: 今日はお願いがあってやってきました。はっき 「ええ、大学のクラスメートです。 り申し上げます。田辺くんのことを、もうかまわないで下さい。」 彼女は言った。 「それは田辺くんが決めることであって。」私は言った。「たとえ恋人であってもあなた に決めていただくことではないように思いますけれど。」 彼女は怒りでばっと赤くなり、言った。 「だって、おかしいと思いませんか。みかげさんは恋人ではないとか言って、平気で部 屋に訪ねたり、泊まったり、わがまま放題でしよう。同棲してるよりも、もっと悪い わ。」彼女の瞳からは涙がこぼれそうだった。「私は、確かに同居していたあなたに比べ て、田辺くんのことをよく知らない、ただのクラスメートです。でも私なりに田辺くん をずっと見てきたし、好きです。田辺くんはここのところ、お母さんを亡くして、まい ってるんです。ずっと前、私は田辺くんに気持ちを打ち明けたことがあります。その時、 田辺くんは、みかげがなあ : : : って言いました。恋人なの ? って私が聞いたら、いや、 って首をかしげて、ちょっと保留にしておいてくれって言いました。彼の家に女の人が 住んでるのは学内でも有名だったから、私はあきらめたんです。」 「もう住んでないわ。」 と、ちゃちやを人れる形になった私の言葉をさえぎって彼女は続けた。 どうせい
「でも、みかげさんは恋人としての責任を全部のがれてる。恋愛の楽しいところだけを、 はんば 楽して味わって、だから田辺くんはとても中途半端な人になっちゃうんです。そんな細 い手足で、長い髪で、女の姿をして田辺くんの前をうろうろするから、田辺くんはどん どんずるくなってしまう。 いつもそういう中途半端な形でつかず離れずしていられれば、 便利ですよね。でも、恋愛っていうのは、人が人の面倒をみる大変なことじゃあないん ですか ? そういう重荷をのがれて、凉しい顔をして、なんでもわかってますっていう 態度で : : : もう、田辺くんを離してあげて下さい。お願いします。あなたがいると田辺 くんはどこにも行けないんです。」 キ 彼女の人間洞察はかなり自分に都合の良い方向に傾いていたけれど、その言葉の暴力 は私の痛いところをかなり正確についていたので、私の心はたくさん傷ついた。まだな 満 にか続きを言おうと彼女のロが開きかけたので、 「ストップ ! 」と私は言った。彼女はびくっとしてだまった。私は言った。 「お気持ちはわかりますけれどね、でも人はみんな、自分の気持ちの面倒は自分でみて 生きているものです。 : あなたの言ってることの中に、たったひとつ、私の気持ちだ けが人ってなかった。私が、なにも考えていないことが、どうして初対面のあなたにわ かるの ? 」 「どうしてそんな冷たい言い方できるの ? 」
「寝るな。」 雄一が言った。 「寝てない。」私は言った。「引っ越しハガキ書くのは、本当はすごく好きなの。」 「あっ、ばくも。」雄一が言った。「転居とか、旅行先からのハガキとか、すごく好き。」 「ねえ、でも。」思い切って再び私はチャレンジした。「なんか、このハガキが波紋を呼 んで、学食で女の子にびつばたかれたりしそうじゃない ? 」 「さっきから、そのこと言ってたのか。」 彼は苦笑した。その堂々とした笑顔が私をどきりとさせた。 「だから、正直に言っていいよ。私、ここに置いてもらってるだけでいいんですから。」 「そんなはかな。」彼は言う。「じゃ、これはハガキごっこかい ? 」 「ハガキごっこってなに ? 」 「わかんないけど。」 私たちは笑った。それで、またなんだか話がそれていった。そのあまりの不自然さに、 にぶい私もやっとわかった。彼の目をよく見たら、わかってきた。 彼は、ものすごく悲しんでいるのだ。 さっき、宗太郎は言っていた。田辺の彼女は一年間つきあっても田辺のことがさつは りわかんなくていやになったんだって。田辺は女の子を万年筆とかと同じようにしか気
キッチン 田辺、雄一。 その名を、祖母からいっ聞いたのかを思い出すのにかなりかかったから、混乱してい たのだろう。 彼は、祖母の行きつけの花屋でアルバイトしていた人だった。いい子がいて、田辺く んがねえ、今日もね : : : というようなことを何度も耳にした記憶があった。切り花が好 きだった祖母は、いつも台所に花を絶やさなかったので、週に二回くらいは花屋に通っ ていた。そういえば、一度彼は大きな鉢植えを抱えて祖母のうしろを歩いて家に来たこ ともあった気がした。 彼は、長い手足を持った、きれいな顔だちの青年だった。素姓はなにも知らなかった が、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。ほんの少し知っ 卩象は変わらなかった。ふるまいや口調がど た後でも彼のその、どうしてか " 冷たい〃 んなにやさしくても彼は、びとりで生きている感じがした。つまり彼はその程度の知り 合いにすぎない、赤の他人だったのだ。 夜は雨だった。しとしとと、あたたかい雨が街を包む煙った春の夜を、地図を持って 歩いていった。 田辺家のあるそのマンションは、うちからちょうど中央公園をはさんだ反対側にあっ こみちにじ にお た。公園を抜けていくと、夜の緑の匂いでむせかえるようだった。濡れて光る小路が虹
キッチン うるさいのですごく恥ずかしいだけだった。 「田辺って。」彼は言った。「変わってるんだってね。」 「よく、わかんない。」私は言った。「あまり会わないし。 私、大のように拾われただけ。 別に、好かれてるんでもないしね。 それに、彼のことはなにも知らないし。 そんなもめごともマヌケなまでに全然、気づかなかったし。」 「でも、君の好きとか愛とかも、俺にはよくわかんなかったからなあ。」宗太郎は言っ 「とにかく、よかったと思うよ。いつまで引き取られてるの ? 」 「わかんない。」 「ちゃんと、考えなさいね。」彼は笑い、 、いがけます。」私は答えた。 帰りは、ずっと公園を抜けていった。木々のすき間から、田辺家のマンションがよく 見えた。 「あそこに住んでるのよ。」 こ 0 : 話も特別しないし。
満 「失礼ですが、どちら様でしたか ? 」 「奥野と中します。お話があって来ました。」 と、かすれた高い声で彼女は言った。 「中しわけありませんが、今は仕事中ですので、夜にでも自宅のほうにお電話いただけ ますか ? 」 私がそう言い終えたとたん、彼女は、 「それは田辺くんの家のことですか ? 」 チ と強い調子で言った。やっと、わかった。今朝の電話の人に違いない。確信して、 キ「違いますよ。」 と私は言った。栗ちゃんが、 「みかげちゃん、もう抜けていいよ。先生には急な旅行で買い物があるからってうまく 言っといてあげるよ。」 と一 = ロ、つと、 いえ、それには及びません。すぐすみますから。」 と彼女は言った。 「田辺雄一くんのお友達の方ですか。」 私はっとめておだやかに言った。
キッチン 私はたまげた。 あんまりびつくりして、手に持っていた紅茶のカップを傾けて、お皿にじよろじよろ こばしてしまったくらいだ。 「大学中の話題だよ。すごいなー、耳に人んなかったの ? 」 困った顔をして笑いながら宗太郎は言った。 「あなたが知ってることすら知らなかったわ。なんなの ? 」 私は言った。 「田辺の彼女が、前の彼女っていうの ? その人がね、田辺のこと学食でひつばたいた のさ。」 「え ? 私のことで ? 」 「そうらしいよ。だって君たち今、うまく 「え ? 初耳ですが。」 私は言った。 「だって二人で住んでるんでしょ ? 」 「お母さんも ( 厳密には違うけど ) 住んでるのよ。」 「ええっー うそだろーっ」 宗太郎は大声で言った。彼のこの陽気な素直さを私は昔、本気で愛していたが、今は いってるんでしよう。俺、そう聞いたけど。」
キッチン 毎日が楽になった。 アルバイトにはちゃんと行ったが、後はそうじをしたり、を観たり、ケーキを焼 いたりして、主婦のような生活をしていた。 少しずつ、心に光や風が人ってくることがとても、嬉しい。 雄一は学校とバイト、えり子さんは夜仕事なので、この家に全員がそろうことはほと んどなかった。 私は初めのうち、そのオープンな生活場所に眠るのに慣れなかったり、少しずつ荷物 を片づけようと、もとの部屋と田辺家を行ったり来たりするのに疲れたけれど、すぐな じんだ。 その台所と同じくらいに、田辺家のソフアを私は愛した。そこでは眠りが味わえた。 草花の呼吸を聞いて、カーテンの向こうの夜景を感じながら、いつもすっと眠れた。 それよりほしいものは、今、思いっかないので私は幸福だった。 いつつも、そうだ。私はいつもギリギリにならないと動けない。今回も本当にギリギ リのところでこうしてあたたかいべッドが与えられたことを、私はいるかいないかわか らない神に心から感謝していた。 ある日、まだ残っている荷物整理のために私はもとの部屋へ帰った。
キッチン 出した。 神様、どうか生きてゆけますように。 眠くて。と雄一に告げて、私は田辺家に戻ってすぐ寝床に人ってしまった。 えらく疲れた一日だった。しかし、泣いたことでずいぶん軽くなって、心地良い眠り が訪れた。 うわ、本当にもう寝てる、と台所にお茶を飲みにきた雄一の声を、頭の片すみで聞い たようなーー気がした。 私は、夢を見た。 今日、引き払ったあの部屋の台所の流しを私はみがいていた。 なにがなっかしいって、床のきみどり色が : : : 住んでいる時は大嫌いだったその色が 離れてみたらものすごく愛しかった。 引っ越しの準備を終えて、戸棚の中にもワゴンの上にも、もうなにもないという設定 だった。実際、そういうものはとうの昔に始末してしまっていたのだが。
っこ 0 キッチン 「ここが片づいたら、家に帰る途中、公園で屋台のラーメン食。へような。」 目が覚めてしまった。 真夜中の田辺家のソフアで : : : 早寝なんて、やりつけないことをするものではない。 : と思いながら、台所へ水を飲みに行った。なんだか心が冷え冷えとしてい 変な夢。 た。お母さんはまだ帰っていない。二時だ。 ステンレスにはねる水音を聞きながら、私は流しをみがい まだ夢の感触が生々しい。 ちゃおうかしら、とばんやり思っていた。 天を、星が動いてゆく音が耳の奥に聞こえてきそうなくらいに、しんとしている孤独 ツ。、ぎ↓よ、 コップ一杯の水がしみてゆく。少し寒く、スリ な夜中だ。かすかすの心に、 た素足がふるえた。 「こんばんはー。」 と言って突然、雄一がうしろに来たので驚いた。 「な、なに。」 と私は振り向いた。