れいで、しゃべれなかった。そのおじさんの、よいものを人にも見せてやろう、という心 の恩恵にあずかった。 熱海に着いておじさんと別れ、へとへとになってお金もなかった私と裕志は富士山の空 気を抱えたまま、温泉つきのラプホテルに人って、おどろおどろしいべッドで小さくなっ て泥のように眠った。 そして、そんなふうにぶらぶらしてお金がっきた一週間後、家に戻った。旅慣れていな くてお金に余裕がなかった私たちにはきつく、もう当分旅行はしなくていいね、と言いな がら家にたどり着いた。誰も怒っていなかったし、反応といえば母が喜んでおみやげの干 物を焼いてくれるくらいだった。 お父さんからの使者は、おじいさんにだけ会って、おみやげを置いて帰ったということ だった。よほどっまらない会合だったらしく、誰もそのことについてくわしく語らなかっ た。どうも、裕志のお父さんは裕志に会いたがっていてぜひ遊びに来てほしいが、その宗 ということをていねいに言いに来ただけのことら 教に今から人っても幹部にはなれない、 、と怒って帰してしまったらしい。お父さんの写 しかった。おじいさんは今さら関係ない 真も、手紙もなかった。裕志はまたも心のどこかで深くあきらめているものを、さらにど
目を閉じているとこれまでのこと、幼かった頃のことや、おじいさんがまだ元気でこの家 に少しは活気があった頃の思い出が次々によみがえってきた。おじいさんにいつももらっ たお菓子のことや、プールから帰ってきて日なたで寝たことや、そういう時におじいさん がたてていた物音の暖かさや、幼い裕志とおじいさんが協力し合ってはじからきちんと洗 濯物を干してゆくかわいらしい様子や、そういったことが 私は鼻歌を歌ったり、小さなライトをつけて本を読んだりまた明かりを消したりを繰り 返したが、いっこうに眠くならなかった。 「眠れない。」 私は言った。 「僕も。」 と裕志は言った。闇の中で見開かれた裕志の瞳が真っ黒に見えた。 放「大事なことを言ってなかったんだけれど。」 裕志が言った。死んだきようだいのことだ、と私はふとんの中で心構えを作った。しか 解 し全然違うことだった。 「実は、僕のお父さん、少し前に死んだらしいの。」
て裕志を引き取りたいと言ってくる可能性があったからで、もしそれがなかったら私たち はその時にわざわざ結婚なんてしなかっただろう。そのくらい生活はなにも変わらなかっ た。とりたてて盛り上がりもなく、面白みが加わるわけでもなく、二人でそのうち近所の どこかに越そうかという案も出ながら、結局私は私の家に両親と住みながらぶらぶらとし ていて、裕志はアルバイトをしながらおじいさんと二人で暮らしているままだった。 裕志のおじいさんが死んだのは春先だった。 裕志がひとりで遺品の整理をしたいと言うので、私はそれを尊重して、葬式が終わって からは放っておいてあげた。毎日遅くまで、裕志の家には明かりがついていた 葬式に裕志のお父さんが来なかったのが不思議だったけれど、裕志にはわけを聞かなか った。裕志のおじいさんというのは、お父さんのお父さんだったのに、なんでお葬式に来 なかったのだろう、ほんとうに縁が切れてしまったのだろうか、と私は思った。裕志のお 母さんというのはカリフォルニアで裕志のお父さんと別れてからは行方がわからないらし : おじいさんの所に、裕志をよろしくと手紙が来たきり、連絡はないと聞いている。ど ちらにしても二人とも裕志が幼い頃に裕志を捨てて信仰を追い求め、外国に移り住んだこ
やむなく私の所に来ているのだ、と私は知っていた。 庭に潜む夜の闇が私にそれを、裕志のほんとうの心を教えてくれる。裕志の足音の響き 方や裕志が連れてくる夜の匂いが、その息苦しさを感じさせてくれる。裕志がロに出して いる以上のことを、私は知ることができた。 私がその午後、裕志の家を訪ねたら、裕志はろこつにいやな顔をした。私は気にせずず けずけ上がってふとんを干しはじめた。すると裕志は無言で片づけに戻っていった。家中 にまだ、おじいさんの匂い、懐かしい、古い布のような優しい匂いがしていた。そして家 の中を一周してみて、私は裕志が超人的ペースで片づけを進めていたことを知った。長年 のつらさまでも葬り去ろうとしているかのように、おじいさんがいたことを一刻も早く忘 れてしまいたいというように : : : ふとん以外、押し人れはもう空っぽで、きれいにぞうき んがけをしてあった。そして、おじいさんが寝室にしていたはじっこの和室に、捨てるつ もりのない遺品がきれいに整えられ、ダンポールに人れられてまるで遺跡のように隙間な く積み上げてあった。 小さい頃、裕志はその部屋でおじいさんと寝ていた。時々、心臓が止まっていたらどう
裕志はわかってる、と言った。 「そんな、長年の考え方の癖なんかにのっとられないで、オリープと生きたみたいに、の びのびと生きようよ。生きていれば、今のショックを忘れたように思える時も、くるかも しれないよ。だって、裕志はずっとそうしてきてほんとうはもうあきあきしているはずだ よ。おじいさんの代わりを見つけてまたびくびくして暮らすくらいなら、なんで生きてい るのか、わからなくなっちゃう。だって、ものごとにはきっと、悲しい面もあればいい面 もあると思うの。おじいさんが死んだのは悲しいけど、そんな恐ろしい、痛い死に方じゃ なかった。そしてこれからは裕志はもう心配ばかりしなくていし 今からが、裕志の人生 って言えるようになるかもしれないのに、なんでそんな悲しいことを一言うの ? 」 裕志は私の胸に顔を埋めて、泣きに泣いた。涙が私のパジャマの胸と、地面にしみてゆ く。まるで供養みたいだった。これもまた無駄のないことなのかもしれないと思った。裕 志の涙は無駄なく大地に吸い込まれ、死者をなぐさめる。きっと、おじいさんにも届くだ ろう。裕志の長年の祈り、無念、淋しさ。全てがこの涙の中に溶けている。なめてみたら、 しよっぱかった。 空気は魔法のような青色からじよじょに朝の白い光の明るい気配が混じりはじめていた
とだけは確かだった。 私は裕志が遺品の整理をしている午後、ひとりで庭の椿の下にいつもいた。私はたまに 母の仕事である料理の本の翻訳の下訳をしたり、母が忙しい時に家事を手伝うくらいでな んにもしていないので、時間がたくさんあった。だから椿が咲いている間は、晴れた日は 洗濯物を干してから、新聞紙を敷いて椿の木と一緒にいた。目を閉じたり、閉じなかった り、はだしになったり、またサンダルをはいたり。椿の下にすわっていると、濃い緑の葉 の間から青い空が見えた。そして、椿はそのまるでプラスチックのような色をしたピンク の花と、おもちゃのようなデザインの花芯を惜しみなくぼたぼたと地面に落っことして、 真っ黒い上を彩った。その色彩の組み合わせは、強いコントラストでとても激しかった。 私は幼い頃から毎年、その椿の木がどんどん花を咲かせてはいさぎよく落とす様を見てき た。なんにも変わったことはないのに、このように、人だけが風景の中からいなくなった ん りすることがある。見るからに頼りない様子で、裕志の色白なおじいさんが真っ黒いズボ ンをはいて朝の五時に大きなほうきで家の前をはくところを見ることはもう二度とない 釜 裕志は幼い頃からおじいさんが死ぬことを大変にこわがっていた。おじいさんが風邪を ひいたり、骨折や胆石など、生命に別状がなさそうな病気であってもしばらく人院したり
しようと、夜中におじいさんの胸に耳をしよっちゅうあてたものだ、と裕志は前に言って いた。そのきちんとしたダンポールのあり方や、本がきちんと大きさをそろえてひもでく くられていることや、家具がていねいに積み重ねられているのを見ていたら、裕志の真の 悲しみやおじいさんに対する静かな愛情が伝わってきて、私は泣いてしまった。 そこに裕志がまたひとつ、ダンポールを抱えてやってきた。 「なに泣いてんの ? 」 裕志は言った。 荷物で窓が半分ふさがっていて、窓の形に半分だけ、四角い形で畳にうす陽が射してい た。私はそこに舞うほこりが光るのを見ながら、 と言った。 ん 裕志は私のとなりにすわって言った。 「子供の時から、いつもなんとなく覚悟してたから、生きている時から無意識にこの片づ 釜 けの順番を考えていたみたいすごくはかどるんだ。」 「そんなのちっともゝ しいことじゃないわ。」
四うそになってしまう。裕志の世界からおじいさんとオリープがいなくなったということが どれほどのことか、苦労知らずの私にはきっとほんとうにはわからなかった。きっと私の そういうところに彼は救われてもいるのだろう。 それでその期間私はオリープの代わりに、小さなべッドに体が痛くなるくらい小さくな って、裕志に寄り添って眠った。裕志は石みたいに固く力を人れて眠っていて、寝返りも 打たなかった。これでは朝起きたら体中が痛いだろうな、と私はよく夜中に思った。 春も近づいてきたある朝、私は裕志に言った。 「手伝おうか ? 」 「だって、まだ一日三回くらいは泣いちゃうんだもん。泣くところ見られたくないからい 裕志は言った。そういう時、私は裕志が強いのか弱いのかさつばりわからなくなる。 裕志はほんとうは先月あたりからトリマーになるための学校に行くことになっていたカ おじいさんが倒れたので行かなかった。このまま裕志はなにもしないかもしれないな、そ うしたら私たちは世界一ぶらぶらしている夫婦だな : : : と覚悟してしまうくらい、やる気
なにもない日々 私は言った。心の中では、今まで一度も病的なところがあるとは思ったことのない裕志 が、底にたどり着いてしまっていると強く感じた。彼は思いっきや、短い期間で考えたこ とを軽くしゃべったりしないので、ロにする時はいつも本気だ。底の部分ではありとあら ゆる妄想が現実味を帯びてくる。 「それでも私の死ぬところを見なくてすむでしょ ? 」 裕志は黙っていた 「私は、今、生きているのよ。あなたに心配してもらわなくても、死ぬ時は死ぬ。裕志は ね、今、おじいさんかいなくなって、心配することがなくなって、心配する日々のほうに 置れ親しんでいるから、別の生き方がこわいだけだよ。」 私は言った。私は実際におじいさんが体を離れていく瞬間の恐怖を味わっていなかった から、裕志がどれほどショックを受けたかを思うと、ほんとうはかわいそうに思っていた でも、そういう言い方しかできなかった。 「ためしに私、プラジルかなんかのどこかとりわけ危険な町にひとりで行って、帰ってき てみせようか ? でも、死ぬ時は、この町内でも死ぬよ。裕志が心配してくれても、くれ なくても。」
としか言わなかった。もともと無ロな裕志はますますしゃべらなかった。結局私たちは 夜中の一時までうどんを食べ続けていることになった。 +> も音楽もないその小さな台所 で向かい合って。 私はあんまりにも心がひまだったので、 「ここ改壮衣しょ , つよ、明るく。」 などと鬼嫁みたいなことを冗談で言おうと思ったけれど、言える雰囲気ではなかったの でやめた。そして大切なのは人れ物よりも人の心だ。裕志がおじいさんのことを思い出せ たほ一つ、かしし どうせ私たちは、万が一私がここに住むことになっても、白蟻がこの家を 食い尽くすまでこのまま住むだろう。 それでもどうしてか、もしも私が住んだなら、この家は温かくなるような気がした。い つの間にかこの家の中はこんなに淋しく、がらんどうのようになってしまったのだろう。 ん おじいさんが死んだからではなくて、長年の蓄積が感じられた。家のすみずみから、乾い た悲しい感じが漂ってきた。それでも、少しずつ変わっていくかもしれない。私が生ける 釜 であろう草花のせいでもなく、 私が持ち込むであろう食料のせいでもなく、私のふともも や、私の髪の毛や、はだしの足、若くて生きているそういうものがうろうろするだけで、