分がある、これは役割よって思ってたのに。でも、 もう心身共に女、名実共に母ね。笑っちゃう。 私、私の人生を愛している。男だったことも、あなたのお母さんと結婚したのも、彼 女が死んでから、女になって生きたことも、あなたを育てて大きくしたこと、一緒に楽 満 しく暮らしたこと : : : ああ、みかげを引き取ったこと ! あれは最高に楽しかったわね。 なんだかみかげにとても会いたい。あの子も大切な私の子よ。 ああ、とってもおセンチな気分よ。 みかげに、どうぞよろしく。男の子の前で足の毛を脱色するのはよしなさいって言っ といて。みつともないからね。あんたもそう思うでしよう ? 同封したものは、私の財産のす。へてよ。どうせ書類のことなんてわけわかんないでし 。弁護士に連絡とってね。まあどっちにしろ店以外はみんなあんたのもの。ひとり

6. キッチン

てやるからな。」 雄一も笑った。 「目の前で、電話帳引き裂いてくれる ? 」 「そうそう、自転車持ち上げて投げたりな。」 「トラック押して壁にぶつけたりね。」 「それじゃあ、ただの乱暴者だ。」 雄一の笑顔はびかびか光り、私は自分が″なにか″をほんの数センチ押したかもしれ ないことを知る。 キ「じゃあ行くね。タクシーが逃げちゃう。」 ドアに向かった。 私は言って、 満 「みかげ。」 雄一が呼び止める。 「ん ? 」 私が振り向くと、 「気をつけて。」 と雄一が言った。 私は笑って手を振り、今度は勝手にカギを開けて表玄関から出て、タクシーに向かっ 137

7. キッチン

キッチン 私はたまげた。 あんまりびつくりして、手に持っていた紅茶のカップを傾けて、お皿にじよろじよろ こばしてしまったくらいだ。 「大学中の話題だよ。すごいなー、耳に人んなかったの ? 」 困った顔をして笑いながら宗太郎は言った。 「あなたが知ってることすら知らなかったわ。なんなの ? 」 私は言った。 「田辺の彼女が、前の彼女っていうの ? その人がね、田辺のこと学食でひつばたいた のさ。」 「え ? 私のことで ? 」 「そうらしいよ。だって君たち今、うまく 「え ? 初耳ですが。」 私は言った。 「だって二人で住んでるんでしょ ? 」 「お母さんも ( 厳密には違うけど ) 住んでるのよ。」 「ええっー うそだろーっ」 宗太郎は大声で言った。彼のこの陽気な素直さを私は昔、本気で愛していたが、今は いってるんでしよう。俺、そう聞いたけど。」

8. キッチン

キッチン 「君の、前の家の台所の床って、きみどり色だったかい ? 」と言った。「あっ、これは なぞなぞじゃないよ。」 私はおかしくて、そして納得して、 「さっきは、みがいてくれてありがとうね。」 と言った。いつも女のほうが、こういうことを受け人れるのが早いからだろう。 「目が覚めた。」と彼は言ったが、遅れをとったのがくやしいらしくて「カップでない ものにお茶淹れてほしいもんだ。」と笑った。 「自分で淹れなさー 君も飲むかい ? 」と言った。 「あっそうだ。ジューサーでジュース作ろう ! 「うん。」 雄一は冷蔵庫からグレープフルーツを出して、楽しそうにジ、ーサーを箱から出した。 私は、夜中の台所、すごい音で作られる二人分のジュースの音を聞きながらラーメン をゆでていた。 ものすごいことのようにも思えるし、なんてことないことのようにも思えた。奇跡の よ、つにも田 5 えるし、あたりまえにも思えた。 なんにせよ、言葉にしようとすると消えてしまう淡い感動を私は胸にしまう。先は長

9. キッチン

キッチン 不思議に感じた。 テープルがないもので、床に直接いろんなものを置いて食べていた。コップが陽にす けて、冷たい日本茶のみどりが床にきれいに揺れた。 「雄一がね。」ふいにえり子さんが私をまじまじと見て言った。「あなたのこと、昔飼っ てたのんちゃんに似てるって前から言ってたけど、本当ーーーに似てるわ。」 「のんちゃんと中しますと ? 」 「ワンちゃん。」 「はあー。」ワンちゃん。 「その目の感じといい、 毛の感じといし 。昨日初めてお見かけした時、ふきだしそ うになっちゃったわ。本当にねえ。」 「そうですか ? 」ないとは田 5 うけど、セントバーナードとかだったらいやだな、と田 5 っ 「のんちゃんが死んじゃった時、雄一はごはんものどを通らなかったのよ。だから、あ なたのことも人ごととは思えないのね。男女の愛かどうかは保証できないけど。」 くすくすお母さんは笑った。 「ありがたく思います。」 私は言った。

10. キッチン

私はうなずいていた。 「この母が死んじゃった後、えり子さんは仕事を辞めて、まだ小さなばくを抱えてなに をしようか考えて、女になることに決めたんだって。もう、誰も好きになりそうにない からってさ。女になる前はすごい無ロな人だったらしいよ。半端なことが嫌いだから、 顔からなにからもうみんな手術しちゃってさ、残りの金でその筋の店をびとっ持ってさ、 ばくを育ててくれたんだ。女手びとつでって言うの ? これも。」 彼は笑った。 「す、すごい生涯ね。」 私 . は一一一一口い、 「まだ生きてるって。」 と雄一が言った。 信用できるのか、なにかまだひそんでいるのか、この人たちのことは聞けば聞くほど よくわからなくなった。 しかし、私は台所を信じた。それに、似ていないこの親子には共通点があった。笑っ た顔が神仏みたいに輝くのだ。私は、そこがとても、 いと思っていたのだ。 「明日の朝はぼくいないから、あるものはなんでも使っていいよ。」 はんば