社会の荒波から守るのです。しかしこんな夫婦関係は少ないのではないでしようか。 問題が出てくるのは、夫が「俺が金を出して支えているんだそ」と妻を支配しようとする場 合です。そうすると、妻はそれに対して「この家庭は私がいなければー「私のものよーと主張 し、行動し、支配をしなければ成り立っことができなくなります。 夫が収入のすべてを稼いでいるというのは、単なる「事実」です。しかし、それが妻との関 係の中で「誰のおかげで食べさせてもらっているんだ」という一言葉につながっていく。つまり トが違うという事実、こ 「支配」になった時、妻は苦しくなるのです。夫と妻の受けもっパ の役割分担と、それが支配・被支配になるのとは別の問題です。「自分が仕事をして経済力が あるのだから僕はこの家を支える」というように、支配でなく事実として支えてくれれば、妻 は楽になるのです。 経済力で家族を支えることと、家事・育児をして家族を支えることの間に支配・被支配の関 族係があること、上下があることが問題なのでしよう。実際どちらが大変なことなのかは優劣を つけがたいと思います。両方受けもたざるを得なかった私自身の経験からすると、家族内の人 る 物間関係を保っていくほうが仕事より難しいのではないでしようか。生身の人間にかかわること に比べたら「仕事」なんてたいしたことはないと思います。 章 第
たとえば、名の知れた大学の先生が妻を精神的に残酷に捨てている、ということもあります。 家に帰ってきても一言も口をきかないとか、アルコールがらみの生活を送っているとか、いろ いろあるのです。外で一所懸命いい人を演じている分、家族に対しては自分の不機嫌を全部ま き散らすのです。妻はやはりそんな夫の行動に傷ついて生きています。 そういう夫たちは、家族は自分の思うとおりにしていいんだという治外法権の意識がありま す。彼らは「妻が俺にやるべきことを子どもにしている。と子どもに嫉妬するという、非常に 未成熟な面も見せます。まるで家族の世界を、外で苦労した分できてしまった産業廃棄物をま き散らすゴミ捨て場だと思っているかのようです。そして、自分の行動が妻をどのくらい傷つ けているかということを、気にかけることすらありません。 こういう例がありました。夫が前述のような態度で妻と夫の会話がないので、妻が正面きっ て夫に、自分のことを好きなのか、嫌いなのか尋ねてみました。すると夫は、 「嫌いだったらいっしょにいるわけないじゃないか」 め す と言ったそうです。それが答えです。それでお風呂に入ってしまったそうです。よくある す 婚シーンではないでしようか。そこには人間関係の会話がありません。 離 章 ここで、ある夫婦の出来事をちょっと紹介させていただきましよう。 第 169
私は、家族は、恋愛の延長線上にあるものだと思っています。 ハーかもし 愛し合ってなくて夫婦でいるのは罪悪だと言う人もいます。そこまで言うとオー れませんが、それでも夫婦というのは恋愛の延長線上になければならないと思います。恋愛の 延長線上にある夫婦を、あくまでもつづけていく。 それができなくなった場合は、夫婦である ことを清算したほうがいいでしよう。 夫婦は夫は妻のものであり妻は夫のものであるという、お互いを独占できる特権をもってい ます。それに比べ、子どもは結果的に生まれてくるもので、夫と妻が冷えきった関係で「あな た可愛いわ」とお母さんが言うよりも、「あなたのせいで、私はパパからの愛情が半分になっ たわよーと言っている母のほうがいしし 、と、うことです。子どもは母親に嫉妬されても、嫉妬す るくらいだから、あの母は父を愛しているんだと思ったほうがいいのです。 私は、子どもを信頼しています。その生き抜く力を信じたいと思っています。娘を見るたび に、こんなきれいな若い女の子が、私のおなかから生まれたということが信じられないと思う のです。 恋愛の延長で夫婦になれば、子どもに嫉妬をしたり、子どもを邪魔に思うこともあるでしょ う。相手を子どもに取られてしまうという感覚もあるかもしれません。 156
姑へと、その対象は代わっていきます。このように共依存はもっとも回復しにくい嗜癖といえ ます。底をつかないことには、嗜癖は回復しないのですから。 女性にとって、母と女性は別個のものとする考え方もありますが、むしろそう考えさせられ ートタイム てきたという言い方のほうが正しいでしよう。私には母と女は重複可能であり、 母、 ートタイム女、 ートタイム妻といろいろあると思いますが、それそれが矛盾しないで 共存していけると思われます。 アルコール依存症の特徴をよく表しているのが、かって斎藤茂男さんが書いた『妻たちの思 秋期』 ( 共同通信社 ) に登場するひたむきの妻たちでしよう。そのひたむきの主婦がとっても温 かい家庭をつくろうと思っているのに、夫は仕事依存で家にいないし、育児もたいへん、とい う一種の空虚感でお酒にはしるという例が紹介されていました。 このように主婦の場合のアルコール依存症は夫婦間の葛藤が主要な問題です。あるいは、思 春期からいろんな問題を引きずっていながら結婚して主婦となったときに表面化してくるから かもしれませんが、夫婦関係がうまくいっているときにはアルコールの問題はありえないこと です。 たとえば、ある主婦のケースを見てみましよう。 100
いうことです。 そうやって、妻を見ていくと、おもしろいことがわかってきました。その人は、殴られ、蹴 られ、酒をやめると言っては裏切られて、こんな生活を二〇年もやっている。このようなアル コール依存症の奥さんもちょっと変なんじゃないか。普通、という言葉をあえて使うと、普通 ならこんな苦しい生活を一〇年やっていれば誰でも音をあげるのに、日々裏切りと暴力の中で、 二〇年も耐えているのです。 専門家はなぜそれに耐えているのか不思議に思いました。「おかしいじゃないか。どうもこ の人は、問題を起こして誰かに助けてもらわなければいけない人の側にいることで、その人は 満たされて、生きがいを見いだしているのではないか」と。その妻のような人間関係のもち方 のことを「共依存ーと呼ぶようになりました。 アダルト・チルドレンの問題は、この共依存と深く関わっています。普通なら逃げ出してし まっていいところに、我慢して耐えている。これも病気といっていいのではないか。耐えるこ とは美しいことではなく、むしろ病気だ、と。 夫はアルコール依存症、妻は共依存という対比になり、二人は嗜癖的カップルとして捉えら れるようになりました。 たとえば病院にお父さんが入院しています。すると奥さんが面会に来て、「もうあなた、飲
言葉がなかなか見つかりませんが、このような子どもたちが言っているのは、「あなたの人生 はこうしたほうが幸せよ、こうしたほうがいいのよ」と一言う母親の支配 ( コントロール ) のこ とです。母しかなくて、妻・女としての不幸を見抜いているのです。いくら否定しようと、家 に専業主婦として存在している外に出ない女の不幸を、子どもは感知しているのです。 役割として現代の女性は妻、母以外は希薄です。おまけにその妻も希薄です。結局母のみが 役割として過剰に肥大していることの異様さに気づくべきでしよう。それを修正するには他の 役割に気づくべきですし、他の役割を増やすことです。なかでも性的存在としての自分に気づ くことが必要です。ラプホテルを中年男女で埋めませんか、と呼びかけたいくらいです。 夫と別れて家を出てきたという人は、たくさんいます。経済的には苦しくなりますが、女同 士で友だちになって支え合ったりして、いろんなことをやっていくことで幸せなのです。わ かってくれなかった夫ではなく、ツーといえばカーとわかるような女性がいれば、十分幸せな 族 縁のです。 離婚というと、とてもマイナスに聞こえますが、「夫婦解散」と一一 = ロえばいいのです。もちろ し 裂ん、ここでいう夫婦解散は、「家族解散ーも意味します。 章 第子どもたちは親から離れて子どもたちで自分の道を選べばいいのです。摂食障害などで苦し
戻ってきた時に、妻はもう濡れ落葉みたいになった亭主が嫌で、別れてしまうというというも のがあります。夫婦が互いに見つめ合うと、そういうケースが出てくるのも当たり前でしよう。 見つめ合うことに長けているのは、女のほうです。男は、いわゆる人間と人間が見つめ合う ことに慣れていません。ここで、人間関係能力が低い、女を見つめることができない男は、捨 てられていく世の中になっていくでしよう。 そして、もう一つは、夫と妻が見つめ合った時、夫婦ってなんだろうということを問い直す ことです。いろいろな人間関係が見えなくなってくると、最後に残るのは家族だという家族の 再評価、家族回帰が起こってきます。その結果どうしても夫と妻が見つめ合わなくてはならな くなります。すると、一体、こんなにセックスがない夫婦ってなんだろう、ということも考え ざるを得なくなります。 ン今の中年の世代は、戦後生まれです。この世代は、「女のくせに」と言われたりする女性蔑 一視を受けながらも、それでも一応は男と女は対等だということを肌で感じてきた世代でもある ン わけです。ですから、男と女はビュアな恋愛ができるという夢を持っことはできるのです。 ワ 族 昔の作家のように、男が恋をする相手はみんな芸者などの水商売の女性だという人もいるで 家 しよう。しかし、同じように机を並べて、ちゃんと対等に向かい合える女性たちがいるという 章 第ことを知っている男たちが増えてきています。それが男と女の問題を表面化させてきたのだと
と思った時に、愕然とする妻がいるのではないでしようか。 「私」という意識に気づいてしまった以上は、仕方のないことだと思います。 しかしだからと言って、離婚しか道がないということではありません。努力して、夫とコ 、、こニケーションが取れればいいわけです。 ところが男が企業の中で情緒的一言語を失ってしまっています。企業の中にいたら、「楽しい」 「嫌ー「うれしい」なんていう一一 = ロ語は一切ないのではないでしようか。歌を忘れたカナリヤじゃ ないけれど、情緒的言語を忘れた汚らしいカナリヤのような男たちの言葉には、惨憺たるもの があります。 私のところに夫婦面接に来る人がいます。そこで妻が「あなた、私といて楽しいの ? 」とか 「苦しいの ? 」と聞きます。ところが夫はもう会話ができない。 娘がシンナーをやったといって奥さんが来ていて、「あなたも行かないと娘がどうしようも ないから」と言っているのに、半年くらい「仕事が、仕事が」とウダウダ言ってからやっと日 曜日に来る男もいるわけです。その人に「どんなお子さんですか」と聞くと、 「いやあ、まあ普通とは一一 = ロえませんが、まあまあじゃないですか」 とか言うわけです。家族の中の言語表現能力のなんと乏しいこと。夫婦面接を四回くらい 180
思います。 不幸な夫婦関係が、どうしてこんなに多いのでしよう。 たとえば、同じ屋根の下に住んでいて、一カ月間も妻が夫に一言の言葉が言えなくて手紙を 書いたという夫婦がいます。その家庭は娘さんが薬を飲んで自殺を図ったのです。ところが父 親は放っておいて仕事に行ってしまいました。妻は夫に、「父親として、私はお前に死んで欲 しくないと娘に言ってほしい」と思っています。ところがそれを直接伝えられないのです。 そういう不思議なことが起こる家族がいつばいあります。毎日同じ屋根の下に住んでいるの に、大切なことが一一一口えないのです。 私が、「どうして言えないんですかーと聞くと、「時間がなくて」と言うのです。でもそれは 嘘でしよう。本当は怖いのです。 それまで何度もメッセージを送り、思うことを言ってきても、いつも聞いてもらえなかった からです。心底泣きながら何かを言っても受け止めてもらえないという体験をくり返すと、今 度もまた裏切られるかもしれないという恐怖を感じ、伝えたいことも一一一口えなくなるものです。 これもまた伝わらないのか、という絶望があるのです。 こういう家庭でも、不思議なもので、「今日のおかず何 ? ということは言えるのです。 152
のほうも「もうあんなの三年もないわ」と言いつつ、それなりにやることはあったわけです。 お父さんはワーカホリックでもお金を稼いでいるからまあいいか、という認識があり、妻はた とえば地域の中での女性解放運動に参加するとか、それでなんとなく目が反らされていたわけ ところが、私は社会教育に関わってきているからわかるのですが、性別や理念の壁がなくな り、男も女もそれほど変わりがなくなった今、夫と妻がもう一度お互いに見つめ合わざるを得 なくなってきています。 夫婦がお互いに見つめ合った時、何を感じるのでしようか。 一つはエロスの衰退です。もちろん中にはエロスを再発見する男女もいるかもしれませんが、 多くはエロスの衰退を感じるのではないでしようか。 たとえば、中央線に日曜日の午後五時頃乗ると、中年男女が揃って山歩きの靴を履いて、 リュックをしよって帰ってくる光景を見かけます。ところが不幸なことに、二人はお互いに 「楽しかったね」という顔をしていないのです。「ああ、この人しかないか」とか、「こうして 二人で老後を送っていくのか」といううんざりしたような顔をして乗っています。会話もあり ません。 よく耳にするケースに、会社の景気がよくないから、家庭回帰をしようといって男が家庭に 150