夏珪 - みる会図書館


検索対象: ボストン美術館 日本美術の至宝
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1. ボストン美術館 日本美術の至宝

~ 4 羊啓筆山水図と夏珪救仁郷秀明 夏珪は、中国・南宋時代を代表する山水の範疇に入るものと見なせる。 ( 註 2 ) を連想させる。畠山記念館本とともに重 わいそう 画家である。ところが中国絵画史において夏珪は、寧宗朝 ( 一一九五 5 一一三四 ) 視されつつある伝夏珪筆「江城図」 ( 下條正 も日本絵画史においても夏珪は極めて重 ~ に待詔を務めた宮廷画家で、「蒼老」と評 ~ 雄氏旧蔵、縦約四四横約一一〇、『東洋美術 ばくじゅうりん 要な画家であるにもかかわらず、研究者た " される枯れていてカのある筆法、「墨汁淋 " 大観』第八冊所載 ) は、画面の縦横の比率が ちが一致して真筆と信するに足る作品はほ漓」と評されるしっとりとした墨法をもっ ( 一対二・五で、畠山記念館本の一対二・四 とんど現存せず、そのことが研究上の重大】て知られる ( 『図絵宝鑑』巻四 ) 。中国では南 ( とほば同じであり、両本の縦横比はポスト なポトルネックとなっている。 ( 註 1 ) ここで . 宋四大家の一人に挙げられるほど高い評価】ン美術館の祥啓画の一対二・三という数値 さんすいず はポストン美術館所蔵の祥啓筆「山水図」を受け、日本では室町時代に夏珪様式が ともかなり近似する。しかもこの二つの伝 ( 芻 ) から、夏珪を捉え直してみたい 山水画の規範的様式として大きな役割を ( 夏珪画は、本紙の縦もほば等しく、ともに 祥啓は文明十年 ( 一四七八 ) に上京し、 担っていた従来、夏珪については、「山水彩色を排除した純粋な水墨画という点も げいあみ ふ・フうしゅう 三年ほど芸阿弥 ( 一四三一 5 八五 ) のもとで図」 ( 図 1 、東京国立博物館蔵 ) や「風雨舟 ( 共通する。 足利将軍家所蔵の中国絵画等を模写して ( 行図」 ( 図 2 、ポストン美術館蔵 ) といった絹 畠山記念館本は、しっとりとした潤いと 学び、その後も何回か上京し、京都の五山 ~ に描かれ、しっとりとした墨法を示す作品 いうよりは乾いた印象を受けるため、室町 派の褝僧と交流している。祥啓が師事した が、夏珪を考えるうえで基準にすべき作品時代の水墨画家もしくは中国人画家によ たんゅうしゆくず 芸阿弥は、将軍に仕えた同朋 ( 美術・芸術 ~ と考えられてきた。 ( 註 3 ) しかし近年進展し ( る写しという可能性もあるが、『探幽縮図』・ 上のプレーン ) で、画家としても高く評価さ・た室町水墨画における夏珪受容の研究に には同図様の作品が縮写されている。仮に ていた。特に山水画の分野において芸阿 . よれば、図様や画面構成の比較研究にお ( 畠山記念館本が写しだとしても、同図様 けいようさんすー 弥は夏珪の様式に倣った「夏珪様山水」を いてはむしろ台北・故宮博物院所蔵の「溪 ~ の作品が江戸初期以前に日本に将来され ざんせいえんずかん 得意とし、「国手」・「国ェ」などと評された。】山清遠図巻」や東京・畠山記念館所蔵の ~ ていたことはほば確実である。下條家旧蔵 ・」・つ・じよう亠 , せっしゅう 当然、祥啓も芸阿弥を介して夏珪を学び、 ~ 「山水図」 ( 図 3 ) 、下條家旧蔵の「江城図」 ( 本についても、その図様は雪舟や芸愛と 夏珪様山水の奥義を会得したと考えるの ~ ( 図 4 ) を重視すべきである。 いった室町水墨画に踏襲されていることが が自然である。ポストン美術館の祥啓筆 ( さて祥啓筆「山水図」 ( 図 5 ) は、その横指摘されている。 「山水図」は、東京・根津美術館所蔵の祥 . 長の掛幅装という祥啓画としては異例な ( 祥啓筆「山水図」には根津美術館本に見 啓筆「山水図」をはじめとする祥啓の基準画面形式 ( 縦三九・一一横九一・四 ) カナナ 、、、、こご ( られるような淡彩はなく、純粋な水墨画を かんばくそうず 作や、芸阿弥の唯一の基準作「観瀑僧図」ちに畠山記念館の伝夏珪筆「山水図」 ( 重要 ( 志向しているといってよい。また描写密度 ( 根津美術館蔵 ) との比較から、夏珪様山水文化財、掛幅装、縦四四・四横一〇七・八 ) ~ の高さや、緊密な構図から、京都遊学時 そうろう 図 1 山水図夏珪筆東京国立博物館蔵 図 2 風雨舟行図夏珪筆ポストン美術館蔵 116

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・松木寛「日本水墨画の原型ー伝周文筆望海楼図をめ がわかっている。上述 ぐって」『美術史学」第ニ六号、東北大学大学院文学 の紙本・横長の夏珪画 研究科美術史学講座、ニ〇〇五年 三点がこの八景図八 ・松木寛「バーク・コレクション / 《伝周文筆山水図屏 風》ー室町水墨画の制作法をめぐって」「日本の美 幅のうちの三幅と考え ーク・コレクション 三千年の輝きニューヨーク・ るのはあまりに早計で 展」日本経済新聞社、ニ〇〇五年、三五 5 四三頁 ・松木寛「伝周文筆山水図屏風の研究ー前田育徳会本 あろ、フが、これらに曵 と大和文華館本について」「美術史学第ニ九号、東 からぬ関係があること 北大学大学院文学研究科美術史学講座、ニ〇〇八年 は認めてよいだろう ・松木寛「伝周文筆山水図屏風の研究 ( 2 ) ー春冬山水 図屏風 ( クリーヴランド美術館 ) と四季山水図屏風 以上のようにポスト ( 静嘉堂文庫美術館 ) 」「美術史学」第三〇号、東北大 学大学院文学研究科美術史学講座、ニ〇〇九年 ン美術館の祥啓筆「山 水図」は、足利将軍家】 ( 2 ) 祥啓による夏珪様式の関東水墨画への導入について 蔵所蔵の夏珪画を復元 ・相澤正彦・橋本慎司編著「関東水墨画型とイメージ 館 の系譜」国書刊行会、ニ〇〇七年五月、一ニ 5 術するための重要な素材 蔵 頁、一ニ〇 5 一五一頁。また特にポストン美術館本 氏 ドを提供できる可能性 については同書、一ニ〇 5 一ニ一頁。 雄 正 を秘めている。そして ・なお祥啓の伝記については、同書、五四 5 六八頁が 筆 下 啓 詳しい この祥啓画から復元で 祥 筆 ( 3 ) 中国絵画史研究の側からの夏珪に関する近年の研究 珪 夏 きる夏珪のイメージ については以下を参照。 伝 図 図 は、従来重視されてき ・嶋田英誠・中澤富士雄責任編集「世界美術大全集東 城 洋編 6 南宋・金」所収の作品解説 ( 三五九 5 三六ニ 山 江 た絹本の夏珪画に見 【 0 頁 ) 、小学館、ニ〇〇〇年四月 図 図 られる狭隘な空間では 川裕充著『臥遊中国山水画ーその世界」中央公論 美術出版、ニ〇〇八年十月、一三五頁 なく、紙本の夏珪画に 代に近接する時期の謹直な夏珪学習を強え併せて想定される夏珪画三点がともに将 ~ 展開される大観的な堂々たる空間構成であ く反映した作品と推定される。この祥啓画 ( 軍家に所蔵され、多くの作品からなる一連 ( る。これこそ夏珪の山水画が、元から明に かけての中国絵画ならびに室町水墨画に大 は、夏珪様山水という点だけでなく、淡彩 ( のシリーズ物の一部を構成していたのでは きな影響を及ばした主たる要因と考えられ を用いず紙に墨で描く筆墨法、横長の掛幅 " ないか、という想像に駆られる。それらは、 えんじばんしよう という画面形式、画面の縦横比、広々とし ~ 例えば祥啓画の祖本が烟寺晩鐘、畠山記 ( るのである。 さんしせいらん くにごうひであき / 東京国立博物館登録室長 ) た大観的な空間表現といったいくつかの共「念館本が山市晴嵐、下條家旧蔵本が漁村 ~ ( しょ・フしようキ 6 っ 1 い せきしよう 通項から見て、畠山記念館本・下條家旧蔵 . タ照に相当するような瀟湘八景図八幅対 実際、足利将軍家 ( 註 本の両者とかなり近しい関係にあることが ( であったかもしれない。 わかる。 には夏珪の八景図八幅があったことが永享 ( ( 1 ) 夏珪と室町水墨画の関係に関する近年の研究につい むろまちどのぎようこうおかざりき ては以下を参照。 祥啓が京都で模写した将軍家コレクショ ~ 九年 ( 一四三七 ) の『室町殿行幸御飾記』に ・山下裕ニ「夏珪と室町水墨画」 ( 辻惟雄先生還暦記念 ぎよぶつぎよがもくろ 会編「日本美術史の水脈」べりかん社、一九九三年六 ンの中に、ポストン美術館の祥啓画の祖本 ~ 記されており、また『御物御画目録』には 月 ) 八〇一 5 八三三頁 にあたるような紙本で横長の夏珪画があっ ~ 「紙横」の項目に「八景夏圭」と記録され ・畑靖紀「室町時代の南宋院体画に対する認識をめ た可能性はかなりある。そしてそのような ( ていて、夏珪によって紙に描かれた横長の ぐってー足利将軍家の夏珪と梁楷の画巻を中心に」 「美術史」一五六号、美術史学会、ニ〇〇四年三月 祖本に畠山記念館本と下條家旧蔵本を加 ~ 八景図八幅が将軍家に所蔵されていたこと 図 3 重要文化財山水図伝夏珪筆畠山記念館蔵 ぎよそん 117

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るだけである。その中でもポストン美術館の「三条殿夜討巻」は、合戦の悲惨さを告げる名品として高く 評価されている。 「吉備大臣入唐絵巻」は、真備が幽閉された高楼で始まり、対峙させるように皇帝の宮殿を配置し物語 を展開させていく。見慣れた場面設定を繰り返すことで、物語と絵が紙芝居のようにテンポよく展開す る。それに対し、「平治物語絵巻」は、冒頭の詞書で事の次第をナレ 1 ションのように簡潔に語り、急ぐ人々 の背を追いながら事件に迫っていく。全体を一台のカメラで追うドキュメンタリーのように描かれ、群集 の稠密、間合いの取り方、絵の中で交差する視線、そして、繰り広げられる殺戮場面を、冷静に映し出 す力メラワ 1 クの見事さが秀逸である。実際には、事の進行順は前後しているのだが、三条殿を中心に配 した一つの景観の中で事件は展開し、違和感無く高い緊張感を保って終息に向かう。異なった表現技法 の二つの絵巻の全貌を見ることができるのも今回の見所である。 かんのんず 第三章「静寂と輝き」では、中世の水墨画と初期狩野派の作品が展示される。「観音図」 ( ) は、正安 いっさんいちねい 元年 ( 一二九九 ) に元から渡来した一山一寧の賛があるもので、来日後に制作されたものとされるが、中 国で制作されたものとする説もある。この種の楊柳観音図としては現存最初期の作例であり、一山によ る仏画に賛を付した最も早い頃の作品としても貴重で、細密な描写には眼を見張るものがある。関東を さんすいず 中心に活躍した祥啓の「山水図」 ( 芻 ) は、中国・南宋の画家夏珪の様式に習って描かれたもので、祥啓 の代表作とされるばかりでなく、室町時代に山水画の規範とされた足利将軍家所蔵の夏珪画を考える上 しようしようはつけいず - びようぶ でも重要な意味をもっている ( コラム 4 「祥啓筆山水図と夏珪」救仁郷秀明参照 ) 。「瀟湘八景図屏風」 ( ) ぞうさん は、これまで、伝歴不明の個性派画家としていくつかの作品が知られている蔵三の作とされてきた。し かし、他の蔵三の作品に捺された印とは異なる印が捺されており、筆者については、検討の余地のある ことが、また、周文系山水図との比較により制作年代が十五世紀まで遡る可能性が指摘された びやくえかんのんず フェノロサは、狩野派を高く評価し、長男を「カノ 1 」と名付けたほどであった。「白衣観音図」は かのうもとのぶ 現在残っているフェノロサの収集品整理ノ 1 トの中に記述のある作品で、フェノロサは、狩野元信の最高 傑作と考えていた。静かなこの世ならぬ荘厳感が広がるとし、頭部の二重光背や衣装の描線を評価し、 だったんじんしゆりようず 特に岩の表現に心惹かれていた作品である ( コラム 5 参照 ) 。「韃靼人狩猟図」 ( 週は、もと襖で、作風な ほ - フ′ 0 んししよう だったんじんだきゅうずびようぶ どから東京・静嘉堂文庫美術館に所蔵される「韃靼人打毬図屏風」と一連のもので、『宝山誌抄』などに たっちゅうこうりんいんたんな 狩野元信筆と記された京都・大徳寺の塔頭興臨院檀那の間の襖に相当する可能性が指摘されている。室 さんじようどのようちのまき 図 5 白衣観音図 ( No. 36 部分 ) 033

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禄元年〈一四五七〉 ) の存在から、十五世紀中頃を中 、いに活躍した水墨画家と考えられている。文清の作 品は、大徳寺に数点残されており、同寺と密接な関 わりをもった画家であったと想定されるが、この画 家をめぐってはこれまでもさまざまな議論が展開さ じよせつ れ、ポストン美術館で購入された当初は如拙と同一 人物であるとみなされたこともあった。さらに、朝 鮮半島の山水画の特色を色濃く残す韓国国立中央 ろうかくさんすいず 博物館に所蔵される「楼閣山水図」には「文清」印が 捺されていることから、朝鮮半島の山水画との影響 関係が指摘されてきた。しかし近年、印章や様式の 詳細な検討がなされ、韓国国立中央博物館所蔵「楼 閣山水図」をはじめとする「月」の部分が一画足り ない「文清」印をもっ諸作品は、本図や正木美術館 本の画家文清とは異なり、朝鮮絵画であることが判 明した。 ( 井戸美里 ) さんすいず 山水図 祥啓 ( 活躍期〕十五世紀後半 5 十六世紀初頭 ) 筆 紙本墨画 縦三九・四横九一・五 室町時代十五世紀末 5 十六世紀初 〔印章〕「賢江」 ( 朱文重廓長方印 ) 、「祥啓」 ( 白文重廓方印 ) 一九一 - 年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 祥啓は鎌倉の建長寺の書記を務め、関東を中心 に活躍した禅僧画家である。文明十年 ( 一四七八 ) に 上京し、数年間、芸阿弥のもとで将軍家所蔵の中 国絵画などを模写して学び、関東水墨画に大きな影 響をもたらした。祥啓の師、芸阿弥は特に夏珪様の 山水画を得意としたことで著名である。夏珪は中 国・南宋の宮廷画家で、その様式は、室町時代にお いて山水画の規範的様式であった。 本図はまさに夏珪様式に拠って描かれたものであ り遥かかなたまで広がる水辺の景が巧みにあらわ されている。自然の崇高さ、広大さの表現とともに、 卓抜な筆致によって画面からは清浄で爽やかな空気 が醸し出され、「山水図」 ( 重要文化財、東京・根津美 術館蔵 ) とともに祥啓山水画の代表作といってよい 出来映えである。描写密度の濃さや、奥行きが重視 された表現などから、現存作品の中では最も夏珪様 式に近接した画風といえるだろう。京都遊学からさ ほどときを隔てぬ時期、すなわち十五世紀末から十 六世紀初頭にかけて本図は制作されたと推定され ( 救仁郷秀明 ) しようしようはつけいずびようぶ 瀟湘八景図屏風 ぞうさん 伝蔵三 ( 生没年不詳 ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 各縦一五八・〇横三六五・四 室町時代十六世紀前半 〔印章〕各隻「宗円」 ( 朱文方印 ) 、「蔵三 ( 蔵或 ) 」 ( 白文方印 ) 一九 - 一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 瀟湘八景は、中国・北宋時代後期の文人画家、宋 てき 迪が十一世紀中葉に創始した画題で、湖南省洞庭湖 の南側を流れる瀟水と湘水が合流する付近の煙靄に かすむ八つの佳景を描くものである。日本では鎌倉 時代末にすでに描かれ、室町時代に入ると屏風や襖、 掛幅など、さまざまな画面形式に描かれ流布する。 さんしせいらんぎよそんせきしようえんじばんしよう 本屏風右隻には山市晴嵐、漁村タ照、烟寺晩鐘、 しようしようめー・フ ど・フていしゅうげつ えんばきはん 遠浦帰帆の四景、左隻には瀟湘夜雨、洞庭秋月、 へいさらくがんこうてんばせつ 平沙落雁、江天暮雪の四景が描かれる。画面の諸処 に金泥を用いて大気や光、霞が表現され、全体とし ひょうびよう て縹渺とした水辺の景観がよくあらわされている。 各隻の画面上部には、それぞれ色紙四枚ずつが貼ら れていた痕跡があり、制作当初は瀟湘八景詩八首 の書かれた色紙が貼られていたものと推定できる。 八景はやや孤立して配置され、有機的な関連性に乏 しいとこれまで評されてきたが、 色紙の貼付を前提 隻 右 い」・つ一しい一」 とした制作であれば、作者はむしろそれを考慮して 各景の独立性を強めて構成したのかもしれない。金 泥の使用やモチーフの明晰な描写により本図はおよ そ十六世紀前半頃の作と推定されている。一方、鋸 歯状の特徴的な岩の描写は、一四三七年以前の制 しゅうぶん さんすいず しようし」′、カ・れ 作とわかる伝周文筆「山水図」 ( 惟肖得巌賛京都・ 慈照院蔵 ) とよく似ていて、十五世紀前半の周文系 山水図の伝統を継承するので、あるいは本図の制作 年代は十五世紀にさかのばるかもしれない。 本図の作者は従来、蔵三とされてきた。通説では、 各隻に捺された「宗丹」と「蔵三」の印章について、 「宗丹」は後捺された偽印で、「蔵三」印が絵の作者 の印章と解釈されている。しかし本図の印文は例え うさぎず ば「月に兎図」 ( 神奈川・常盤山文庫蔵 ) の印と異なり、 「蔵三」というよりは「蔵或」と読めるようで、作者 ( 救仁郷秀明 ) についてはなお検討を要する。 ほていず 布袋図 おうせんけいさん 横川景三 ( 一四二九 5 九三 ) 賛 紙本墨画淡彩 縦六一・九横四六・一 室町時代文明十一年 ( 一四七九 ) 〔印章〕「 ( 不明 ) 」 ( 朱文団扇形印 ) 〔賛〕横川景三 ( 前額印 ) 、「 ( 不明 ) 」 ( 朱文長方印 ) 「昼閻浮界夜兜率宮天上天下 / 抛向嚢中宝珠在掌八面玲瓏 / 惑乱童子笑破虚空主丈挑月扇子 / 揮風唳五十六億七千万歳 後龍華 / 樹下成等正覚称弥勒尊仏者 / ケ契此翁耶 / 前南禅 横川」 ( 印章 ) 、「 ( 不明 ) 」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 布袋は、中国に実在した禅僧契此 ( ? 、・九一六 ) で あるが、その死後には、弥勒菩薩の化身などとされ、 好んで図像化されてきた。着色布袋図は南宋時代 には制作されていたと見られ、そうした作品を下敷 きとして描いたと考えられる。ここに見られるよう な丸い大きな腹をした、満面の笑みを浮かべる布袋 の姿は、背景や唐子の有無というモチーフの違いは 見られるものの、屈曲の多い衣文表現や細かい毛描 かのうまさのぶ きなどは、狩野正信筆「崖下布袋図」 ( 重要文化財、 〕いド ) よしゅうり・ル 景徐周麟賛 ) との間に類似性を見出すことができる つき 245

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目次 プロローグ コレクションのはじり ①フ = ノ 0 サと狩野派の画家たち井上臆 0 第一章 イのかたち申のすがた ③名品絵画がよみがえる「日本美術の至宝」修復作業 第ニ章 海を渡。た一一大絵巻 ①「吉備大臣入唐絵巻」を読む金井裕子 0 第三章 静寂と輝きー中世水墨画と初期狩野派 ①祥啓筆山水図と夏珪救仁郷秀明 第四章 華ひらく近世絵画 ③大阪で買く 0 たアメリカ人、世堺に売りく 0 た日本人 フェノロサ、ビゲローと古美術商・山中 知念理 ポストン美術館と日本美術コレクション ポストン美術館ーー東と西の架け橋アン・ニシムラ・モース ポストン美術館の日本絵画コレクション 西欧に示された日本美術の教科書ーー田沢裕賀 〔特別寄稿〕ポストン美術館の曽我蕭白コレクションについて辻惟雄 フィリップ・メレディス 0 0 ターニヤ・ウェダ 081 . 107 135 053 043 ・ 038 013 ・ 025 010

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たんまさのぶ ェビソード 3 け負い、一一曲屏風に仕立て直して十一一月に探理信の名号を授与され、正式な鑑定家 。番号の何番何番持って来い、直ぐ 明治十七年 ( 一八八四 ) 夏の宝物調査旅】は法隆寺へ納めたというのである ( 『大日本 " として免許皆伝を得たこと、鑑画会の中心 詰めて、荷造りしろと云うことでありま メンバーとなり日本絵画復興の旗手と認め して、まことにどうも雑作もない話で、 ~ 行で、フェノロサ、ビゲローは文部省から ( 美術新報』第十四号、一八八四年 ) 。 まあその時は一番高い掛物が十四、五円 . 派遣された岡倉天心の随行により法隆寺 ( 伝金岡筆の花鳥図とは、重要文化財「蓮 ~ られたことなどがそれである。鑑画会を資 のものであったように思います。 の古器物を調査した。有名な夢殿観音開池図」 ( 奈良・法隆寺蔵 ) のことだ ( 図 2 ) 。金的な面で支えたビゲローの莫大な財力も 扉が伝えられる年である。この調査の際、法隆寺は慎重を期し、外国人による修繕 ~ 「権威の増大」を加速させたに違いない 団が大阪専門学校 ( 旧制第三高等学校の ~ 巨勢金岡筆とされる縦六尺、横七尺ほど ~ 費の寄付受納について大阪府知事へ伺い 今後どこまで化けるか予想もできない外 前身 ) の教職にあった明治十四年 ( 一八八 ( もある横軸の花鳥図が著しく破損、放置さ ( 書を提出した。山中がこの花鳥図修復を国人研究者と大富豪、そしてエリ 1 ト文部 一 ) 夏の回想談と推定され、まだ一外国人】れており、その無残な姿を惜しんだビゲ . 進めている間、ビゲロ 1 は単身法隆寺を再 ~ 官僚という「時の人」たちとの関係を強め コレクターに過ぎなかったフェノロサが、大 ( ローが自費による修繕を申し出た。そして〕訪し、聖徳太子所持と伝わる四天王紋錦 るビジネスチャンスであることは、山中ほ しきししかりもんきん に、一 ! 、青 " の旗 ( Ⅱ国宝「四騎獅子狩文錦」、奈良・法隆 阪の山中などでそれこそ「買いまくった」頃】この修繕を高麗橋筋の山中吉良兵偉カ言 どの古美術商からすれば明らかだった。法 寺蔵 ) の修復、なら の雰囲気を彷彿とさせてくれる。 隆寺の花鳥図修繕の一件はそのように読ま びに二十円の寄付 れるべきだと思われる。後に山中家の入婿 をさらに願い出て ェビソード 2 となり、海外進出を主導することになる安 だちさだじろう びやくえかんのんず かのうもとのぶ 達定次郎竈山中定次郎、一八六六ー一九 狩野元信筆「白衣観音図」 ( は、『東 山中の花鳥図修 三六 ) は、吉郎兵衛の兄・吉兵衛の店 ( 天山 洋美術史綱』によれば、明治十五年 ( 一八 復という計らいは、 中 ) に入って七年目 ( 十九歳 ) の丁稚であっ 八一 l) 頃、フェノロサが山中の土蔵の中で見 日本美術を心から た。決して「売りまくる」だけに終始しない 出したものだ。旧徳島藩主・蜂須賀家の旧 愛するビゲロ 1 の 山中の商売の懐をそろそろ自覚し、飛躍へ 蔵品で、一一十五円で入手したことを得意げ 篤志に感じ入って、 の糧を蓄えていたと想像される。 に述べている。フェノロサの収集品整理ノー 顧客へのサービス トの一部存在が知られているが、山中は兆 の一環として行わ でんすみんちょう 二再来日から現在まで 殿司 ( 明兆 ) の作と考えて廉価で売却した れたのだろうか 館 物 十二年に及ぶ日本滞在で美術史研究、 が、間もなく東京で狩野探幽の模本が三 って - フたし J しても、 博 乍ロロ収集に華々しい成果をあげたフェノロ 百五十円で売買された、とそのノートの中 国この年顕著であっイロ 奈 でも山中での値ごろな掘り出しを強調して たフェノロサをめ ~ サは、明治二十三年 ( 一八九〇 ) 、ポストン 供 いる。古美術商でのこうした物色は、古社 ぐる「権威の増大」一美術館に開設される日本美術部部長就任 像 画 寺で歴世の名品に触れる調査とはまた大い を見逃すことはで " のため帰国した。フェノロサの収集品はビ 蔵 に異なる興奮、高揚感をもたらしたことで 隆きないだろう。っ ( ゲローの斡旋により、ポストンの外科医 あろう。もしこの話がフェノロサの記慮ど 郎まり、美術行政中 ~ チャ 1 ルズ・ゴダード・ウエルド ( 一八五七 5 奈 一九一一 ) に一千点以上が売却譲渡され、 おり明治十五年なら、エドワ 1 ド・シルべ 枢の意向を汲んだ 図 スタ 1 ・モース、モ 1 スに伴われて来日した 画期的な宝物調査日本美術部開設にあたってウエルド自身の 財 ビゲローらとともに東海道を西下、収集旅 の指導者となった ( 収集品と合わせてポストン美術館に寄託さ 要 こと、狩野派宗家 ~ れた ( フェノロサーウエルドコレクション、後 行した際に立ち寄った大阪での出来事とな 重 る。 の狩野永悳から永 ( に遺贈 ) 。前年帰国していたビゲロ 1 も収 かのうたんゅう ちょう こせのかなおか かのうえいとく 173

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の日本文化に対する啓蒙活動によって、ポストン美術館が日本美術の宝庫となる素地が作られ、一一人の実 践者が日本の地を踏んだ。フェノロサとビゲロ 1 である。 フェノロサは、セ 1 ラム出身でハ 1 ド大学を優秀な成績で卒業した後、ポストン美術館付属美術学 校で絵画を学び、美術教育に対する関心を育んて ( ナ日、、 。、こ。月治十一年 ( 一八七八 ) 、モ 1 スにより東京大学 の教授に推薦され来日し、政治学や哲学の講義を担当した。二十五歳の夏である。日本の美術に深い関 心を寄せ、その収集と研究に傾倒していったフェノロサは、明治維新後の盲目的な西洋崇拝の風潮の中で 日本の古美術品が軽視され、文字通り「見捨て」られている中、単に自身の趣味としてのコレクションを するだけでなく、国家による保護が必要であることを強く感じた。近代化を急ぐ当時の日本では、廃仏 毀釈によって仏像や仏画など貴重な文化財が破壊され、多くの寺院が困窮を極め、現在国宝となってい る奈良・興福寺五重塔が売りに出され、薪にされそうになったなど、大寺院ですら伝来の寺宝が叩き売 られる状況にあった。フェノロサは、その保護政策にも関わることになる。明治十三年 ( 一八八〇 ) には、 東京大学の教え子であった岡倉天心を通訳として京都・奈良の古社寺調査に出かけている。以後も明治 政府の要請による古社寺調査をたびたび行い、それらの国家管理の準備を行った。天心による法隆寺の 秘仏救世観音調査の夢殿開扉は、明治十七年 ( 一八八四 ) の文部省による古社寺調査の際のことと考えら れ、この年の調査にフェノロサは顧問として参加している。このとき、ビゲローも同行していた フェノロサのコレクションは、明治十八年 ( 一八八五 ) 、ポストン美術館に寄託するという条件で、ビゲロ 1 の友人であったポストンの外科医チャ 1 ルズ・ゴダ 1 ド・ウエルドに譲渡された。翌年、フェノロサは、文部 省の博物館美術事業幹事となり、博物館視察のために一年間の欧米視察に出発したが、このとき一一十四 歳の岡倉天心が文部省の事務官として同行している。明治二十一年 ( 一八八八 ) 、我が国初の文化財保護 の法律である「古社寺保存法」の制定準備のために臨時全国宝物取調局が設置されると、フェノロサは、 その委員となり、明治一一十一一年 ( 一八八九 ) 、東京国立博物館が宮内省に移管され帝国博物館と改組され た際には、理事待遇でむかえられている。明治政府による天皇を中心とする国家観の形成が進められる 中、フェノロサによる古美術品の散逸と流失防止の提言は、実現への道を歩んでいたが、これは提唱者 であるフェノロサに、散逸の防止としての収集活動が海外流失を生むという矛盾を自覚させるものでも あった。それは、フェノロサの弟子で文化財行政の推進役であり、帝国博物館設立時には美術部長を務め、 後にポストン美術館の中国・日本部長となった岡倉天心にとっても同じ問題となっていく。 はいぶつ 027

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りんかんのん とから、日本のみならず東アジアの美術史を考える上でも欠くことのできないものである。「如意輪観音 ばとうかんのんばさっぞう ふげんえんめいばさっぞう ばさっぞう 菩薩像」 ( ) 、「馬頭観音菩薩像」 ( 7 ) 、「普賢延命菩薩像」 ( ) は、いずれも十一一世紀の平安仏画を 代表する名品として知られるもので、切箔などを多用した巧緻な装飾性が目を引く。当時の貴族の嗜好 が反映されており、「如意輪観音菩薩像」の張りのある描線と彩色は優雅さが、後二点ではやわらかい彩 ほっそうまんだらず 色表現が優艶で神秘的な美しさをかもし出している。「法相曼荼羅図」 ( ) は、現存最古の法相曼荼羅 びしやもんてんぞう の作例として貴重なもの。毘沙門天は、四天王の一つ多聞天の別称であるが、「毘沙門天像」四は、 多くの眷属を従えており、独尊像として描かれたものである。平安時代の仏画に多用される切箔や切金 が用いられていないが、細密な彩色模様と肥痩の少ないなめらかな墨線から、制作時期を平安時代末と いちじきんりんぞう する説もある。「一字金輪像」 ( Ⅱ ) は、ふくよかな丸みを残しながら少し面長な凛々しさを感じさせる 顔立ちゃ着衣の装飾表現などから、鎌倉時代十三世紀の制作とされるが、光背の繧繝彩色などに平安時 ちょうねん みろくばさっさんぞんぞう 代の仏画の特徴をとどめている。同様な特徴を示す「弥勒菩薩三尊像」 ( Ⅱ ) は、東大寺の奝然が宋から によ・りいりゅう一て - フ 請来した京都・清涼寺「釈迦如来立像」 ( 国宝 ) の像内に納められていた版画の「弥勒菩薩像」と図像を一致 みろくによらいずぞう させ、寒色系の色使いなど表現にも宋画の影響が見られる。「弥勒如来図像」 ( ) には、紙背に「高山寺」 の朱印が捺されており、独自の像仏活動を行い、弥勒信仰に厚かった明恵のものと考えられる願主の指 示書きが左下にある。画像制作のための原寸大下絵と考えられ、仏画制作の過程を考える上でも重要な してんのうぞう 作例とされている。海上で邪鬼を踏みつける「四天王像」 ( ) は、廃仏毀釈により廃絶した天理市の永 ちょうみよう 久寺真言堂の障子絵で、興福寺ゆかりの画家重命によって建長五年 ( 一二五三 ) 頃描かれたと考えられて いる。これまで破損著しく像容の判別に苦労をしたが、今回修復がなされその姿を新たにした。春日信 かすがみやまんだらず 仰の広まりによって多くの春日曼荼羅が制作されたが、「春日宮曼荼羅図」 ( ) は、南門が治承三年 ( 一 一三九 ) の回廊建立以前の状態で描かれた現存三例のうちの一つで、景観が二の鳥居から上方に限られ ている点、大きな掛幅装であることなど特徴的なもので、近年では鎌倉時代に遡る可能性も指摘されて みろくばさつりゅうぞう 彫刻では、現存する快慶作品の最初期の作例である「弥勒菩薩立像」 ( -— ) が注目される。明治三 十九年 ( 一九〇六 ) 、興福寺内で破損仏などを集めて撮影をした野外写真にこの像が写っている。天心が その年の夏に手に入れ、翌年新納忠之介による修理の際に像内に経巻が見出され、その奥書により、本 ; ー 像が快慶によって文治五年 ( 一一八九 ) に制作されたものであることがわかった。天、い没後に中国日本特 けんぞく みよう、ん 図 2 弥勒菩薩立像 ( NO. 23-1 ) 031

9. ボストン美術館 日本美術の至宝

コラム 5 はじめに の医師で富豪のビゲローがこれに同行した。 ポストン美術館が収蔵する日本絵画コ同十七年、十九年の調査旅行には、文部 レクションは、アーネスト・フランシスコ・省から派遣された岡倉天心 ( 一八六三 5 フェノロサ ( 一八五三 5 一九〇八 ) とウィリ 九一三 ) らの随行を受け入れ、文化財保護 アム・スタ 1 ジス・ビゲロー ( 一八五〇 5 一九 ~ を目的とする政府美術行政による宝物調 二六 ) という一一人のポストニアンによってそ査の実現にも貢献している。ちなみに同十 の基礎が築かれた。フェノロサとビゲロ 1 八年、フェノロサ、ビゲローは天心を通じ の収集品がはるばるポストン〈と渡「たの・て出会「た滋賀・園城寺法明院の桜井敬徳 は明治十九年から同一一十三年 ( 一八八六 5 師より受戒し、ともに仏門に帰依している。 九〇 ) のこと。百二十年の歳月を経てなお こうしてフェノロサとビゲロ 1 は毎年一 今日も日本絵画コレクションの核として輝 ( 定の期間を関西で過ごした。フノロサの きを放っている。 遺著『東洋美術史綱』 ( 原著一九一二年刊 ) 一一人の日本での古美術品収集をめぐって】ほかの関係文献から関西滞在中の足跡を は、大阪の古美術商・山中 ( 山中等篁堂、後 うかがってみると、具体的な記録はやはり に山中商会 ) の関与が知られている。十九 ~ 奈良、京都の有名古社寺に集中している。 ~ 関西骨董界の重鎮として当時最もよく知 ~ 委員会、一九三八年刊 ) に次のようなくだ 世紀末よりポストンと大阪を結ぶ、その意両県に接する大阪での行動が当然気にな ( られたのは、北浜一一丁目・難波橋筋の角にり ( 講演の一節 ) がある。旧字、仮名遣いな やまなかきちろべえ 外に深いえにしについて振り返ってみたい るが、奈良、京都ほどの生彩ある見聞を伝 " 店を構えた「角山中」こと山中吉郎兵衛 ( 一ど原文の表記を一部改めて引用する。 える資料にはいまのところ出会えない 八四五 5 一九一七 ) であった ( 図 1 ) 。 一来日から帰国で ただ、フェノロサとビゲロ 1 の関西滞在 段々に美術の事を面白く感じておった フェノロサは東京大学で政治学、哲学な ( には、宝物調査とは別のもう一つ大きな目】エビソード 1 ものですから絵を買いに行くのに付いて どを講義するお雇い外国人として明治十一 . 的があった。すでにふれたように私的な古 ( 戦前の三井財閥の総帥であった団琢磨【行った。そうして大阪ならば山中とか、 年 ( 一八七八 ) に来日した。ほどなく日本の美術品収集である。二人のアメリカ人コレ ( ( 一八五八 5 一九三一 l) はフェノロサと交流 ( あるいは京都までも行って見ました。方々 古美術に深い関心を寄せるようになり、同 ~ クターの大阪における消息に耳を澄ます ( があった近代数寄者の一人として知られへ参って見た。その時のフェノロサの買い 十三年からほば毎夏のように関西方面へ旅 ~ と、山中という古美術商の周辺でにわかに る。作品収集のため来阪したフェノロサと】方が、有りたけのものを周囲にプラ下げ 行し、私的な古美術品収集、古社寺での宝そのトーンが上がってくる。山中 ( 山中箞篁 ( ともに古美術商を訪れたときの団の回想と ~ させて番号を打つ、これからひとつひとっ 物調査を重ねた。同十五年からはポストン ( 堂 ) は高麗橋、北浜に計三店舗あったが、 して、『男爵団琢磨伝』 ( 故団男爵伝記編纂 ( 値段を付けさせる。その中から選ってゆ 大阪で買いまくったアメリカ人、 世界に売りまくった日本人 フェノロサ、ビゲロ 1 と古美術商・山中 知念理 山中商會創立者 初代山中吉郎兵衛翁 1 黼店堂篁箞中山角 氏衛兵郎占中山代二 図 1 山中吉郎兵衛 ( 上 ) と角山中箞篁堂店舗 「山中定次郎伝」 ( 1939 年 ) より 172

10. ボストン美術館 日本美術の至宝

~ 6 ポストン美術館の二つの山水図屏風田沢裕賀 屏風は、一隻を片隻と呼ぶことがあるよ " ちがいたようで、元信の印を捺した作品に 記事 ( 註 3 ) の中に「金銭に就ては少しも念が がる。幾重にも重なる崖は、屹立して屏風 うに、右隻と左隻をベア】として一双で構 " もさまざまな作風の作品が知られている ( なく夫が為に食事もできない様な事が折々 ( の枠を越えて外まで広がり、中央部分には 成するのを普通とする大画面である。右隻 ( が、これもひとまずは一兀信の作とされる。 ~ あった様である」とあり、初めて伊勢で描い ( 遠くを霞ませた深い空間が広がる。近景の を春、左隻を秋として、一双の右から順に】近世までの絵師には、個人が自身の個性を " たときには、空腹のために歩くこともでき圧迫感と画面を埋め尽くすような密度で 四季を描いた構成としたり、両隻を連続し . 発揮して活躍する現代の芸術家のイメ】ジ ( ず路傍で寝ていたのを豪農が親切に連れ帰 ~ 描き込むエネルギ 1 が、静かな山水図とは た画面として、一双に広がる一つの連続し ~ とは違い、特定スタイルの絵を生産する職〕り何ヶ月か逗留させたとか、安養寺の達磨 ~ 異なる迫力を生んでいる。描くという行為 た空間として感じさせる構図をとったりし人集団の統率者としての役目があったことを描いた衝立は、空腹で本堂で寝ていた風】に精神が覚醒されていくように無数の小さ ている。普通の六曲一双の屏風で、縦一六 ( も忘れてはならない 体怪しき画家 ( 蕭白 ) を一晩泊めたときに酒】な墨点が打たれ、焦燥感と抑えきれない感 〇センチ、横七メートルが本紙の標準的な 曽我蕭白 ( 一七三〇 5 八一 ) は、二十代 ~ 一升を飲んで描いたものだとかの逸事が記 ( 情に襲われるように描く画家の姿が感じら 大きさだから、現代の絵画作品と比べても、】の終わりに伊勢に旅をしている。そして三〕録されている。重要文化財に指定されてい ~ れる。安住の地にいる画家の理想の山水で かなり大きな画面ということができる 十三歳の夏には播州高砂 ( 現在の兵庫県高 " る伊勢斎宮の永島家に伝わった障壁画は、 一双の左右で、しばしば筆致の違う屏風】砂市 ) にも足を運んだ。さらに伊勢路を再伊勢詣での途中で泥酔していた蕭白を介抱一隻ずつ独立して鑑賞できるように見え を見ることがある。そのような場合、工房訪、三十八歳で再び高砂を訪れている。そ ( して新築の家に連れ帰った際に描かれたも ( るが、中央部のつくわ芋のような山塊は、 での制作とされるのが一般的で、作品の構 . れぞれの地で数多くの作品を描き残してお ~ のだと、永島家で代々伝えられていた。十 ( 両隻にまたがって描かれ、右隻から左隻に 想はその集団の棟梁 ( 工房主 ) によってなさ〕り、 逸話も伝わっている。播州の旅を終え ~ 七歳で両親を失った蕭白の画家としての前 . 山道が続き、左隻の亭の上の霞は右隻まで れ、作品に落款がある場合は、その作品を ~ た蕭白は、その後は京都を本拠として作画 ~ 半生は、自由気儘に振舞いながらも喰うこ ~ 伸びている ( 図 1 、 2 ) 。一双の連続した景 監修した画家が落款を入れたと理解して ( に励んだようで ( 註 1 ) 、安永四年 ( 一七七五 ) ~ とを求める放浪の画家であった。そして後 ~ 観なのだが、一双に連続する一つのまとまっ よいだろう。ある作品に描かれたスタイルの『平安人物志』画家の部に京都在住の代〕半生は、京都を代表する画家の一員となり ~ た山水図としては落ち着かなさを感じる。 に相当する画家の名前が一人しか知られて〕表画家一一十人のうちの一人として名を連ね都に身を置いていたのではないだろうか その原因は、それぞれの隻の水平線の高さ いない場合には、作者名を挙げるならその " ている。この頃には子供も生まれていたら ( 展覧会には蕭白の作画期の初期と晩年 ~ が違うことや、右隻の左端が霞の上部まで 画家の作とするしかない狩野派には、大 ( しい。傍らには妻もいただろうか。九州へ ~ の二点の山水図屏風が出品される。 近景として覆いかぶさるように描かれるの ろうかくさんすいずびようぶ 勢の弟子がいたが、現在残っている作品に・赴く途中、岡山で藩主の命に応じて金屏風 ~ 「楼閣山水図屏風」四は、蕭白の山 ~ に、 左隻では、霞の上部は遠景の山として 名前があるのは、ごく僅かな数の絵師に過 ~ に揮毫したともされるが ( 註 2 ) 、地方の足水図を代表する作品として古くからよく知】描かれていることによる。連続した形 ( あ ぎない。狩野派を江戸時代末まで続く一大跡をたどることはできない られており、日本での展覧会にもしばしばるいは下絵・構想 ) をもちながら、表現とし かのうもとの 流派とする礎を築いた狩野元信 ( 一四七明治時代に伊勢で、蕭白の作品と逸話を出品されている。両隻ともに右下に近景が【ての統一がなされていないのである。そし 七 5 一五五九 ) のもとには、大勢の弟子た ~ 収集した桃沢如水 ( 一八七三 5 一九〇六 ) の ~ 配され、画面手前を通って左に崖が立ち上て、描写の質にも微妙な差が生じている。 ももざわによすい 182