夜 - みる会図書館


検索対象: キッチン
150件見つかりました。

1. キッチン

間っ子っていいわねえ。 キッチン えり子 私は読み終えて、手紙をもとのようにそっとたたんだ。えり子さんの香水の匂いがカ いくらこの手紙を開いてもしな すかにして、胸がきりきりした。この香りも、やがて、 くなってしまう。そういうことが、いちばんつらいことだと田 5 う。 。、。ッドにしていたなっかしさで苦しいソフアに横たわる。 この部屋にいた頃、私力へ 同じように夜は、同じこの部屋に訪れて、窓辺の植物のシルエットは夜の街を見降ろ している。 それでも、もう、 いくら待っても彼女は帰ってこない。 夜明け近く、鼻歌とヒールの音が近づいてきて、カギを開ける。お店から仕事明けで 帰る彼女はいつもほろ酔いで、うるさい音を立てるので私はうっすら目を覚ました。シ ッパの音、お湯をわかす音、私はとても安心してまた眠りに落ちてゆ ャワーの音、スリ つもそうだった。なっかしい。気が変になるほどなっかしい。 私の泣き声は、向こうの部屋で眠る雄一に聞こえてしま 0 ただろうか。それとも彼は 今重く苦しい夢の中にいるのだろうか。 この小さな物語は、この悲しい夜に幕を開ける。

2. キッチン

キッチン 田辺、雄一。 その名を、祖母からいっ聞いたのかを思い出すのにかなりかかったから、混乱してい たのだろう。 彼は、祖母の行きつけの花屋でアルバイトしていた人だった。いい子がいて、田辺く んがねえ、今日もね : : : というようなことを何度も耳にした記憶があった。切り花が好 きだった祖母は、いつも台所に花を絶やさなかったので、週に二回くらいは花屋に通っ ていた。そういえば、一度彼は大きな鉢植えを抱えて祖母のうしろを歩いて家に来たこ ともあった気がした。 彼は、長い手足を持った、きれいな顔だちの青年だった。素姓はなにも知らなかった が、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。ほんの少し知っ 卩象は変わらなかった。ふるまいや口調がど た後でも彼のその、どうしてか " 冷たい〃 んなにやさしくても彼は、びとりで生きている感じがした。つまり彼はその程度の知り 合いにすぎない、赤の他人だったのだ。 夜は雨だった。しとしとと、あたたかい雨が街を包む煙った春の夜を、地図を持って 歩いていった。 田辺家のあるそのマンションは、うちからちょうど中央公園をはさんだ反対側にあっ こみちにじ にお た。公園を抜けていくと、夜の緑の匂いでむせかえるようだった。濡れて光る小路が虹

3. キッチン

8 く眠ったことか、夕方になっていた。私は起き上がって、シャワーを浴び、すっかり着 替えると、ドライヤーをかけた。熱は下がり、体がだるい以外は元気になっていた。 うららは本当に来たのだろうか、と私は髪を乾かす熱風の中で思っていた。夢としか 思えなかった。そしてあの言葉は本当に風邪のことだったろうか。夢の中に響くような 言葉だった。 たとえば鏡に映る自分の顔にほんの少し深い影が落ちていることが、また本当につら い夜が揺り返しのようにやってくることを予感させた。考えたくもないほど疲れる。本 たとえはってでもくぐり抜けたい。 当に疲れる。それでも たとえば、今は昨日よりも少し楽に息ができる。また息もできない孤独な夜が来るに 違いないことは確かに私をうんざりさせる。このくりかえしが人生だと思うとぞっとし てしまう。それでも、突然息が楽になる瞬間が確実にあるということのすごさが私をと きめかせる。度々、ときめかせる。 そう思うと、少し笑える。急に熱が冷めて私の思考は酔っぱらいのようだった。その 時、突然にノックの音がした。母かと思いはいはいと一言うと、ドアが開いて柊が人って きたので驚いた。本当に驚いた。 「お母さんが何回呼んでも返事がないって言うんで。」 柊は言った。

4. キッチン

満 135 えり子さんが帰ってくるまで、二人でファミコンをして待った夜。その後三人で眠い 目をこすってお好み焼きを食べに行った。仕事でどんよりしていた私に、雄一がくれた おかしい漫画。それを読んでえり子さんも涙が出るまで笑ったこと。晴れた日曜の朝、 オムレツの匂い。床で眠ってしまう度にそっとかかる毛布の感触。えり子さんの歩いて ゆくスカート のすそと細い足がはっと目覚めた薄目の向こうにぼんやり見えた。酔った 彼女を雄一が車で連れ帰ってきて、部屋まで二人で抱えていったこと : : : 夏祭りの日、 浴衣の帯をえり子さんにきゅっとしめてもらった、あのタ空に舞い狂う赤とんぼの色。 本当の いい田 5 い出はいつも生きて光る。時間がたつごとに切なく息づく。 いくつもの昼と夜、私たちは共に食事をした。 いっか雄一が言った。 「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな。」 私は笑って、 「食欲と性欲が同時に満たされるからじゃない ? 」 し J 一一 = ロった。 「違う、違う、違う。」 大笑いしながら雄一が言った。 「きっと、家族だからだよ。」 ゆかた

5. キッチン

私のプロポーズに対して、長い沈黙の後とか ノげは言った。「秘密があるの」。ゆるやかな癒し 吉本ばなな著 AJ の時間が流れる 6 編のショート・ストーリー 淋しさと優しさの交錯の中で、世界が不思議 吉本ばなな著亠ィッチ , ンな調和にみちているーー人世界の吉本ばなな〉 海燕新人文学賞受賞のすべてはここから始まった。定本決定版 / 会いたい、すべての美しい瞬間に。感謝した リタ い、今ここに存在していることに。清冽でせ 吉本ばなな著アム ( 上・下 ) つない、吉本ばななの記念碑的長編。 人を好きになることはほんと、つにかなしい 、つ学に、カ子 / 運命的な出会いと恋、その希望と光を サンクチュアリ 瑞々しく静謐に描いた珠玉の中編二作品。 夜の底でしか愛し合えない私とあなたーーー生 きてゆくことの苦しさを「夜」に投影し、愛 吉本ばなな著 , 日河 ~ 侠 することのせつなさを描いた″眠り三部作 % 小説家の日常を 喜怒哀楽から衣食住まで・ : よしもとばなな 惜しみなく大公開 ! 公式ホームページから よしもとばなな著ドットコム見参ー 生まれた、とっておきのプライヴェートな本。 ーー yoshlmotobanana.com 吉本ばなな著 八ロ

6. キッチン

「先生、私、死ぬほど腹がへったんですけど外出してなにか食べてきていいですか。」 一緒にいた年配のスタッフが、 「桜井さん、なにも食。へてなかったものねえ。」 と大笑いした。彼女たちはまさに眠る仕度をしているところで、二人共もう寝まきを 着てふとんの上にすわっていた。 私は本当にひもじかった。その宿の名物だという野菜料理は、好き嫌いのないはずの 私の嫌いな臭い野菜がなぜかオールスター人っていて、ろくに食。へられなかったのだ。 先生は笑って許してくれた。 夜の十時をまわっていた。私は長い廊下をてくてく歩いていったん自分のひとり部屋 へ戻り、着替えて宿を出た。閉め出されるとこわいので裏の非常ロのドアのカギをそっ 満 と開けておいた。 月日はバンに乗ってまた移動する。 その日は、あのおぞましい料理の取材だったが、日 月明かりの下を歩きながら、私は心底、ずっとこうして旅をして生きてゆけたらいいだ ろうなと思った。帰る家族があればロマンチックな気分なのだろうけれど、私は本当の ひとり身なのでシャレにならないくらい強く孤独も感じる。でも、そうして生きてゆく のが自分にはいちばん合うような気さえした。旅先の夜はいつも空気がしんと澄んで、 心が冴える。どうせどこの誰でもないのなら、こうして冴えた人生を送れたら、と思う。 119

7. キッチン

106 ッチン マンも O も、 街は夜だ。信号待ちのフロントグラスの前をゆきかう人々は、サラリー 若者も年寄りもみんな光って美しく見える。静かに冷たい夜のとばりの中を、セーター やコートに包まれて、みなどこかしらあたたかい所を目指してゆく時刻だ。 : ところで、さっきのこわい彼女にも雄一はドアを開けてやっていたのだとふと思 ったら、私はふいにわけもわからずシートベルトが苦しくなった。そして、おお、これ がくぜん かしっとというものか、とわかり愕然とした。幼児が痛みを学習するように、知りはじ めている。えり子さんを失って、二人はこんなに暗い宙に浮いたままで、光の河の中を 走り続けながらひとつのビークを迎えようとしていた。 わかる。空気の色や、月の形、今を走る夜空の黒でわかる。ビルも街灯も切なく光っ 私のア。ハート の前で、車が止まり、 「じゃあ、みやげ待ってるから。」 雄一が言った。今からびとりであの部屋へ帰ってゆくのだ。きっとすぐに草に水をや るのだろう。 「やつばり、うなぎパイかしら。」 私は笑って言った。街灯の明かりがかすかに雄一の横顔を浮かび上がらせている。 「うなぎパイだと ? あれは東京駅の— O cn にも売ってるんだぞ。」

8. キッチン

囲らどう変わ 0 ていくのか。今までと、なにがどう違うのか。そういうことのすべてがさ ももか、この精神状態じゃあろくな考えになりつこな つばりわからない。考えてみても、 いから、決められない。早くここを抜けなくては。早く抜けたい。今は、君を巻き込め : もしかするとこの二人で ない。二人で死の真ん中にいても、君は楽しくなれない。 いるかぎり、いつまでもそうなのかもしれない。」 「雄一、そんなにいっぺんに考えないでいいわ。なるようになるわ。」 私は、ちょっと泣きそうになりながら言った。 「うん、きっと明日目覚めたら忘れてる。最近、いつもそうだった。次の日に続くもの がないんだ。」 ソフアにごろんとうつぶせになって雄一はそう言った後で、困ったなあ : : : とつぶや いた。部屋中が夜の中でしんと静まって、雄一の声を聞いているようだった。この部屋 もまたえり子さんの不在にとまどっているように感じ続けていた。夜は更けて、重くの しかかる。わかち合えるものはなにもない気分にさせる。 ・ : 私と雄一は、時折漆黒の闇の中で細いはしごの高みに登りつめて、一緒に地獄の カマをのぞき込むことがある。目まいがするほどの熱気を顔に受けて、真っ赤に泡立っ この世の誰よりも 火の海が煮えたぎっているのを見つめる。となりにいるのは確かに、 とんなに心細くても自分の 近い、かけがえのない友達なのに、二人は手をつながない。。 キッチン

9. キッチン

148 キッチン 夜眠ることがなによりこわかった。というよりは、目覚める時のショックがものすご やみ ゝっこ。はっと目覚めて自分の本当にいる所がわかる時の深い闇におびえた。私はいっ も等に関係のある夢を見た。苦しくて浅い眠りの中で、等に会えたり会えなかったりし ながら、いつもこれは夢で本当のところはもう二度と会えはしないことを知っていた。 だから、眠りの中でも目を覚ますまいと努力した。寝返りと冷汗をくりかえして、吐き ゅううつ そうな憂鬱の中でぼんやりと目を開ける寒い夜明けを幾度迎えただろう。カーテンの向 こうが明るくなり、青白い、しんと息づいた時間の中に私は放り出される。こんなこと さび なら夢の中にいればよかったと思うくらい淋しく寒い。もう決して眠れずに夢の余韻に 苦しむひとりきりの夜明けだ。いつも、その頃に目が覚めるのだ。ろくに眠っていない 疲れと、朝一番の光を待っ長い狂気のような孤独の時間に恐怖をおばえはじめた私は、 走ることに決めた。 高いスウェットスーツを二着そろえ、シューズを買い、飲み物を人れるアルミの小さ な水筒まで買った。ものから人門するところが情けない気もするが、前向きなのはいい と田 5 った。 春休みに人ってすぐ、私は走りはじめた。橋まで行って、家に戻ってくると、タオル や衣類をきちんと洗い、乾燥機にかけて、それから朝食を作る母を手伝った。そして少 し眠る。そういう生活を続けた。夜は、友達に会ったり、ビデオを観たりして、なる。へ

10. キッチン

146 キッチン 持った。 そして、鈴は心を通わせた。会えない旅の間ずっと、お互いに鈴のことを気にかけて いた。彼は鈴が鳴る度私と、私がいた旅行前の日々をなんとなく思い出し、私は遠い空 おも の下で鳴る鈴のことと、鈴といる人のことを想って過ごした。戻ってからは大恋愛がは じまった。 それからおおよそ四年の間、あらゆる昼と夜、あらゆる出来事をその鈴は私たちと共 に過ごした。初めてのキス、大げんか、晴れや雨や雪、初めての夜、あらゆる笑いと涙、 好きだった音楽や > ーーー二人でいたすべての時間を共有して、等が財布がわりのその ハス人れを出す手と一緒に、いつもちりちりとかすかな澄んだ音が聞こえた。耳を離れ ない、愛しい、愛しい音だ。 そんな気がしたなんて、後からいくらでも言える乙女の感傷だ。しかし私は言う。そ んな気がしました。 いつも心から不思議に思っていた。等は時折どんなにじっと見つめていてもそこにい ない気がした。眠っていても、私はどうしてか何度も心臓に耳をあてずにはいられなか った。笑顔があまりにもばっと輝くと思わず瞳をこらして見てしまった。彼はいつもそ の雰囲気や表情にある種の透明感を持っていた。だから、こんなにはかなく心もとなく 感じるのだろうと私はずっと思っていたが、もしそれが予感だったとしたらなんと切な ひとみ