思います。さまざまなオ。フションが増えてきているし、増えてきていいのです。 たとえば単身 ( シングル ) の世帯、女同士の家族、同居するけど入籍しないカップル、ペッ トと暮らすというように、新たな「家族」をつくることもできるでしよう。 その場合、夫婦の絆と同時に「親子の絆」も永遠か、ということが問われてくるかもしれま せん。たとえば老人介護の問題があります。はたして老齢の親を介護するのは子どもなのか。そ れは義務なのか。それを拒否するのは、血も涙もないのか。それを拒否するオプションがあっ てもいいと思います。 そこをもう少し別の視点から、家族とはとても危ないものなのだ、家族が最終的なくつろぎ の場であるという幻想を捨てなければならない、それでもなお家族を形成したいと思ったらす れよ、 、と、う、家族形成そのものを一つのオプションにすることです。 未来の家族、それはオプショナルがきく家族ではないでしようか。自己決定能力のある人々 による家族です。 194
現代社会の風潮の中の一つに、人間が本来もっている感情である「喜怒哀楽ーのうち、「怒」 と「哀」を消していこうとする方向があるような気がします。「哀」は暗いということで消去 され、「怒」は徹底的に封殺されているように思います。激動の時代には「怒」はエネルギー となるのでしようが、いまのようにすべてが平穏化し、システムができ上がってしまうと、 「怒」のもっエネルギーが怖くなってしまい、ふだんから封殺しておこうとする力が働くので はないでしようか。しかし、「怒」はいつのまにか溜まっていくものです。それをどういう形 で出させるかが問題だと思います。 そういった意味では、感情を動かすための「わがまま論」が必要なのかもしれません。わが ままというと、通常は、他人の迷惑も省みずに何かをするものと思われがちですが、他人に迷 惑をかけることは誰もがいやなわけで、ここでいうわがままはそういうことではないのです。 自分の中にある、要求や欲求に正直になるということで、好き放題やるという意味ではありま 「怒」と「哀」のない世界 104
男性の持っ家族像と女性の持っ家族像は当然違います。 男性の持っ家族像は抽象的ですが、女の持っ家族像というのは具体的です。それは女性には 日常の家事があるからです。ご飯を作り、掃除をし、洗濯をして干すという具体的な日常の行 為を行なっている分、家族像がより具体的になります。 それに比べて男の持っ家族像は、法律や、経済的に支えるものなどといった抽象的なイメー ジです。具体的な日常の些細なものからはかけ離れています。 男女の役割分担から考えると、男性にはふつう自分が家族を支えているという意識がありま す。まともな健康な男であれば、「俺が支えているんだ」という意識を持っているでしよう。 女性には「私が支えているんだ」という意識は希薄です。もし女性も家族を支えているとして も、その支え方は違うのではないでしようか。 女性は家庭の中ではやりたい放題ができます。それは幼稚園児が先生に「ここからここで遊 んでいいですよーと言われて、円の中でやりたい放題に遊ぶことと少し似ています。そうした 家庭内での男女の役割分担が水平であれば、つまり同一平面上のパ ートの違いだけであれば、 問題がないと私は思います。 家庭の経済的基盤は夫が支える。そこでの夫婦の関係は、妻は夫に頼り、夫は毅然と家庭を
ル依存症の診断基準は、非常に幅広いものです。しかしこの言葉はあくまでも医療の診断用語 です。私たちはむしろ、そういう人たちを「問題飲酒者」という呼び方をするようにしていま す。周囲の人が、そして本人が問題だと思えば「問題飲酒者ーであると考えていいのです。 「問題」と感じるかどうか、という非常に関係的な部分が基本になっているのです。 「問題飲酒者」の見分け方のひとつは、酔い方です。どういう酔い方をするかです。周囲の人 がとても傷ついたり困るような酔い方をして、そのことを知りながらなおかっその酔い方をや めずに習慣的に酒を飲む人のことを、私は問題飲酒者と呼んでいます。いくら年収が三〇〇〇 万円であろうと、一回も妻を殴らなくても、酔い方、酔っている姿、酔ってしゃべっているこ の とが周囲を傷つけていることを知りながら同じ酔い方をしたり、時には、ひどいことを言って る さ翌朝はケロッとして会社に行くという人のことも、問題飲酒者の範ちゅうに入れてかまいませ 目 さらに、 <O のもう一つのポイントは、 <<0 という言葉は決して不登校になったり、人間関 ぜ係障害で精神科に行ったり、誰かに会うと緊張してものが一『〕えないとか、そういう目に見えた 障害を持つ人のことを言うわけではないということです。 章 つまり、自己認知にかかわっている言葉といえます。 第
せん。 好き放題やるというのは、人に迷惑をかけて、その迷惑をかけていることによって得られる 一つの快楽でしかないからです。たとえば、道路に大の字になって寝るなどというようなこと でも、誰も通らなければそんなことはしないでしようし、しても無意味です。人がいるからこ というようなものは、本 そ大の字になって、迷惑をかけることで自分の行為の確認をする 当のわがままではないということです。 感情をストレートに出すことをある程度は許すような社会でないと、こうした問題はなかな か解決できないのかもしれません。 病 る す Ⅷ共依存という言葉をこの本の中で何度も使っていますが、共依存の意味するものは、「他人 を を自分の道具にするーということです。自分が生きているという実感を得るために、人を使う、 のあるいはいじめたり、殴ったりもします。こういったことは濫用であり、共依存とは基本的に 家は、そういうものです。人との関係に嗜癖するのです。 れ ですから、いじめる、いじめられるということは、どっちがいしか、どっちが悪いかとか、 そ 弓しカ弓いか、ということではなくて、ある人がある人を使って、ある人物に何かをして、そ 章 第の人が傷ついて苦しんでも、苦しいと言えなくて泣きながら笑 0 ているような姿を見て、そこ
家族を父親、母親、子どもという三者による三角形だと考えてみましよう。その三者の上に、 共通の目的に向かう糸が伸びていて、それが三角錐のように頂点 ( 目的 ) を目指していくと想 像してみてください。目的が三者に共通ではっきりしている場合は、糸は絡まずに目的に向 かってまっすぐ伸びていくことができます。ところが、三角錐の頂点 ( 目的 ) がはっきりしな くなるとどうでしようか。三者の糸は絡み合い、きしみ合ったり、お互いに見つめ合ったりし なければいけなくなるわけです。 それは親の問題であり、夫婦の問題でもあります。 原宿カウンセリングセンターに来る人は、子どもが摂食障害の親とか、夫にお酒の問題があ る妻とかが多く、純粋に夫婦関係の問題で来る人は少ないのですが、夫婦関係の悪さがだんだ ん浮上してきます。 家庭の中で起こりうる共依存には、大きく分けて「愛しすぎる女たち」と「一卵性親子ーの 二つがあります。それそれ男女間の共依存と親子の間の共依存です。男女間で発揮される共依 存というのは、かなりセクシャルな、エロスの問題が絡んできます。一方、親子の間の共依存 は、まったくそのエロスを感じさせません。 男から男へと転々とする人と、娘のために息子のためにと我慢を重ねて四〇にして老婆のご とき母と、実は同じ共依存です。一見、別々のもののようですが、これはやはり同じです。不
男と女のセックスに支配が入るということ、つまり嫌がるのを無理に強要して女性に拒否感 が働くことから起こるセックスレスは、夫の支配に対する妻の拒否なのです。 セックスもっきつめていくと、その二者の人間関係の問題なのです。夫婦であれば何をして も許されるという男の思い込みは、まるで母親に対するような、子どもつ。ほい誤解です。 性的関係においてこそ、その男 ( 女 ) の人間関係のもち方が表れると思います。 性的なものというのは、異性間の非日常的な興奮から出てきます。それが日常になってし まって、毎日習慣になって、裸を見てもなんともなくなって、それでもセックスはあるかもし れないけれど、しかしだんだんとなくなることのほうがむしろノーマルだと思います。だから なのか、男は外で女をつくったりするわけです。それならば女性だって外で男をつくる人もい ても、 しいと思いませんか。 セックスだけの意味を問うても始まりません。人間関係の行き詰まりや新たな帰結点にセッ め すクスが転がっていることはあるけれども。 婚性にまつわるモラルは、人類が生存していくために作られたものだといわれています。仮に、 父親がわからなくなっては困るから一夫一婦制が成立したのだとしたら、生殖した後、子ども 章 ルを生んで育て上げた後のセックスっていったい何の意味があるのかということになります。 189
なって私たちの社会を形成しています。それはウ = ットで反抗や反撥を無言のうちに封じ込め る点では、母と同じ、共依存と同じでしよう。 ・ドラマと名づけました。 だから私は、そこに繰り広げられる人間の関係性を、コントロール 私たちは支配・被支配に満ちた家族で育ち、生き延びてきたのです。 ・トラマとして読み解くことで、初めて意味を持つのです。 < O の苦しみは、コントロール。 親である世代は、「子どもに問題があって : : : 」というのではなく、親自身の問題として捉え る必要があるのです。そして、親である世代が、さらに自分と親との関係を、さらに自分の生 きてきた軌跡の物語を、いま一度追ってみてほしいのです。 は特別な人の話ではありません。は普通の人の普通の問題です。
カウンセリングしていると、セックスレス、老いとセックス、人間関係としてのセックスな ど、セックスというものは非常に重要な問題であることがわかります。 カウンセリングにみえた方に、いきなり性的な問題は聞けません。ある程度進んだときに性 的な問題にも触れますが、「待ってました」とばかりに話す人と、「いやあ」と言いながら話す 人がいます。 たとえばこの間、『「アダルト・ チルドレンー完全理解』を読んで、中年の純愛というところ に惹かれて来たという人がいました。その方は夫も子どももいて、生活も豊かです。パソコン をマスターしようと思い ハソコンの学校に通い始めたのですが、そこの若い教師に恋をした のです。 彼女は四五歳ですが、リュックをしよって、スニーカーをはいたかわいい女性です。十歳歳 下の彼も「君はかわいいねーと言うのです。 セックスと常識 184
それでは愛情とは何なのでしよう。家族愛、とくに親から子への愛について、私は二点を挙 げたいと思います。 それはまず親が子に関心をもっことです。 今の家族で子どもの成績、健康、身長に関心をもっている親は、ごまんといます。しかし子 どもが何に苦しんでいるのか、何を望んでいるのかに関心を注ぐ親は、おそろしく少ないので はないでしようか。子どもの現在にきちんと関心を向けているかどうかを、親は自分に問いか けてみましよう。 もうひとつは、子どもを守ることのできる親である、ということです。 いざとなれば、常識、世間体に歯向かってでも子どもを守れるかどうか。これはこの本の最 初に書いた「同心円社会」の末端の家族か、安全基地になれる家族かどうかと同じ問題なので す。 二児の母で夫の暴力に耐えかね、実家に逃げ帰った三五歳の娘に対し、毎日毎日「子どもが かわいそうだ」「世間に顔むけができない」と攻撃をつづけ、夫のもとに帰るように説得する 親がいます。愛する娘が、夫との結婚生活に耐えかねているとき、なぜその親は娘の味方をし ないで世間体をふりかざし、常識に従えと娘を責めるのでしよう。 子どもが「苦しい」というとき、その子どもを守れない親とは何なのでしようか。動物でも 196