187 鈴。間違いなく、それは等の鈴の音だった。ちりちり、とかすかな音を立てて誰もい ないその空間に鈴は鳴った。私は目を閉じて風の中でその音を確かめた。そして、目を 開けて川向こうを見た時、この二カ月のいつよりも自分は気が狂ったのだと感じた。叫 び出すのをやっとのことでこらえた。 守一かい」 川向こう、夢や狂気でないのなら、こっちを向いて立っている人影は等だった。川を はさんでーーーなっかしさが胸にこみ上げ、その姿形のす。へてが心の中にある思い出の像 、【と焦点を合わせる。 彼は青い夜明けのかすみの中で、こちらを見ていた。私が無茶をした時にいつもする、 心配そうな瞳をしていた。ポケットに手を人れて、まっすぐ見ていた。私はその腕の中 おも 」で過ごした年月を近く遠く、想。た。私たちはただ見つめ合。た。二人をへだてるあま りにも激しい流れを、あまりにも遠い距離を、薄れゆく月だけが見ていた。私の髪と、 なっかしい等のシャツのえりが川風で夢のようにばんやりとなびいた。 等、私と話したい ? 私は等と話がしたい。そばに行って、抱き合って再会を喜び合 たい。でも、でもーー涙があふれたーー運命はもう、私とあなたを、こんなにはっき りと川の向こうとこっちに分けてしまって、私にはなすす。へがない。涙をこばしながら、 私には見ていることしかできない。等もまた、悲しそうに私を見つめる。時間が止まれ
176 キッチン 確かにかわいいが、あまりにも明るくおだやかな普通の人に見えて、あの変人である柊 が彼女のどこに特別惹かれたのか見当もっかなかった。柊は、ゆみこさんに夢中だった のだ。表面的にはいつもの柊だが、彼女の中のなにかが柊を押さえていた。実力が伯仲 していた。それはなんだろうと私は等にたずねた。 「テニスだって。」 と等は笑った。 「テニス ? 」 「うん。柊の話ではテニスがすげえって。」 で、私と等と柊でゆみこさ 夏だった。じりじりと陽が照りつける高校のテニスコート んの決勝戦を見た。影が濃く、のどが渇いた。なにもかもがまぶしい頃のことだ。 確かに、すごかった。彼女は別人だった。私の後をさっきさんさっきさんと笑ってつ いてくる彼女とは別人だった。私はびつくりして試合を見ていた。等も驚いたようだっ た。柊は「ね。すごいでしよ。」と自慢げに言った。 彼女は迫力と集中力でぐいぐい押してゆき、うむを言わさずたたきつける力強いテニ スをした。そして、実際に強かった。顔も真剣だった。人を殺しそうな顔をしていた。 それでも最後のショットを決めて、勝った瞬間にまっさきに柊を振り向いた時の幼い笑 顔はもういつもの彼女だったのが印象的だった。
155 るく笑った。彼が注文すると、ウェイトレスは彼をじっと、じっと上から下まで見て不 と一 = ロった 0 田 5 そ、つには、、 顔はあまり似ていなかったが、柊の手の指とか、ちょっとした時の表情の動かし方と ゝは、よく私の心臓を止めそうになった。 「うつ。」と私は、そうい、つ時、わざと声に出して言った。 「なに ? 」 とカップを片手に柊が私を見る。 「に、似ている。」 と私は言う。そうするといつも彼は " 等のマネ ~ と言って等のマネをした。そして二 人で笑った。そうして二人は心の傷を茶化して遊ぶことくらいしか、なすす。へがなかっ 私は恋人を亡くしたが、 彼は兄と恋人をいっぺんに亡くしてしまったのだ。 彼の恋人はゆみこさんと言って、彼と同い歳の、テニスが上手な、背の小さい美人だ った。歳が近いので四人は仲良くなり、よく一緒に遊びに行ったものだ。等の家に遊び に行くと、柊の所にゆみこさんがいて、四人で徹夜でゲームをしたことも数え切れない。 その夜、等は柊の所に来ていたゆみこさんを、出かけるついでに車で駅まで乗せてゆ
171 と、つららは一一一一口った。 わたし次第。 今の、こんなに縮こまって、自分を守ることで精一杯の 「うん、きっと行く。」 私は笑った。 川と私の関係。私は、どきりとしながらも即座にイエース、と思った。私にとってあ 、冖の川は、等と私の国境だった。あの橋をイメージすると等がそこに立って待っているの も見える。いつも私は遅れ、いつも彼はそこにいた。出かけた帰りもいつも、二人はそ こで川向こうとこっちに別れた。最後もそうだった。 「これから、高橋くんの所に行くんでしよう ? 」 まだ幸福で、今よりころころ太っていた私と等との、それは最後の会話だった。 「うん、一度家に帰ってから。みんなで久々に集まるんだ。」 「よろしくね。でも、どうせ男ばっかりでやらしい話するんでしよう。」 「そうだよー。悪いか ? 」 と彼は笑った。
160 「えーと、十五かな。」 「等に似てる ? 会ってみたいな。」 「でも、あんまりにもあいっ変わってるからなあ。兄弟とは思えないくらい。会ったら、 なんか俺まで嫌われそう。うん、あいつは変だよ。」 兄らしい、とても兄らしい笑顔で等が言った。 「じゃあ、弟が変、くらいで愛がゆるがないくらいの年月がたってからなら会わせてく れる ? 」 「いや、冗談。大丈夫だ。きっと仲良くなれる。君も変なところあるし、柊は善人には 敏感だから。」 「善人 ? 」 「そうそう。」 横顔のまま等は笑った。そういう時はいつも照れていた。 階段はとても急で、なんだかあわてて足が進んだ。白い校舎の窓ガラスに暮れはじめ た真冬の空が、透明に映っていた。一段一段をふんでゆく黒い靴とハイソックス、自分 のすそをおばえている。 の制服のスカート にお 外は春の匂いに満ちた夜が訪れていた。
188 キッチン 、と田 5 い しかし、夜明けの最初の光が射した時にす。へてはゆっくりと薄れはじ . し . し めた。見ている目の前で、等は遠ざかってゆく。私があせると、等は笑って手を振った。 やみ 何度も、何度も手を振った。青い闇の中へ消えてゆく。私も手を振った。なっかしい等、 そのなっかしい肩や腕の線のす。へてを目に焼きつけたかった。この淡い景色も、ほほを ったう涙の熱さも、すべてを記憶したいと私は切望した。彼の腕が描くラインが残像に なって空に映る。それでも彼はゆっくりと薄れ、消えていった。涙の中で私はそれを見 つめた。 完全に見えなくなった時、すべてはもといた朝の川原に戻っていた。横に、うららが 立っていた。うららは、身を切られそうな悲しい瞳をして横顔のままで、 「見た ? 」 二 = ロった。 「見た。」 と涙をぬぐいながら私は言った。 「感激した ? 」 うららは今度はこちらを向いて笑った。私の心にも安心が広がり、 「感激した。」 とほほえみ返した。光が射し、朝が来るその場所に、二人でしばらく立っていた。
178 熱は景気よく上がった。あたりまえだと思った。ただでさえ具合が悪いのに、街をい つまでもふらふらしていたら、そうなるのは当然と言えよう。 母親は、それは知恵熱じゃないかと笑っていた。私も力なく笑った。私も、そう思う。 考えても仕方のない思考の毒が体中にまわったのかもしれなかった。 そして夜は、いつものように等の夢を見て目覚めた。熱をおして走って川原へ行くと、 等が立っていて、なにやってんの風邪なのに、と笑う夢だった。最低だった。目を開け ると夜明けで、いつもなら起き出して着替える頃だった。寒く、ただ寒く、体中がほて おかん っているのに手足はしんしん冷えていた。悪寒が走り、ぞくぞくして体中が痛んだ。 うすやみ 私はふるえながら薄闇の中で目を開けて自分がなんだかとてつもなく巨大なものと戦 っているような気がした。そして、もしかしたら自分は負けるかもしれないと生まれて 初めて心から思った。 等を失ったことは痛い。痛すぎる。 彼と抱き合う度、私は言葉でない言葉を知った。親でもない自分でもない他人と近く にいることの不思議を思った。その手を胸を失って、私は人がいちばん見たくないもの、 人が出会ういちばん深い絶望の力に触れてしまったことを感じた。淋しい。ひどく淋し
159 「なかなか、かわいい企画ね。」と言うと、 「元気が出そうだよね。」 嬉しそうに柊は笑った。こういう時、ふだん大人びたこの少年が歳相応の顔をする。 いっか冬の日、等が言った。 「弟がいるんだけどさ、柊っていうんだ。」 彼に弟の話を聞いたのはそれが初めてだった。今にも雪になりそうな、どんより重い 、一・グレーの空の下、二人は学校の裏手にある長い石段を降りていった。コートのポケット トに手を人れて、白い息で等は言った。 「俺よりもなんだか大人なの。」 ム 「大人なの ? 」 私は笑った。 「なんか、肝がすわってるっていうかね。それでも家族のこととなると妙に子供なのが おやじ おかしくてね。昨日、父親がちょっとガラスで手を切ったら、本気でおろおろしてさ、 そのおろおろ仕方がすごいんだ。天と地がひっくり返ったみたいで。あんまり意外だっ たから、今、思い出してた。」 「いくつなの ? 」
163 「言うと田 5 った。」 私も笑ってみせた。 ライトの色が交差し、光の河が曲がってくる。信号が闇に明るく浮かぶ。ここで、等 えい′」・つ が死んだ。ひそやかに厳粛な気持ちが訪れる。愛する者の死んだ場所は未来永劫時間が しいと人は祈る。よく観 止まる。もし、同じ位置に立てたなら、その苦しみも伝わると、 光で城なんかに行き、何年前、ここを誰々が歩いたのです、体で感じる歴史です。とか 一一 = ロうのを聞く度に、なに言ってんだと思ったものだが、今は違う。わかる気がする。 この交差点、このビルや店の並びが浮かぶ夜の色彩が等の最後の景色だ。そしてそれ トはそんなに遠い昔ではない。 ・ : 今みた どんなに、こわい田 5 いをしたか。ちらっとでも私を思い出しただろうか。 いに月が上空に昇ってくるところだったろ、つか。 「青だ。」 柊が私の肩を押すまで、私はばんやりと月を見ていた。まるで真珠のようにびんやり と白く小さい光があんまりにもきれいだったのだ。 「異様においしい。 私は言った。その小さく新しい、木の匂いのする店でカウンターにすわって食べたか
ことであろ、つか 恋人を亡くしたのは長い人生、と言っても二十年やそこらだが、のうちで初めての体 験で私は息の根が止まるかと思うくらい苦しんだ。彼が死んだ夜から私の心は別空間に どうしても戻ってこれない。昔のような視点で、どうしても世界を見 移行してしまい、 ることができない。頭が不安定に浮き沈みして、落ち着かずにばんやりいつも重苦しい。 人によ。ては一生に一度もしなくていいこと ( 既中絶、水商売、大病など ) のひとつに こうして参加してしまったことを、ただ残念に思う。 そりゃあ、まだ私たちは若かったし、人生最後の恋ではなかったかもしれない。それ でも私たちは二人の間に生まれて初めてのいろいろなドラマを見た。人と人が深く関わ り合って見えてくる、様々な出来事の重みを確かめながら、ひとっぴとっ知りながら四 年間を築いた。 後からなら大声でだって言える。 神様のバカヤロウ。私は、私は等を死ぬほど愛していました。 等が死んでから二カ月、私は毎朝その川にかかる橋の欄干にもたれて熱いお茶を飲ん だ。あまり眠れないので夜明けのジョギングをはじめ、そこがちょうど折り返し点だっ たからだ。