らい、おだやかな気候だ。 「ところで。」私は言った。「本当はどうやって番号がわかったの ? 」 いろんな所を転々としてひとり 「いや、本当。」ほほえんで彼女は言った。「長いこと、 で暮らしていると、感覚のどこかがけものみたいに冴えてくるのよ。いっ頃から、そう んーと、さっきさん いうことができるようになったのかはよくおぼえてないけど。 の番号は ? と思うとね、ダイヤルを回す時にはもう自然と手が動いて、おおかた合っ てるのよ。」 、【「おおかた ? 」 と私は笑った。 「そう、おおかた。間違ってた時は、すいませんって笑って切る。それでひとり、照れ ン ムるの。」 そう言ってうららは、嬉しそうに笑った。 私は、電話番号を調べる方法なんかいくらでもあるということより、淡々と語る彼女 のほうを信じたかった。彼女は人をそういう気にさせた。私は、自分の心の中にあるど こかがずっと昔から彼女と知り合いで、再会をなっかしみ喜んで泣いているように思え 169 「でも、今日はありがとう。愛人のようで嬉しかったわ。」
「じゃあ : : : お茶かしら、やつばり。」 「うーん、わさび漬はどうかな。」 「ええっ ? あれ苦手よ。おいしい ? あれ。」 「ばくも、数の子の奴しか好きじゃない。」 「じゃあ、そいつを買うわ。」 私は笑って、車のドアを開けた。 あたたかい車内に、突然凍った風がびゅうと吹き込む。 「寒い ! 」と私は叫んだ。「雄一、寒い寒い寒い寒い。」そして、雄一の腕に強くしがみ キついて顔を埋めた。セーターは落葉の匂いがしてあたたかかった。 「伊豆のほうはきっと、もう少しあったかいよ。」 満 そう言って、ほとんど反射的に雄一は、もう片方の腕で私の頭を抱いた。 「いつまで行くって ? 」 彼はそのまま言った。胸から直接、声の響きを聞いた。 「三泊四日。」 私はそっと彼から離れて言った。 「その頃にはもう少しましな気分になってると思う、そうしたら、また外でお茶をしょ 断うではないか。」 やっ
満 チン、とエレベーターが止まり、私の心が瞬間、真空になった。歩きながら私は言っ 「もっと、本質的に ? 」 「そうそう。人間的にね。」 「あるの。絶対にあるわ。」 私はすぐさま言った。もしこれが「クイズ 10 0 人に聞きました」の会場だったら、 あるあるの声が怒号のように響き渡っただろう。 「やつばり、そうか。いや、みかげは芸術家になるとばっかり思っていたから、きっと 君にとってはそれが料理なんだなと勝手に納得してたんだ。そうかあ。みかげは本当に 台所仕事を好きなんだなあ。やつばり。よかったなあ。」 雄一はびとりで何度もうなずいて、納得していた。おしまいのほうは、ほとんどひと り言のような声だった。私は、 「子供みたいね。」 と笑った。さっきの真空がふいに言葉になって頭をよぎる。 / 雄一がいたらなにもいらない″ それは瞬間のことだったけれど、私はひどく困惑した。あまり強く光って目がくらみ そうになったからだ。、いに満ちてしまう。
136 キッチン えり子さんがいなくても、二人の間にはあの明るいムード が戻ってきた。雄一はカッ 丼を食。へ、私はお茶を飲み、闇はもう死を含んでいない。それで、もうよかった。 「じゃあ、帰るわ。」 私は立ち上がった。 「帰る ? 」雄一がびつくりしたように言った。「どこに ? どこから来たんだ ? 」 「そうよ。」私は鼻にしわを寄せて、からかう言い方で言った。「言っとくけど、これは 現実の夜よ。」そうしたら、ロが止まらなくなった。「私は伊豆から、タクシーでここま さび で飛んできたの。ねえ雄一、私、雄一を失いたくない。私たちはずっと、とても淋しい けどふわふわして楽なところにいた。死はあんまり重いから、本当はそんなこと知らな いはずの若い私たちはそうするしかなかったの。 : 今より後は、私といると苦しいこ とや面倒くさいことや汚いことも見てしまうかもしれないけれど、雄一さえもしよけれ ば、二人してもっと大変で、もっと明るいところへ行こう。元気になってからでいいカ ら、ゆっくり考えてみて。このまま、消えてしまわないで。」 雄一は箸を置き、まっすぐ私の目を見つめて言った。 「こんなカッ丼は生涯もう食うことはないだろう。 ・ : 大変、おいしかった。」 「うん。」私は笑った。 「全体的に、情けなかったね。今度会う時は、もっと男らしい、カのあるところを見せ
162 キッチン 歩き出しながら私は言った。 「変な人って、男かい ? 」柊は笑った。「早朝ジョギングは恐ろしい。」 「ううん、そんなんじゃない。女の人。なんだか忘れがたい女の人だよ。」 「ふうん : : : また会えるといいね。」 「うん。」 そう、私はなぜかうららにすごく会いたかった。一回しか会ったことのない人なのに 会いたかった。あんな表情ーーー私はあの時、心臓が止まりそうになった。さっきまで柔 らかに笑っていたくせにひとりになって彼女は、たとえるなら″人間に化けた悪魔がふ と、これ以上なににも気を許してはいけないと自分をいましめるような。表情をした。 あれはちょっと忘れがたい。私のこの苦しみも哀しみもあれには全然至らない、そんな 気がした。もしかしたら私にはまだまだやれることがあるような気にさせる。 街を抜ける大きな交差点の所で、私も柊もほんの少し気づまりを感じる。そこは、等 とゆみこさんの事故の現場だった。今も、激しく車がゆきかっている。赤信号で、柊と 私は並んで立ち止まった。 「地縛霊はいないのかな。」 柊が笑って言ったが目は決して笑っていなかった。
底から私は思った。この無力感、今、まさに目の前で終わらせたくないなにかが終わろ うとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできない。、 とんよりと暗いだけだ。 どうか、もっと明るい光や花のあるところでゆっくりと考えさせてほしいと田 5 、つ。で も、その時はきっともう遅も やがてカッ丼がきた。 私は気をとり直して箸を割った。腹がへっては : と思うことにしたのだ。外観も 異様においしそうだったが、食。へてみると、これはすごい。すごいおいしさだった。 を「おじさん、これおいしいですね ! 」 思わず大声で私が言うと、 「そうだろ。」 満 とおじさんは得意そうに笑った。 いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。このカッ丼はほとんどめぐりあい、と言っ ても、 いような腕前だと思った。カツの肉の質と いい、だしの味とい 、玉子と玉ねぎ の煮え具合と、 い、かために炊いたごはんの米と、 しし丿の打ちどころがない。そうい えば昼間先生が、本当は使いたかったのよね、とここのうわさをしていたのを思い出し て、私は運がい 、と思った。ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に私は衝動で言 125 ってしまった。
と私は二番のアタマのところを歌った。 とおくの とうだい まわるびかりが ふたりのよるには こもれびみたい はしゃいで、大声でくりかえして二人は歌った。 遠くの灯台まわる光が 二人の夜には木もれ日みたい : ふと、私のロがす。へって言った。 「おっと、あんまり大声で歌うと、となりで寝てるおばあちゃんが起きちゃう。」 一一 = ロってから、しまったと思った。 雄一はもっとそう思ったらしく、後ろ姿で床をみがく手が完全に止まった。そして、 振り向いてちょっと困った目をした。 私はとほうにくれて、笑ってごまかした。 えり子さんがやさしく育てたその款子は、こういう 時、とっさに王子になる。彼は一言
キッチン 不思議に感じた。 テープルがないもので、床に直接いろんなものを置いて食べていた。コップが陽にす けて、冷たい日本茶のみどりが床にきれいに揺れた。 「雄一がね。」ふいにえり子さんが私をまじまじと見て言った。「あなたのこと、昔飼っ てたのんちゃんに似てるって前から言ってたけど、本当ーーーに似てるわ。」 「のんちゃんと中しますと ? 」 「ワンちゃん。」 「はあー。」ワンちゃん。 「その目の感じといい、 毛の感じといし 。昨日初めてお見かけした時、ふきだしそ うになっちゃったわ。本当にねえ。」 「そうですか ? 」ないとは田 5 うけど、セントバーナードとかだったらいやだな、と田 5 っ 「のんちゃんが死んじゃった時、雄一はごはんものどを通らなかったのよ。だから、あ なたのことも人ごととは思えないのね。男女の愛かどうかは保証できないけど。」 くすくすお母さんは笑った。 「ありがたく思います。」 私は言った。
「じゃ、よろしく。みかげさんが来てくれるのをぼくも母も楽しみにしてるから。」 彼は笑った。あんまり晴れやかに笑うので見慣れた玄関に立っその人の、瞳がぐんと 近く見えて、目が離せなかった。ふいに名を呼ばれたせいもあると思う。 「 : : : じゃ、とにかく、つ力がいます。」 悪く言えば、魔がさしたというのでしよう。しかし、彼の態度はとても″クール / ったので、私はイ 言じることができた。目の前の闇には、魔がさす時いつもそうなように、 一本道が見えた。白く光って確かそうに見えて、私はそう答えた。 彼は、じや後で、と言って笑って出ていった。 私は、祖母の葬式までほとんど彼を知らなかった。葬式の日、突然田辺雄一がやって きた時、本気で祖母の愛人だったのかと思った。焼香しながら彼は、泣きはらした瞳を 閉じて手をふるわせ、祖母の遺影を見ると、またぼろぼろと涙をこばした。 私はそれを見ていたら、自分の祖母への愛がこの人よりも少ないのでは、と思わず考 えてしまった。そのくらい彼は悲しそうに見えた。 そして、 ハンカチで顔を押さえながら、 「なにか手伝わせて下さい。」 と言うので、その後、いろいろ手伝ってもらったのだ。 ひとみ
126 「おじさん、これ持ち帰りできる ? もうひとつ、作ってくれませんか。」 そして、店を出た私は、真夜中近くに満腹で、カッ丼のまだ熱いみやげ用パックを持 ちとほうにくれてびとりで道に立ちつくすはめになってしまった。 本当に私はなにを考えていたんでしよう、どうしよう : : と思っている目の ( に、タ クシー待ちと勘違いしてすべり込んできた空車の赤い文字を見た時、決心した。 タクシーに乗り込んで告げた。 「—市まで行ってもらえますか。」 「—市ーー ? 」すっとんきような声で言って運転手が私を振り向いた。「俺はありがた いけど、遠いし、高くつくよ ? お客さん。」 「ええ、ちょっと急用でね。」私は王太子の前に出たジャンヌ・ダルクのように堂々と していた。これなら信用されると自分でも思えた。「そして着いたら、とりあえずそこ までの分をお支払いしますから。二十分くらい向こうで用がすむまで待ってもらって、 またここまで折り返してほしいんです。」 「色恋ざただね。」 彼は笑った。 「まあ、そんなところですね。」