部へ行こうと思いましてねえ」 「奥さんもかね」驚いたように、トムの声が高くなった。 「あれは十年も前からそう言ってるんですよ」彼は、額に手をかざしながら、ポンプにもた れてちょっと休んだ「しかし今回は、あれが行きたかろうがなかろうか、とにかく連れてく つもりです。ここに置いとくわけにはいきませんや」 クーべが、砂塵をまき起しながら、ばくたちの前をさっと通り過ぎた。打ちふる手がちら りと見えた。 ビ「いくらだ ? 」とげとげしい語調でトムがたずねた。 「つい二日前にちょっと妙なことに感づきましてね」と、ウイルスンが言った「それでわし ギ も、動く気になったんですよ。車のことであなたにご迷惑をかけたのもそのためなんで」 レ「いくらかね ? 」 「一ドル一一十セントで」 容赦なく炒りつける炎熱に、ようやくばくの頭も混乱しはじめていたが、これはまずいな と思ったのはほんの一瞬で、すぐそのあとからウイルスンの嫌疑がまだトムにかかっていな いことを矯った。ウイルスンは、マートルに、何か自分から離れた別の生活があることを発 見し、その衝撃のために肉体まで病気になったのである。ほくは、彼のようすを見つめ、次 にトムを見てみた。トムも一時間たらず前に、これと同じような発見をしたわけである そしてふとほくは考えたのだが、人間はしよせん似たり寄ったり、知性の相違、人種の違い 171 けんぎ
「こんばんは ! 」二人は声をそろえて呼びかけた「あんたが勝てなくて残念だったわ」 それはゴルフのト 1 ナメントの話だった。ジョーダンは前の週の決勝戦に敗れたのである。 「あたしたちのこと、あんたのほうではご存じないでしよう」と、一人の娘が言った「でも、 ここであんたにお会いしたのよ」 あたしたちは一月ほど前に、 「あんた、あれから髪を染めたでしよう」そうジョーダンが言ったので、ほくはびつくりし たが、そのときはもう娘たちはぶらぶらと先へ歩いて行ったため、ジョ 1 ダンの言葉は、 つの間に出ていたのか時はずれに早い宵空の月ーーータ食同様、仕出し屋の籠からとりだされ にむかって話しかけた形になった。ジョーダンのすんなりとし ビたとしか思えぬ宵空の月 た黄金の腕をかいこんで、ばくは石段をおり、庭の中をあちこちぶらついた。カクテルをの よいやみ せた盆が、宵闇に浮ぶようにしてばくたちの前にさしだされたので、ばくたちは例の黄衣の 娘二人とそれから三人の男たちとともにテープルに坐った。男たちはそれぞれがみんなミス グ タ・マンプルとばくたちにむかって紹介された。 ーティにはよく来るの ? と、ジョーダンが、隣に坐った娘にたずね 「あんた、こういうハ 「この前は、あんたにお会いした、あのとき」と娘は、臆する色もなく央活に答えた。彼女 ) 、レ、 / レワ・ 1 / 、 1 ノ はくるりと連れの娘を振りかえり「あんたもそうじゃなし ルシルもそのとおりだった。 「あたしは好きでくるの」と、ルシルは言った「自分の行動なんていちいち気にかけないの
る。 「ディズイ、まあ、かけろよ」トムは、つとめて父親が娘に語るような語調を出そうとした が、うまく果せなかった「いったいどんなことになってたのかね ? つつみかくさず話して くれ」 「どんなことになってたのか、さっきわたしが話したでしよう」と、ギャッビーが言った 「五年前からのことですよーーあなたは知らなかったけれど」 トムは、きっとディズイのほうを振りむいて、 た「おまえ、こいっと五年前から会っていたのか ? 」 「会っていたのじゃないさ」と、ギャッビ】が言った「そうじゃない。わたしたちは会えな ギ 1 かった。しかしね、親友、その間もすっと愛し合っていたのです、あんたは知らなかったけ レどね。わたしはあんたが知らないことを考えて、ときどき笑ったもんだ」そう言いながらも、 しかし、彼の眼に笑いの影はなかった。 「なんだーーそれだけか」トムは、牧師がやるように、肥った両手の指の腹を合わせて、椅 子の背にもたれかかった。 「きさまは気違いだ ! 」こらえかねたように彼はどなりだした「そりや、五年前にどんなこ ど、つ とがあったか、おれは知らん。そのころのおれはまだディズイを知らんのだからな やっておまえがディズイの近くにしのび寄ったものやら、わかろうはずはないさ。おおかた、 うそ 台所口に食料品でも届けたんだろう。しかしだ、その他のことはみんな、真っ赤な嘘さ。デ 182 ふと
彼はトムがいるということをひどく気にしていた。しかし、彼らがきた目的は、ただただ ばくせん 飲み物にあるのだということを彼も漠然と感づいていたのだから、彼らに何かを出すまでは とにかく気がおちつかぬのかもしれぬ。スローン氏は何もいらぬという。レモネ 1 ドは ? いや、結構。シャンペンをすこしいかか ? いいえ、たくさんです : : : 残念ながら 「馬はおもしろかったですか ? 」 「この辺は、とても道がいいですね」 「でも車がーー」 た「ええ」 ゞ ' 断動に駆られてギャッビーは、紹介されたとき初対面の挨拶をしたトムのほう ギ抑えカたい彳 に顔をむけた。「前にもたしかどこかでお会いしましたよね、ミスタ・ビュキャナン いんぎん レ「そうでした。お会いしましたよ。よく覚えてます」トムは、しやがれた声で慇懃にそう答 えたが、 その実、覚えてなどいないことは明らかだった。 「二週間ぐらい前でした」 「そう、そう。あんたはこのニックといっしょだった」 「わたしはあなたの奥様を存じあげておりますよ」続いてそう言ったギャッビーの語調には、 キッと身構えたような感じがこもっていた。 「そうですか」 トムはほくのほうをむいた。 140
「使用人を全部くびにしたとかって聞いたけど」 「あまり口の軽くない人間がほしかったのです。ディズイがよく訪ねてきますしねーーー午後 さては、ディズイの不満にあって、あの大邸宅全体が、カルタの家のごとくにくずれ去っ てしまったのか。 きようたい 「あの人たちは、ウルフシェイムがどうにかしてやってくれと一言うんでね。みんな兄弟姉妹 ビどうしなんですよ。前には、小さなホテルを経営していたのです」 「なるほど」 彼は、ディズイの頼みで、いま電話をかけているのだが ばくに、明日彼女の家へ昼食 レをとりに行かぬかという。ミス・べイカーも行くというのだ。それから三十分の後、ディズ グ イ自身が電話をかけてきた。そして、ばくが行くと知ってほっとした気配だった。何かがあ ったにちがいない。それにしても、わざわざそんな折をよって彼らがいざこざを起すはずは ましてこの前ギャッビーが庭でほのめかしたような愁嘆の場を演ずることは、よも ゃあるまいとばくは田 5 った。 翌日は、焼けつくような暑さ、この夏のほとんど最後の、そしてまちがいなく一番暑い一 日だった。ばくの乗った列車がトンネルを抜けて陽光の中にとびこんだとき、たぎり立つよ うな真昼の静寂を破るものとては、ただ、ナビスコ製菓会社のけたたましい汽笛ばかりだっ 156
庭に残って監視役をつとめた。「火事だとか洪水だとか、その他の天災地変があるといけな いから」と、彼女は言うのである。 ほくたちがそろってタ食のテープルについたとき、それまで彼のいわゆる人目にたたない 世界に沈んでいたトムが姿を現わした。そして「むこうの人たちといっしょに食事してもか まわんかな」と、言った「おもしろい話をしてるのがいるんだ」 「どうぞ」ディズイが愛想よく答えた「それから、アドレスを書きとめたかったら、ここに あたしの金のペンシルがあるわ」 : : : しばらくして彼女は振りかえった。そしてばくに、ト ビムのそばにいる娘のことを「品はないけどきれい」などと、そんなことを言った。で、ほく ヤは彼女が、ギャッビ 1 と二人きりで過した半時間を除けば、すこしも楽しくはないのだと知 つ、」 0 レ しくがいけなかったのだーーーギャッビー ほくたちのテープルは、特別酔態がひどかった。よ は電話に呼びだされて行ったので、ぼくは、つい二週間前に楽しく同席した人たちの所へ坐 りこんだのだ。しかし二週間前にはおもしろかったものも、いまでは興ざめるばかりである。 「ミス・べーデカー、大丈夫ですか ? 」 彼女はばくの肩にぐったりもたれかかろうとしているのだが、どうもうまくいかない。工 くにこう言われると、坐りなおして眼を開いた。 「なあに ? 」 牛みたいな、眠ったような感じの女が口を開いてミス・べーデカーを弁護した。ディズイ 146
これはスコット・フィッジェラルド (F 「 ancis Scott Key Fitzge 「 ald, → 896 ー 40 ) の代 表作『グレート・ギャッビ 1 』 ( T G ミ、 G ミ s を 925 ) の翻訳である。原本にはスクリプ ビナーの版を使った。 ャ ギ 最初に私事を語ることをお許し願いたいが、私は十七年前に同じこの作品をある出版社か レら翻訳出版したことがある。今回この文庫に収めることになったのを機会にかなりの改訂を 加えたが、当時の日本にはまだあまり知られていなかったこの小説家とこの小説を紹介する に当って巻末に附けた「解説」の内容に関しては、今でもさして見方が変っていない。のみ そうしょ ならず私は、その後同じ出版社から出た『世紀英米文学案内』という叢書の『フィッジェ しようカ【 ラルド』の巻の編集を担当し、その中でこの作家の「人と生涯」を執筆すると共に『ギャッ 一一・つカ ( ビ 1 』の梗概と解説の項をも執筆した。資料の全部をアメリカ人の著作に頼らざるを得ない 伝記の部分はもとより、作品の解釈についても今なおそのときの見解を大きく修正する必要 を認めない私は、ここに再び「解説」の文章を書くに当り、なるべく前に語り落した点に重 254 解説 っ 野崎孝
答えようという努力のために、ウイルスンの身体をゆするリズムが狂ったーーー一瞬彼は沈 ばうぜん 黙した。それからまた前と同じ、半ば心得たような半ば呆然としたような表情が、カない彼 の眼の中にもどってきた。 「あそこの引出しの中を見てみなよ」そう言って彼は、机を指さした。 「どっちの引出しだ ? 」 「そっちの引出しさーーーそっちだよ」 マイカリスは、一番手近な引出しを開けた。中には何もなく、ただ、銀モールをつけた革 せいたく ピ製の、小さい贅沢な大の綱がはいっているばかり。どうやら新品らしい 「これか ? 」マイカリスは、それをさしあげてたずねた。 ウイルスンは、大きく眼を見ひらいてうなずいた。 . 一「そいつを昨日の午後見つけたんだ。女房が、そいつのいわれを話して聞かせようとしたけ グ ど、わしには、そいつがなんだか妙だというくらいわかってたよ」 「かみさんがこいつを買ったってわけかい ? 」 たんす ーにくるんで、自分の簟笥の上にのつけておいたのよ」 「女房は、そいつをティシュ・ペ 1 マイカリスが見ても、べつに妙なところは見あたらない。彼は、ウイルスンにむかって、 細君がその大の綱を買った理由とおばしきものを、いろいろとあげてみせた。しかし、察す るに、ウイルスンは、前にもこれと同じ弁明をいくつか、マートルの口から聞いたことがあ ったのだろう、彼は、小声でまた「おお、神よ」とつぶやきはじめたーーーで、彼のなぐさめ 220
グレート・ギャッピー よ。だから、いつだって楽しいわ。この前はね、あたし、椅子にひっかけて夜会服をやぶい ・一週間もたたないうちに、 ちゃった。そしたらあの人がね、あたしの名前と住所をきくの : 『クロワリエ』から、新しい夜会服のはいった包みが届いたわ」 「それをそのまま貰っておいたの ? 」と、ジョーダンがたずねた。 「もちろん。今晩着てこようと思ったけど、バストが大きすぎて作り変えなきや駄目なの。 ふじいろ ガス燈のような青い色で、藤色のビーズがついてるの。二百六十五ドルよ」 「そんなようなことをする人には、何かおかしなところがあるものよ」もう一人の娘がきお もんちゃく いこんで言った「そりや、どんな人とでもなんの悶着も起したくないんだわ」 「だれがです ? 」と、ほくがたずねた。 と、言いかけて、二人の娘とジョーダン 「ギャッビーさん。だれかに聞いたんだけど : は、内輪話をするみたいに顔を寄せ合い「あたし、だれかに聞いたんだけど、あの人、どう も前に人を殺したことがあるらしいんだって」 からだせんりつ ばくたちみんなの身体を戦慄が走った。ミスタ・マンプルは三人とも身をのりだして、じ っと聞き耳をたてた。 「さあ、そこまではどうかしらね」ルシルが疑問を呈する「戦時中ドイツのスパイだったと いうほうかあたっていそうよ」 男の中の一人がうなずいて賛意を表明する。 「ぼくはそいつをあの人のことならなんでも知ってるという男から聞いたんですがね、あの もら だめ
う彼は言った「死んでからは、万事をそっとしておくのが、あっしの法則なんで」 ぬかあめ 彼の事務所を辞したとき、空はすでに暗くなっていて、ばくは糠雨の中をウエスト・エッ グに帰ってきた。服を着がえて隣へ行ってみると、ギャツツ氏が興奮して、玄関の間を行っ たり来たり歩いている。息子と息子の財産に対する彼の誇りは刻々と高まっていたが、いま 彼は、ばくに見せるものをつかんだのだ。 「ジミーのやっ、この写真をわしのとこに送ってよこしましてな」そう言って彼は、ふるえ る指で紙入れをとりだすと、「これですよ」 やかた ビそれは、この館の写真だったが、四隅はこなれ、多くの人手に渡って汚れていた。彼は、 ャ そのこまかな所までいちいちばくに熱心に指摘してきかすのである。「どうです ! 」と言っ ギ ては、ばくの眼の中に嘆賞の色を探す。この写真を彼はいつも人に見せ見せしてきたから、 レいまでは、家そのものよりも写真のほうが、実在感を持つようになっているのであろう。 グ 「ンミ 1 のやつがこれをわしに送ってよこしましたが、なかなかきれいな写真だと思います よ実によく撮れている」 「とてもいいですね。あなた、最近、彼にお会いになったんですか ? 「二年前に会いにきてくれました。そうしていまわしが住んでる家を買ってくれたんです。 あれが家をとびだしたときには、わしらはむろん一文なしでした。しかし、いまにして思え ば、とびだしたのにも理由があったんですな。あれは、洋々たる前途が自分の前にひらけて いることを知っとったんですよ。そうして、あれが成功してからというもの、わしにはほん 0 、ヾ すみ