なにもない日々 で茶道のように、ひとつの無駄もなくひとつのことが次に流れていくのをいつも庭で見て いたことを思った。花が咲いて散ることも、枯れ葉が地面に落ちることも、全部が次にい つの間にか、遠い所でつながっている。人間だけがそうでないことがあるだろうか、と思 って、気をとり直した。 だから、裕志がだめになっている時に、自分がナーバスになるのをやめた。ただ、今で きることをし、後悔しないようにすることだけに集中したかった。 取り返しのつかないことをしないように。 取り返しのつかないことなどないと、人はよく自分の弱い心をなぐさめたいのかなぜか 言うけれど、取り返しのつかないことはたくさんある。ほんの少しの手違いで、うつかり しただけで、取り返せないことがたくさんある。命がかかわっている場合は特にそれを思 い知る。おじいさんに関してそうしたくないというだけでろくに外出もしたがらなかった 裕志は、やりすぎだとは思うけれど、そのことを確かに知っている。 取り返しがっかないことかいくらあっても、生きていくしかないということだけを、人 は一一一日っことができる。
やむなく私の所に来ているのだ、と私は知っていた。 庭に潜む夜の闇が私にそれを、裕志のほんとうの心を教えてくれる。裕志の足音の響き 方や裕志が連れてくる夜の匂いが、その息苦しさを感じさせてくれる。裕志がロに出して いる以上のことを、私は知ることができた。 私がその午後、裕志の家を訪ねたら、裕志はろこつにいやな顔をした。私は気にせずず けずけ上がってふとんを干しはじめた。すると裕志は無言で片づけに戻っていった。家中 にまだ、おじいさんの匂い、懐かしい、古い布のような優しい匂いがしていた。そして家 の中を一周してみて、私は裕志が超人的ペースで片づけを進めていたことを知った。長年 のつらさまでも葬り去ろうとしているかのように、おじいさんがいたことを一刻も早く忘 れてしまいたいというように : : : ふとん以外、押し人れはもう空っぽで、きれいにぞうき んがけをしてあった。そして、おじいさんが寝室にしていたはじっこの和室に、捨てるつ もりのない遺品がきれいに整えられ、ダンポールに人れられてまるで遺跡のように隙間な く積み上げてあった。 小さい頃、裕志はその部屋でおじいさんと寝ていた。時々、心臓が止まっていたらどう
8 / 裕志が庭にすわるなんて、十年ぶりくらいだった。 私は居心地が悪くてもぞもぞしてしまった。 「いつもすわって、なにを考えてるの ? 」 裕志は言った。 「本気で、いろいろなものを見ていると、どんなに小さなものの中にも、ニュースを見て いるよりももっとすごい真実味があるのよ。」 と私は言った。生き物が死んだり、腐ったり、土になったり、虫同士で争いがあったり、 洗濯物にとんぼが止まったり、さっきまで晴れていたのに雲がどんどん流れてきたり、家 の中の物音でお母さんのきげんが悪いのを知って、買い物にすばやく行ってあげたり、ち ゃんと見ていれば、外側に求める必要がないくらいに、心は忙しく働くのよ、と。 「人は目でわかるものね。ただすわっているだけだったら、そんなにはっきりした目にな らない。ゝ しつも、ここにすわってなにを見てるんだろう、と不思議に思っていたんだ。」 裕志は言った。 「散歩でも行こうか」
和に暮らし、なにひとっ問題がない。もうひとりはお父さんとお母さんと運命を共にし、 その人たちの無責任から生まれているおぞましい空間の責任を感じ続けている、そんな感 じだった。この目で様子を見に行って、警察に届けることを夢想したりもした。でも、日 常の中でそれは遠すぎて、膜に包まれているような感じだった。僕はお父さんの顔も写真 でしか知らない。知らない人とほとんど同じだ。あの事件のことを知った時も、会ったこ とのないお父さんが死んだという感覚も薄かったけれど、これ以上、誰も殺されないこと のほうが嬉しかった。ずっと見て見ぬふりをしていた自分のことを、もう取り返しがっか なくなるのを待っていた自分を嫌った。そういう時も、オリープの愛は、僕を、僕の好き なほうが、まなかちゃんとおじいちゃんのいる世界のほうだけが僕の現実だと教えてくれ びた」 遊 「一つん。」 カ 「だから、帰ったら、また犬を飼おう。それで、うちで一緒に暮らそう。」 「祭壇のあった部屋を私の部屋にするのはいやよ。」 島 様々な景色を心に取り込みながらタ方の海のように刻一刻と変わってゆく、人間という ものの心をとにかくすばらしいと思った。私たちは立ち上がり、コテージが黄色い明かり
155 島、イルカ、遊び 伝わってきた。裕志は星のことで頭がいつばいの様子で、貧弱な喉ぼとけをつきだして真 上を見続けていた。 波音はこわいくらいに静かに響き、海はゆるく粉をといたようにゆらゆらと揺れていた。 遠くから、音楽がかすかに聞こえてきた。 「まなかちゃんのふともも、太いね。砂にめりこんでるよ。」 裕志が言った。 「放っておいて。」 「ひとっ聞いてもいい ? 」 「いいわよ。」 私が答えると、裕志が言った。 「前に、駆け落ちした時に見たこわい夢って、どんな夢 ? 」 私は少し割愛することにして言った。裕志が少しでも父親を思っている可能性がある限 り、一生あの夢の全貌を話すつもりはなかった。 「裕志が、死んだ夢。見たこともない建物が出てきて、血がたくさんあった。その建物の 中では、殺したりひどいことをするのがなんでもないことで、昼間でも人々の心は暗黒し
がした。そのくらい裕志の様子は異様で、なにか恐ろしいものが私たちの生活に影を落と したような感じがした。なんだか空気までもが熱っぽかったので、私は窓を開けた。さっ と風が入ってきた。湿った土の匂い、木の気配、小さな月 : : : 。早く いつもの夜になれ、 と私は思った。星がちかちかまたたいて、薄曇りの空を飾っていた。しかし、いつもの夜 は永遠に戻ってこなかったのだった。 裕志が、静かに部屋に入ってきて、言った。 「なんてことだろう、オリープが、息をしてない」 私は、どうしてか驚くよりも先に、やつばり、と思った。だからタ方はあんなにきれい だった、だからオリープはあんな目をしていたんだと理解した。そして裕志がおかしい夢 を見ていたわけもわかった。わかっていても、涙はすぐに出てきた。用意されていたかの レ小一つレ ~ ん い」 私たちはオリープの亡骸を間にはさんで朝まで泣きながら眠った。私たちの間でひとっ の時代が終わった。胸が切り裂かれるように痛かった。 釜 3 「誰かが死ぬのはつらいね。」
「でも、オリープの時もそうだったよ。歳とってからは、いつも、オリープが死んだらど うしよう、ってばっかり考えてた。」 「それは私も少しだけ、そうだったかもしれない。」 私は言った。 「だって私たちよりもどんどん速く、歳をとっていってしまうんだもの、魔法のように。」 オリ 1 プが死んだのは、一年前の桜の頃だった。 なぜかタ立ちのような雨が突然降ってきて、空が真っ暗になり、雷が鳴り響いた日だっ た。裕志はいなくて、雷嫌いのオリープは私の椅子の下で小さくなって震えていた。大丈 夫大丈夫、とそのごわごわした毛の背中をなでているうちに、オリープはすうすう寝た。 しばらく私もつられて並んでうたた寝していた 目が覚めたら、さっきまでの暗い空が夢だったのかと思うくらいにからりと晴れていて、 金色の夕日が透明な青い空を満たしていた。そして、西のほうには驚くほど甘いピンク色 の雲が、波のように流れていた。庭が光でいつばいになって、びしょぬれの木々をきらき らと光らせた。
私はすばやくそれを手から離した。その臭さと言ったら、言葉にできない種類のものだ った。マスク越しでもはっきりと感じ、その匂いを体に人れることを、本能が全身で拒ん でいるような感じがした。部屋の空気の質が変わっていくように思えた。 ぼうぜんとしたままつまんで捨てようとしたら、裕志が急に、 「ちょっと待って。」 と言った。そして、見ると裕志は泣いていた。子供みたいに、後から後からこらえ切れ ない涙がこぼれているのに、伝えようとして必死にしゃべろうとしているのがわかった。 私は言った。裕志は嗚咽を抑えながら言った。 「それはもしかしたら、僕の、きようだいの骨だと思うんだ、だから、捨てないで、どこ かに埋めてあげたいの。」 放それを聞いたら事情は知らないけれども、今まで汚らわしくこわいものだったそれが、 急に大切なものに思えてきた。 解 「→て一つ : 裕志の次の言葉を待ってみたが、裕志は涙をふいて泣き止むので精一杯だったので、聞
「しばらくしたら、散歩に行きたいな。荷物の整理が終わったら。」 コっ′ル。」 私は答えた。 荷物をほとんど持ってきていなかった私は、取り急ぎなにか着るものと空っぽの冷蔵庫 に人れるための飲み物を買いに、遠くの売店にひとりで出かけた。強烈な光の中で海がき らきらしているのを見ながら、浜辺をずっと歩いた。砂がサンダルの中に人ってきて、じ りじりと肌は焼け、それが嬉しくてたまらなかった。売店で買い物をし疲れて喉が渇いた ので、となりのバーでひとりで生ビールを飲んだ。 海は、作りもののような青い色をたたえ続けていた。空が高く、よく知らない白い鳥が たくさん飛んでいた。私はしばらくそれを眺め、それからコテージの間をぬうように作ら れている、うっそうとした緑に囲まれた小道を、裕志のいる部屋に向かって戻って行った。 葉の匂い、潮の匂い、木と木の間から、きらきらとまぶしく光る海が見えた。 真っ白な光の中で、少し酔いが回って、少し眠くなりながら歩いていた時、故郷の小さ な庭から解き放たれ、見たこともない木々に囲まれながら、古い歌をくちずさみ : : : 突然、 裕志の不在をかってないほど強く感じた。そして、やはり私たちはもう絶対に離れてはい
解放 とおじさんは聞いてきた。 しいえ、新婚旅行。帰ったら、入籍するんです。」 私は言った。裕志は、黙ってろ、と言いたそうにして黙っていた そのおめでたさにめんじて、夜、二千円で熱海まで、富士山を見ながら連れて行ってあ げよう、とおじさんは約束してくれた 旅は、こういうことがあるから面白いでしょ ? と言うと、裕志はうなずいた。裕志と の結婚で気分が高揚したことはそれからも一回もないけれど、たいていの時「この人生で なかったら外国に住むのに。そしてポルシェからトラックまでなんでも運転できて、はき はきしていて感じがよくて、いろいろな所に旅を一緒にできる、男らしくてさわやかでハ ンサムで金髪の鼻が高い人に、すごく愛されて結婚したかったなあ、そして、彼のでつか いママの手料理で、見たことも聞いたこともないようなものをごちそうしてもらいたい」 というような空想をしていることのほうが多いけれど、その時は、海が灰色で、浜も灰色 で、空もところどころ鈍く光ってところどころ青いくらいの灰色だったのに風がとても心 上いいから味のある景色に思えてきて、波がたまに白いしぶきをあげてきれいに寄せてく おる伊東の浜辺で、ああ、昨日までは名前のない関係だったのに、今は婚約者だ、この裕志