富士山が見えた。 「費れいおに と同時に言って、私たちは息をのんだ。見晴らしのいい所に車を止めて、三人で降りた。 「見たことないだろうけど、月の明かりで見る富士山がいちばんきれいなんだよ、でも、 満月に近くて晴れていないとだめだからね、あんたたち、運がいいよ。」 とおじさんは言った。 富士山は、闇にそびえたち、呼吸をしている生き物のように見えた。ふもとまですうつ と流れるような長い線を描いたその美しい形で、月明かりに青白く照らされて光っていた。 昼間見るよりもずっとなまめかしく、触ることができるくらいなめらかに見えた。ふもと の町明かりがごちやごちゃとその裾を彩り、空には月や明るい星があった。絵のような景 色だった。そこだけ空間の質が違うように見えた。もっと澄んだ、触ったら切れてしまい 放そうな素材でその空間ができていて、私たちが住んでいる世界よりも一段上の世界の景色 だと思いたくなるような眺めだった。あれは富士山ではなくて、地上にお月さまが降りて 解 きて体んでいるんだ、と言われたらきっと信じただろう。 これを見ることができてよかった、と私たちはロに出さずに思っていた。あまりにもき
解放 とおじさんは聞いてきた。 しいえ、新婚旅行。帰ったら、入籍するんです。」 私は言った。裕志は、黙ってろ、と言いたそうにして黙っていた そのおめでたさにめんじて、夜、二千円で熱海まで、富士山を見ながら連れて行ってあ げよう、とおじさんは約束してくれた 旅は、こういうことがあるから面白いでしょ ? と言うと、裕志はうなずいた。裕志と の結婚で気分が高揚したことはそれからも一回もないけれど、たいていの時「この人生で なかったら外国に住むのに。そしてポルシェからトラックまでなんでも運転できて、はき はきしていて感じがよくて、いろいろな所に旅を一緒にできる、男らしくてさわやかでハ ンサムで金髪の鼻が高い人に、すごく愛されて結婚したかったなあ、そして、彼のでつか いママの手料理で、見たことも聞いたこともないようなものをごちそうしてもらいたい」 というような空想をしていることのほうが多いけれど、その時は、海が灰色で、浜も灰色 で、空もところどころ鈍く光ってところどころ青いくらいの灰色だったのに風がとても心 上いいから味のある景色に思えてきて、波がたまに白いしぶきをあげてきれいに寄せてく おる伊東の浜辺で、ああ、昨日までは名前のない関係だったのに、今は婚約者だ、この裕志
一つでもいいとい一つところまであきらめることになった。 「裕志、今、前に熱海に行った時のことを、思い出していたの。」 私は言った。裕志はまだ起きていて、 「富士山がきれいだったね。」 と一一一口った。 「裕士ハ、明日からど , っしょ , つ。」 「明日、考えよう。今日は疲れた。」 そう言って、裕志は、しばらく黙った。 ( しし力もしれない。だって、もう、家で待っているおじいちゃん 「でも、旅行に行くのよ ) ) ゝ のことを心配しなくて、 いいんだから。」 放裕志は震える声で言った。 おじいさんは、決して暖かくも子供好きでもなかったけれど、裕志がやっかいだからと 解 いってカリフォルニアにあげてしまうことは決してしないで、一度も苦痛を口にせず、裕 志を守り抜いた
つないで黙っていたら、いつの間にか寝てしまった。 次の日、一日浜辺でぶらぶらしていたら、タクシーの運転手さんと知り合いになった。 彼は、夜、晴れたら夜の富士山を見せてやる、と約束してくれた。おじさんは、よく浜辺 の干物屋で体憩を取るけれど、あんたたちほどぶらぶらしていられる子たちは見たことが ないよ。と言った。 それもそうだ、と私は思った。浜辺でぶらぶらしているということは、想像の上ではや さしいが、実際はむつかしい。だんだん服も髪も手も潮風や砂で汚れてうっとうしくなっ てくるし、飲み物や食べ物なんて一瞬のうちになくなってしまうし、それを超えてぼんや りとすわったり寝たりするには、時間に対する感覚を少し変えなくてはいけない。 私は庭 にいてそれを学んできたし、裕志はもともとあてがないから、それが苦もなくできるのだ と思った。 「私たち今日、あてがないから。行く所もないし。夜、熱海に戻ろうとは思っているんで 私が一一戸っと、 「家出 ? 」
れいで、しゃべれなかった。そのおじさんの、よいものを人にも見せてやろう、という心 の恩恵にあずかった。 熱海に着いておじさんと別れ、へとへとになってお金もなかった私と裕志は富士山の空 気を抱えたまま、温泉つきのラプホテルに人って、おどろおどろしいべッドで小さくなっ て泥のように眠った。 そして、そんなふうにぶらぶらしてお金がっきた一週間後、家に戻った。旅慣れていな くてお金に余裕がなかった私たちにはきつく、もう当分旅行はしなくていいね、と言いな がら家にたどり着いた。誰も怒っていなかったし、反応といえば母が喜んでおみやげの干 物を焼いてくれるくらいだった。 お父さんからの使者は、おじいさんにだけ会って、おみやげを置いて帰ったということ だった。よほどっまらない会合だったらしく、誰もそのことについてくわしく語らなかっ た。どうも、裕志のお父さんは裕志に会いたがっていてぜひ遊びに来てほしいが、その宗 ということをていねいに言いに来ただけのことら 教に今から人っても幹部にはなれない、 、と怒って帰してしまったらしい。お父さんの写 しかった。おじいさんは今さら関係ない 真も、手紙もなかった。裕志はまたも心のどこかで深くあきらめているものを、さらにど
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