追いかけながら。 しかし、気づくとほおに涙が流れてぼろほろと胸元に落ちているではないですか。 たまげた。 自分の機能がこわれたかと思った。ものすごく酔っぱらっている時みたいに、自分に 関係ないところで、あれよあれよと涙がこばれてくるのだ。次に私は恥ずかしさで真 0 赤になっていった。それは自分でもわかった。あわてて私はバスを降りた。 行くバスの後ろ姿を見送って、私は思わず薄暗い路地へ駆け込んだ。 そして、自分の荷物にはさまれて、暗がりでかがんで、もうわんわん泣いた。こんな に泣いたのは生まれて初めてだった。とめどない熱い涙をこぼしながら、私は祖母が死 んでからあんまりちゃんと泣いてなかったことを思い出した。 なにが悲しいのでもなく、私はいろんなことにただ涙したかった気がした。 ふと気がつくと、頭の上に見える明るい窓から白い蒸気が出ているのが闇に浮かんで 見えた。耳をすますと、中からにぎやかな仕事の声と、な。への音や、食器の音が聞こえ てきた。 ちゅうばう 厨房だ 私はどうしようもなく暗く、そして明るい気持ちになってしまって、頭を抱えて少し 笑った。そして立ち上がり、スカートをはらい、今日は戻る予定でいた田辺家へと歩き
188 キッチン 、と田 5 い しかし、夜明けの最初の光が射した時にす。へてはゆっくりと薄れはじ . し . し めた。見ている目の前で、等は遠ざかってゆく。私があせると、等は笑って手を振った。 やみ 何度も、何度も手を振った。青い闇の中へ消えてゆく。私も手を振った。なっかしい等、 そのなっかしい肩や腕の線のす。へてを目に焼きつけたかった。この淡い景色も、ほほを ったう涙の熱さも、すべてを記憶したいと私は切望した。彼の腕が描くラインが残像に なって空に映る。それでも彼はゆっくりと薄れ、消えていった。涙の中で私はそれを見 つめた。 完全に見えなくなった時、すべてはもといた朝の川原に戻っていた。横に、うららが 立っていた。うららは、身を切られそうな悲しい瞳をして横顔のままで、 「見た ? 」 二 = ロった。 「見た。」 と涙をぬぐいながら私は言った。 「感激した ? 」 うららは今度はこちらを向いて笑った。私の心にも安心が広がり、 「感激した。」 とほほえみ返した。光が射し、朝が来るその場所に、二人でしばらく立っていた。
せて泣きじゃくり、そばのつゆにほたほたと涙が落ちた。 「みかげちゃん、あたし淋しい。どうしてこんなことになるの ? 神様って、いないの かしら。もう、これからずっと、えりちゃんに会えないなんて絶対いや。」 いつまでも泣きやまないちかちゃんを連れて店を出て、その高い肩を支えて駅まで歩 いて行った。 ごめんね。とレースのハンカチで目を押さえて、改札の所でちかちゃんは私に雄一の 泊まる宿の地図と電話のメモをくしやっと握らせた。 チ さすが水商売、やることはやる。ッポは押さえてるわ。 キと感心しながら、私はその大きな背中を切なく見送った。 私は彼女の早とちりも、恋にだらしないことも、昔は営業マンで、仕事についてゆけ 満 なかったことも、みんな知っているけれども : : : 今の涙の美しさはちょっと忘れがたい 人の心には宝石があると思わせる。 冬のつんと澄んだ青空の下で、やり切れない。私までどうしていいかわからなくなる。 空が青い 青い。枯れた木々のシルエットが濃く切り抜かれて、冷たい風が吹き渡って ゆく。 " 神様って、いないのかしら。 117
187 鈴。間違いなく、それは等の鈴の音だった。ちりちり、とかすかな音を立てて誰もい ないその空間に鈴は鳴った。私は目を閉じて風の中でその音を確かめた。そして、目を 開けて川向こうを見た時、この二カ月のいつよりも自分は気が狂ったのだと感じた。叫 び出すのをやっとのことでこらえた。 守一かい」 川向こう、夢や狂気でないのなら、こっちを向いて立っている人影は等だった。川を はさんでーーーなっかしさが胸にこみ上げ、その姿形のす。へてが心の中にある思い出の像 、【と焦点を合わせる。 彼は青い夜明けのかすみの中で、こちらを見ていた。私が無茶をした時にいつもする、 心配そうな瞳をしていた。ポケットに手を人れて、まっすぐ見ていた。私はその腕の中 おも 」で過ごした年月を近く遠く、想。た。私たちはただ見つめ合。た。二人をへだてるあま りにも激しい流れを、あまりにも遠い距離を、薄れゆく月だけが見ていた。私の髪と、 なっかしい等のシャツのえりが川風で夢のようにばんやりとなびいた。 等、私と話したい ? 私は等と話がしたい。そばに行って、抱き合って再会を喜び合 たい。でも、でもーー涙があふれたーー運命はもう、私とあなたを、こんなにはっき りと川の向こうとこっちに分けてしまって、私にはなすす。へがない。涙をこばしながら、 私には見ていることしかできない。等もまた、悲しそうに私を見つめる。時間が止まれ
よしもとばなな著 よしもとばなな著 突然知らされた私自身の出来事。自分の人生 ミルクチャンのような日々、 の時間を守るには ? 友達の大切さを痛感し、 そして妊娠 からだの声も聞いた。公式本第一一弾ー ¯yoshimotobanana. com2¯ 胎児に感動したり、日本に絶望したり。涙と怒 よしもとばなな著子供かで一ましたりと希望が目まぐるしく入れ替わる日々。心 とからだの声でいつばいの公式本第三弾。 ー・ yoshlmotobanana. com3— いよいよ予定日が近づいた。つつばる腹、息 よしもとばなな著こんにちわ ! 赤ちゃん切れ、ぎつくり腰。終わってみれば、しゃれ にならない立派な難産。涙と感動の第四弾。 ¯yoshimotobanana. C0m4・ー 子育ては重労働。おつばいは痛むし、寝不足も よしもとばなな著赤ちゃんのいる日々続く。仕事には今までの何倍も時間がかかる。 でも、これこそが人生だと深く感じる日々。 —yoshimotobanana. com5¯ わが子は一歳。育児生活にもひと息という頃、 よしもとばなな著さよ、つなら、ラブ子身近な人が次々と倒れた。そして、長年連れ 添った名大ラブ子の、最後の日が近づいた。 —yoshimotobanana. com6¯ 難問が押し寄せ忙殺されるなかで、子供は商 っこしはつらいよ店街のある街で育てたいと引っ越し計画を実 行。四十歳を迎えた著者の真情溢るる日記。 ¯yoshimotobanana. com7 ・ー
134 青い沈黙は涙が出るほど息苦しくせまってきた。うしろめたい瞳をふせた雄一は、カ ッ丼を受けとる。生命を虫食いのようにむしばむその空気の中、予想もっかなかったな にかが私たちを後押しした。 「みかげ、その手どうした ? 」 私のすり傷に気づいた雄一が言った。 しいから、まだ少しでもあったかいうちに食。へてみて。」 ほほえんで私は手のひらで示した。 まだなんとなくふに落ちない様子だったが、 「うん、おいしそうだね。」 と言って雄一はふたを開け、さっきおじさんがていねいに詰めてくれたカッ丼を食べ はじめた。 それを見たとたん、私の気持ちは軽くなった。 やるだけのことはやった、という気がした。 私は知る。楽しかった時間の輝く結晶が、記憶の底の深い眠りから突然覚めて、 今、私たちを押した。新しい風のびと吹きのように、私の心に香り高いあの日々の空気 がよみがえって息づく。 もうひとつの家族の思い出。
「じゃ、よろしく。みかげさんが来てくれるのをぼくも母も楽しみにしてるから。」 彼は笑った。あんまり晴れやかに笑うので見慣れた玄関に立っその人の、瞳がぐんと 近く見えて、目が離せなかった。ふいに名を呼ばれたせいもあると思う。 「 : : : じゃ、とにかく、つ力がいます。」 悪く言えば、魔がさしたというのでしよう。しかし、彼の態度はとても″クール / ったので、私はイ 言じることができた。目の前の闇には、魔がさす時いつもそうなように、 一本道が見えた。白く光って確かそうに見えて、私はそう答えた。 彼は、じや後で、と言って笑って出ていった。 私は、祖母の葬式までほとんど彼を知らなかった。葬式の日、突然田辺雄一がやって きた時、本気で祖母の愛人だったのかと思った。焼香しながら彼は、泣きはらした瞳を 閉じて手をふるわせ、祖母の遺影を見ると、またぼろぼろと涙をこばした。 私はそれを見ていたら、自分の祖母への愛がこの人よりも少ないのでは、と思わず考 えてしまった。そのくらい彼は悲しそうに見えた。 そして、 ハンカチで顔を押さえながら、 「なにか手伝わせて下さい。」 と言うので、その後、いろいろ手伝ってもらったのだ。 ひとみ
181 わらないからよ。またくりかえし風邪ひいて、今と同じことがおそってくることはある かもしんないけど、本人さえしつかりしてれば生涯ね、ない。そういう、しくみだから。 そう思うと、こういうのがまたあるのかっていやんなっちゃうっていう見方もあるけど、 こんなもんかっていうのもあってつらくなくなんない ? 」そして、笑って私を見た。 私は黙って目を丸くした。この人は本当に風邪についてだけ言ってるんだろうか。な にを言ってるんだろうか。、ーー夜明けの青と熱がすべてをかすませて、私には夢とうつ つの境目がよくわからなかった。ただ言葉を心に刻みながら、話すうららの前髪がさや 、【さや吹く風に揺れるのをばんやり見つめていた。 「じゃあ、明日ね。」 と笑うと、うららはゆっくりと外から窓を閉めた。そしてステップをふむような軽い ム足どりで門を出ていった。 私は夢の中に浮いているように、その姿を見送っていた。つらかった夜の終わりに彼 女がやってきてくれたことが、私は涙が出るほど嬉しかった。この幻想のような青いも やの中をあなたが来てくれて、夢のように嬉しいと伝えたかった。なんだか、目が覚め たらなにもかも少しよくなるようにさえ、思えた。そして眠りについた 目が覚めたら、少なくとも風邪だけは少しよくなっていることがわかった。なんとよ
114 さんが忙しそうにやってきて、どっかんと水を置いた。 「話はなんなの ? 」 きしめんを食。へながら私は切り出した。 彼女が話があるという時はいつもろくでもない相談だったので、今回もそんなところ だろうと思っていたが、彼女は大変なことを言うようにささやいた。 「それがねえ、雄ちゃんのことなの。」 私の心がどきりと音を立てた。 「あの子ね、昨日夜中に店に来て、あー、眠れないー って言うの。調子悪いから気晴 らしにどこかへ行こうって。ああ、勘違いしないでね。あたし、あの子がこーんなに小 さい時から知ってるのよ。変な関係じゃなくてまあ、親子ね、おやこ。」 「知ってますって。」 笑って私は言った。ちかちゃんは続けた。 「あたし、びつくりしたのよ。あたしってばかだから人の気持ちって、あんまりいつも よくわからないんだけど : : : あの子って絶対に弱いところ人に見せない子じゃない ? 涙はすぐ流すけど、だだこねたりしないでしよ。なのに結構しつこく言うのよ。どっか 行こうって。なんだか雄ちゃん、そのまま消えちゃいそうに元気がなかった。本当はっ きあってやりたかったけど、今、お店直してるのよ。みんなもまだ不安定で、手が放せ
: 今日はお願いがあってやってきました。はっき 「ええ、大学のクラスメートです。 り申し上げます。田辺くんのことを、もうかまわないで下さい。」 彼女は言った。 「それは田辺くんが決めることであって。」私は言った。「たとえ恋人であってもあなた に決めていただくことではないように思いますけれど。」 彼女は怒りでばっと赤くなり、言った。 「だって、おかしいと思いませんか。みかげさんは恋人ではないとか言って、平気で部 屋に訪ねたり、泊まったり、わがまま放題でしよう。同棲してるよりも、もっと悪い わ。」彼女の瞳からは涙がこぼれそうだった。「私は、確かに同居していたあなたに比べ て、田辺くんのことをよく知らない、ただのクラスメートです。でも私なりに田辺くん をずっと見てきたし、好きです。田辺くんはここのところ、お母さんを亡くして、まい ってるんです。ずっと前、私は田辺くんに気持ちを打ち明けたことがあります。その時、 田辺くんは、みかげがなあ : : : って言いました。恋人なの ? って私が聞いたら、いや、 って首をかしげて、ちょっと保留にしておいてくれって言いました。彼の家に女の人が 住んでるのは学内でも有名だったから、私はあきらめたんです。」 「もう住んでないわ。」 と、ちゃちやを人れる形になった私の言葉をさえぎって彼女は続けた。 どうせい