表 の さ し ら アビゲイルの物語は、逆恐怖防衛、すなわち擬似自立スタイルというものを垣間見せてくれる。 女 ここでは自足を装いながら、ひと皮剥けば、臆病で不安定、アイデンティティを失うのが怖くて恋 に落ちることすらできないのだ。 フレンドが彼女のもとを去り、別の女と結婚して子供をもうけた時期を除けば、彼女は自分自身の 爐、いや数カ月間、みじめな思いをして落 力強さのイメージを信じきっていた。その時期には数週 ち込んだが、結局は立ちあがり、ちりを払い落とし、そして報復と復讐の念が二倍になって戻って きた。ときには、たんに男がいなくてもやっていけることを証明するために、彼女は女との情愛に , ゝ・け ; な 0 アビゲイルが十八歳の若き母親になったときには、すでにその「タフさ」が猟犬の牙のごとく鋭 く突き出していた。 一九七六年のことだ。彼女は両親から逃げ出すために妊娠したーーー両親は不安 定な人たちで、可愛い娘を甘やかして過保護に育てることによって、彼女に息苦しい不安な思いを させていた。そんなどうしようもない気持を否定するために、彼女はユダヤ系金持娘のタフ型にな ったのだ。彼女は最高級のものを手に人れて生きていけるはずだと、まともに信じ込んでいた。同 時にまた、そういうものを自分に提供してくれる人間が現われないこともーーーじゅうじゅう、痛烈 にーーー感じていた。確かに、あのマリファナ吸うしか能のない夫は、それを提供してはくれなかっ 。十七歳で彼女が結婚したその男は、一年後、女の赤ん坊を生ませて去っていったのだ。 「男になりたい」
いことだ。 女の独創力と創造力という問題になると、ドイッチはどこかの修道院で見習い修道女を教育する 女先生といったロぶりだ。 ・ : 女は自分の功績をつねにすすんで否定し、自分が何かを犠牲にしているなどとは決して 思わず、伴侶の功績を喜ぶ。 ・ : 外へ向かったことをする際には、それが何であれ、支持され たいという大きな欲求を抱く。 どんな健全な衝動をも押さえつけるのが女だとされていた時代に女に要求されていた曲芸師の業 を、今日の進歩した心理学者はしかと見極めている。シモンズの述べるように、女は「理想的」な ものとして生まれたのではない。そうなろうと努めざるをえなかったのだ。「自分の功績を否定し、 自分が犠牲になっていると思わずにいるには、たえざる努力を要する。愛らしい従順な女でいるた めには、敵意や憤りを一生、抑えていかねばならない。健全な自己主張ですら、それが敵意と誤解 されかねないために、しばしば犠牲にされる。それゆえに、〔女は〕たえず自発性を抑圧し、向上 心を捨て、そして不幸にも、自己の能力と価値に対する深い不信感と不安をかかえて、依存一本槍 になってしまう」
の真相があらわになり、男がそれをみたす意欲も能力もないとわかると、すさまじい衝突が起こる。 とあるカリフォルニア女性の初の恋愛関係の場合は、まさしくそういう力学だった。その女性の名 をジルとしておこう。 心につのる葛藤 ジルの父親は、かなり成功したはつらったる弁護士だった。母親は、もう仕事をしていないけれ ども、フリーの雑誌イラストレーターとして楽しくやっていたキャリアをもつ。最初の子供ジルは、 男と女の対立するイメージにつねづね板ばさみになっていた。ばっとしないけれども、ちゃんと面 倒をみてもらえるという女のイメージ。生き生きとして活動的だけれども、誰の保護も受けずにひ とりで世間を相手にしてゆかねばならない男のイメージ。 二十歳のとき、ジルは内面につのる葛藤を行動に表わしはじめた 6 彼女は大工と同棲する。頭は 悪くないが教養のない男で、人生で何をしたいのかがよくわかっていない。、、 しきにジルはみじめな 気持になり、挫折感を抱き、その男にがまんならなくなった。彼女は精神科医のもとへ通い、自分 が心理学者、弁護士、陶芸家、音楽家のどれになりたいのか決心がっかないと訴えた。結局は陶芸 品店を開いたのだが、キャリア葛藤は彼女の髑みのなかでも最小のものであった。 ひとつには、ンルは性的に不安定だった。ヾ ーティの主役にならなければおさまらぬタイプ、 ポーイフレンドが自分より魅力ある女に出会うかもしれない そしてそっちへ乗りかえるかもし れない そんな不安を心の奥底に抱きながら暮す女だった。もうひとつの症状は、経済的な不満
分たちをあまり価値のないものに感じさせがちな雰囲気の競合文化に生きるという、実に不利な条 しかしなから、トムソン 件下にある。そのような状況下では、男性に対抗する姿勢は避けがたい。 博士が警告したように、羨望を認識し、それをよく見、充分把握しなければならない。それが女性 の自立にとってもっとずっと重大なものーーー女性自身の内なる無能力感ーーの隠れみのとして、あ まりに容易に使われてしまうからだ。もし女が自信と強さを達成しようとするなら、この無能力感 にーー直接にーーー手を施さなければならない。 若手弁護士のヴィヴィアン・ノールトンは、わたしが会ったとき、羨望の悪循環に巻き込まれて いて、彼女を動けなくしている内的な問題に目がいっていなかった。 「人生がこんな具合になってしまって、茫然としています」ヴィヴィアンは語づた。 ( 本書に登場 する他の女性と同様、名前と、本人であることがわかるような細部を変えてある。 ) わたしたちは カリフォルニア州バークレーにある、茶色い板ぶき屋根の彼女の素敵な家の居間で向き合っていた。 「いい収入を得ているし、法律の仕事は好きですよ。なのに、いい気分になれない。毎日、なにか こう不安の雲がおおいかぶさっている心境で勤めに出るんです」 「三年前にこの仕事を始めた頃は」と彼女は回想する。「毎朝はりきっていました。プリーフケー スをひつつかんで玄関から飛び出して、バス停まで駆けていったくらいで」 「一年くらいたった頃から何もかもが味気なくなってきたんです。仕事はとても好調だと思ってま したけど、それもいまふり返ってみれば、たんにわたしが仕事をはいはいと引き受けて、いわれる ままにやるのが得意だったから。 いってみれば体のいい雑用係になってしまって。どうでもいいよ
いての不安が増大する不安定な時期である。わたしたちは自分の発達危機を解決する過程で、成熟 度を高め、心理的健康を培っていく。 ードウィックとダ 女の子にとって、思春期はある独特な発達段階をともなってやってくる ウヴァンの称する「女らしさの第一の危機」。十二、三歳頃までの女の子は、多少なりとも自分の 思いのままにふるまっていられる。ところが思春期を迎えるや、仕掛け扉がピシャッと閉まるのだ。 いまや女の子には、新たな特定の行動が期待される。なんとなく ( そして多くの場合、ややあから さまに ) 、女の子は男の子との「うまいおっき合い」をほめられるようになる。十五歳の娘にデー トの相手がいないとなれば、たとえその娘が人生のほかの方面でいかに成果をあげていようと、母 親はやきもきしはじめる。そして穏やかながらも断乎として、異性として認められるパートナーに なるようにと娘を押し出す。女の子がーーー避けようもなく , ーーー受け取るメッセージは、きわめて明 瞭だ。男性と張り合ってはいけない。男の子の気に入られ、「うまくやっていく」ことこそ望まし ここにきて女の子たちが直面するのは、まさしく今日の文化における女らしさの中心問題となっ てきたもの、すなわち、依存と自立の葛藤である。このふたつのほどよいバランスとは ? どうあ るのが「正しい」か ? どうあるのが「適切」か ? 意見ももたず「個性」ももたない、依存心の 強すぎる女の子は、さえない、魅力のない女の子に思われる。かといって、自立心の強すぎる女の 子もいただけない。男の子たちは、そんな女の子と友だちづき合いはするにしても、恋愛の相手と してはびんとこない。 この社会に育っ女の子はみな、そんなことを教えてもらう必要はない。ちゃんとわかっているの
夢中になって追いかけていたけれども、そのために自分のほんとうの天職から遠ざけられているの だと、わたしは思いはじめた。すでに自己欺瞞と自己破壊への道を歩み出しているのだ、と」いっ も取り憑かれたように読んでいた本も、いまでは散漫で焦点の定まらない読み方をしているし、真 の知的目的を抱いているわけでもない。日記もたまに思い出したように書いているだけだ。葛藤、 なんとなく曖昧にしておきたい願望、それが彼女をからめて身動きとれなくしていた。「わたしは 何事もあきらめられず」と、彼女は語る。「したがって選択することができすにいた」 ボーヴォワールは自己不信に苛まれはじめる。動かずにいればいるほどーーー知的にも情緒的にも サルトルの虜になっていればいるほどーーーますます自分の凡庸さを思い知らされる。「わたしは、 間違いなく、投げ出していた」と、のちに彼女は記している。サルトルへの従属関係のなかで存在 することから与えられたものは偽りの心の平和だった。はつらったる伴侶であること以外たいした ことは要求されない、一種の至福の、不安なき状態だった。 必然的に、彼女のはつらっさそのものが崩れてくる。「前はいろんな着想にみちあふれていたじ ゃないか、ビ ーバー」サルトルは自分がつけた彼女のニックネームを使っていう。 ( つづいて、「よ くいる内向性の女」にならないように警告する。 ) 成熟した年代の目で見直したとき、若き娘の頃、他者に従属して存在するのが恐ろしく容易だっ のたと、ポーヴォワールは回想する。自分より「魅力ある」誰か。敬って、偶像化して、その人の影 立にはいればすつばり隠されて安全な誰か。 自 いうまでもなく、代価を支払う。、 乙さな、掻き消えてしまいそうな声が、その若き女の意識に滲 み出してくる。「わたしなんか、何でもないんだわ」その声はいう。「とっくに自分自身で存在する
をさらに強めるような職業に就く。恐怖症以前の少女が人生で達成しようとすることの多くは、本 来的に、また当然ながら、完全に正常であるーーーそして実際、賞賛に値する。しかし成就したいと いう衝動が強迫観念にまでなると、それは神経症的なものとなるーー成就しないでいることができ なくなるわけだ。 レゾン・デートル そういう若い娘にとっての存在理由は、自分の中核にある不安感と怖れを隠すことのできるひと つの要塞を築きあげることだ。「あなたはいつも、他人にいっさい口出しさせないってところがあ ったわ」と、わたしの友人の母親は娘のことをいまもってそう思いたがる。「十四、五歳の頃から、 あなたの助けになりそうなことをわたしがいったりしたりするのはご免だって、そこがすごくはっ きりしてたもの」 不幸なことに、この母親は娘の自信たつぶりな跳ねつかえりぶりを額面どおりに受け取った。そ のことにおろおろし、面くらい、わが子がどうして急にこんな知ったかぶりになってしまったのか 納得がいかなかったのだ。しかし「誰の助けもいらないわ、自分の面倒は自分でみるから」という メッセージをばらまきながら、この十代の娘は明らかな徴候を示していた。自信たつぶりの威勢の よさはひとつの演技、深く根ざした自己不信の過剰補償の行為なのだった。 恐怖症の前期症状が、十代の頃の向こうみすな資質として発揮されることはよくある。肉体的に 活発で、危ないことをやってみたり、スポーツでは攻撃的になったりする場合もあるし、あるいは 権威をもつ人間に対して挑戦的になる場合もある。その特殊な行動様式が何であれメッセージは同 じであると、女性の恐怖症を研究するアレクサンドラ・シモンズはいう。すなわち、わたしは誰の 助けもいらない、自分の面倒は自分でみる、というメッセージだ。
内面的に混乱と不安をかかえているので、女は自分の能力の最前線ぎりぎりのところまで出て十 全に生きることから尻ごみする。昨年の夏、わたしの会った旅行代理店の女性はこういった。「わ たしたちはまだ自分の足で立っことができていないんです。「いいわ ! わたしに任せといて。わ たしがこなせますから』といえないんです。女はまだ怖がっているのです」 いったいなぜ、女はそんなにおじけづくのか。その答えは、シンデレラ・コンプレックスの根に 存在する。体験も関係している。実際に外へ出て仕事をしないのなら、世の中の仕組みをいつまで も怖がっているだろう。ところが、キャリアや職業でかなりの成功をおさめながら、なおも内面的 に不安定な状態でいる女性が多いのだ。事実、以下の章で見ていくように、今日いかに多くの女性 しん が、外面はいかにも自信のかたまりであるかのごとくにふるまいつつ、自己疑惑という隠れた芯を もちつづけているか、それは驚くべきものである。最近の心理学調査は、その芯たる疑惑が今日の 女性の特徴であることを立証している。「受身、依存、そしてとりわけ自尊心の欠如といった特質 が、女性を男性からたびたび区別する変数である」ミシガン大学の研究報告で、心理学者ジュディ ードウィックは述べている。 そうした研究報告によって初めて納得がゆくという女性ははとんどいないだろう。自信の欠如は 幼少期からわたしたちにつきまとっているようだ。それが独自に存在するものであるかのごとく思 生われるくらいに、その強さは肌に感じられる。ニューヨークの画家、ミリアム・シャピロは、無防 備の子供が、「脆弱で頼りなく、おずおずとして自己疑惑にみちた子供が」自分の内部に住んでい 退 ると思いながら、ずっと生きてきたと語る。絵を描くときにのみ、その内なる子供は「積極的にな り、生き生きとして : : : 自由に動きまわることができる」という。
他人の意のまま、回転人形 幼い女の子の恐怖心は、しばしば母親のとる姿勢が原因で始まる。心配する母親は、この自分を この母親をーー・不安にさせるような行動をとらないよう、子供に教える。危険を避けるように と幼い娘に教えることで、不安な母親は、知らぬ間に、子供が恐怖を扱うすべを学ぶのを妨害する。 人間にとっても動物にとっても、新たな状況下での恐怖を克服できるようになる唯一の方法は、 恐ろしい状況に接近しては退きさがるのを繰り返すことだ。「小さなコントロールされた量での、 ークレイ・ 繰り返しなされる恐怖反応の喚起は、ついには恐怖反応の消滅へとつながる」と、 マーティンは「不安と神経症性障害」のなかで説明する。 母親は、恐怖を引き起こすような状況にデボラちゃんが出会うことすらさせまいとし、おかげで 子供は、それに対する自分の反応をいかにコントロールするかの経験を得られない。自分の恐怖反 応の扱い方に何の経験もない子供は、人生を恐怖に支配されるおとなになりやすい。要するに小さ のなデボラは、、 幻学校、高校、大学と恐怖多発性のまま過ごし、おとなたちの恐ろしい冷たい世界に るまでそれを持ち込むだろう。そこで彼女は、自分の恐怖を「管理」し、「その上に乗っかりつづけ」、 さ 寄せつけまいとすることで、これに対処する。恐怖はーー、・・・それを鎮め、もしくは、できることなら え 完全に避けて通ることによってーーー最終的にはデボラちゃんの人生における主要動因 ( あるいは反 を ち 動因 ) となる。むろんその結果、自信形成が非常に困難になるのだ。 娘 いくつかの研究によれば、女の子はーーとりわけ利発な女の子はーー自信という面で深刻な問題 をかかえている。彼女たちは一貫して自己の能力を過小評価する。さまざまな課題についてーーー初
人前で話すということも、女にとっては苦手である。コロンビア大学の大学院生二百名を対象と した調査で、ある教授は、男子学生の二〇 % に対し女子学生の五〇 % が人前で話ができないと報告 している。なかには不安に耐えきれず目まいや失神の発作に襲われる例もある。 自尊心が低く、面倒をみられたいという内的願望を抱いている女にとって、一般にコミュニケー ションはむずかしい。どぎまぎして 、いいたかったことを忘れ、的確な言葉が出なくて、人をまと もに見ることができない女性もある。あるいは赤面し、ロごもり、声が震えてくる。あるいは誰か に反対されたとたん、論旨の筋道を押し通していけなくなる。しどろもどろで泣き出さんばかり 反論しているのが男だとなれば、とりわけそうだ。 わたしがインタビューした多くの女性は、こういう体験を語っている。つまり、会話の振り子が 向こう側へ揺れて男の側へ行ってしまったとたん、一貫したつながりの感覚、自分の知っているこ とを心得ているという感じ、自分の権威が消滅するというのだ。 こうした問題はすべて作業不安のもろもろの形態であり、そして作業不安はさらに別の一般的な 怖れと結びついている。すなわち、社会において無能力で無防備だという気持にともなう怖れ、反 対意見をもっ他者からの報復に対する怖れ、何かまずいことをして非難されることの怖れ、「ノー」 ということの怖れ、小細工せす明快に自己の要求を述べることの怖れ。こうした怖れはとりわけ女 生に影響をおよぼす。なぜなら女は、自活し自己を主張することは女らしくないと教えられて育っか のらだ。女は男にとって魅力的でありたいとーーー強烈にーーー願う。男をおびやかすことなく、優しく、 退「女らしく」。この願望が、女が生きてゆくうえで味わえるはずの喜びと、発揮しうるはずの生産 性とを妨げる。