思い出し - みる会図書館


検索対象: ハネムーン
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1. ハネムーン

128 れでずっと黙っていたら、裕志の横顔が近くにあって、私は生まれてからほとんどの時間 をこの人と過ごしている、と思った。オリープが偶然うちに飼われて有無を言わせず私と 一生を共にしたように、自発的に選ぶことなくそうだったと思った。 そして二人で見たたくさんの美しいものの中でかなり上位のものであった、さっきのタ 方のショッピングモールの明かりと空の色の息をのむような美しさを私は思い返した。思 うだけであの透明な空気が胸に満ちてきた。もうその時からすでに時間がたってしまって いる。もうあの光や裕志の生暖かい手の感触は思い出になった。二度とはかえってこない 今、ライトに照らされて赤ん坊の手のようにピンク色に輝く私の手も、目を閉じて今日の 心地よい疲れに身をゆだねてしまえば明日の朝には遠くなっている。今は、頭の中にある、 理屈の世界にある「時間」というわくを思い出したくなかった。 「裕志、ほんとうは外国で暮らしたかったの ? アメリカに行ってみたかった ? 私は言った。 「ううん。全然。」 きつばりと裕志は一「ロった。 私は黙った。裕志も黙っていたか、しばらくして突然言った。

2. ハネムーン

かった。ただ、気分が悪くて、裕志に会いたかった。どこにも人の気配はなかった。しか し、ある見知らぬ部屋の扉を開けたら、そこに置いてある椅子の所に、裕志の見慣れたジ ャケットがかかっていたのを見つけた。几帳面な裕志が、こんなふうに服を置きつばなし にするなんて、おかしい と私は思った。 いつも、私がそのへんに服を脱ぎ散らかすとすごくいやそうに拾ってくれて、ハンガー にかけてくれたり、たたんでくれたりする裕志、私はそれを思い出して心を暖めた。そし てはたと気づいた。あんないやそうな顔を思い出して心が暖まるなんて、今、私と裕志の 間には、すごい距離が生じているんだと。まるで、死んでしまった人のことを考えるとい ゃな思い出までもが暖かいように。そして、裕志のジャケットに触れて、匂いをかいた その時突然、裕志は死んだということを知った。裕志は、どこか遠くで血だらけになって、 ばらばらになって、死んだ、だからこの家の中は血の匂いが充満しているんだと。裕志の ジャケットは、私にそれを教えた。私は、床にすわって、いつまでも目を閉じて裕志の匂 放 いを吸い込んだ。血の匂いをかきけしたくて。私には、わかった。もしも事故や、なにか 解 があって私たちが死別しても、私と裕志の間が変わることはない。愛、のようなもの、絆 とか約束とか人間としての尊厳のようなものは変わらない。でも、この死に方は、裕志の

3. ハネムーン

硯な鞄を持ってきていたので、驚いた。私が目覚めたのを見て裕志は、 「しばらく家を出よ , つ。」 と言った。 「なんで ? 」 私は寝ぼけていて、裕志がなにを言っているかわからなかったが、自分の目が腫れてい るのに気づいた時、夢のことを思い出した。血の、いやな匂いのことも思い出した。 いながらにして会うのを拒むのはむつかしいんだ。荷造りしてやろう 「僕の性格だと、 カワ・」 裕志は真顔で言った。 「旅行に行ったことないのに、人の分の荷造りなんてできないでしよう。」 「考えればわかると思うよ。」 「いいの ? 裕志。」 「昨日の夜、約束したじゃない。」 それで私もあわてて荷物をまとめて、私の母には後で電話すると置き手紙だけ残して、 わけのわからないまま電車に乗って、なぜか熱海に向かった。

4. ハネムーン

一つでもいいとい一つところまであきらめることになった。 「裕志、今、前に熱海に行った時のことを、思い出していたの。」 私は言った。裕志はまだ起きていて、 「富士山がきれいだったね。」 と一一一口った。 「裕士ハ、明日からど , っしょ , つ。」 「明日、考えよう。今日は疲れた。」 そう言って、裕志は、しばらく黙った。 ( しし力もしれない。だって、もう、家で待っているおじいちゃん 「でも、旅行に行くのよ ) ) ゝ のことを心配しなくて、 いいんだから。」 放裕志は震える声で言った。 おじいさんは、決して暖かくも子供好きでもなかったけれど、裕志がやっかいだからと 解 いってカリフォルニアにあげてしまうことは決してしないで、一度も苦痛を口にせず、裕 志を守り抜いた

5. ハネムーン

Ⅱ 0 それからは旅行のことだけを考えて暮らした。裕志のびかびかのパスポートや、新しい 写真を見ていたら、なにか明るい感じがして嬉しかった。プリスペンの母にも電話をした。 目的に向かってきちんと現実が動いていくのがわかった。 裕志は私の部屋で眠るようになった。 ある夜、電気を消して眠る時に、窓からの風でふと、ドライフラワーにしていた裕志作 の花束の香りが鼻に届いた。私は思い出して、 「この間は毎日、お花ありがとう。」 と言ったら、 「作るのが楽しくて、小さな花を取りに遠くの川べりまで行った。 と答えがかえってきた。 ーもあったね。」 「四つ葉のクロー と一一一日っと、 「わりとすぐ見つかったよ。」 と一一一口った。 「どうもありがとう、とても嬉しかった、おやすみ。」

6. ハネムーン

くのをやめた。そして言った。 「それだったら、椿の下の、オリープのとなりに埋めてあげようか。」 コつん。」 裕志はうなずいた いかに大切なものへと変化してもやつばり臭いことには変わりなかったので、それをも う一度包んで窓辺に置いておいた。 私たちは、夜が近くなったタ方にやっとその部屋を片づけ終わった。そして、薄暗い庭 で、黙ってシャベルを使い、その包みを土にかえした。深く深く埋めたが、なかったこと にはならない。私たちは黙って土を払った。静かな気持ちだった。オリープを埋めた時の ことを思い出した。その時は、どうしてどうせ土にかえるのに生まれてきて生きたりする のだろう、と思うくらいに淋しかった。オリープを埋めているのに、何回も、あれ ? な んで私たちは庭にいるのにオリープは走ってこないんだろう、と思ってしまうのだ。一瞬 一瞬が痛くて、息もできないくらいだった。その時と同じくらい晴れたタ方だった。夕方 の空の藍色が透明に世界をひたしていた。星があちこちでぼっぽっと激しく光を放ってい

7. ハネムーン

たあれは、実際に僕のきようだいの体ではないんだけれど。多分、お父さんがお母さんと 一緒にあの宗教に人った頃に、日本に持ってきたものだと思うんだ。でもなんにせよ僕と 血がつながった赤ん坊がきっと、僕がまなかちゃんの家で楽しくごはんを食べている間に、 殺されて、醜い心の人たちに食べられていたんだよ。待ち焦がれられながら、ばらばらに 切られて、血を流していたんだ。おなかを空かせて、この世に生まれてきた実感もなく、 死んでいったんだよ。この世には、どんなこともすごい幅で同時に起こっているんだね。 それで、神聖に思われて、あんなふうにとっておかれたりも、したんだ。きっと。そう思 ったから、死んだきようだいの代わりに、埋葬してあげようと思ったんだ。僕は同じ種か らできていても、神聖には思われなかったけど食べられることもなく日本で無事に育った から。」 私はあの、夢の中の、あの、暗い部屋。暗い気配を思い出した。あれは人の暗い興奮の 後の気配だった。 「なにを目的にして、そんなことをしていたの ? 」 「なにか特別な力がつくということらしいよ。違う世界や、死んだ後の世界でも大きなカ を持っことができる、っていうことらしかった。僕に話してくれた奴は、知っている中で

8. ハネムーン

Ⅱ 8 た。そのなげやりさも、笑顔の感じも、大変私を温めた。みんなに同じ質問をされ、同じ ような反応をされ続けると、自分ではどうとも思っていないことでもいつの間にか重くな ることがあるけれど、裕志についてというのは、私にとって簡単には言葉にできないジャ ンルなので、いつもすっきりしなかった。でも、母の笑顔は気分がよかった。 そして雪が降りそうに寒い銀座を、歩いてホテルまで送って行った。母は、ねえ、まな かちゃん、手をつないでもいい ? と言った。私はそんなことうちのお母さんや裕志とも したことない と言った。しかし母は強引に手をつないできた。仕方ないので、気持ちを 切り替えて楽しく歩くことにした。その、手の暖かさと空気の冷たさ、道行く人の白い息、 と思ったことも、 夜の空を背景に浮かび上がる和光と三越を見上げてなんだか外国みたい、 つないだ手を前後に揺らして歌を歌ったことも、その時はなんてことなく思えたのに、す ごく印象に残っている。楽しかったのだ。 そのことを思い出して、その時に感じていたよりもずっと楽しかったりすることで、そ の人の大切さがわかる時がある。 空港に現われた母は、驚いたことに妊娠していた。すでに、今にも産まれそうな大きな

9. ハネムーン

としか言わなかった。もともと無ロな裕志はますますしゃべらなかった。結局私たちは 夜中の一時までうどんを食べ続けていることになった。 +> も音楽もないその小さな台所 で向かい合って。 私はあんまりにも心がひまだったので、 「ここ改壮衣しょ , つよ、明るく。」 などと鬼嫁みたいなことを冗談で言おうと思ったけれど、言える雰囲気ではなかったの でやめた。そして大切なのは人れ物よりも人の心だ。裕志がおじいさんのことを思い出せ たほ一つ、かしし どうせ私たちは、万が一私がここに住むことになっても、白蟻がこの家を 食い尽くすまでこのまま住むだろう。 それでもどうしてか、もしも私が住んだなら、この家は温かくなるような気がした。い つの間にかこの家の中はこんなに淋しく、がらんどうのようになってしまったのだろう。 ん おじいさんが死んだからではなくて、長年の蓄積が感じられた。家のすみずみから、乾い た悲しい感じが漂ってきた。それでも、少しずつ変わっていくかもしれない。私が生ける 釜 であろう草花のせいでもなく、 私が持ち込むであろう食料のせいでもなく、私のふともも や、私の髪の毛や、はだしの足、若くて生きているそういうものがうろうろするだけで、

10. ハネムーン

盟を想像するよりも、今の光線のほうが美しくて強かった。いつもそうだった。 ヘンネアラビアータだっ プリスペンくんだりまで来て、裕志がタ飯に食べたいものは、。 た。彼は、今度はパスタ類に心を奪われているようだったが、そうなっていった道筋はわ かりやすかったので、その素直さを快く思った。少しずつ心が強くなり、強烈なものも受 けつけられるように外を向きはじめているのを象徴しているような感じがした。 私たちは、驚くほどの軽装で外に出かけた。つまり、財布だけ持って、サンダルばきで。 そういうふうにして町に出て、初めてこの町の色をはっと思い出した。たとえばこの場所 が過ごしやすくて、豊かな町で、少し空が高すぎて透明すぎて退屈で淋しい感じがするこ とが、初めて直接的に人ってきた。その場所に立たなければ、思い出せないことがある、 それをよみがえらせるそういう瞬間が好きだった。自由な感じがした。 母の部屋から歩いて十分くらいで、華麗と言っていいほどきらびやかな、観光地らしい ーで食材を買い ショッピングモールがえんえん続いている所に着いた。私たちはスー その時はとても集中していろいろなものを見たので、そして横を見ると見慣れた裕志がい るので、私はまたもや外国にいるということを忘れていた モールの真ん中になぜかカフェがあり、喉が渇いたのでそこでオーストラリアのビール