「すると今度は、ジルは怒りを表わしはじめてきたのです。二年間わたしに不満を抱いていたから 置っているわけですけれど、そんなことをわたしょ ) ) しししませんでした。問題はこうだといったので す、つまり、なぜわたしにそういうことを話してくれなかったのか、と。すると突然、彼女は外出 を怖がり、自分自身で何かをするのを怖がるようになりました。生活の堅い構造を手放すことがで きないから、休暇を取るのが怖い。表向きの顔がなくなってみると、彼女は依然として両親に依存 しているのがわかります。そこを、ああいう逆依存行動が包み隠しているのです。依存心は、わた しのみならずボーイフレンドに対する怒りの形をとって現われます。彼が弁護士になろうとしない から、ちゃんと面倒をみてくれないから、そういってむちゃくちゃにボーイフレンドに当たる。そ れに、このわたしも彼女の母親になってくれないわけですし」 ジルは、たくましく躍動的な父親のイメージを恋人に重ね合わせ、父親がいつもそうしたように、 社会的刺激のみならす稼ぎをたつぶり持ち帰ってほしいと望んでいた。お金、興奮、刺激的な政治 家の友人ーーーそうしたものをすべて、ジルも母親も「ヾヾ ノノ」から与えられていたのだった。父親と 比べれば、ジルの同棲相手はいまひとつ物足りない。「人の好い、穏やかな、優しい男で、彼女の 両親からもとても好かれていたんです」と、セラピストはいった。「でも明らかにジルは彼が不満 でした。大学時代につき合っていた男も自分が何をしたいのか確信をもっていなくて、それでだめ になったのです。ジルは相手の優柔不断にがまんできなかったのです。相手の男が力強く感じられ ないと、彼女自身が力強い気持になれないわけです」 ンルは母親のようになりたくない。引きこもって受身の生活をしたくない。彼女が同一視する対 象は、もつばら父親である。しかしそれほどまでに強力で、一切を提供する人物として、自分自身
り」 ボーヴォワールはすでに、命を賭けるのでなければあきらめるしかない状況をつくってしまった のだ。どうしようか。自分にできる唯一のことをするしかない。彼女は勇気を奮い起こし、そして 結局、「無事に降りた」。 ポーヴォワールの友人たちは彼女の身を案じ、単身の山歩きは危険だと忠告した。とりわけヒッ チハイクはやめてほしいといった。しかし彼女は誰にもわからないくらい厳しい使命に燃えていた。 ひたむきな情熱をもって、自分自身の魂を取り戻そうとしていたのだ。 自分自身になるとはどういうことか。それは自己の存在の責任を担うことだ。自己の人生をつく りあげること。自己のスケジュールを立てていくこと。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの山歩きは、 彼女の個としての再生の方法であり比喩であった。「わたしはひとりでサンヴィクトワールの山 頂の霧のなかを歩き、ピロン・ド・ロワの尾根をたどった。強風に立ち向かっていくと、べレー帽 が吹き飛ばされ、眼下の谷底へくるくる舞い落ちていく。やはりひとりで、ルべロン山脈の山峡で 道に迷った。そうした瞬間は、その暖かさ、優しさ、激しさすべてとともに、わたしに属するもの であり、誰に属するものでもない」 七月十四日の革命記念日、パリへ帰ることにしたこの日、彼女は重要な意味で別人になっていた。 自分で友人をつくり、自分で人を評価するようになっていた。孤独に楽しみを見出した。この意義 ある一年で学んだ教訓を評価して、彼女はこう書いている。 「本はあまり読まず、書いた小説もつまらなかった。しかし一方、わたしは選択した仕事に情熱を 失うことなく取り組み、新たな熱意を得て豊かになれた。みすから課した試練から誇らしく立ちあ
引きこもったママ わたしがサルカに会ったのは ( 彼女も仮名である ) 、カリフォルニア州オークランドの「解任主 婦センター」だ。ここには権利剥奪といったものを思わせる深刻な雰囲気がーーーそれに声の響きが ある。さながら強制収容所。なにしろ名前からして「解任主婦センター」だ。奮闘してはいる が決して浮上できそうにない、どこかの小政党の本部だといえばびったりかもしれない。 ロッド式湯沸かし器とインスタントコーヒーがまず目につく。それに発泡ポリスチレンのカップ ダと緑色のメタル製クズ箱。ここで働く女性はボランティアだ。彼女たち自身が解任主婦で、「党」 工が自分たちの立て直しを計ってくれるのを期待している。この女たちは決してぐうたらではない。 ) ン 心地よすぎるーー生活を送っていた。結婚が崩壊して、 結婚したときにはその多くが心地よい まわりの世界まで崩壊してしまったのだ。少なくともここには秩序があるーー・腰かけて向かうこと の状態をつづけ、自分が実はどれほど不安定な気持でいるかを決して感じ取れないだろう。何か外 部の出来事が無理矢理それを教えるまでは。 女が自己認識の間際まできていながら、多くの場合、何か破滅的なことが起こってからだを揺さ ぶられるまで自分自身の真実に直面できないらしいのは、とても残念だ。あの午後、エイドリアン が彼女自身に実に多くを知らしめたあとーーーそれでもまだ充分ではなかったー・ーわたしは思わずに いられなかった、彼女は人生のこの時点で、サルカ・プリスのような女性に出会うのが賢明だった ろうに、と。
の姿をいまもって覚えているのは、それがわたし自身のもう一面と鮮やかに対照するからでもある 引っ込みがちの内気な女子学生、まだ子供で、経験もなく、不安定なわたし。そんな一面のわ たしが、まだ後ろに控えていたがって、ただその場をしのいで満足しようとした。これが縮こまる 女、家賃を払い、電話会社に来月まで待ってもらえれば、それでよし。わずかの食べ物と暖かさが あれば、それで充分ではないか。 そんな時期の終わり頃、電気掃除機が故障した。修理に出そうとしなかったのは、まさにひとっ ほうき の徴候である。「箒で充分用が足りるものね」自分に言い聞かせ、毎日毎日わたしはせっせと掃い た。「掃除機がなかった頃、女は箒を使っていたんだから」 その頃のわたしはなんとおびえ、なんと狭く閉ざされた生活を送っていたのだろう。劇場の切符 がたまたまただで手に入ったとき、というより、ちょっとしたバレエ記事を書く仕事がきて、ニ ューヨーク・ステイト・シアターの舞台袖で立ち見できることになったとき、わたしは嬉々とした。 わたしは目を見開いて、とある若いダンサーが絶妙の技をくりひろげ、ストラヴィンスキーの激し 勝ち誇ったような音楽に全身をぶつけていくのに見とれた。なにかしらこのダンサーが魔法の 生きものであるかのように思いたくなった。目もくらむばかりの演技と、全身から流れ落ちる汗や 顔の歪みとが、どうしても結びつかなかった。その顔の歪みを見たのは、踊りの合間に彼女が観客 に背を向けるときだったが、彼女はまるで砂浜に打ちあげられたヒラメか何かのように、はあはあ と見るもおぞましく息をついていた。 漂着した、そんな感じ。奮闘のかぎりをつくしてへとへとに 衰弱しきったという様子。 彼女の華麗な芸術と、それを達成するためになさねばならない拷問のごとく厳しい労働、そのふ
和びくびくおびえ、不安定で、知的にも精神的にも驚くほど未成熟。籠から喜んで飛び出したものの、 自分自身の人生を生きてゆく新しい自由に内心ではたじろいでいる。前方に横たわるのは、ジャン グルにつづく暗い、 障害物だらけの道ばかりだった。 おとなの世界に本気でかかわることへのわたしのためらいをよくあらわす徴候は、お金に対する 特異な態度だった。もっとお金を必要としているのに、それをどうにもできないと思っていたのだ。 ライターとしてなんとか食べられるだけ稼ぎながら、なにか魔法の「ツキ」がめぐってくるのを待 ち望み、大もうけのチャンスがそのうちころがり込んできて、それをつかまえることができるだろ うと思っていた。 自分の稼ぎで暮しはじめた最初の二、三年間、わたしは自分が稼いでゆく暮しの財政的現実を見 積もりもせす、大学で学びなおすことを考えもせす、自分の状況を安定させるような計画を立ても しなかった。現実を見まいとして、両目をしつかと閉じ、「そのうちなんとかなるだろう」と思っ ていた。月々の支払いをしなければならないのだから、純然たる現実がつぎつぎ襲ってきたが、わ たしはおびえきった受身でこれに応じた。自分の生活の責任を引き受ける方向に進んでいくのでな く、ただたんに絞首台から逃れているのだった。 同時にまた、再婚する気がないのはよくわかっていた。結婚していたとき、あの抑えがたい依存 欲求を撃退する力がわたしにはなかった。ひとりになったいまは、いやでもそうせざるをえない。 ある意味で、この直感は正しかった。なるほど依存心は依然として潜在し、独り身の女として生き てゆく必死の戦いの下に潜伏していたけれど、少なくとも四六時中それに基づいて行動することは なくなった。妻だった頃のように毎日毎日、自分の無力感を強めていくことは、もはやしなくなっ
に負えそうもない可能性をいろいろと提供する。昇進、責任、男の道案内なしのひとり旅の機会、 自分自身で友人をつくる機会。ありとあらゆる好機が女の前に急速に広がってきたが、その自由と ともに新たな要求もやってきた。女は成長し、「女より強い」と思いたがる誰かの庇護の陰に隠れ ることをやめねばならないこと。自分自身の価値観でーーー夫や両親や教師の価値観ではなくーー決 断をしてゆくこと。自由はわたしたち女が本物となることを、自分自身に対して偽りのない存在と なることを要求する。そしてここから突然に事はむすかしくなる。もはや「よき妻」や「よき娘」 や「よき学生」としてやっていけなくなるからだ。 どうやら、わたしたちが権威から分離して自分の足で立とうとしはじめるとき、わたしたちはそ れまで自分のものだと思い込んでいた価値観が自分のものではないことに気づく。それは他者のも のだ はつらっとして何から何まで包み込んでしまう過去の、はつらったる人たちのものだ。っ いに、真実の瞬間が訪れる。「わたしはほんとうに何ひとっ信念をもっていない。自分が何を信じ ているのかもわかっていない」 これが女性をおびえさせるときであるはずだ。かってはあれほど確かに感じていたもの一切が地 滑りを起こした軟弱なローム層のように崩れ落ち、女は一切に確信を抱けなくなるーーーそして、お びえきってしまう。懐かしい一昔前の支柱構造がーーもはや女たちの信じてもいない信仰が うして目くるめくように失われるということ、それは真の自由の始まりを画するはすだ。しかしそ 望 願れがわたしたちをおびえさせるからこそ、わたしたちはあたふたと後すさりするーー・安全で、居心 依 地よくて、なじみぶかい古巣へ。 どうして女は、せつかく前進する機会があるというときに、後すさりしがちなのだろうか。理由
う。「攻撃、悲痛な思い、混乱が」とホーナーはいう、自己の潜在能力を押しつぶす女たちの引き 当てる運命なのである。 結婚後まもなく議会補佐の仕事をやめたワシントンのある若い女性は、退屈と不満を感じはじめ た。しかしそれを自分自身の問題として見極めるかわりにーー・そして処理するかわりに に怒りを向けていた。「夫が仕事で出張するたびに、欲求不満にじりじり苛まれたものです」彼女 はいった。「なぜ彼が、彼だけが、見知らぬ土地や人々に会いにいけるのかって。彼は出張から帰 るといつもご機嫌で、興奮してて、あたしもむりして興味のあるような顔をするんですけど、内心 じゃ怒り狂って、恨みでいつばい」 「子供のない友達の生活がいつも羨ましかったです」別の女性は語った。女優である彼女は、結婚 したほとんどその瞬間から、自分が何かを奪い去られたのを感じたーーーといっても、何かをあきら めたのは実際のところ彼女なのだ。「舞台生活が懐かしくなって、運命があまりにも早くあたしを 縛りつけたって気持でした」 ( 痛切に望むものから逃げ出しているのがまさしく自分であることを 認識せす、女たちはしばしば何かからカをおよばされているーー・犠牲になったーーーという思いを味 わう。どうしてわたしがこんな目にあわなきゃいけないの ? ) この女優は最後には、自分の人生にかかわる何かをするのがほとほといやになったのだが、それ までの長い年月、自分より自由が多いと見えた友人たちを羨んでいた。「あるとき独身の友達と共 同で芝居をつくろうとしたのですけれど、その人のほうはネタ探しも、街で遊びまわるのも、生活 に余裕をもってやりこなすでしよ。それに比べるとあたしなんか、ぎくしやくしてばかみたいに思 えて」
る。自分がどう見えるか、どのくらい「魅力的」かといったことを、妻たちは異常なまでに気にす る。結婚生活のある部分になかなか適合できないと、すぐ自分を責め、問題の原因を自分の至らな さのせいにしがちなのだ。たとえ夫婦関係をもつれさせているのが夫のほうでも、女はその罪が自 分のもののように感じる。 本書のリサーチのあいだわたしが話を聞いた女性のうち、すべてを断念し、見るからに痛ましか ったのは、三十代にして離婚と再婚を経験しながら、第一夫と第二夫とのあいだで自己充足度の増 していない女性たちだった。「離婚してからつぎの夫が現われるまでは、世に忘れ去られたみたい な気がしていました」リトルロック出身の女性はいった。「ただただつぎの夫を待っていました」 「わたしは一人前じゃありません」これまでにサラリーを稼いだことのない、修士号をもっ女性は いった。「わたし自身やわたしの家族を養うという観点でものごとを考える必要がありませんでし たし、いまからそういう考え方をしようと思ってもむずかしいですね」 「自分に向かってつぶやくときがくるわけですよ」別の女性はいった。「「やつばりどう考えてもあ の人のああいうところはいやだ、こんなに深くはまり込む前は気づかなかったけれど、いまではわ たしも成長して変わったし、とても受け入れられない」それでそのあと、「いいわ、じゃ、これか らどうする ? 』ってことになる。離婚しようかと考える、別居しようかと考える。でも二度目とな 想るとそう簡単にはいきません」 虎の子の貯金を手放した女性はいう。「変えたい気はするのだけれど、たぶん変えはしないもの、 結 そういうものがあることに結局は気づくんですーーーしよせんは無理難題。ときにはそのことでふさ ぎ込みますが、「いや、もっと別の見方があるはずだって考えまして。最初は、わたしはこうい
う状況を変えたいんだって思いつづけていましたけど、いまは受け入れることこそ大事だと考えて います」 不平をもらさない女性、自分を豊かにしない結婚生活のなかにありながらストイックで「強い」 女性は、概して不健全なまでに依存している女性である。妻として夫に正面から立ち向かうことが できず、というのも、まともにそれをやるにはみずからの怒りと敵意を心に燃やさなければならず、 それはあまりに危険すぎる。これらの女性は内なる強さの産み落とした選択として愛するのではな 強さとしての思いやりや寛容さは、自分自身のうちにまるごとの自分、尊重に値する自分を 感じてこそもてるのである。これらの女性は、ひとりで立っことを怖れるがゆえに「愛する」ので ある。 傷つきながら「依存卒業」 依存はそれ自身を常食にして育つ。依存した女は最後の最後には、真の奴隷状態に置かれた自分 に気づくだろう。そして屈辱を味わい、「迫害者」すなわち自分が依存する男に視線を向ける。こ の段階にくると、内に目を向けるのは、不可能とはいわないまでもむずかしい。「わたしに生きる べき人生がない理由は彼にある」、そう彼女はつぶやくだろう。 カリフォルニア州バークレーの心理療法医マーシャ・ゴールドスタインは、融合した共生的関係 から夫婦を脱却させるための指導が専門である。訪れる人たちは、ときには以前よりもっとおたが いを愛し、おたがいに怒らなくなるばかりか、個人として生活をより楽しめるようになり、そのま
認解き放っことだ。本書の主題は、個人的、心理的な依存がー・ー他者に面倒をみてもらいたいという 根深い願望がーー今日、女を押さえつけている主力だということにある。わたしはそれを「シンデ レラ・コンプレックス」と名づけるーーー網目のように入り組んだ抑圧された姿勢と恐怖、そのため に女は一種の薄明りのなかに放り込まれたまま、精神と創造性を十全に発揮できすにいる。シンデ レラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ちつづけてい るのだ。 自分の個人体験を出発点として、わたしは本書の特徴である心理学的、精神分析学的理論を、女 たち自身の物語に織り込んだ。 ( 註を加えた個所では、人名と細部を変えてある。 ) 本書には、独身 の女も、夫のある女も、愛人と同棲中の女も登場する。キャリアをもっ女もいれば、家庭から一歩 も出たことのない女もおり、一度は出たものの結局は引っ込んでしまった女もいる。都会の洗練さ れた女もあり、片田舎に暮す女もある。未亡人、離婚した女、離婚したいのに踏みきれずにいる女。 夫を愛してはいるが自分の魂の死を怖れる女。インタビューした相手はたいていが教育のある人た ちだったが、そうでない人もいた。しかし彼女たちはひとり残らず、持って生まれた能力のはるか 、おんなっちろう 下の機能しか果たしておらず、自分でこしらえた女土牢みたいなところに暮していた。ひたすら 待ちながら。 本書の下調べのあいだにインタビューした女性の大多数が、「この問題」を忘れている。自分の 欲しているものが・ーーあるいは、欲してきたものが ただただ自由なのだということを、頭では わかっている。しかしながら、情緒的に、深い内面の葛藤に苦しんでいる徴候を示しているのだ。 なかには、自分に不安を抱かせ、しばしば気のめいる思いをさせるものの正体をちらりちらりと