柊 - みる会図書館


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1. キッチン

176 キッチン 確かにかわいいが、あまりにも明るくおだやかな普通の人に見えて、あの変人である柊 が彼女のどこに特別惹かれたのか見当もっかなかった。柊は、ゆみこさんに夢中だった のだ。表面的にはいつもの柊だが、彼女の中のなにかが柊を押さえていた。実力が伯仲 していた。それはなんだろうと私は等にたずねた。 「テニスだって。」 と等は笑った。 「テニス ? 」 「うん。柊の話ではテニスがすげえって。」 で、私と等と柊でゆみこさ 夏だった。じりじりと陽が照りつける高校のテニスコート んの決勝戦を見た。影が濃く、のどが渇いた。なにもかもがまぶしい頃のことだ。 確かに、すごかった。彼女は別人だった。私の後をさっきさんさっきさんと笑ってつ いてくる彼女とは別人だった。私はびつくりして試合を見ていた。等も驚いたようだっ た。柊は「ね。すごいでしよ。」と自慢げに言った。 彼女は迫力と集中力でぐいぐい押してゆき、うむを言わさずたたきつける力強いテニ スをした。そして、実際に強かった。顔も真剣だった。人を殺しそうな顔をしていた。 それでも最後のショットを決めて、勝った瞬間にまっさきに柊を振り向いた時の幼い笑 顔はもういつもの彼女だったのが印象的だった。

2. キッチン

162 キッチン 歩き出しながら私は言った。 「変な人って、男かい ? 」柊は笑った。「早朝ジョギングは恐ろしい。」 「ううん、そんなんじゃない。女の人。なんだか忘れがたい女の人だよ。」 「ふうん : : : また会えるといいね。」 「うん。」 そう、私はなぜかうららにすごく会いたかった。一回しか会ったことのない人なのに 会いたかった。あんな表情ーーー私はあの時、心臓が止まりそうになった。さっきまで柔 らかに笑っていたくせにひとりになって彼女は、たとえるなら″人間に化けた悪魔がふ と、これ以上なににも気を許してはいけないと自分をいましめるような。表情をした。 あれはちょっと忘れがたい。私のこの苦しみも哀しみもあれには全然至らない、そんな 気がした。もしかしたら私にはまだまだやれることがあるような気にさせる。 街を抜ける大きな交差点の所で、私も柊もほんの少し気づまりを感じる。そこは、等 とゆみこさんの事故の現場だった。今も、激しく車がゆきかっている。赤信号で、柊と 私は並んで立ち止まった。 「地縛霊はいないのかな。」 柊が笑って言ったが目は決して笑っていなかった。

3. キッチン

155 るく笑った。彼が注文すると、ウェイトレスは彼をじっと、じっと上から下まで見て不 と一 = ロった 0 田 5 そ、つには、、 顔はあまり似ていなかったが、柊の手の指とか、ちょっとした時の表情の動かし方と ゝは、よく私の心臓を止めそうになった。 「うつ。」と私は、そうい、つ時、わざと声に出して言った。 「なに ? 」 とカップを片手に柊が私を見る。 「に、似ている。」 と私は言う。そうするといつも彼は " 等のマネ ~ と言って等のマネをした。そして二 人で笑った。そうして二人は心の傷を茶化して遊ぶことくらいしか、なすす。へがなかっ 私は恋人を亡くしたが、 彼は兄と恋人をいっぺんに亡くしてしまったのだ。 彼の恋人はゆみこさんと言って、彼と同い歳の、テニスが上手な、背の小さい美人だ った。歳が近いので四人は仲良くなり、よく一緒に遊びに行ったものだ。等の家に遊び に行くと、柊の所にゆみこさんがいて、四人で徹夜でゲームをしたことも数え切れない。 その夜、等は柊の所に来ていたゆみこさんを、出かけるついでに車で駅まで乗せてゆ

4. キッチン

157 ムーンライト・シャドウ 私は言った。 柊の今着ているセーラー服は、ゆみこさんの形見だ。 彼女が死んでから、私服の高校だというのに彼はそれを着て登校している。ゆみこさ んは、制服が好きだった。双方の親が、そんなことをしてもゆみこさんは喜ばないと、 スカート男を泣いて止めた。しかし柊は笑って、とりあわなかった。私がそれは感傷で 着てるの ? とその時たずねたら、そんなんじゃない。死人は戻らないし、モノはモノ だと言った。でも、気持ちがしゃんとするんだ。と。 「柊は、いつまでそれを着てるの ? 」 とたずねたら、 「わかんない。」 と言って、少し暗い顔をした。 「みんな、変なこと言わない ? 学校で、悪いうわさ立たない ? 」 「いや、それがワタシね。」彼は言った。彼は昔から自分のことをワタシと言うのだ。 「同情票がすごくて、女の子にもててもてて。やはりスカートをはくと、女の気持ちが わかる気がするからだろうか」 「そりゃあ、よかったね。」 私は笑った。ガラスの向こうのフロアーでは楽しそうな買い物客がにぎわって通って

5. キッチン

た。思い出が思い出としてちゃんと見えるところまで、一日も早く逃げ切りたかった。 でも、走っても走ってもその道のりは遠く、先のことを考えるとぞ 0 とするくらい淋し ゝつ、、 0 その時、柊がふと立ち止まったので、私もつい立ち止まってしまった。これでは本当 に尾行だわと笑いながら私はいよいよ声をかけようと歩きーー柊が立ち止まって見てい るものに気づいてはっと足を止めた。 彼はテニスショップのウインドウを見つめていた。本当になんの気なしに眺めている ことがその、淡々とした表情でよくわかった。しかし、思い人れがない分、その行為の 深さが伝わってきた。すり込みみたい、と私は思った。子アヒルが初めて動いたものを 母と思い込んでついて歩く姿は、子アヒルにとってはなんでもなくても見る者の胸を打 こんなに打つ。 春の光の中、人混みにまぎれてじっと、じっと彼は無心にウインドウを見ていた。テ ニスのもののそばにいると、彼は多分なっかしい気持ちになれるのだろう。私が柊とい る時だけ、等の面影の分、落ち着くのと同じに。それは悲しいことだと思う。 175 私も、ゆみこさんのテニスの試合を見たことがあった。彼女を初めて紹介された時、

6. キッチン

158 ゆく。春の服が明るく照らされて並ぶ夕方のデパ ートはすべてが幸福そうだ。 今は、よくわかる。彼のセーラー服は私のジョギングだ。全く同じ役割なのだ。私は 彼ほど変わり者でないので、ジョギングで充分だっただけのことだと思う。彼はそのく ションと らいでは全くインパクトに欠けて自分を支えるにはもの足りないのでバリエ してセーラー服を選んだ。どちらもしぼんだ心にはりを持たせる手段にすぎない。気を まぎらわせて時間をかせいでいるのだ。 私も柊もこの二カ月で、今までしたことのない表情をするようになった。それは失っ てしまったものを考えまいと戦う表情だった。ふっと思い出して突然に孤独が押してく やみ る闇の中に立っていると知らず知らずのうちにそういう顔になってしまうのだ。 「タ食を外にするなら、家に電話するわ。ああ、柊は ? 家で食。へなくていいの ? 」 私が立とうとすると柊が、 「ああ、そうだ。今日は父親が出張だったんだ。」 A 」一一一一口った。 「お母さんひとり。じゃ、帰ってあげれば。」 「いや、一個だけ家に出前してもらえばいいや。まだ早いから、なにも作ってないだろ う。お金払っといて、唐突に晩めしは息子のおごり。」

7. キッチン

161 ートの窓明かり 柊のセーラー服がコートでかくれたので、私は少しほっとした。デ。ハ が歩道を明るく照らし、とぎれなくゆきかう人々の顔も白く輝いて見える。風は井い香 りがして、春めいているのにまだまだ冷たく、私はポケットから手袋をとり出した。 「その天ぶら屋、ワタシんちのすぐそばだから、少し歩くよ。」 と柊が言った。 「橋を渡ってゆくのね。」 と言って、私は少し沈黙した。橋の所で会った、うららという人のことを思い出した : とぼんやり思っているとふいに柊が、 シのだ。あれからも毎朝行くが、会わない。 「あっ、もちろん帰りは送るぞ。」 と大声で言った。私の沈黙を、遠くへ行く面倒さと解釈したらしかった。 「とんでもない。 まだ早いもの。」 とあわてて言いながら、今度は心の中だけで、″に、似ている″と私は思っていた。 マネをしてくれる必要がないくらい、今のは等に似ていた。人との間にとったスタンス を決して崩さないくせに、反射的に親切が口をついて出るこの冷たさと素直さに、私は いつでも透明な気持ちになった。それは透んだ感激だった。その感じを私は今、生々し く思い出してしまった。なっかしかった。苦しかった。 「この間、走ってて朝、橋の所に変な人がいてね。そのことを思い出してただけよ。」

8. キッチン

く途中で事故にあった。彼には非はなゝっこ。 それでも、二人共あっさりと即死してしまった。 「ジョギングやってるかい ? 」 柊が言った。 「うん。」 私は言った。 「そのわりには、お太りになったね。」 「ごろごろしてるから、昼は。」 私は思わず笑った。実際は、人が見てはっきりとわかるくらいに私はやせはじめてい どん 「スポーツしてれば健康ってもんじゃない。そうだ。ものすごくおいしいかきあげ丼の 店が突然近所にできたんだ。カロリーもある。食。へに行こう。今、今すぐに。」 彼は言った。等と柊は性格も全然違ったが、それでも育ちのよさからくるこういう、 てらいも下心もない親切さをどちらも自然に身につけていた。まるで、鈴をそっとハン カチに包むような親切さだった。 「うん、 いいね。」 キッチン

9. キッチン

159 「なかなか、かわいい企画ね。」と言うと、 「元気が出そうだよね。」 嬉しそうに柊は笑った。こういう時、ふだん大人びたこの少年が歳相応の顔をする。 いっか冬の日、等が言った。 「弟がいるんだけどさ、柊っていうんだ。」 彼に弟の話を聞いたのはそれが初めてだった。今にも雪になりそうな、どんより重い 、一・グレーの空の下、二人は学校の裏手にある長い石段を降りていった。コートのポケット トに手を人れて、白い息で等は言った。 「俺よりもなんだか大人なの。」 ム 「大人なの ? 」 私は笑った。 「なんか、肝がすわってるっていうかね。それでも家族のこととなると妙に子供なのが おやじ おかしくてね。昨日、父親がちょっとガラスで手を切ったら、本気でおろおろしてさ、 そのおろおろ仕方がすごいんだ。天と地がひっくり返ったみたいで。あんまり意外だっ たから、今、思い出してた。」 「いくつなの ? 」

10. キッチン

8 く眠ったことか、夕方になっていた。私は起き上がって、シャワーを浴び、すっかり着 替えると、ドライヤーをかけた。熱は下がり、体がだるい以外は元気になっていた。 うららは本当に来たのだろうか、と私は髪を乾かす熱風の中で思っていた。夢としか 思えなかった。そしてあの言葉は本当に風邪のことだったろうか。夢の中に響くような 言葉だった。 たとえば鏡に映る自分の顔にほんの少し深い影が落ちていることが、また本当につら い夜が揺り返しのようにやってくることを予感させた。考えたくもないほど疲れる。本 たとえはってでもくぐり抜けたい。 当に疲れる。それでも たとえば、今は昨日よりも少し楽に息ができる。また息もできない孤独な夜が来るに 違いないことは確かに私をうんざりさせる。このくりかえしが人生だと思うとぞっとし てしまう。それでも、突然息が楽になる瞬間が確実にあるということのすごさが私をと きめかせる。度々、ときめかせる。 そう思うと、少し笑える。急に熱が冷めて私の思考は酔っぱらいのようだった。その 時、突然にノックの音がした。母かと思いはいはいと一言うと、ドアが開いて柊が人って きたので驚いた。本当に驚いた。 「お母さんが何回呼んでも返事がないって言うんで。」 柊は言った。