現代の家族を支えている中年の団塊の世代の女性は、悩み多き世代だと思います。 大量に生み出されたベビーブーマーの先頭を切って生きてきた人々であり、主婦になる割合 の一番高い世代でもありました。そして親と子どもの「サンドイッチ世代ーとして「私ーを捨 てきれず、老いを前にたじろいでいるのです。「私」とは女性にとって、禁断の木の実のよう なものなのかもしれません。 あたり前と思われ、それに従っていれば安全だったものをもう一度見直す。安全どころか、 それが自分を苦しくしているのではないかと気づいて、いままで植えつけられてきたものから どうやって自分を切り離していくのかという大事な作業が、二〇世紀末、二一世紀の初頭にか けて行なわれるのではないでしようか。それは女性から始まるでしよう。 ではなぜ、女なのでしようか。 今の家族を支えているのは女性です。他者に寄生していたかもしれないし、子どもを支配し 変化は女から始まる 214
に代表されるムーブメントの渦中にいた私たちが青春時代を費やしたあの体験について語り得 なかったことです。 たしかに戦争体験をもっ親から聞かされる「戦争の栄光と悲惨の自慢話」はおしつけではあ りました。その姿を忌避するところがあります。しかし親の青春時代について空白のまま育っ 子よりはましたったのではないでしようか。子が自分の物語を紡ぐには、親の物語が必要なの です。親は自分を子に語り継ぐ必要があるのです。 戦後五〇年の総決算が「息苦しい家族」、とすでに書きました。団塊の世代がなぜ息苦しい 家族をつくってしまったのでしようか。私たちは戦後の挫折した親を見ながら、混沌とした家 族を見てきました。戦後の世相の混乱、貧しい時代から、経済的に急激に成長する社会、その 激動の中で、家族の中にもあからさまな葛藤、衝突があったでしよう。だからこそ、過剰に平 和で平穏な家族という枠を守ってしまう面があるようです。 族 では、いまの時代に育った子どもたちが親になったとき、この世代連鎖はどのような形をと 家 るのでしようか。 る れ わ まず考えられるのは、核家族の幻想が破れていることから、三世代同居が多くなるのではな いか、ということがあります。団塊の世代はどちらかといえば、夫婦で新しい生活単位をつく 章 第ろうとする核家族志向でした。前近代的なものに拘束されない親子をつくろうとしたわけです。
世代連鎖という言葉があります。これはたとえば遺伝、血、宿業などの非合理的な言葉でく くられる世界を言い表すものではなくて、本当の意味は、私たちの過去の経験がどのように現 在につながっているかを考えるものです。つまり自分が受けた経験と、自分が親になって子ど もにすることに、どんな関連があるか、ということです。 自分が過去に経験していないようなことをするということは、人間にとってとても難しいと いうことと、もう一つ、人間は過去に意味不明な過酷な体験をすると、その不明さをたどるた 族めに、同じようなことをくりかえしながら意味を確認していく場合があるのです。 たとえば、親に殴られたことの意味を確認するために、自分もまた親になったときに子ども る 物を殴る、というようなことです。あるいは、殺人犯の場合もそうです。殺人を起こした犯人は 必ず現場にもどるといわれていますが、これも一種の確認ではないかと思います。 章 このように、人間というものは幸せになることを望みながらも、なぜだかわからない傷つけ 第 世代連鎖ーー過去の経験と現在の私と
まえがき のが私の最大のメッセージです。今の社会を支える中年世代、すなわち若者たちの親の世代に 理解していただきたいのです。 <<0 の問題はつまり、私たちがつくってきた家族というのはな んだったのかということなのです。支配する・されることに敏感だったはずの私たちが、やは り・コントローレ。 ノ・トラマに満ちた家族を形成してしまったのではないか。 私たちの住んでいる世界は支配に満ちています。 暴力、抑圧、攻撃 : : : 。これらは明快な支配として私たちを苦しめます。しかしこれまでは、 その価値が決して疑われることがなく、それどころかもっとも美しいものとされた家族愛、親 の愛、母の愛にひそむ支配をあばき出す言葉はほとんどありませんでした。「共依存」という 言葉はそのような支配を表す言葉として画期的な言葉です。 <0 と双生児のように誕生したの は象徴的でしよう。 このように真綿で首を締められるような愛情という名で抵抗反撥を封じ込めるようなやり口 をはっきりと「支配ーと呼んでしまいましよう。 支配は、子どもの人生に寄生する母 ( 。 ( ラサイト・マザー ) が典型です。しかし、実は私たち の周囲には、このような支配が満ちているのではないでしようか。支配は被支配とセットに なっています。 支配された人は別の人を支配する、このコントロールの鎖のような連なりは、システムと
たち団塊の世代の女性は専業主婦の発生率がいちばん高い世代だそうです。私たちは専業主婦 にさせられた世代なのです。私たちの世代の女性は、戦後の民主主義教育を受け高学歴であり ながらも、社会で活動の場がなかったという怨念を持っています。それがあいまって、子ども に注ぎ込まれたのではないでしようか。 専業主婦にさせられたという感覚はとてもよくわかります。私たちの同期の友人の中にも、 就職するのは貧しい家の娘という意識があって、お嬢様として学歴を得れば、あとはエリ と結婚するのがいし 、ところのお嬢さんの進路だという常識がありました。 団塊の世代もその前の世代の家族から育ってきたわけで、団塊の世代とその親の関係も、今 の親子問題と共通するものがあると思います。つまり、敗戦によって親が挫折し、私たちの世 代が敗者復活のようにその期待を注ぎ込まれたということはあったでしよう。三世代同居の中 で、嫁姑で苦しむ母を見てそれを支える子どもでもあったでしよう。そんな中で育った私たち にとって団塊の世代のマイホーム幻想は、核家族幻想と重なっています。嫁姑問題で苦労して いる親を見ていれば、親子でつくる楽しい家族をという意識が生まれてくるのかもしれません。 しがらみから切り離されて、「自分たちでゼロからっくる家族ーという夢がありました。 そうやって幸せな家族を夢見て、善意の父と母と子が一所懸命に、仕事熱心な父、良妻賢母 の母、勉強の好きな子という役割を演じてきました。夫は企業の中で自分の居場所を求め、妻
すでにアメリカではごく常識的な形でこうした家族が増えているということです。アメリカ跖 にはいろんな形の自助グループがあって、それがアメリカ社会の維持機能をはたしていると思 います。 私たち団塊の世代における世代連鎖を見てみましよう。親たちは日本史上初の敗戦という大 きな衝撃を体験しました。天皇の統治する国は負けるはずがないと思っていたのに、負けたの です。団塊の世代は結果的には敗戦によって傷ついた親たちに育てられているわけで、そこに 連鎖があるとすれば敗戦という衝撃の反転としての″勝利者になることへの過剰な期待〃とい うことになるでしよう。 そうして育てられた子どもが親になった場合にどうするでしよう。その″勝っことへの期 待〃を注ぎ込まれて苦しかった人が親になったとき、今度は逆に″没価値〃で子どもに臨もう とするのです。言い換えると、自分の価値観を子どもたちに注ぎ込まないようにします。親が その夢をなしえなかったとしても、なしえたとしても子どもに親の夢を注いではいけないと思 うのが団塊の世代の特徴の一つかもしれません。 そして、私たちの世代が子どもたちにやり残したことがあります。「自らの体験を語るーと いうことです。団塊ということで常に消費の主役におかれ、かつ一九七〇年代のあの学園闘争
この一部の <0 の人たちが家族にしがみついているのは、南極に行って防寒具がなければ死 んでしまうのと同じように、どんなに苦しくても家族がいなければ生きていけないのだと思っ ているからです。どんな家族でも仕方がない、孤独よりこの地獄のほうがましだと思っている のです。また、一方で家族像が悲惨な分だけ、過大にふくらんだ家族への期待で家族にしがみ ついています。 このように 0 の人たちは、まったく家族をもたないか、もしくは夢のようにふくらみすぎ た期待に満ちた家族か、と引き裂かれた家族観を持っています。 私は以前から中年の << O について書きたいと思っていました。なぜなら、私たちの世代は ずっと未整理のままきていて、自分たちでも全然整理できていないからです。その私たちの世 代をくくれる一つの言葉として「中年 <<O 」という言い方があると考えています。 族団塊の世代の人々が作った家族とは、どんなものだったのでしようか。団塊の世代の人々は、 戦前の前近代的な家族に対するアンチテーゼとして、民主主義的な家族を理想としました。し る 物かし実際には、団塊の世代の男性は、高度経済成長の後を受けてワーカホリック的な生活を強 いられました。これを学生運動で鍛えたガッツで乗り越えてきたのです。 章 第女性に目を向けると、「という雑誌に掲載されていた統計で読んだのですが、私為
られ方をすると、その意味を自分で整理できなければ一歩も進めないのです。だから、いちば料 ん簡単な整理法としてあげられるのは、いわゆるアルコール依存症に代表される機能不全家族 の子どもが育っ過程で受けた苦しみの意味を、「自分が悪い」と思ってしまうような整理の仕 方です。 それを脈々と伝わる″血〃などと呼ばないで、もっと整理できる一つの概念が、くりかえさ れる関係、くりかえすまいとしてもなお、行なってしまう関係、すなわち「世代連鎖」なので す。 世代連鎖は、自分を中心に置きながら、自分の子どものころ、そしていま自分が親になって 子どもにすること、これらをつないで考えます。自分が経験したことと自分がしようとしてい るあいだに、一種の相関があるということです。 相関性に気づくのが大事なポイントとなりますが、男性はなかなか気づきにくいところがあ ります。女性のほうはわりと早い段階でそれに気づくものです。なぜかといえば、女性は出産 し、子どもにかかわることができるからです。 自分が受けたことを自分が親になってその正反対をやろうとするのも、一種の世代連鎖と呼 んでいいでしよう。 親が離婚した中で育っている人は、自分は離婚しないと思うものです。形骸化し、傷つけあ
婦にさせられた世代です。戦後民主主義の教育で、自分の人生を生きるということを。ほんと叩 き込まれたのに、現実には就職がなくて、いやがおうでも専業主婦になって、子どもの教育を 熱心にしてきた。でも大多数はそうなのですが、子どもが期待に沿ってくれなかったとき、そ れは「母、としての挫折なのです。この挫折を経て、もう一度「私」「自己、というものが浮 かびあがる。 これから先、平均寿命はあと三〇年あると思った時、その三〇年を「私」はどう生きていく のだろう、と問いかけなおしているのです。 私たちの世代はまた非常に生真面目な世代でもあります。一時期、フ = ミ = ズムや、「主婦 論」「女の自立」などが一世を風靡しました。しかし、経済的自立がなければ女の自立はない と言われて、当時の不況の中、経済的自立なんかできませんでした。 今、これからどう生きるかという時に、もう一回「私」というものが問い直されているわけ です。そして、その大多数の夫婦というのは、モーレッ社員の末裔ですから、やつばり仕事、 め す仕事と言ってやってきました。その間にちゃんと夫婦の「ミ = ケーションをと 0 ている夫婦 婚もあるでしようし、もう修復が不能なまでにディスコミ = ニケーションになってしまった夫婦 もいます。 章 ルそして子どもの問題から手が離れて、この男ともう一回顔を突き合わせて生きていくのかな まっえい 179
戻ってきた時に、妻はもう濡れ落葉みたいになった亭主が嫌で、別れてしまうというというも のがあります。夫婦が互いに見つめ合うと、そういうケースが出てくるのも当たり前でしよう。 見つめ合うことに長けているのは、女のほうです。男は、いわゆる人間と人間が見つめ合う ことに慣れていません。ここで、人間関係能力が低い、女を見つめることができない男は、捨 てられていく世の中になっていくでしよう。 そして、もう一つは、夫と妻が見つめ合った時、夫婦ってなんだろうということを問い直す ことです。いろいろな人間関係が見えなくなってくると、最後に残るのは家族だという家族の 再評価、家族回帰が起こってきます。その結果どうしても夫と妻が見つめ合わなくてはならな くなります。すると、一体、こんなにセックスがない夫婦ってなんだろう、ということも考え ざるを得なくなります。 ン今の中年の世代は、戦後生まれです。この世代は、「女のくせに」と言われたりする女性蔑 一視を受けながらも、それでも一応は男と女は対等だということを肌で感じてきた世代でもある ン わけです。ですから、男と女はビュアな恋愛ができるという夢を持っことはできるのです。 ワ 族 昔の作家のように、男が恋をする相手はみんな芸者などの水商売の女性だという人もいるで 家 しよう。しかし、同じように机を並べて、ちゃんと対等に向かい合える女性たちがいるという 章 第ことを知っている男たちが増えてきています。それが男と女の問題を表面化させてきたのだと