めなさい」と言います。そうなれば、もう一つの見方を提供していくことになります。 しかし、それはかなりの苦しみを伴います。 をいったんその関係から離れなければいけません。共依存にある 共依存から逃れるためによ、 人が、同じ状況にいることで共に変わっていくということは本当に難しいことです。 私たちが原宿カウンセリングセンターでやっている共依存のグループでは、共依存関係にあ る一方の人が何らかの形でもう一方から離れられるような方法を模索しています。 その一つの方法は、「私はどうしたいか」をはっきり言うことです。たとえば、相手が「お 」病 る茶を出してくれ」といったようなとき、「私はいや」とはっきり言うことです。これは書き文 蜩字にしていると簡単ですが、実際には清水の舞台から飛び降りるほど、大変なことでしよう。 を それほど習慣をかえることは難しいことなのです。それを言ってもかまわない、そして、それ 誰 のを一一 = ロ、つことよ をいいことであって、言うことは少しも怖くないんだと、背後で支える人たちから 家 何度も言われてやっと一言えるかどうかというほど難しいことです。 かなめ れ共依存の人たちは、たいてい家族の要にいる人たちです。たとえばお母さんが我慢している からその家庭はもっているんだというように、我慢している人がいちばん下みたいに思いがち 章 第ですが、実は要であるわけです。その要が行動を変えたら、ひょっとしたら家が壊れてしまう 109
そうすると今までの将棋や、 ドミノが倒れる方向が反対になります。黒だったカードがひっ くり返って白になる。 そのことで今までの常識から解放されて、楽になるのです。 嗜癖はこのように、「自覚」をすること、「自己認知ーすることで、パッと局面が変わります。 アルコール依存症を否認していた人が、「私はアルコール依存症だ」と認めることで、酒のな い人生を踏み出します。それを嗜癖問題では「底をつく」といいます。 ドラマの転換点には「自己認知ーと「底をつく」が欠かせないのです。 私はの人たちに、「今までの自己認知は、あなたにとって似合わない服だったのね」と いうふうに言います。似合わない服は着替えなければいけなかったわけです。たとえば、結婚 したことや、その他すべて。しかし今さら着替えられないのだったら、どうすればいいので しよう。今までは苦しいながらも、親の愛情だと思っていたものが、そうではなかったと気づ ざんき いたら、一種の喪失感につながるのではないでしようか。取り戻せないものに対する慚愧の念 なのです。つまり、オールグッドにはならないのです。一つ「ああ楽になる」ということがあ れば、それに伴う副作用が当然あるものです。でも、気づく前よりは、「気づいてからのほう がずっといい」というふうに考えましよう。 <O だと認識するということは、アダムとイプがりんごを食べてしまったようなものです。
てまだきちんと生存しているのです。 もう一人、やはり母は妖怪だと思うと言っている人がいました。自分の中に未亡人となった 母親がいて、ずっと自分の人生を支配して、「いい子でいなければいけない」とか、「支えろ、 支えろ」と言っているのです。 彼女は二五歳ぐらいの時に、一度、「お母さん、好きな人がいたら再婚してください」と 言ったのです。 すると母親は、「お前そんなこと言ったって、そんなふしだらなことできるかい」と答えた そうです。 そのお母さんを念頭においたとき、いったい彼女に何が言えるでしようか。それはまさに完 全なるインナーベアレンツです。 自分の人生にへばりついて、アメしハ のように自分の中に入り込んできて、自分の人生か親 の人生かわからなくされているのと、「私は好きな人ができたから、その人といい関係になる わ」というのと、どちらがいしカ 後者のようになったら、いやがおうでも親の人生と自分の人生を切り離さざるをえないはず です。そこで迫られるのは、自分として生ぎるということです。自分として生きることを迫ら れて、母と別れるほうがいいか、ずっと自分の中にアメーバのように入り込んできた親と暮ら 176
婦にさせられた世代です。戦後民主主義の教育で、自分の人生を生きるということを。ほんと叩 き込まれたのに、現実には就職がなくて、いやがおうでも専業主婦になって、子どもの教育を 熱心にしてきた。でも大多数はそうなのですが、子どもが期待に沿ってくれなかったとき、そ れは「母、としての挫折なのです。この挫折を経て、もう一度「私」「自己、というものが浮 かびあがる。 これから先、平均寿命はあと三〇年あると思った時、その三〇年を「私」はどう生きていく のだろう、と問いかけなおしているのです。 私たちの世代はまた非常に生真面目な世代でもあります。一時期、フ = ミ = ズムや、「主婦 論」「女の自立」などが一世を風靡しました。しかし、経済的自立がなければ女の自立はない と言われて、当時の不況の中、経済的自立なんかできませんでした。 今、これからどう生きるかという時に、もう一回「私」というものが問い直されているわけ です。そして、その大多数の夫婦というのは、モーレッ社員の末裔ですから、やつばり仕事、 め す仕事と言ってやってきました。その間にちゃんと夫婦の「ミ = ケーションをと 0 ている夫婦 婚もあるでしようし、もう修復が不能なまでにディスコミ = ニケーションになってしまった夫婦 もいます。 章 ルそして子どもの問題から手が離れて、この男ともう一回顔を突き合わせて生きていくのかな まっえい 179
親、とくに母親に、自分の気持ちが家族を守ると思っている人が多い。そういう人がカウン セリング来たときに何を話すのでしようか。 共依存の母は必ず「子どもは私が守らなければいけない」と言います。私は、「守らなけれ ばいけないあなたがいて、どうしてあの人はあんな病気になっているんですか ? 」と言います。 意図としては、お母さんの思っていることは破綻しているんですよ、という意味です。 でも母親は、破綻したと認めたくないからやってきます。「お母さん、もっとここをがんば ればうまくできますよーと私たちに言ってほしいわけです。つまり、もっと娘に対する共依存 を強化すればよくなると言ってほしいから来ているんだと思います。 私たちはむしろ逆に「今までのやり方でうまくいっているのなら、なんでお嬢さんは摂食障 害になるんですか。今までのお母さんの考え方がおかしいんじゃないんですかーと言います。 そうすると、「そうです。先生のおっしやる通りです」と言いつつ、「でも先生、そこをどう いうふうに娘を説得したらいいでしようかーと言います。全然こちらの言うことはわかってい ません。 自分に責任があるというふうには向きません。それが無理に向くようになるのに、どれくら しかかるかといえば、カウンセリングに通っていて半年以上はゆうにかかります。 私がこれほど共依存の人たちを悪く言うのはなぜかというと、彼女たちはおそらく、死ぬま
たのですし、今後も変わっていくでしよう。 私はこんな性格なのだと固定的に考えたり、自分自身に原因を持ってくるような考え方をと らないのです。性格はその関係のなかでつくられたし、今後もっくられていくのだと考えます。 そして、それはまた変えることができるわけです。仮に、祖父がいて母がいて自分がいるとい うとき、その三つの点の問題ではなく、三つの点のつながりが問題なのです。 ここまで育ったのは親のおかげだし、その親のせいにしてはいけないのではないか、と常識 では言うわけですが、私は「もういいですよ、親のせいにしてもいいんですよ」と言います。 つまり、そう思う人はさんざん自分が原因ではないかと苦しんできました。もう十分苦しんだ の 。全部親のせいにしていいのです。 のですから、そんな荷物はこのへんで捨ててしまえばいい る さ私たちの世代になっても親の問題というのは深く私たちを捕らえています。たとえば、して 目 駐みたいことがあるのに、いまの人生を送っているのはひょっとして親に言われた言葉がいまだ いに残っていて、それに自分が縛られているのではないかとか、お前はこうでなくてはいけない よと言われた言葉に、ずっと縛られていたり、といった具合にです。 今 ぜ いくつになっても親の拘束はあるわけですが、そういうものから早く解き放たれていただき 章ナし ものでもないし、安全でもないし、もともと家族とは人為 第家族というものは、そんなにいい
存して、何かに支配されて生きたほうがずっと楽なのです。 たとえばお父さんがお母さんを支配する。お母さんが成熟した女であれば ( 成熟した女がい るとして ) 、そこで支配をとめて、誰も支配しないようにした場合は、子どもは家族の中のパ ワーゲームから自由でいられます。ところが、自分の苦しみを自分で抱えられない女性は、そ の支配された苦しみを、必ず子どもに垂れ流します。ゴミ箱のように。「お母さんは苦しいの よ」と言ったら、子どもは受けざるを得ません。この家が壊れてしまったら、居場所がなくな るからです。夫にされたこと、姑に言われたことを子どもに垂れ流す。すると子どもは誰にも それを一言うことができず、母の感情のゴミ箱のようになってしまいます。 これは虐待以外のなにものでもありません。子どもが聞いてくれると、母親は「やさしい子 だわ。私がえらいから、こういうやさしい子に育ったのよねーと、子どもがどれくらい傷つい ているかも知らないで、そういう無神経なことを思うわけです。母親は子どもを知らなさすぎ ます。自分がそうやって育てられてきたから、子どもに仕返しをしているのではないかと思う ことさえあります。愚痴を子どもに言ってはいけません。それは、母から子へのコントロール です。その支配の末端にいる子どもはどうしたらいいのでしようか。 これは母親の原則です。 自分勝手に結婚した夫の愚痴を子どもに言うな いじめる、いじめられるという関係は、たしかに教育の問題も大きいですし、地域の力が衰
のではないかと共依存の人は思います。そのような怖さがあります。とはいうものの、そう思 うことはこの家を支えているという自分の力を過信する、一種の思い上がりでもあります。さ きに記したように、巧妙な支配であるのです。その思い上がりについても、家は決して壊れな いのだと説明し、怖くはないんだということを納得してもらわなければなりません。 そうして、共依存の構図から脱却したときには、その関係はさみしいものになります。どん なに苦しくても、つらくても、共依存で入り組んだ関係にさみしさだけはありません。つまり 孤独で冷たい風が吹くさみしさがいしか、問題が燃え盛って苦しい、と思うのとどちらがいい かの選択になります。このように、とりあえずやってくるのは孤独とさみしさです。苦しみの くびき 軛を解き放ったあとにさみしさの感覚がきますが、そのさみしさをどう克服するかを考えなけ ればなりません。苦しさが伴なうという意味は、この点を指しているのです。 中年世代はあまり我慢することはやめましようーーこれは本書の中で私が提案したい、もう 一つの趣旨でもあります。 私は耐えることは病気だと思っています。我慢、これもいけません。ある会合でそのように 発言したら「先生、無政府状態になります」と言う人がいました。「無政府になればいいでは ないですか。そうしたら警察がなんとかしてくれますーと答えましたが、言わんとすることは、 110
から自分を確認していく、力を得ているというものです。いじめられているほうはその関係に はまっているのだから、苦しいわけですが、苦しいと言ってはいけないし、その関係の外にい る人たちにそのことを話してもわかってはもらえません。これを言ってしまうとその関係を切 られてしまい、そのあとはどうなるだろうと思ってしまいます。 つまりは、いじめられている子もその関係から離れては生きていけない、 ということです。 ですから、本当に殴られている妻が、しばらくすると、またわざと殴られるような状況をつ くってしまうということがあるように、いじめられたり、殴られたりすることが私の居場所、 という悲惨な関係は、まさに共依存以外の何者でもありません。 どうしてそんな心理状態になるのかというと、学校や家族という関係の中で喜怒哀楽の 「怒」と「哀」を抑えられているからです。「ぼくは本当は怒っているんだ」「お母さんは本当 に怒っているよ」と言えない人が共依存をやってしまうわけです。本当はすごくマイナスの感 情をもっているのに、「彼は・ほくがいないとどうしようもないんだ」とか「だって親なんだか らとばかりに、うまくプラスの感情のように言いくるめて、表面的なプラスの言語で現実に ある怒りなどをカバーして見えないようにしてしまうのです。 こうしたことは、ちょっと前の私たちの社会では美徳でもありました。いままで支配すると いうと、ものすごい強大な人、つまりは男がもっているものと思われていたわけですが、それ
まないわよね。本当に飲まないわよね。だってこの子は受験だもの」と言います。面会につい てきた子どもは、そのそばでうなずいて黙っています。子どもは、「僕が一番をとらないとお 母さんが苦しむ。だめなお父さんがいる家族の中で、僕だけはこの家族を支えてがんばらな くっちゃ」と思っています。そうしないと家族が崩壊してしまうのではないかと思っています。 アルコール依存症の子どもは、そういうふうに育っていきます。 世の常識で、アルコール依存症の子どもには不良が多いとか、非行が多いとか言われますが、 それはまったくの誤解です。アルコール依存症の家族の子どもは、ある年齢までは、とてもい い子です。それこそ、お母さんの期待通りです。お母さんがすっと頭で思ったことを、三秒後 の には実現しているような子どもなのです。お母さんの「 ( アー。という溜め息一つで、お母さ る さんが何を言っているかわかるようないい子どもとして、お母さんを支えます。自慢の息子や娘 目 駐で育っていくというのが、アルコール依存症の家庭の子どもの平均的な育ち方です。 そういう人たちを見ていて、コ・メディカルの人たちは、「あの子たちも、ひょっとしてと ても苦しいんじゃないか」と思ったのではないでしようか。 今 ぜ その中で、ある一人のケースワーカーは、「それは私と同じじゃないか。と思ったのです。 章 第その人は、クラウディア・ブラックというアメリカ人女性です。彼女もです。お父さんの