。名称 牧牛・野馬図屏風 東坡・潘闃図屏風 鷙鳥図屏風 十雪図屏風 四季花鳥図屏風 海棠に尾長図 王昭君図 仙境・蕭史・弄玉図 水禽・竹雀図 芥子図屏風 松島図屏風 鸚鵡図 十六羅漢図 西欧王侯図押絵貼屏風 邸内遊楽図屏風 第五章奇才曽我蕭白 楼閣山水図屏風 腕居士・霊昭女図屏風 ( 見立久米仙人 ) 雲龍図 鷹図 朝比奈首曳図屏風 風仙図屏風 商山四皓図屏風 虎渓三笑図屏風 鷹図 50 49 48 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 曽我蕭白筆 作者等 長谷川左近筆 雲谷等顔筆 曽我一一直庵筆 狩野山雪筆 狩野永納筆 狩野探幽筆 土佐光起筆 狩野養信筆 宗達派筆 宗達派筆 尾形光琳筆 伊藤若冲筆 伊藤若冲筆 八面 二面 二曲一隻 六曲一隻 六曲一双 二曲一隻 六曲一隻 六曲一隻 六曲一双 六曲一隻 六曲一双 六曲一双 六曲一双 六曲一双 六曲一双 六曲一双 六曲一隻 時代世紀 江戸時代十七世紀前半 安土桃山 5 江戸時代十七世紀 江戸時代十七世紀 江戸時代十七世紀前半 江戸時代十七世紀後半 江戸時代十七世紀後半 江戸時代十七世紀後半 江戸時代十九世紀前半 江戸時代十七世紀 江戸時代十七世紀中頃 江戸時代十八世紀前半 江戸時代十八世紀後半 四幅 ( 十六幅のうち ) 江戸時代十八世紀後半 安上桃山 5 江戸時代十七世紀前半 江戸時代十七世紀 員数 江戸時代十八世紀後半 江戸時代宝暦九年 ( 一七五九 ) 江戸時代宝暦十三年 ( 一七六三 ) 江戸時代十八世紀後半 江戸時代十八世紀後半 江戸時代十八世紀後半 江戸時代十八世紀後半 江戸時代十八世紀後半 江戸時代十八世紀後半 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション フェノロサ , ウエルドコレクション 右隻〕ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲロ ] コレクション 左隻〕フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ , ウエルドコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ・スコット・フィッツ夫人寄贈 フェノロサ , ウエルドコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲロ 1 コレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲロ 1 コレクション フェノロサ・ウエルドコレクション アルベルティン・・・ヴァレンタイン夫人寄贈 フェノロサ・ウエルドコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲロ 1 コレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ。ウエルドコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション コレクション名 出品会場 〇〇〇〇 〇〇 X 〇 〇〇〇〇 〇〇〇〇 〇〇〇〇 〇〇〇〇 〇〇 X 〇 0 〇〇〇 0 〇〇〇 〇〇 X 〇 〇〇〇〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 0 〇〇〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 〇〇〇〇 京屋岡阪 古 東名福大 〇〇 X 〇 〇〇〇〇 〇〇 X 〇 268
菩薩立像 1 弥勒菩薩立像 ・ 2 弥勒菩薩立像像内納入品 ( 弥勒上生経、宝篋印陀羅尼 ) 僧形八幡神坐像 地蔵菩薩坐像 第ニ章海を渡った二大絵巻 っ 1 吉備大臣入唐絵巻 平治物語絵巻三条殿夜討巻 第三章静寂と輝きーー中世水墨画と初期狩野派 中国・元時代または鎌倉時代十四世紀初 一山一寧賛 観音図 室町時代十五世紀中頃 拙宗等揚筆 三聖・蓮図 室町時代十六世紀 伝雪舟等楊筆 寿老図 室町時代十六世紀 伝楊月筆 枇杷に栗鼠図 室町時代十五世紀後半 文清筆 山水図 室町時代十五世紀末 5 十六世紀初 祥啓筆 山水図 室町時代十六世紀前半 伝蔵三筆 瀟湘八景図屏風 室町時代文明十一年 ( 一四七九 ) 横川景三賛 布袋図 室町時代十六世紀前半 狩野元信筆 白衣観音図 室町時代十六世紀 伝狩野元信筆 宗祗像 室町時代十六世紀前半 伝狩野元信筆景徐周麟賛一面 金山寺図扇面 二面 室町時代十六世紀前半 伝狩野元信筆 韃靼人狩猟図 六曲一隻 室町時代十六世紀中頃 伝狩野雅楽助筆 松に麝香猫図屏風 六曲一隻 室町時代十六世紀中頃 伝狩野雅楽助筆 ・ 4 松に鴛鴦図屏風 五面 ( 十面のうち ) 安土桃山時代十六世紀後半 狩野松栄筆 京名所図等扇面 第四章華ひらく近世絵画 4 韃靼人朝貢図屏風 龍虎図屏風 っ一 36 35 40 39 34 33 快慶作 康俊作 円慶作 伝狩野永徳筆 長谷川等伯筆 四巻 一巻 一面 六曲一双 二曲一隻 六曲一双 身區驅巻身區身區 平安時代八世紀末、・九世紀前半 鎌倉時代文治五年 ( 一一八九 ) 鎌倉時代文治六年 ( 一一九〇 ) 鎌倉時代嘉暦三年 ( 一三二八 ) 鎌倉時代元亨二年 ( 一三一三 ) 平安時代十二世紀後半 鎌倉時代十三世紀後半 安土桃山時代十六世紀後半 江戸時代慶長十一年 ( 一六〇六 ) 中国日本特別基金 中国日本特別基金 中国日本特別基金 マリー・アントワネット・エヴァンス基金 中国日本特別基金 ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション エレン・グリーノウ・パ 1 カ 1 嬢寄贈 ロバート・トリ 1 ト・ペイン止氏寄贈 フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション 中国日本特別基金 フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ , ウエルドコレクション フレデリック・»-a ・ジャック基金 ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション フェノロサ , ウエルドコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション 右隻〕フェノロサ・ウエルドコレクション 左隻〕ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション 〇 0 〇〇 〇 0 〇〇 0 〇 X 〇 〇 0 〇〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 0 〇〇〇 0 〇〇〇 〇〇〇 0 〇〇 0 〇 〇 X X 〇 〇 X X 〇 〇 X X 〇 0 0 〇〇 0 0 〇〇 〇 X X 〇 〇 X X 〇 0 〇 0 0 267
第四章 華びらく近世絵画 だったんじんちょうこうずびようぶ 韃靼人朝貢図屏風 かの・フえいとく 伝狩野永徳 ( 一五四一一了九〇 ) 筆 一一曲一隻 紙本金地着色 縦一五三・一一横一七〇・四 安土桃山時代十六世紀後半 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 画面は上下に分かれており、上部には向かって右 から左へと進む二艘の船が、下部には陸地を進む騎 天 本図は洛中洛外を中心とする名所を描く、清水 寺、字治、鞍馬寺、石清水、天橋立、住吉、不明寺 院のほか、二十四孝、大職冠、平家物語に取材する 物語からなる十面の扇面である。ポストン美術館に 所蔵された折には画帖形式であったが、 裏面に貼寸 されたと思われる書き入れには、「右三」「左廿七」な どの番号の指一小があることから、もとは屏風に貼り 交ぜられた扇面群のうちの十面と考えられる。東 せんめんちらしびようぶ 京・出光美術館所蔵「扇面散屏風」 ( うち三面は直信 つきなみふうぞくずせんめんながしびようぶ 印 ) や京都・光円寺所蔵「月次風俗図扇面流屏風」 ( 元信印 ) のような、京都の名所や風俗のほかに唐人 物図や物語図を屏風に貼り交ぜた作品を想定する こともできよう。また、本図には、一連の洛中洛外 らくちゅう の名所を小画面に描く奈良県立美術館所蔵の「洛中 ・り ~ 、力い十・カじよう 洛外図画帖」などと比較すると、石清水や天橋立、 住吉など、京の中心部から離れた名所も描かれてお り、狩野派による名所を描く扇面や画帖などの小画 面絵画のバラエティーを考えるうえでも興味深い ( 井戸美里 ) 4 馬の異民族が描かれている。両端に引手跡が残るこ とから、当初はさらに左方向に広がる構成の襖で あった可能性が高い これらの図様は同じくボストン美術館が所蔵する 「韃靼人朝貢図屏風」 ( 六曲一双、 11.4443. 1L6829 ) の 向かって右より第五扇・第六扇との近似が指摘され ている ( ただし本図とは図様が左右反転している ) 。 いずれの屏風も一部改変された形で現存しており、 おうかいずびようぶ 当初の図様は滋賀・観音寺所蔵「王会図屏風」 ( 六曲 一双 ) とほば同じであったことから、本図も本来は「王 会図」襖絵の一場面であったと考えられる。 「王会図」は、狩野一渓著『後素集』 ( 一六二三年 ) に「覇王の多会して酒宴し遊び給」とあり、本図は このうち、聖太子・太宗の皇居に向かう諸異民族の 表現であることが指摘されている。 人物の容貌表現や姿形が、京都・南禅寺大方丈襖 絵などの狩野永徳の作風に近似していることから、 十六世紀後半に永徳周辺で制作されたものと考え られる。 ( 金井裕子 ) りゅうこずびようぶ 龍虎図屏風 ) か・わし」 - フ 2 は′、 長谷川等伯 ( 一五三九 5 一六一〇 ) 筆 六曲一双 紙本墨画 各縦一五四・一一横三四〇・〇 江戸時代慶長十一年 ( 一六〇六 ) 各隻〔落款〕「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆六十八歳」 〔印章〕「長谷川」 ( 朱文重郭長方印 ) 、「等伯」 ( 朱文方印 ) 右隻一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 左隻一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ピゲローコ レクション 自啌弁土長月法厭等第 かのう 第靄 隻 右 ・ 4 雨を降らせる龍と、風を呼ぶ虎。右隻では、逆巻 く大波の上、濃墨を滲ませあるいは垂らして表現さ れた妖雲の中から龍が姿を現し、左隻では、右から 続く大波を背景として、水辺に張り出した岩の上で 強い風を吹き起こして龍を睨む虎が描かれて対峙す る。天空から姿を現す龍と、風に吹かれる竹を僅か に添えて岩の上に座す虎を組み合わせた水墨の龍虎 図は、京都・大徳寺に伝わる中国南宋の画家牧谿の 「龍虎図」 ( 重要文化財 ) 以来の定型化した組み合わせ である。本図は、龍の顔や体のひねり、虎の足の配 置や尻尾を前にもっていく描写など、先の「龍虎図」 と直接的な関係にあることがわかる。長谷川等伯 は、牧谿に私淑し、その作品に強い影響を受けてい ちくかくずびようぶ る。「竹鶴図屏風」 ( 東京・出光美術館蔵 ) は、やはり かんのんえんかくず 大徳寺所蔵の牧谿筆「観音・鶴猿図」 ( 国宝 ) 三幅対 の直接的影響にあることを伝えているか、それらを 通して等伯が学んだのは、微妙な墨調により変化す る大気の表現であり、それが霧となり風や光を感じ しようりんずびようぶ させるものとなった。「松林図屏風」 ( 国宝、東京国立 博物館蔵 ) は、その帰結として誕生したのである。 長谷川等伯は、能登七尾に生まれ、仏画や室町 時代のやまと絵、水墨画に細緻な筆を振るっていた が、京に上り豊臣秀吉の寵愛を受けるようになり、 その画風は、豪快で強い表現を目指した桃山風へと 変わっていった。本図は、落款より、六十八歳にあ たる慶長十一年 ( 一六〇六 ) の作と知られる。晩年の ほ・フげんそ・フご・フ イロロに記された法眼の僧綱位を加えた「法眼落款」 といわれる作品の最初のものである。「法眼落款」の 作品は、奥行きの深い空間を求めるのではなく、平 板な空間に筆勢を強調したモチ 1 フを配した簡潔な 表現がとられている。龍の描線は、動勢をはらんで いるが単調であり、虎の体の縞模様は、それ自体で 動きを強調する動勢に富んでいる。等伯晩年の作風 ( 田沢裕賀 ) をよく伝える代表作である。 ぼくぎゅうやばずびようぶ 牧牛・野馬図屏風 はせがわさこん 長谷川左近 ( 一五九三 ! ・ ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 248
の襖絵のかたちに復元され、日本初公開となる。当初は破損した「めくり」の状態で発見されたと思われ るこの作品が、ポストンに保存されたのを幸運とせねばならない。私が約四十年前、『奇想の系譜』とい う著書のなかで、蕭白の異才ぶりを世に紹介したちょうどその頃、ヒックマン氏は、この「雲龍図」を、 ポストン美術館の日本絵画の収蔵庫に見出した。それまで、「スタディ 1 ・ピ 1 ス ( 要検討作品 ) 」として放 置されていたという。 疑問が湧くカビ 蕭白が光琳や応挙のような有名画家とは違うだけに、なぜそれほどの数を、という ゲロー自身のそれに関する言及は全くなく、フェノロサもかれの著書のなかで、あまり褒め言葉でない短 おかくらてんしん いコメントを残しているに過ぎないという。ただ、岡倉天心 ( 一八六三 5 一九一三 ) が、英文の著書『 The ldeals of the East ( 東洋の理想 ) 』のなかで、蕭白のことを "BIake ・ like instinct" すなわち、イギリスの 有名な詩人にして画家ウィリアム・ブレイク ( 一七五七 5 一八二七 ) に似た本能によって描いた画家だ、と評 しているのは注目される。ブレイクの描く絵や版画は、宗教的体験 にもとづく奇屋な幻想に満ちたもので、 テーマの宗教性を除けば、そのグロテスクなまでに荒々しい表現は、蕭白の絵のあるものに似ていなくも 、 0 ヾ 十 / ーし ヒゲローに蕭白の絵を推選したのは、フェノロサより天心だった可能性が高い。あるいは、ビゲロ 1 自身、この作品の持っスケ 1 ルの大きさに共鳴したのかもしれない 当初百点を越えていたポストンの蕭白画は、一九三〇年代の不況時代に、うち七十点が売却された。 残された写真によれば、重要な作品はそのなかにわずかしか含まれてない。一九九七年に発行された『ポ ストン美術館日本美術調査図録』 ( アン・ニシムラ・モ 1 ス、辻惟雄編ポストン美術館 / 講談社 ) に載る蕭白画 しよう・け・つしようて は、蕭月、蕭亭ら彼の弟子たちの作品数点を含んで総数四十一点である。ただしこれは一双屏風を一点 とする日本の数え方によっている。 今回の展観は、ポストン美術館の絵画・彫刻・工芸の名品を選りすぐったものだけに、国宝・重文級の作 品がすべて勢揃いする。その壮観のなかで蕭白の作品は、もとの通り襖絵八面に改装された「雲龍図」 たかず ( 、もと襖二面分の「鷹図」色をはじめ、六曲一双屏風二点、六曲片双屏風四点、二曲片双屏風 一一点と、襖絵・屏風絵が合わせて十点展示され、掛軸一点がそれに加わる。ポストン美術館の蕭白画が日 本で展示される機会は、一九八一年の松坂屋での展覧会 ( ポストン美術館秘蔵近世日本屏風絵名作展 ) 以来 数度あったが、 今回のように、大画面作品十点がまとめて展示されるのは最初であり、前述の「雲龍図」 039
右隻縦一四九・一一横三五一・〇 左隻縦一五八・八横三五一・六 江戸時代十七世紀前半 〔印章〕各隻「長谷川印」 ( 朱文重廓長方印 ) 左隻「 ( 不明 ) 」 ( 朱文重廓長円印 ) 一九 - 一年寄贈ウィリアム・スタージス・ピゲローコレク 右 安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、 自然の中で草を食んだり水浴びをしたりしながら、 自由に戯れる牧馬や牧牛たちの姿を描写する大画 面絵画は、流派の別を問わず多く見られるが、本図 のように、桜花の中で戯れるさまざまな姿態の牧馬 、水辺に集う牧牛を牧童とともにそれぞれ一双に こうしたさまざまな毛色の 配置する作品は珍しい き、 ~ 0 スノ , かい 牧馬の図様については「驥毛図解」など、先行する 藍本や粉本から、また、牧童とともに牧牛を描く図 ぐんぎゅうさんばくずかん 様については「群牛散牧図巻」などの宋元画から学 んだ可能性が指摘されている。本図の絵師、左近は 長谷川等伯の息子であるが、近年の研究で、新潟・ さんばそ・フずえま 實相寺蔵「三番叟図絵馬」に寛永元年に三十二歳と ある款記から一五九三年という生年が明らかとな 等伯の息子のうち、宗也とともに左近も後妻、 妙清の子であることが判明した。等伯の「牧馬図屏 風」に野馬の調教を行う武家という風俗画的要素を 看取できる一方、左近の作品は、色彩を極力抑えた 狩野山楽筆「牧馬図屏風」や雲谷派による「群馬図 屏風」など、中国絵画より学んだ作品との間に共通 ( 井戸美里 ) 性を見出すこともできよう。 とうばはんろうずびようぶ 東坡・潘闃図屏風 - フん一」′、し」・つか′ル 雲谷等顔 ( 一五四七 5 一六一八 ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 右隻一五八・五横三五七・四 左隻一五八・二横三五七・四 安土桃山 5 江戸時代十七世紀 ション 隻 ヴ / 〔落款〕各隻「雪舟末葉等顔筆」 〔印章〕各隻「雲谷」 ( 白文瓢車印 ) 、「等顔」 ( 白文方印 ) - 九一 - 年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 東坡は中国北宋時代の文人・蘇軾 ( 一〇三六 一〇一 ) のこと。潘闃 ( ? 5 一〇〇九 ) も同じく北宋 時代に活躍した詞人である。いずれも高官であった が政治的罪に追われ地方に流された境遇にあった。 向かって右隻には、東坡と前進をためらう驢馬、そ してそれを引く童子の姿を描く。また左隻には後ろ 向きに驢馬に乗り山容を見やる人物と二童子が見 え、こちらは華山を離れる際に名残惜しいために後 ろ向きに騎驢し詩を詠んだという潘闃の逸話を描い たものと思われる。樹木や遠山、水辺を中心に淡い 色彩が施されているほか、人物の服飾にも金泥で文 様が描かれている。 雲谷等顔は周防国 ( 山口県 ) を中心に活躍した毛 利家の御用絵師で、幕末まで続いた雲谷派の祖。武 士の家に生まれるが狩野派のもとで学んだ後西国に もうりてるもと 下り、文禄二年 ( 一五九一一 l) 、毛利輝元により雪舟画 系の再興を命じられ、雪舟の旧居・雲谷軒を拝領し こ。等顔は本図のほかにも、同様の主題である「騎 ろじんぶつずびようぶ 驢人物図屏風」 ( 六曲一双、『国華』八二〇号所収 ) を描 いているが、本図はこれよりさらに硬い筆線であり、 より時代の下った晩年頃の制作と考えられる。 ( 金井裕子 ) しちょうずびようぶ 鷙鳥図屏風 曽我二直庵 ( 活躍期二六二五 5 六〇頃 ) 筆 六曲一双 紙本墨画 右隻縦一五一・七横三四八・六 左隻縦一五一・九横三四八・〇 江戸時代十七世紀 〔落款〕各隻「曽我直庵一一」 〔印章〕各隻「包胤」 ( 朱文重廓方印 ) 、「二直庵」 ( 朱文方印 ) にちよくあん 隻 右 も・つきんるい 鷹などの猛禽類を主題とする鷙鳥図は、弱肉強食 の世界を勇猛果敢に生きる武人たちが自らの境地を 重わ愛好した主題である。室町時代後期には広範囲 ときし に普及し、美濃の守護・土岐氏一族をはじめ武人画 家によっても盛んに描かれた。右隻には、渓流に突 き出した岩頭に立ち、轟々と落下する瀑布を凝視す る鷲を描く。左隻は芙蓉、水葵を配する秋景で、勢 いよく伸びた松の枝にとまり、静かな水面をじっと うかがう鷹を描く。獰猛な生質を秘めた鋭い眼光が 強い存在感を放ち、画面空間に緊張感を与えている。 筆者曽我二直庵は、十七世紀前半から中頃過ぎ までの活躍が推定される曽我派の絵師。安上桃山 そがちよくあん 時代に活躍した曽我直庵を父とし、泉州堺に住ん だと伝えられる。明暦二年 ( 一六五六 ) の年紀がある 自署系図 ( 奈良・法隆寺蔵 ) に室町後期の曽我蛇足 の末裔というが、関係は不明。父子ともに画鷹の名 手で、奈良や和歌山・高野山に作例が多く残されて いる。本図は父・直庵の伸びやかな樹法、皴法を踏 襲しようとする鷙鳥図で、二直庵の画業では比較的 早い時期に位置すると推測される。フェノロサ、ビ ゲローが一対をなす作品として購入、分蔵した作品 といわれ、紙継ぎは各隻ほば同寸だが、一双画面の 空間構成に若干の違和感が残る。通常は「二直庵」 「包胤」の順で上・下に置かれる両印が逆転している など、両隻の款印についても比較検討が必要であろ ( 知念理 ) じっせつずびようぶ 十雪図屏風 かのうさんせつ 狩野山雪 ( 一五九〇 5 一六五一 ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 各縦一五八・五横三六三・〇 右隻一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ビゲローコ レクション 左隻一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 一隻 249
物当 蔵 館 庫 嘉 静 図 毬 打 人 から江戸時代初期にかけて好んで描かれた主題で しきぶてる あり、ポストン美術館に所蔵される本図は、式部輝 忠本 ( 文化庁蔵 ) とともに現存作品中最も初期の例 とされる。 本図は近年、東京・静嘉堂文庫美術館に所蔵され だったんじんだきゅうずびようぶ る「韃靼人打毬図屏風」 ( 挿図 5 ) との画像の比較に より両者がもとはセットであり、狩野元信が描いた たっちゅうこうりんいんだんな 京都・大徳寺の塔頭興臨院檀那の間の襖絵 ( 同寺の すずききいっ ほ・フざんししよう むらさきのだいとくじめいさいき 『紫野大徳寺明細記 = 宝山誌抄』や鈴木其一の「癸巳 さいゅうにつき 西遊日記』に記される ) に相当する可能性が指摘され ている。購入当初は軸装であったが、現在は襖の形 に復元されている。狩野派による作品をはじめ「文 ききかんずかん 姫帰漢図巻」をその典拠としていることが知られる が、この旧興臨院本と想定されるポストン美術館 本および静嘉堂文庫美術館本は、後の狩野派系統 の諸本にまで継承される重要な位置付けを担う作 ( 井戸美里 ) 品である。 まつじゃこうねこずびようぶ 和松に麝香猫図屏風 かのううたのすけ 伝狩野雅楽助 ( 生没年不詳 ) 筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一六〇・一横三四八・八 室町時代十六世紀中頃 〔印章〕「輌隠」 ( 朱文長方印 ) 「ロ信」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション 子猫をかたわらに連れ、じっとどこかを見つめる 親猫の視線の先には、現在サントリ 1 美術館に所蔵 されるもう一匹の猫を描いた屏風一隻、「麝香猫図 屏風」 ( 挿図 6 ) が存在し、もとは一双の屏風をなし ていたことが知られる。両者に捺された印章から、 かのうもとのぶ 画家は輌隠とわかる。輌隠は、狩野元信の弟、雅楽 ゆきのぶ 助之信と同一人物である可能性が高い。繊細な毛 描きが施されたあまり見慣れないこの種の猫は麝香 猫と呼ばれ、遠い異国を想起させる。麝香猫を主題 とする作品は、京都・東福寺霊雲院に伝来した同寺 かの・フしようえ、 第二十四世太虚祥廓の賛、狩野松栄 ( 一五一九 5 九 一 l) の直信印を有する「麝香猫図」の扇面のほか、狩 のうえいとく 野永徳 ( 一四五三 5 九〇 ) 一門が制作に携わったとさ れる京都・南禅寺に伝わる「牡丹麝香猫図」の襖の ( 井戸美里 ) 存在が知られる。 挿図 6 麝香猫図屏風サントリー美術館蔵 1 2 まつおしどりずびよラぶ 松に鴛鴦図屏風 かのううたのすけ 伝狩野雅楽助筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一五四・七横三四八・八 室町時代十六世紀中頃 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ビゲローコレクション 伸びやかな松竹のもと可憐な花が咲く水辺の光景 、鴛鴦や小鳥を遊ばせる花鳥図である。片側に樹 木と岩塊を大きく配して近景にモチーフを密集さ せ、もう一方に開放的な水景を広げて空間を対比す る。現状では一隻であるが、その構成から見て本来 は一双の右隻に相当するものと思われる。その手慣 れた舞台設定は、堅実で丁寧な細部の描写ととも かちょうずびようぶ かのうもとのぶ 、狩野元信の周辺で制作された花鳥図屏風に共 通している。落款印章などはないものの、本図は表 現やモチ 1 フの類型に多くの共通点があることか ら、元信の弟・雅楽助のような同時期の狩野派の優 れた画家の手になる可能性が指摘されている。 その大きな特徴の一つは彩色法である。室町時代 の狩野派の花鳥図には水墨のみで描かれたものと金 地着色のものが多い。しかし本図は、水墨を基調に しながらも赤や緑をポイントとして使用し、落ち着 いた画面の中で彩色を効果的に印象付けている。同 様の表現をとる作例には伝雅楽助筆本 ( 東京国立博物 館蔵 ) や松栄筆本 ( 山口県立美術館蔵 ) などがあり、本 図もこの系譜に連なる優品として狩野派における花 ( 畑靖紀 ) 鳥表現の豊かさを伝える意義をもつ。 きようめいしょずとうせんめん 京名所図等扇面 かの、フしよう・ん、 狩野松栄 ( 一五一九、九二 ) 筆 五面 ( 十面のうち ) 紙本金地着色 石清水八幡宮上弦五一一・四下弦二一・一一径一九・一一 清水寺上弦五一一・四下弦一 - 一・一一径一九・ニ 住吉神社上弦五一一・四下弦ニ一・二径一九・一一 天橋立上弦五 - 一・四下弦ニ一・ニ径一九・ニ 宇治橋上弦五一一・四下弦一一一・ニ径一九・一一 安土桃山時代十六世紀後半 〔印章〕各面「直信」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション 247
六曲一隻 曽我蕭白筆 山水図屏風 六曲一隻 曽我蕭白筆 酔李白図屏風 第六章アメリカ人を魅了した日本のわざーー刀剣と染織 一口 伯耆安綱作 太刀銘安綱 一口 来国俊作 っ短刀銘来国俊 一口 短刀銘因和尻懸則長四十八作之尻懸則長作 図保三年己困三月十日 福岡一文字重久作 「太刀銘重久 福岡一文字長則作 太刀銘長則造 % 短刀銘備前国福岡左兵衛尉長則福岡一文字長則作 囮安二年八月日 吉岡一文字助重作 太刀銘一備州長船住助重作 康永貮年十一月十一一日 長船景元作 太刀銘備前国長船景元作 長船兼光作 太刀銘備州長船住兼光 梨地家紋散糸巻太刀 制梨地鳳凰螺鈿金装飾剣 梨地秋草蒔絵合ロ 小袖白綸子地松葉梅唐草竹輪模様 帷子染分麻地御座船梅竹模様 振袖黒縮緬地桜楓模様 唐織萌黄地牡丹立涌模様 唐織紅地流水芦菊槌車模様 唐織胴箔地蝶撫子模様 長絹紫地扇藤流水模様 縫箔白紅浅葱段燕花熨斗模様 狩衣紺地梅樹桐丸紋散模様 厚板紅紺段花菱亀甲雲版模様 86 85 紫原寿良作 領領領領領領領領領領ロロロロロ ロロロ 一口 江戸時代十八世紀後半 江戸時代十八世紀後半 平安時代十、・十二世紀 鎌倉時代十三世紀 鎌倉時代文保三年 ( 一三一九 ) 鎌倉時代十三世紀 鎌倉時代十三 5 十四世紀 鎌倉時代正安一一年 ( 一三〇〇 ) 南北朝時代康永二年 ( 一三四三 ) 鎌倉時代十四世紀 鎌倉、・南北朝時代十四世紀 江戸時代十八世紀 江戸時代十八、・十九世紀 江戸、・明治時代十九世紀 江戸時代十八世紀 江戸時代十八世紀 明治時代十九世紀 江戸時代十七 5 十八世紀 江戸時代十八世紀 明治時代十九世紀 明治時代十九世紀 江戸時代十八世紀 江戸時代十八 5 十九世紀 江戸時代十九世紀 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション チャ 1 ルズ・ゴタード・ウエルドコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション チャールズ・ゴダード・ウエルド夫人寄贈 ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲロ 1 コレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション チャールズ・ゴダード・ウエルドコレクション チャ 1 ルズ・ゴダード・ウエルドコレクション チャールズ・ゴダード・ウエルドコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲロ 1 コレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション、 ジュリア・プラッドフォード・ハンティントン・ジェームス基金 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション、 ジュリア・。フラッドフォ 1 ド・ハンティントン・ジェ 1 ムス基金 ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 0 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 0 X X X 〇 X X X 〇 X X X 0 X X X 0 X X X 〇〇 X 〇 〇〇〇〇 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 〇 X X X 269
たちこめる雲と霞の中、現れた龍は、うねる波間 に鱗状の尾を打ちつける。リズミカルで豊かな墨の 濃淡が、壮大な構図全体に広がっている。一九一一 年、本図は四枚のまくりの状態で当初ポストン美術 つじのぶお 館に収められた。その後に辻准雄氏の研究によって 本図がもともとは八面からなる襖絵であったことが 提示され、今回の修復作業で本来の形態に新たに仕 立て直された。かっては、寺院の堂内構造にもとづ いて龍の頭尾部分を対峙するように配置し、内陣を 正面にして側面を胴体が取り囲むようなかたちで、 襖絵が飾られていた。胴体部分が描かれた四面の襖 は、本図よりも小さなサイズであったことが確認さ れているが、現在は消失している。残念ながら、本 図の伝来は明らかでない 蕭白が描いた滋賀・石山寺の掛軸「龍図」の款記 には、南宋の画家陳容に倣ったと記されている。確 かにポストン美術館所蔵の陳容作の巻子「九龍図 巻」 ( 一二四七年、挿図四と比較したとき、陳容の作 品に見られる変幻自在で神秘的な龍の姿は、本図に おける蕭白の龍にも通ずる。蕭白は巨大なサイズを 生かし、力強い筆をもって龍をダイナミックに描き 出した。 ( アン・ニシムラ・モース ) 挿図 10 九龍図巻 ( 部分 ) ポストン美術館蔵 たかず 鷹図 そかしようは′、 曽我蕭白筆 紙本墨画 各縦一六五・八横一三五・三 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕第一一面「曽我蕭白暉雄図」 〔印章〕第一一面「鸞山」 ( 朱文円印 ) 、「蕭白」 ( 朱文小方印 ) 、 「如鬼」 ( 朱文方内円印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション ーも・フきんるい 鷲や鷹といった猛禽類を蕭白が繰り返し題材に求 めたことには、鷹を好んで描いた曽我派と自身とを 重ね合わせる目的があったと考えられる。しかし曽 我直庵や二直庵が描いた鷹と比べると、蕭白が細部 まで緻密な注意を払い、熱意をもってそれぞれの鷹 の個性を描き分けていたことがわかる。鳥を描いた 蕭白の作品の中でも、本図が最高傑作にあたること は間違いない 硬く真っ直ぐな松の幹に対し、円を描くように曲 げられた鷹の体驅は構図に強い緊張感を与え、また 画面の中央に向けられた足や胸とは逆に頭を右に背 けた鷹のポ 1 ズは、鳥のもっ用心深さと警戒心を見 事に捉えている。蕭白の筆線を見ると、鷹の輪郭や 羽の細部を描くための鮮明で鋭い線と、木や岩、草 の表現に見られる自由で奔放な線は対照的である。 ポストン美術館が所蔵する蕭白の「雲龍図」と本 図は全く同一の寸法である。近年の修復作業で「雲 龍図」の襖から取り除かれた補紙は、もとは本図と 連なる襖絵から取られた可能性が高い。残念ながら、 その襖絵は現存しない。しかし、「雲龍図」と本図の 二作品は、同じ寺院のために制作され飾られていた ( 呉景欣 ) ことは間いないといえよ、フ あさひなくびひきずびようぶ 朝比奈首曳図屏風 ? てかしようは′、 曽我蕭白筆 一一曲 - 隻 紙本墨画淡彩 縦一六五・四横一八〇・八 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕「曽我蕭白暉雄図 / ( 花押 ) 」 〔印章〕「蕭白」 ( 朱文方印 ) 、「如鬼」 ( 朱文方内円印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション -6 腰に大きな岩を括り付けた青鬼と、体を紅潮させた 武者が首引きのカ比べをしている。こちらにチラリと 目線をやり、首だけでなく手も使うしたたかな青鬼 、足蹴をして息を止めるかのように口を結ぶ正々 堂々とした武者の対比は、ある種の滑稽さを伴う。 あさひなさぶろうよしひで 剛勇無双をうたわれた朝比奈三郎義秀を題材に さかたきんとき したものと考えられているが、武者は坂田金時で、 みなもとのよりみつわたなべのつな 行司は源頼光と渡辺綱であるとの説もある。また くびひき よく知られた狂言「首引」に、鬼の姫君に供されそ みなもとのためとも うになった源為朝が、鬼たちとの首引によるカ比 べに勝ってその難を逃れたというものもあり、典拠 は未だ明らかでない 青鬼の身体や武者の衣などに淡い青色が施され、 武者たちの身体や綱などには赤色により僅かな陰影 ほうこじれいしようじよずびようぶ が付けられている。「鹿居士・霊昭女図屏風」 ( 色 などとの落款や印の近似から、蕭白三十歳前後の ( 金井裕子 ) 作と考えられる。 ふうせんずびようぶ 風仙図屏風 ってかしようは′、 曽我蕭白筆 六曲一隻 255
本図は、蕭白が水墨画で見せる奔放でドラマチッ クな筆致とは対照的に、精細な着色表現にも卓越 していたことを裏付ける。蕭白は羽毛の輪郭を明確 にするための余白を残して墨線で羽を形作りなが ら、色彩の濃淡を調節して鷹の体驅を立体的に描き 出した。同様に、岩の量感を伝えるのに余白を残し、 色彩の濃淡で岩肌を表現した。一方、葉には滲みを もっこっ 生かした没骨法を用いている。 本図に見られる蕭白の筆遣いは、「松に鷹図」 ( ア メリカ・インディアナポリス美術館蔵、挿図Ⅱ ) でも確 認できる。画面に二羽描かれる鷹のうち、後景の鷹 険峻な岩山は、蕭白の山水図にしばしば描かれる ーんかい に曽我直庵の影響が見られるのに対し、前景の鷹の もので、広々とした湖に張り出した懸崖の上には楼 描写は本図と近似しており、蕭白が確立した様式を 閣が見える。建物の置かれた湖上の岩地を巡るよう 看取できる。本図に関係するもう一つの例を挙げた に順に橋が掛けられ、道をたどっていくと石造の太 。兵庫・香雪美術館所蔵の「鷹図」には、自身が一鼓橋を渡って中央の塔の立っ湖中の地に行き着く。 中国・明王朝までさかのぼる芸術の血統を継ぐ者で 余白を広く取った静かな画趣の作品で、一見すると あることを主張する款記があり、蕭白は中国との直 人の気配が感じられないが、橋や山道には、歩みを 接の関係性を示す意図で鷹図の着色画を制作して 進める人が、建物の中には向き合った人物が描かれ ( 呉景欣 ) いた可能性もあるだろう。 ている。湖上の舟、そして連なって飛ぶ鳥の群れが、 術 遠くの空と最近景に描かれている。いずれもごく小 1 ス リ物 さく描かれるのは蕭白の特徴である。清隠の地とし ナ ての理想の山水であろうか。 ア O デ < 岩肌をあらわす輪郭線は均一に引かれ、面的に施 ひだ イ E された襞が、墨調を同じくして平行に引かれる。木々 は、濃墨で幹と枝葉を描き全体に薄墨を重ねる。葉 松 の濃さの違う木を重ねて描くことで立体感が生み出 されている。これも蕭白の山水図の特徴である。遠 景の山々は淡墨を面的に塗って諧調をつけ、立体感 のある幻想的な姿をあらわしている。山稜に簡略化 された樹木をアクセントとして配するのも蕭白の常 套手法であり、画面手前に対角線方向に向けて懸崖 造の松の老木を配するのも時に見られるものであ る。屹立する断崖絶壁、硬質な岩の輪郭線、山上の 樹木、横に枝を張る木、そして中国風のモチ 1 フは、 さんすいずびようぶ 山水図屏風 ”てかしよう′、 曽我蕭白筆 六曲一隻 紙本墨画 縦一六一一・九横三六一・ 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕「鬼伸斉曽我輝 - 図」 〔印章〕「鬼神斎」 ( 朱文楕円印 ) 、「蛇足軒蕭白」 ( 白文方印 ) 、 「輝一」 ( 白文団扇形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション 曺謇百 いずれも雲谷派から学んだものだが、みな蕭白の世 界へと変容を遂げている。 これまで四十歳頃の作品とされてきたが、形式化 した表現が全体を統一する様式として確立し、静か な情趣を生み出していることから、むしろ四十代後 ( 田沢裕賀 ) 半の制作と考えたい。 すいりはくずびようぶ 酔李白図屏風 ってかしようは / 、 曽我蕭白筆 六曲一隻 紙本墨画 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕「蛇足軒曽我蕭白図」 〔印章〕「蛇足軒」 ( 白文楕円印 ) 、「蛇足軒蕭白」 ( 白文方印 ) 、 「蕭白」 ( 朱文壺状印 ) 、「輝こ ( 白文団扇形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ピゲローコレク 詩仙と呼ばれる唐代の詩人李白は、酒を愛した。 いんちゅうはっせんか 同時代の詩人杜甫が『飲中八仙歌』で「李白一斗詩 百篇」と詠ったように、李白に酒は欠かすことので きないものと理解され、詩仙の姿は酔仙として描か れ、「酔李白図」が恰好の画題として愛された。 杜甫は、さらに続ける「長安市上酒家眠天子呼 来不上船自称臣是酒中仙」と。李白が一斗の酒を 飲むと百篇の詩が生まれる。長安の街中の酒家に眠 天子からお呼びがあっても船には乗らない自 よ・つきひ げんそ・フ ら酒中の仙なりと称している。玄宗皇帝が楊貴妃と の舟遊びに李白を呼び出そうとしたときのことらし ション 257
あさひなくびひきずびようぶ さんすいずびようぶ すいりはくずびようぶ や「朝比奈首曳図屏風」 ( 色、六曲一隻の「山水図屏風」色と「酔李白図屏風」 ( 四、「鷹図」一一点 と色が日本初公開である。 曽我蕭白 ( 一七三〇 5 八一 ) は、十八世紀中頃から後半にかけての京都画壇に異彩ぶりを発揮した画家 である。彼は京都の商家 ( 紺染屋といわれる ) の家に生まれたが、若いころ家が没落したため、画家の道を 志したと推定されている。上京区興聖寺には、かれが生前の安永六年 ( 一七七七 ) に立てたかれおよび一 族の墓が破損された状態で残っている。 蕭白の画の師は、一説によると高田敬輔 ( 一六七四 5 一七五五 ) という。たしかに、敬輔の出身地であ る滋賀県日野の信楽寺に残る天井画「雲龍図」には、蕭白の「雲龍図」 ( に近い要素がある。ほかに、 もちづきぎよくせん 当時の京で反骨の画家として活躍した望月玉蟾に学んだともいわれる。かれはまた、当時、ほとんど廃 そカちよくあん そカじゃそく れていた曽我派ーー桃山時代の曽我直庵が、室町時代の水墨画家曽我蛇足を祖に見立てて興した画派ー・ の後継者に自ら任じて曽我蕭白と名乗った。このような蕭白の絵画に対する態度は、中国・日本の水墨 画の伝統に沿「た保守的なもののように見えるが、実際にはその逆だ「た。蕭白の絵が伝える強烈な個 . ~ す 性は、かれ生来の資質によるもので、水墨画の伝統の継承を謳いながら、それを彼自身の個性表現のた めの語彙にすり替えているのである。かれの作風は、江戸時代の庶民の粗野な美意識の反映であり、日 本の絵画史上に初めて現れた現象といってよい ほうこじれいしようじよずびようぶみたてくめせんにん かれの個性的表現が若くしてすでに見られる例が、三十歳筆の「鹿居士・霊昭女図屏風 ( 見立久米仙人 ) 」 すね 色である。洗濯する女の脛の白さに神通力を失って墜落し、そのまま共に暮らす久米仙人が、悩ま しげに見つめる先には、相変わらず脛の白さを見せる女がいる。二人の間の樹木は、まるでディズニー映 画に出てくるような人間臭い木だ。また、よく見ると、久米仙人は籠を編んでおり、女の右手先には、 鹿居士と、その籠を売って歩 米を研ぐ籠がある。唐代の文人で、禅に親しみ籠を作って暮らしたという月 いた娘の霊昭女の故事がダ。フルイメ 1 ジとなっている。 蕭白は、この屏風を描いた頃、伊勢に旅行したことが知られており、その後、三十四、五歳頃に再度伊 勢に旅している。旅行というより放浪という方がふさわしい気ままな旅だったらしく、さまざま奇行の伝 説を各地に残しこ : こ。、 ナカカこの三十歳代前半は、蕭白の絵画が、さまざまな作風をしめしながら大きく成長イ = 重 した画風興隆期にあたり、傑作が多い。三重県松阪市朝田寺のもと壁張付「唐獅子図」 ( 図 1 ) 、同岡寺山継第 ' み 040