そのうちに、病院側も辟易してしまって、「うちの病院ではアルコール依存症の人は入れまい せんーと、病院から閉め出されるようになります。そうすると、ちまたにあふれたアルコール どうしたらいいんだろうと 依存症の人たちは、酒はやめられないし、病院は入れてくれない、 考えました。そこで作られたのが自助グループでした。苦しみや問題を、今日一日共有しなが ら自分たちで自分たちを助けていくグループのことを、自助グループと言います。今日一日、 私は酒をやめたいという人が集まって、 ーティングをすることで回復していく。それが、い わゆる自助グループの原点です。 自助グループでは、誰が先生で誰が患者ということはなく、みんな同じ立場、みんな同じ苦 しみを抱えています。自助グループは「支配ーのない場所です。 自助グループができたことで、アルコール依存症の治療はくるりと変わりました。どんな専 門家が治療しても、病院を出れば必ず飲んでしまっていたような人たちが、自助グループに行 くことで、お酒をやめられるようになりました。 このような事実から専門家が学ばされたことは、アルコール依存症という病気は、本人の性 格、人格ではなくて、その人がどういうふうに生きるか、どういうふうな人間関係を持ってい るか、逆に言えばどれくらい人間関係の持ち方が下手かという、人間関係にかかわる病気だと いうことがわかりました。人間関係障害です。一時的には処方されて薬を飲むこともあります
男と女のセックスに支配が入るということ、つまり嫌がるのを無理に強要して女性に拒否感 が働くことから起こるセックスレスは、夫の支配に対する妻の拒否なのです。 セックスもっきつめていくと、その二者の人間関係の問題なのです。夫婦であれば何をして も許されるという男の思い込みは、まるで母親に対するような、子どもつ。ほい誤解です。 性的関係においてこそ、その男 ( 女 ) の人間関係のもち方が表れると思います。 性的なものというのは、異性間の非日常的な興奮から出てきます。それが日常になってし まって、毎日習慣になって、裸を見てもなんともなくなって、それでもセックスはあるかもし れないけれど、しかしだんだんとなくなることのほうがむしろノーマルだと思います。だから なのか、男は外で女をつくったりするわけです。それならば女性だって外で男をつくる人もい ても、 しいと思いませんか。 セックスだけの意味を問うても始まりません。人間関係の行き詰まりや新たな帰結点にセッ め すクスが転がっていることはあるけれども。 婚性にまつわるモラルは、人類が生存していくために作られたものだといわれています。仮に、 父親がわからなくなっては困るから一夫一婦制が成立したのだとしたら、生殖した後、子ども 章 ルを生んで育て上げた後のセックスっていったい何の意味があるのかということになります。 189
す。 男に抱かれたいと女が思うこと、夫の体に嫌悪感を持っこと、これは少しも変なことではな しとい、つことなどな耳 ) : : 。だから、ちっとも変じゃないと思いますよ、と彼女に言ったので 好きな人とセックスをしたいと思うのは変なことではありません。女の人だって、そう思う ことがあって当然です。自分のことを認めてくれるという関係があって、その結果として、そ ういう時間をもちたいと思うことは正しいことです。 常識的なものとの葛藤があるというかもしれません。しかし常識は私たちの人生を満たすた めにあるのであって、ラジカルに表現すると、それが自分にとって不都合な常識ならば、そん な常識は無視すればいいのです。 へソから下は別人格といわれたりしますが、そんなわけがありません。へソの上も下も、私 は同じだと思います。それに、世の中で言われているほど日本の夫婦間の性は乱れていません し、きわめて″保守的〃な性ではないかと思います。 私はこうした問題では、人間関係と性的な問題はいっしょではないかと重ねて考えます。人 間関係のないセックスはまったくつまらないし、ないとすれば退廃にしかすぎないからです。 性の関係は何も体の交わりだけではなく、あくまでも人間関係の一種だととらえています。 186
妻の努力で維持されているわけです。 、、。、トロンを演じ その三つを統合する自分というものを考えるに、 しい夫を演じることとしし / ることに矛盾を感じなかったのでしようか。仕事で結果を出していることで免罪され、家族と いうものは形だけなのです。人が人を裏切ることの怖さは、まったくわからない男なのです。 彼女は母のようになりたくないと思って生きてきたのでしたが、母の味わったのと同じ苦しみ を味わうことになったのです。 五五歳まで演じることができたのは、それはそれで一つの能力とでもいうのでしようが、し かし、男にとって家族とはなんでしよう。「家族は私のシェルターであり、わがままを聞いて もらえる場所である。なぜならば私の稼いだお金で家族は成り立っているのだから」と思って いるのでしようか。こうした考えの男がまだまだ多いと思います。 もし人間関係があると思っているのなら、こう一一 = ロえば相手は怒るだろうとか、関係を保つに は何をなすべきかを考えるはずです。人間関係という意味では、家族関係も友人関係と同じで め すすから、「つながりーを考えなければいけないのです。相手の気持ち、自分の気持ちを考えな 婚ければなりません。 そういう夫は、もし子どもが家庭内暴力になったときに、わが子が何を言っているかわから 章 ルないと言います。 173
その中で、言葉による関係と、肌と肌の関係があるわけですが、たとえば摂食障害の女の子た ちが求めているものは何かというと、肌と肌の触れ合いなのです。さみしさから来る、ある種 の確認を求めているのです。そういった意味で、性的な関係とはあくまでも人間関係の一つで す。八〇の妻と、九〇の夫が肌と肌を触れ合わせるとすれば、これほどダイレクトな人間関係 はないでしよう 。人は肌と肌で触れ合うことで、自分たちがつながっていることを確認するの です。 冫いたいと思って結婚する、家 肌を触れ合いたいという人がいて、その人ともっといっしょこ 族はその結果として形成されるもので、家族そのものがそもそもの目的ではないのです。 ですから、自分がしたいことを口に出さなくても理解してくれるような異性と、肌が触れる がゆえにわかり合えるという異性の両方があれば理想的でしよう。本当なら、同じ人で両方を 備えていればいいのですが、なかなかそうもいきません。配偶者とはかっての燃えるような関 係もいまはなく、肌が触れ合い性的に満足する人は別にいて、両方を欲しいと思っても両方を め す求めることは相手の二人にとって不幸だと思うとき、人生のドラマとしかいいようがない状況 の 婚がうまれます。 セックスには強烈な快感と陶酔があります。性とはやはり非日常的です。それはあらゆる秩 章 ル序を壊し、日常を壊し、体制を壊す可能性があるので、我々は性をタブー化し、すみつこに追 187
の る れ さ 目 注 ぜ アルコール依存症も、本人はたしかに飲んでいます。それはそれとして置いておいて、その 章 第周りの人に対して働きかけて、関係を変えるようにしていくのが、いちばん近道ではないかと砺 し、一時的には病院に入って点滴を受けるかもしれません。ですが根幹は、その人を取り巻く 人間関係と、その人がその中でどういうふうに生きていくかという問題です。それがアルコー こ一つい一つことが ル依存症の一番の基本にあります。一九六〇年代の半ばから終わりくらいに、 わかってきました。 アルコホリックが人間関係の病気だということであれば、そのすぐ側にいて、その人を支え たり、苦しんだり、その人に振り回されている人、つまり配偶者、親などに目を向けなければ いけません。周りの人が変わることで、本人が変わるのではないか。つまり、アルコール依存 症の治療ではまず家族を見るべきではないかということになって、本人から家族へと視点が 移っていきました。これはとても大きな変換でした。 みなさんの中には、精神科の病気は、本人の問題だと思っている人がほとんどだと思います が、本当にそうなのでしようか。病気を出しているのはたしかに本人です。ですが、よく見て いくと、本当にひどいのは親だったり配偶者だったりします ( これは、犯人探しではありませ
戻ってきた時に、妻はもう濡れ落葉みたいになった亭主が嫌で、別れてしまうというというも のがあります。夫婦が互いに見つめ合うと、そういうケースが出てくるのも当たり前でしよう。 見つめ合うことに長けているのは、女のほうです。男は、いわゆる人間と人間が見つめ合う ことに慣れていません。ここで、人間関係能力が低い、女を見つめることができない男は、捨 てられていく世の中になっていくでしよう。 そして、もう一つは、夫と妻が見つめ合った時、夫婦ってなんだろうということを問い直す ことです。いろいろな人間関係が見えなくなってくると、最後に残るのは家族だという家族の 再評価、家族回帰が起こってきます。その結果どうしても夫と妻が見つめ合わなくてはならな くなります。すると、一体、こんなにセックスがない夫婦ってなんだろう、ということも考え ざるを得なくなります。 ン今の中年の世代は、戦後生まれです。この世代は、「女のくせに」と言われたりする女性蔑 一視を受けながらも、それでも一応は男と女は対等だということを肌で感じてきた世代でもある ン わけです。ですから、男と女はビュアな恋愛ができるという夢を持っことはできるのです。 ワ 族 昔の作家のように、男が恋をする相手はみんな芸者などの水商売の女性だという人もいるで 家 しよう。しかし、同じように机を並べて、ちゃんと対等に向かい合える女性たちがいるという 章 第ことを知っている男たちが増えてきています。それが男と女の問題を表面化させてきたのだと
セックスというのはもともと子どもを生み、育てるためのものであるとしたら、その目的を達 成した後も人間は長く生きる。昆虫はみんな交尾したら死んでしまう。その後も長々生きてい るのは人間くらいでしよう。そのセックスというのは、きわめて人間的な問題です。性は人間 にとって快感を与えるものであり、死にも匹敵する陶酔感を与えるために、どう扱っていいか はむずかしい問題があります。それこそ文化と言ってもいいかもしれません。それが楽しみに なるとしたらたいしたものです。「セックスは楽しみ」「セックスは趣味」と言っている人は、 アディクションにはなりません。「趣味は酒ーと言っている人はアルコール依存症にならない ようなものです。 あくまでも人間関係のプロセスの帰結としてのセックスであること、これはとても大切なこ とです。帰結としてのセックスだけが自己目的化したり、ひとり歩きをすることは、「酒」だ けが人生の目的であるという人のように健康なことではないでしよう。 190
いやってきたわけです。しかし性とはタブーどころか、すべての基本です。 あらゆる装飾をはぎ取った人間関係は、男女の関係です。そしてそれが端的に出るのが、性 の関係です。 私たちの生活の背景としてセックス、つまり性的なことがらは、大きな要素になっています。 大切なのは、その満足が自己目的ではないということです。恋愛関係の発展には性的な関係 があり、それによって最終的な満足がある人もいます。恋愛関係は最終的には二人の一体感、 融合感を求めるものなのです。それが、夫婦の場合は、そのプロセスがなくなって、結果だけ が問題視されています。セックスは、プロセスがなければなにも残りません。プロセスがなけ ればセックスレスになるのは、むしろ当然ではないでしようか。 セックスレスが、いまの社会状況を表していると見るむきもありますが、慎重に臨みたいも のです。「セックスレス」を定義するには、それが悪いかどうかが問題になります。したいと 思うのにできないセックスレスは困りますが、おたがいに全然その気がおきなくて結果的に セックスレスという場合、それはそれでいいのではないかと思います。一方がしたいのに、相 手がそうでないというように、誰かが困れば問題でしようが、そうでない場合は大騒ぎする必 要はないでしよう。 188
「私ばかり家事をやっているのはおかしいわ。私も外で働くから、あなたも家事をやるべき よーという考え方では問題があるのではないでしようか。今までそういう家族もありましたが、 それはほとんどの場合、破綻してしまいました。 この誤りは何かというと、″すべきだ〃という考えを生身の人間が生活する家族にまで降ろ してきたことです。こうするべきだということを、家族の中で言ってはいけないのではないか と思います。また子どもには、抽象的な概念である「自由ーや「自立ーも、反論を封じて拘束 していく言葉となるでしよう。 ″べき〃という考えは、何かを守るために出てくるものです。つまり、無政府状態になっては いけない、秩序を守るためになどの考えが″べき〃という概念を生み出しているわけです。そ のとき、守るものとしての秩序が家族全員にちゃんと共有されていて、了解されているときに は、″べき〃は効果的に生きてきます。ところが守るべきものが何もなくなったとき、″べき〃 は空回りしてみんなを縛る ( ただし、長男はこうあるべきだ、父親はこうあるべきだ、という と思います ) 。 思いが、一つの目的に向かってうまく機能している場合はいい ″べき〃に忠実になることと、その家族の中に本当の意味の交流があるということとはまった く無関係です。 家族の中で、家事を分担す″べき〃だというように″べき〃で押していく夫婦関係の家族と