161 ートの窓明かり 柊のセーラー服がコートでかくれたので、私は少しほっとした。デ。ハ が歩道を明るく照らし、とぎれなくゆきかう人々の顔も白く輝いて見える。風は井い香 りがして、春めいているのにまだまだ冷たく、私はポケットから手袋をとり出した。 「その天ぶら屋、ワタシんちのすぐそばだから、少し歩くよ。」 と柊が言った。 「橋を渡ってゆくのね。」 と言って、私は少し沈黙した。橋の所で会った、うららという人のことを思い出した : とぼんやり思っているとふいに柊が、 シのだ。あれからも毎朝行くが、会わない。 「あっ、もちろん帰りは送るぞ。」 と大声で言った。私の沈黙を、遠くへ行く面倒さと解釈したらしかった。 「とんでもない。 まだ早いもの。」 とあわてて言いながら、今度は心の中だけで、″に、似ている″と私は思っていた。 マネをしてくれる必要がないくらい、今のは等に似ていた。人との間にとったスタンス を決して崩さないくせに、反射的に親切が口をついて出るこの冷たさと素直さに、私は いつでも透明な気持ちになった。それは透んだ感激だった。その感じを私は今、生々し く思い出してしまった。なっかしかった。苦しかった。 「この間、走ってて朝、橋の所に変な人がいてね。そのことを思い出してただけよ。」
159 「なかなか、かわいい企画ね。」と言うと、 「元気が出そうだよね。」 嬉しそうに柊は笑った。こういう時、ふだん大人びたこの少年が歳相応の顔をする。 いっか冬の日、等が言った。 「弟がいるんだけどさ、柊っていうんだ。」 彼に弟の話を聞いたのはそれが初めてだった。今にも雪になりそうな、どんより重い 、一・グレーの空の下、二人は学校の裏手にある長い石段を降りていった。コートのポケット トに手を人れて、白い息で等は言った。 「俺よりもなんだか大人なの。」 ム 「大人なの ? 」 私は笑った。 「なんか、肝がすわってるっていうかね。それでも家族のこととなると妙に子供なのが おやじ おかしくてね。昨日、父親がちょっとガラスで手を切ったら、本気でおろおろしてさ、 そのおろおろ仕方がすごいんだ。天と地がひっくり返ったみたいで。あんまり意外だっ たから、今、思い出してた。」 「いくつなの ? 」
177 私は四人でいることもとても楽しくて好きだった。ゆみこさんはよく、さっきさんい つまでも一緒に遊ばうね、絶対別れちゃだめだよ、と言った。あなたたちはどうなのと 禾・かからか、つと、そりゃあも、つ、とん夭った。 そしてこれだもの。あんまりだと思う。 彼は今、私のようには彼女のことを思い出していないと思う。男の子は自分がわざと ひとみ ウ つらくなることはしない。しかし、その分だけかえって彼の全身が瞳がびとつの言葉を 、語っていた。彼は決して言葉にはしないだろう。しかし、それはもしも言うならつらい ト一一一一口葉だった。すごくつらい。それは、 イ 戻ってきてほしい ン ム 一一 = ロ葉というよりは、祈りだった。私はやり切れない。夜明けの川原でもしかして私も あんなふうに見えるのだろうか。だから、うららは私に声をかけたのだろうか。私も。 私も、会いたい。等に。戻ってきて、ほしいと田 5 う。せめて、ちゃんとお別れを一一一一口 、こゝっこ 0 私は今日見かけたことを言わないことと、明るく接することを次回に誓って、その場 は声をかけずにそのまま帰った。
145 等はいつも小さな鈴をパス人れにつけて、肌身離さず持ち歩いていた。 それはまだ恋でなかった頃に私が本当になんの気なしにあげたものだったのに、彼の そばを最後まで離れない運命となった。 高校二年の修学旅行で、別々のクラスだった彼と私は同じ旅行委員として知り合った。 旅行本番ではクラスごとに全く逆のコースをたどることになっていたので、行きの新幹 線だけが同じだった。ホームで二人はふざけながら別れを惜しんで握手をした。私はそ の時家の猫から落ちた鈴が制服のポケットに人 0 ていたことをふと思い出して、せんべ つ、と言って渡した。彼はなにこれ、と笑いはしたが決して無造作にではなく、大切そ うに手のびらからハンカチに包んだ。その年頃の男の子にはあまりにも不似合いな行動 なので、私はとてもびつくりした。 恋なんて、そんなものだ。 それが私にもらったから特別だったとしても、彼の育ちがよくて人からもらったもの をずさんに扱えないということにしても、咄嗟にそうしたその感じに私はとても好意を とっさ
底から私は思った。この無力感、今、まさに目の前で終わらせたくないなにかが終わろ うとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできない。、 とんよりと暗いだけだ。 どうか、もっと明るい光や花のあるところでゆっくりと考えさせてほしいと田 5 、つ。で も、その時はきっともう遅も やがてカッ丼がきた。 私は気をとり直して箸を割った。腹がへっては : と思うことにしたのだ。外観も 異様においしそうだったが、食。へてみると、これはすごい。すごいおいしさだった。 を「おじさん、これおいしいですね ! 」 思わず大声で私が言うと、 「そうだろ。」 満 とおじさんは得意そうに笑った。 いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。このカッ丼はほとんどめぐりあい、と言っ ても、 いような腕前だと思った。カツの肉の質と いい、だしの味とい 、玉子と玉ねぎ の煮え具合と、 い、かために炊いたごはんの米と、 しし丿の打ちどころがない。そうい えば昼間先生が、本当は使いたかったのよね、とここのうわさをしていたのを思い出し て、私は運がい 、と思った。ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に私は衝動で言 125 ってしまった。
る、だだっ広い店だった。 そして今日も、宗太郎はその広い店のいちばん公園よりの席にすわって外を見ていた。 ガラス張りのその窓の外は、いちめんの曇り空に風でわさわさ揺れる木々が見えた。 ゆきかうウェイトレスの間をぬって彼に近づいてゆくと、彼は気づいて笑った。 向かいの席にすわって、 「雨が降るかな。」 私が一一一口うと、 「いや、晴れてくるんじゃない ? 」と宗太郎は言った。「なんで二人で久しぶりに会っ て、天気の話してるんだろうね。」 ものだなあ、 その笑顔に安心した。本当に気のおけない相手との午後のお茶は、い、 と思う。私は彼の寝ぞうがむちゃくちゃに悪いのを知っているし、コーヒーにミルクも 砂糖もたくさん人れることや、くせ毛を直したくてドライヤーをかけるばかみたいにま じめな鏡の中の顔も知っている。そして、彼と本当に親しくしていた頃だったら、今頃 私は冷蔵庫みがきでずいぶんはげた右手のマニキュアが気になっちゃって話にならない と田 5 、つ。 「君、今さ。」世間話の途中で、ふいに思い出したように宗太郎が言った。「田辺んとこ 5 にいるんだって ? 」 キッチン
崩きあげ丼は、食欲を思い出すくらいにおいしかった。 「なー ? 」 柊が言った。 「うん。おいしい。生きててよかったと思うくらいおいし、。 私は言った。あんまりほめたので、店の人がカウンターの向こうで恥ずかしそうにす るくらい、おいしかった。 「そうだろ ! さっきは絶対そう一言うと思ったんだ。君の食。へ物の趣味は正しい。喜ん うれ でくれて本当に嬉しい。」 びと息にそう言って笑ってから、彼は母親の所への出前を頼みに行った。 私はしつこい性格だし、まだまだこの暗さに足をびつばられながら生きていかなくて と私はかきあげ丼を前にして思っていた。この子は一日 はいけないのは仕方ないが も早く、セーラー服を着てなくても今みたいに笑えるようになってほしいと。 真昼。突然その電話はかかってきた。 ジョギングも休んでうつらうつらしてべッドに、こ。 4 私は風邪をひいてしまい 熱つほい頭の中にベルの音が何度も何度も割り込んできて私はばんやりと起き上がった。 家人は誰もいないらしく、仕方なく私は廊下に出て受話器を取った。
163 「言うと田 5 った。」 私も笑ってみせた。 ライトの色が交差し、光の河が曲がってくる。信号が闇に明るく浮かぶ。ここで、等 えい′」・つ が死んだ。ひそやかに厳粛な気持ちが訪れる。愛する者の死んだ場所は未来永劫時間が しいと人は祈る。よく観 止まる。もし、同じ位置に立てたなら、その苦しみも伝わると、 光で城なんかに行き、何年前、ここを誰々が歩いたのです、体で感じる歴史です。とか 一一 = ロうのを聞く度に、なに言ってんだと思ったものだが、今は違う。わかる気がする。 この交差点、このビルや店の並びが浮かぶ夜の色彩が等の最後の景色だ。そしてそれ トはそんなに遠い昔ではない。 ・ : 今みた どんなに、こわい田 5 いをしたか。ちらっとでも私を思い出しただろうか。 いに月が上空に昇ってくるところだったろ、つか。 「青だ。」 柊が私の肩を押すまで、私はばんやりと月を見ていた。まるで真珠のようにびんやり と白く小さい光があんまりにもきれいだったのだ。 「異様においしい。 私は言った。その小さく新しい、木の匂いのする店でカウンターにすわって食べたか
158 ゆく。春の服が明るく照らされて並ぶ夕方のデパ ートはすべてが幸福そうだ。 今は、よくわかる。彼のセーラー服は私のジョギングだ。全く同じ役割なのだ。私は 彼ほど変わり者でないので、ジョギングで充分だっただけのことだと思う。彼はそのく ションと らいでは全くインパクトに欠けて自分を支えるにはもの足りないのでバリエ してセーラー服を選んだ。どちらもしぼんだ心にはりを持たせる手段にすぎない。気を まぎらわせて時間をかせいでいるのだ。 私も柊もこの二カ月で、今までしたことのない表情をするようになった。それは失っ てしまったものを考えまいと戦う表情だった。ふっと思い出して突然に孤独が押してく やみ る闇の中に立っていると知らず知らずのうちにそういう顔になってしまうのだ。 「タ食を外にするなら、家に電話するわ。ああ、柊は ? 家で食。へなくていいの ? 」 私が立とうとすると柊が、 「ああ、そうだ。今日は父親が出張だったんだ。」 A 」一一一一口った。 「お母さんひとり。じゃ、帰ってあげれば。」 「いや、一個だけ家に出前してもらえばいいや。まだ早いから、なにも作ってないだろ う。お金払っといて、唐突に晩めしは息子のおごり。」
112 キッチン やみ : 今夜も闇が暗くて息が苦しい。とことん滅人。た重い眠りを、それぞれが戦う夜。 翌朝はよく晴れた。 旅行にそなえて朝、洗濯をしていたら、電話が鳴った。 十一時半 ? 変な時間の電話だ。 首をかしげて出ると、 「あーっ、みかげちゃあん ? お久しぶり ! 」 と高くかすれた声が叫んだ。 「ちかちゃん ? 」 私はびつくりして言った。電話は外からで車の音がうるさかったが、その声は私の耳 にはっきりと届いて、その姿を思い出させた。 ちかちゃんは、えり子さんのお店のチーフでやはりオカマの人だ。昔よく田辺家に泊 まりにきた。えり子さん亡き後は、彼女が店をついだ。 彼女、とはいうが、ちかちゃんはえり子さんに比。へて、どこから見ても男、という印 象は否めない。しかし化粧ばえのする顔だちをしていて、細く背が高い。派手なドレス がよく似合うし、ものごしが柔らかい。一度地下鉄の中で小学生にからかわれてスカー トをまくられたら、泣きやまなくなってしまった、気の小さな人だ。あまり認めたくな