私はうなずいていた。 「この母が死んじゃった後、えり子さんは仕事を辞めて、まだ小さなばくを抱えてなに をしようか考えて、女になることに決めたんだって。もう、誰も好きになりそうにない からってさ。女になる前はすごい無ロな人だったらしいよ。半端なことが嫌いだから、 顔からなにからもうみんな手術しちゃってさ、残りの金でその筋の店をびとっ持ってさ、 ばくを育ててくれたんだ。女手びとつでって言うの ? これも。」 彼は笑った。 「す、すごい生涯ね。」 私 . は一一一一口い、 「まだ生きてるって。」 と雄一が言った。 信用できるのか、なにかまだひそんでいるのか、この人たちのことは聞けば聞くほど よくわからなくなった。 しかし、私は台所を信じた。それに、似ていないこの親子には共通点があった。笑っ た顔が神仏みたいに輝くのだ。私は、そこがとても、 いと思っていたのだ。 「明日の朝はぼくいないから、あるものはなんでも使っていいよ。」 はんば
満 でいつばいね。私の両親、おじいちゃん、おばあちゃん : : : 雄一を産んだお母さん、そ の上、えり子さんなんて、すごいね。宇宙広しといえどもこんな二人はいないわね。私 たちが仲がいいのは偶然としたらすごいわね。 ・ : 死ぬわ、死ぬわ。」 「うん。」雄一が笑った。「ばくたち二人で、死んでほしい人の近くに暮らしてあげると 商売になるかもな。消極的な仕事人って。」 光が散るような淋しくて明るい笑顔だった。夜中が、深まってゆく。窓の外に美しい 夜景がちらちらとまたたくのを、振り向いて見つめた。高くから見降ろす街は光の粒に ふちどられ、車の列は光の河になって夜を流れてゆく キ「ついにみなしごになってしまったよ。」 雄一が言った。 「私なんて、二度目よ。自慢じゃないけど。」 私が笑ってそう一言うと、ふいに雄一の瞳から涙がぼろほろこほれた。 「君の冗談が聞きたかったんだ。」腕で目をこすりながら雄一が言った。「本当に、聞き たくて仕方なかった。」 私は両手を伸ばし、雄一の頭をしつかり抱いて「お電話ありがとう。」と言った。 えり子さんの形見に、彼女がよく着ていた赤いセーターをもらうことにした。 さび
ゝげは帰らずにここにいてくれるかもしれない。 とりあえず話を聞いてくれることもあ りうる。そんな幸福を考えて期待するのがこわかった。すごくな。期待しておいて、も しみかげが怒り狂ったら、それこそ真夜中の底にびとりで突き落とされる。こんな感情 を、わかってもらうように説明する自信も、根気もなかった。」 「あんたって本当にそういう子ね。」 私の口調は怒っていたが、目があわれんでしまった。年月が二人の間に横たわり、テ レ。ハシーのようにすぐ、深い理解が訪れてしまう。私のその複雑な気持ちは、この大ト ラ野郎にも通じたらしい。雄一は言った。 キ「今日が終わらないといいのにな。夜がずっと続けばいいんだ。みかげ、ずっとここに 住みなよ。」 満 「住んでも 、いけど。」どうせ酔っぱらいのたわ言だなあと思った私はっとめてやさし く言った。「もう、えり子さんいないのよ。二人で住むのは、女として ? 友達として かしら ? ・」 「ソフアを売って、ダブルべッドを買おうか。」雄一は笑い、それからかなり正直に言 った。「自分でも、わからない。」 その妙な誠実さは、ゝ カえって私の胸を打った。雄一は続けた。 「今はなにも考えられない。みかげがばくの人生にとってなんなのか。ぼく自身これか
。カオ今すぐだって。そ 「今夜、初めて頭が正常に働いたんだ。知らせないわけこ、ゝよ、、 れで電話をした。」 私は聞く姿勢になって身をのりだし、雄一を見つめた。雄一は話しはじめた。 「葬式までの間は、なにがなんだかわからなかったんだ。頭は真っ白で、目の前が真っ 暗で。あの人は、ばくにとってたったひとりの同居人で、母で、父だったろう。もの心 ついた時からずっとそうだったから、思ったよりもずっと混乱して、やることだけはい つばいあって、毎日わけがわからないままころがるように過ぎちゃったんだ。ほら、あ の人らしく普通の死に方じゃなかったから、なにせ刑事事件だからね、犯人の妻だの子 だの出てきたり、お店の女の子たちも狂乱状態になって、ばくが長男らしくしてないと おさまりがっかなかった。みかげのことは、ずっと頭にあったんだ。これは本当だよ。 いつも、あった。でもどうしても電話できなかった。みかげに知らせたとたんに、全部 が本当になってしまいそうでこわかったんだ。つまり、父親である母親があんな死に方 をして、自分がひとりきりになったことがね。それにしても、あの人はみかげにとって もとても親しい人だったのに、知らせないなんて今思うとムチャクチャだよな。きっと ばくは狂ってたんだろう。」 手元のカップを見つめて、雄一はつぶやくように語った。打ちのめされた彼を見つめ て「どうも私たちのまわりは。」私のロをついて出たのはそんな一言葉だった。「いつも死
181 わらないからよ。またくりかえし風邪ひいて、今と同じことがおそってくることはある かもしんないけど、本人さえしつかりしてれば生涯ね、ない。そういう、しくみだから。 そう思うと、こういうのがまたあるのかっていやんなっちゃうっていう見方もあるけど、 こんなもんかっていうのもあってつらくなくなんない ? 」そして、笑って私を見た。 私は黙って目を丸くした。この人は本当に風邪についてだけ言ってるんだろうか。な にを言ってるんだろうか。、ーー夜明けの青と熱がすべてをかすませて、私には夢とうつ つの境目がよくわからなかった。ただ言葉を心に刻みながら、話すうららの前髪がさや 、【さや吹く風に揺れるのをばんやり見つめていた。 「じゃあ、明日ね。」 と笑うと、うららはゆっくりと外から窓を閉めた。そしてステップをふむような軽い ム足どりで門を出ていった。 私は夢の中に浮いているように、その姿を見送っていた。つらかった夜の終わりに彼 女がやってきてくれたことが、私は涙が出るほど嬉しかった。この幻想のような青いも やの中をあなたが来てくれて、夢のように嬉しいと伝えたかった。なんだか、目が覚め たらなにもかも少しよくなるようにさえ、思えた。そして眠りについた 目が覚めたら、少なくとも風邪だけは少しよくなっていることがわかった。なんとよ
キッチン 出した。 神様、どうか生きてゆけますように。 眠くて。と雄一に告げて、私は田辺家に戻ってすぐ寝床に人ってしまった。 えらく疲れた一日だった。しかし、泣いたことでずいぶん軽くなって、心地良い眠り が訪れた。 うわ、本当にもう寝てる、と台所にお茶を飲みにきた雄一の声を、頭の片すみで聞い たようなーー気がした。 私は、夢を見た。 今日、引き払ったあの部屋の台所の流しを私はみがいていた。 なにがなっかしいって、床のきみどり色が : : : 住んでいる時は大嫌いだったその色が 離れてみたらものすごく愛しかった。 引っ越しの準備を終えて、戸棚の中にもワゴンの上にも、もうなにもないという設定 だった。実際、そういうものはとうの昔に始末してしまっていたのだが。
キッチン 「いや、学校に来てないから、どうしたのかと思って聞いてまわってさ、そうしたらお 大変だったね。」 ばあちゃん亡くなったっていうだろ。びつくりしてさ。 「うん、それでちょっと忙しくて。」 「今、出てこれるか ? 」 「ええ。」 約束をしながら、ふと見上げた窓の外はどんよりしたグレーだっこ。 風で、雲の波がものすごい勢いで押し流されてゆくのが見えた。この世には と、悲しいことなんか、なんにもありはしない。なにひとつないに違いない。 宗太郎は公園が大好きな人だった。 緑のある所が、開けた景色が、野外が、とにかく好きで、大学でも彼は中庭やグラウ ンドわきのべンチによくいた。彼を探すなら、緑の中を、というのはすでに伝説だった。 彼は将来、植物関係の仕事に就きたいそうだ。 どうも私は、植物関係の男性に縁がある。 平和だった頃の私と、平和な明るい彼は、絵に描いたような学生カップルだった。彼 のそういう好みで、よく真冬でもなんでも二人は公園で待ち合わせたものだが、あんま り私の遅刻が多いので中しわけなくて、妥協点として見出された地点は公園の真横にあ
「じゃあ : : : お茶かしら、やつばり。」 「うーん、わさび漬はどうかな。」 「ええっ ? あれ苦手よ。おいしい ? あれ。」 「ばくも、数の子の奴しか好きじゃない。」 「じゃあ、そいつを買うわ。」 私は笑って、車のドアを開けた。 あたたかい車内に、突然凍った風がびゅうと吹き込む。 「寒い ! 」と私は叫んだ。「雄一、寒い寒い寒い寒い。」そして、雄一の腕に強くしがみ キついて顔を埋めた。セーターは落葉の匂いがしてあたたかかった。 「伊豆のほうはきっと、もう少しあったかいよ。」 満 そう言って、ほとんど反射的に雄一は、もう片方の腕で私の頭を抱いた。 「いつまで行くって ? 」 彼はそのまま言った。胸から直接、声の響きを聞いた。 「三泊四日。」 私はそっと彼から離れて言った。 「その頃にはもう少しましな気分になってると思う、そうしたら、また外でお茶をしょ 断うではないか。」 やっ
キッチン 田辺、雄一。 その名を、祖母からいっ聞いたのかを思い出すのにかなりかかったから、混乱してい たのだろう。 彼は、祖母の行きつけの花屋でアルバイトしていた人だった。いい子がいて、田辺く んがねえ、今日もね : : : というようなことを何度も耳にした記憶があった。切り花が好 きだった祖母は、いつも台所に花を絶やさなかったので、週に二回くらいは花屋に通っ ていた。そういえば、一度彼は大きな鉢植えを抱えて祖母のうしろを歩いて家に来たこ ともあった気がした。 彼は、長い手足を持った、きれいな顔だちの青年だった。素姓はなにも知らなかった が、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。ほんの少し知っ 卩象は変わらなかった。ふるまいや口調がど た後でも彼のその、どうしてか " 冷たい〃 んなにやさしくても彼は、びとりで生きている感じがした。つまり彼はその程度の知り 合いにすぎない、赤の他人だったのだ。 夜は雨だった。しとしとと、あたたかい雨が街を包む煙った春の夜を、地図を持って 歩いていった。 田辺家のあるそのマンションは、うちからちょうど中央公園をはさんだ反対側にあっ こみちにじ にお た。公園を抜けていくと、夜の緑の匂いでむせかえるようだった。濡れて光る小路が虹
と言ってしまった。我ながら情けない発言だと思った。彼女は私をきつ、とにらんで、 「言いたいことは全部言いました。失礼します。」 と冷たく言い放ち、コッコッ音を立ててドアへ歩いていった。そして、ばーん、とド アをすごい音で閉めて、出ていった。 全く利害が一致していない面会が、あと味悪く、終わった。 「みかげちゃん、絶対に悪くないよー。」 栗ちゃんがそばに来て心配そうに言った。 を「うん、あの人変よ。やきもちで少し変になってるんだと思うわ。みかげちゃん、元気 キ出してね。」 典ちゃんが私をのぞき込むようにやさしく言った。 満 午後の光が射す調理室に立ちつくしたままで、私は、とほほほ、と思った。 歯プラシとタオルも置きつばなしで出てきたので、夕方は田辺家に帰った。雄一は出 かけたらしく 、いなかった。私は勝手にカレーを作って、食べた。 私にとってここで、ごはんを作ったり食。へたりするのは、やはり自然すぎるくらい自 然だわ、とあらためて自分に聞いた答えをぼんやりとかみしめていたら、雄一が帰って きた。「おかえり。」私は言った。彼はなにも知らないし、悪くないのになんとなく彼の