人々 - みる会図書館


検索対象: パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号
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1. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

新 2556 物 ( 2012 物 ) 8 20B ( 一回 20B ) お 19 4 啝 ( 2 お ) 慈悲の冝 私は幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように 私の願い事が叶えられますように 私に悟りの光が現れますように 私の親しい人々が幸せでありますように 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように 私の親しい人々の願い事が叶えられますように 私の親しい人々に悟りの光が現れますように 生きとし生けるものが幸せでありますように 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように 生きとし生けるものの願い事が叶えられますように 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように 私の嫌いな人々も幸せでありますように 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように 私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように 私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように 私を嫌っている人々も幸せでありますように 私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように 私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように 私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように 生きとし生けるものが幸せでありますように この冥想法を実践するうえで大切なのは、心を込めて念じること、そして継続する ことです - 決められた時間や場所はありません朝目覚めた時や夜寝る前、移動の バスや電車の中などのわすかな時間にも、せひ心を落ち着けて念じてみてトさいい design : Jonin SakantIShi l)aisuke

2. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

魂があると思ったことも妄想なので、魂論がたくす。ですから、魂が喜悦感のみをかんじるのだと、 さんあります。魂はどのようなものか、という疑問 都合のいい話をします。では苦しみの感覚は何なの に、各宗教が互い違いの答えを出すのです。お釈迦でしようか ? それは魂が汚れているからだ、とい さまの時代、インドの宗教家のなかでも魂論がたく う言い訳で逃げるのです。もしも魂が実在する実体 さんあったのです。「魂は親指ほどの大きさのもの であるならば、ひとの都合によって様々な魂論を語 であるーという話から、「無限に拡がるものである れないはすです。妄想概念だからこそ、できること です。 という話までです。「苦・楽を感じるのは魂である」 「物事を知るのは魂である」という話もあります。 宗教では修行という方法で、魂を浄化しよう、魂 「知る機械は魂である」という妄想を「魂には何でも を体験しようと頑張っているのです。魂は神に与え 知れるのだ」とさらに拡大します。しかし、現実に られたものだと信じている人々は、神に祈っておけ はそうではありません。それで、「魂が汚れている。 ば、死後、魂を救い上げてもらえると思っているの その汚れを落として一切智者になる」という話に です。魂を経験しました、梵我一如を経験しました、 なります。西洋も東洋も、魂の罠にまんまと引っか真我を経験しました、神を体験しました、などの神 かって、抜けられなくなっているのです。 秘体験を語る人々もいます。しかし、そのような ひとに楽しい感覚が生まれると、それが続いてほ 人々の数はとても少ないのです。ですから、信頼性 しいという欲望が生まれます。苦しい感覚が生まれ は薄いのです。これがどのような機能なのかと、考 ると、早く消えてほしいという欲望になります。そ えてみましよう。 の欲望を魂論に当てはめると、ますいことになりま

3. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

ブッダは東縛を知り尽くして語る 執着・束縛などは苦しみの原因になると、当時インドの他宗教でも、何となく語ってい ました。しかし、明確な理解や分析は無かったのです。お釈迦さまは弟子たちに、「他宗教 の人々から、『私たちも束縛を断っことを説きます。ブッダも束縛を断っことを教えます。 ですから両者は同じです』と言われる場合は、議論すべきだ」と説かれました。他宗教の 人々も、束縛の一つか一一つは分かっているかもしれません。しかし束縛を知り尽くしてい ないのだ、ということが議論のポイントです。「束縛は全部でいくつありますか ? 束縛は どのような原因によって起こるのですか ? 束縛の短所と長所は何なのですか ? 束縛を 完成させる方法は何なのですか ? 。と、比丘たちは訊くべきです。そのように質問を投げ かけると、相手は明確に答えられず曖昧になるのだと、お釈迦さまは説かれたのです。 悪の枢軸 眼耳鼻舌身意という六根に起こる六種類の感覚が、束縛 ( 渇愛 ) を引き起こす犯人な

4. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

生命の願いごととは何か ? 慈悲の冥想に関して、私の嫌いな人々のところでひっかかります。嫌いな人々の願い 事が叶えられますように、というと悪い奴らの願い事が叶ってしまったらどうしよう と、不安になるのです。 疑問・質問・反論の に生きるのも難しいのです。夢と希望を持っとみなライバルになって、足を引っ張ろうとする。このジレンマ を解決するためには、違う形の夢をつくる。それは、みなに貢献する夢をつくることなのです。 もっと冥想を続けると、生命をみる見方が変わってくると思います。そこで疑問が消えると 思います。願い事が、というのはすべての生命が幸福に生きていきたいと思っている、その願 いです。道を間違っているのはその生命の間違いであって、虫だろうが人間だろうが、幸せに生 きていきたいと願っているのです。それが叶って欲しいのです。でないと死んでしまう。悪いこ とをしてしあわせになろうとしているのは勘違い。「こいつは嫌なやつだけど : : : 」という気持 ちで、「 ( この人の ) 願いごとが叶いますように」と念じるのは、この人が幸せの道を歩んでほし いということです。殺人計画をしている他人に「願い事が叶えられますように」と願うことは、 「殺人が成功しますように」という意味ではない。その人は、殺人を犯すところまで苦しんでい 釈尊の教え・あなたとの対話

5. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

ケ 1 マ 1 妃の覚り お釈迦さまの時代、マガダ国のビンビサーラ国王にケーマーというお妃がいました。彼 女は絶世の美女でした。他の誰よりも美しかったので、ケーマーは自分の身体にプライド を持っていました。。 ヒンビサーラ王の宮殿の人々はお釈迦さまと親しかったので、彼女の 耳にもブッダの話が入リます。彼女は、「ブッダは美を非難する人だ」という誤解に陥った のです。これは誤解だと断言することも難しいのです。ブッダは、すべての現象は無常で あると説きます。肉体は不浄であると観察するように戒めます。自分の美貌で傲慢になっ ている彼女に、ブッダの教えとして、家来の人々があえて不浄の話を教えた可能性もあり ます。彼女は、「ブッダには絶対会わない」と決めたのです。 ビンビサーラ王は「宮殿の皆が三宝に帰依する仏教徒なのに、大事なお妃だけ邪見に 陥っているのは良くないことだ」と思ったのです。そこで、王様はある企画を立てまし た。詩人に頼んで、竹林園 ( 竹林精舎のことです ) を褒め称える歌を作らせたのです。音 楽隊が作曲して歌い、舞踊団がそれに合わせて、踊りを披露したのです。ケーマー妃は感 動しました。美しいその園はどこにあるのかと訊きました。近くにある竹林精舎だと知っ て、それを見学したいという意欲を持ちました。しかし、ブッダには顔を会わせない、と 連載巻頭法話

6. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

感覚と幻覚 念処経講義 腹だったり、病気で食欲がまったくない場合は、感 想が変わります。というわけで、主観的な感想には 当然、客観性が無いのです。妄想と同じく、感想も ひとは感じるものについて、概念を作って思考す何でもできるのです。 るのです。感じるところまでは誰でも同じです。概 主観が正しいとしがみつくことは良くないので 念や思考は、各人の主観になるのです。ネズミの死す。しかし、ひとは主観が正しいと思うのです。自 骸を、人間は「気持ち悪い [ と認識する。カラスは分が美味しそうだと言った食べものに対して、相手 おそらく「ご馳走だ」と認識するでしよう。カラス が「なんだこの不味いものは」と言ったら、嫌な気 の気持ちは精密には分からないが、ネズミの死骸を分になるのです。それは自分の主観が正しいと思っ 食べてしまうから、仮に「ご馳走」にしました。主 ているからです。お釈迦さまは、主観を制御する修 観の場合は、共感という現象もあります。バラの花 行方法まで説かれているのです。世の人々が清らか を見た私が「キレイだ」と言ったら、周りの人々も と思うものに対して不浄だと感じること ( 厭逆 ) 、不 それに賛成します。それは人間同士の共感です。し 浄だと思うものに対して不浄ではないと感じること かし、確実に共感が生まれるという保証はありませ ( 無厭逆 ) を推薦するのです。これは主観にしがみ ん。「バラの花など大したことありません、面白くな つくことなく、心を自由にさせるための良い訓練で い」というふうに感じるひともいるのです。ご馳走す。エピソードがあります。ある日、お釈迦さまが を見たら、「美味しそう」と感じることが一般論です アーナンダ尊者と一緒に、ひとの田んばの方に散歩 が、ひとが皆同じく感じるわけではありません。満 しました。すると、夜に盗みを働いた強盜が逃げる 連載 リ経典解説

7. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

号・・円円 2 。料なぜ私たちは「コミュニケーション」に失敗してしまうのか ? 巧みな説法 「誤解」と「理解」の瀬戸際で 番 9 0 開無 文 > 0 2 料 5 コミュニケーションの実態を暴く 5 1 体送で人々を導いたブッダのプレゼンテーション術に学ふ。 ( 2008 ニ P24 収録 ) 注 Ni 本 、つもお釈迦さまの間近におられたアーナンダ尊者の人となりを通して、 偉大なる人の役に立っためには号 = 番 0 し ラ 文 > 0 2 一—ブッダの従者・アーナンダ尊者に学ぶ 5 1 体送「人のために役立つ」生き方について考えます。 ( 2008 ニて 29 収録 ) 注 2 ' 本 サ ナ : 4 。料仏道では、心の中のゴミや不要物を「捨てる」「手離す」ことを奨励します。 身も心もスッキリ軽くなる、「捨て方」の極意号 番 9 0 8 無 文 > 0 2 レ—賢者は正しく「始末」をつける— は体送そのために必要な、「心の訓練」「智慧の開発」とは ? ( 2008 ニ 2723 収録 ) 、汪 2 本 ッ ム道では、ものごとへの新鮮な興味を持続させることが重要。ワンパター は冒険者は「パターン」から脱出する号 : 5 円明 番 9 0 圓イ、 5 元気よく生きるには「リフレッシュ」が必須です—注 > 純送ンを避け、自分を柔軟に変化させる秘訣を教えます。 ( 2009m て 24 収録 ) 講 「私のライフワ 1 ク」の見つけ方号 = 6 円明料幸福につながる「ライフワーク」の見つけ方とは ? 自分の「性格・特技・ 文 > 10 つ」も は体遵資質」を皆の幸福のために使う方法を学びます。 ( 2009m3Z28 収録 ) —、フッグ , の「適職断」相駄耿去土 5 注本 ロ : 7 囲料仏教を学ふ人なら一度は疑問を感じるであろう「出家」の問題について。 お釈迦さまは、なぜ「出家」されたのか ? 鷭。。当 文 > 0 2 料 「俗世」と「出離」の微妙なポーダーライン 5 注 > 幻純送釈尊があえて「出家」の道を選ばれた理由とは ? ( 2009 ら 4 、 26 収録 ) 法どうしても「妄想」を止められないなら鷭 ; 豐妄想を止められない人々にプ〉ダが教える思考の整理術。脱線しがちで管 文 > — 0 2 仏 5 思考回路の「グレードアップ」に挑戦しよう 5 注送理しがたい「思考」を管理して安全に生きる 5 つの法。 ( 289 、 06 、 26 収録 ) 月一 9 料仏教では親友Ⅱ師だと教える。善友はあなたを孤独から解放し力強く励ま 「幸福」の道は「友情」で完成するに 9 当 文 > 0 2 1 体送し、究極の幸福「覚り」までも完成させてくれる。 ( 2009 ニ 0 ニ 0 収録 ) 5 お釈迦さまが称賛する「善き仲間」とは 5

8. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

でも、これは本当のことでしようか ? 老いや 死の苦しみはスリランカやアフリカ、インドなど の国々にあって、オ 1 ストラリアのメルボルン やアメリカのニューヨ 1 クにはないのではないで ー ) よ、つ、か なぜ苦しむのか ? ど、つしてそんなことが言えるでしようか。苦し みはどこにでもあります。苦しみのことを考える そこで、探究し始めます。なせ苦しむのか ? と、とても恐くなりますーーそれで人々は仏教は 苦しみの原因は何か ? 悲観的だと言、つのです。 お釈迦様は苦しみの原因を発見しました。それ 仏教は真理を説いています。お釈迦様はそこで は欲ーー欲望、執着、貪りです。しかし、人は苦 止まりませんでした。理性をもって苦しみを理解しみの原因は欲であると言いたがりません。なせ してください、とおっしゃいました。受け入れて、 なら、欲があらゆるものを創造しているからです。 理解するのです。動物は苦しみに関していつでも欲が創造主なのです。欲は私たちが望むものを何 心配したり悲しんだりしています。どうしていし らかの形で作り出すことができます。今生のため のかわかりません。皆さんは動物のようにはなり に、そして来世のためにも創造することができる たくないでしよう。知的で成長し、成熟した責任のです。欲は非常に力強く、幾生涯において諸々 感のある人間になりたいと思っているでしよう。 のものを創造することができます。「存在すること」 それで、こう言います。「そう、苦しみがあります。 ( 転生すること ) を繰り返し創造することができる 苦しみからは逃げません。苦しみに直面したいと。 それで ?

9. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

疑問・質問・反論の ているんだから、それだけで充分です。 誰でも覚れるというのは、ブッダの教えにのっとった答えです。覚れない人は、実践しない人です。また は、自分の迷信・思考にしがみついている人 ( 邪見者 ) です。自分の固定観念、自分の思考は、あリのままを 観察する仏教の修行には大きなハンディです。ですから、いつでも思考をベンディングにしてください。新し いデータが入ったら、自分の思考は改良しますと決めて、最終結論にだけは達しないでください。それで邪見 の問題は解決です。それぞれ自分の考えがあるものです。それはペンディングにしてください。そうすること で、冥想実践は大丈夫です。冥想で、それまでの思考はひとつひとっ捨てることになります。経典で「今生で 覚れない」とされているのは、今生で親を殺したひととか、ブッダを傷つけたひととか、ふつうはあり得ない ようなケースだけなのです。しかし、このような悪を犯す人々はとても稀でしよう。ということは、みなに心 を成長させることが可能なのです。失格のひとはいません。一人ひとリが自分の意志で挑戦すればよいので す。他人のカで覚らせることはあり得ないのです。子供に教えることはできますが、理解させることは不可能 です。子供が自分で理解しなくてはいけないのです。ですから、以上説明した注意点に気をつけて挑戦してみ ればよいのではないでしようか 釈尊の教え・あなたとの対話

10. パティパダー PAṬIPADĀ 2012年8月号

るんです。その人が幸福の道を歩んでくれますようにと、慈悲の気持ちで観ると、嫌いな人 も可愛いと思えてしまうし、心配する気持ちも生まれるのです 殺人をしたいひとにとっての願いごとは、他人を殺すことではないんです。生命が本来願 うべきことが叶えられますように、ということです。どうしても気になるならば、「嫌いな 人々も、本来願うべきことが叶えられますように」と変えてもいいでしよう。でも慈悲の冥 想は完璧な冥想だから、そのままやっても何の問題も起きません。生命が本来願うべきこと というのは、たとえば、お腹が空いたらご飯を期待するでしよう。人間はタダではご飯を得 られません。それが得られますように、と願うのです。住む処、薬、着物など : : : 生命が生 きるために必要なものが得られますように、と願うのです。悪人はそれを得たくて、間違っ た道を歩んでいるのです。幼稚園の男の子が、友達にしたい女の子をいじめてしまうような もので、正しい方法がわからないんです。人間は時々、目的に達しようとして、それと反対 の行動をしてしまうのです。 生命が生きていくためには、基本的な願いごとが叶えられなくてはいけない。お腹が空い てご飯がなかったら、たいへんなことです。病気で倒れたのに治療を受けられないのは大変 なことです。どんな生命でも、その基本的なものは揃って欲しい。そうやって大きなスケー ルで、「生命の願いごとが叶えられますように、と念じるべきです。