万七千七百五十ドル ) で購入しているが、天心が自由にできる基金の額を超えており、日本美術の高騰は、 優品の購入を困難にしていた。天心は、日本美術の収集から中国美術のコレクション充実に目標を移して これまでの状況をまとめると、次のようになる。ポストンは、十九世紀、西洋と東洋の接点としての 意味をもった土地で、東洋文化に対する関心が高く、美術館の草創期に、モース、フェノロサ、ビゲロ 1 ら ノ ノ 1 ド大学を背景 日本を訪れ日本文化を理解した者たちの手によってコレクションの基礎が作られ、 とした学識高い地にふさわしい体系的な整理が行われた。日本では、西欧化を目指した極端な伝統文化 軽視の時期にあたり、文化財の収集が容易であった。また、モ 1 ス、フェノロサは、大学教授として雇われ、 皮らの活動は、当時文化財保護と博物館制度の 作品の選定に多くの知識人の協力を得ることができた。彳 確立を目指していた日本にとっての指針となり、フェノロサの教示をうけた天心が帝国博物館の美術部 長としてその実践にあたった。後年、天心は東洋の正当な理解を促すためにポストン美術館で活動を展開 して いく。日本の伝統文化を、東洋文化の尺度で体系的に一小すことを可能とする西欧の窓として、ポス トンは最適な地であり、日本文化を愛したビゲロ 1 やポストンの人々の愛情によって、日本文化が西欧文 化に引けをとらない世界文化として理解されることを可能にするコレクションが、ポストン美術館に作ら れたのである。 この展覧会は、ポストン美術館のコレクションの中から、絵画作品を中心として日本美術の優品を通史 的に選んで構成されているが、近年日本で公開された肉筆浮世絵と浮世絵版画の分野は除かれている。 また、モ 1 スが収集した陶磁器のコレクションも会場の構成上含まれていない ( 東京会場のみ、刀剣と染 織作品が加えられている ) 。出品作品の主なものを紹介し展覧会の案内としたい。 第一章「仏のかたち神のすがた」では、仏画と彫刻 ( 東京・大阪会場のみ ) を展示するが、いずれも美術 りようじゅせん 史上欠かすことのできない重要な作例ばかりである。中でも霊鷲山で釈迦が法華経を説く光景を描いた ほっけどうこんばんまんだらず 「法華堂根本曼荼羅図」 5 ) は、かって奈良・東大寺法華堂に伝わったもので、奈良時代に遡る稀有な きちじようてんぞう 作品である。この時代の本格的な絵画としては奈良・薬師寺の「吉祥天像」 ( 国宝 ) などわずかな作例しか 残っていない。しかも背景の山岳表現は、同時代の中国・唐の絵画様式を反映しており、かっては中国 で制作されたものではないかともされた。当時の中国にもこの時期の本格的な山水画が残っていないこ 図 1 法華堂根本曼荼羅図 ( No. 5 ) 030
メッセージ ポストン美術館は、光栄にも欧米最大の日本美術コレクションを所有しています。その収集の第一歩は、十九世 紀後半から二十世紀前半にかけて、先見の明あるニュ 1 イングランドのコレクタ 1 とキュレ 1 タ 1 の主導によっては じまりました。エドワ 1 ド・シルベスタ 1 ・モ 1 ス、ア 1 ネスト・フランシスコ・フェノロサ、ウィリアム・スタ 1 ジス・ビ ゲロ 1 、チャールズ・ゴダ 1 ド・ウエルド、そして彼らの仲間であった日本人の岡倉覚三 ( 天心 ) は、日本美術の一級 品を収集するだけでなく、そのコレクションを通して日本の豊かな文化遺産に対する理解が深まるよう、熱意を注 ぎました。今日、当館はこれら先人たちの熱意を受け継ぎ、展覧会や出版物そしてウエプサイトを通して、人々が 広く当館のコレクションにふれることができるよう、力を尽くしています。 本展覧会でこれだけの素晴らしい傑作を紹介できるのは大変喜ばしいことです。そのきっかけは、今から十五 年以上前にさかのばります。日本の研究者チ 1 ムがポストンを訪れ、鹿島美術財団の支援のもと、当館のキュレー タ 1 と協力して、絵画・彫刻・工芸の目録を作り直しました。調査によって多くの作品の重要性が再確認されると ともに、新たな作品にも光が当てられました。十三世紀の仏画「弥勒菩薩三尊像」、狩野元信および狩野松栄のも のと伝わる扇面画、十七世紀の「邸内遊楽図屏風」そして曽我蕭白による襖絵「雲龍図」など、いずれも本展覧会 が日本初出品となります。また、当館の保存修復スタッフは、日本からのスタッフとともに、過去五年間にわたっ て、美術品のきめ細かい保存修復処置と改装を行ってきました。本展覧会の開催にあたっては、、 プロモ 1 ション、東京国立博物館、そして名古屋ポストン美術館、九州国立博物館、大阪市立美術館とのすばらし 1 トナ 1 シップのもと準備を進めてきました。 三十年前、ポストン美術館の展覧会が日本で開催されました。ある屏風を目当てに、一人の若い学生が仙台か ら東京に足を運びました。その学生が今や、本展覧会の共同キュレ 1 タ 1 となっています。彼は当時の展覧会を振 り返り、特に感銘を受けたのが、十二世紀の「吉備大臣入唐絵巻」だと語っています。その絵巻を再び、その他数 多くの貴重な美術品とともに送り出せることは当館にとって大きな喜びです。そして三十年前と同様、本展覧会 が、日本美術を愛する新しい世代の心を動かすことを願ってやみません。 ポストン美術館館長 マルコム・ロジャ 1 ス
ポストン美術館の日本絵画コレクション 西欧に示された日本美術の教科書ーー 田沢裕賀 ポストン美術館には、世界に誇る日本美術の名品が数多く所蔵されている。その質と量は、海外の美術 * : ノロサ、ビゲロー、岡倉天心に関 しては、本図録のアン・ニシムラ・モー 館・博物館の中で群を抜くものだが、そればかりでなく歴史的展開を語ることのできる網羅性にも特筆 ス「ポストン美術館ー東と西の架け橋」 に詳しいか個別には、ポストン美龕 すべきものがある。このようなコレクションの形成が可能となったのには、どのような背景があったのだ 館が主催に加わって開催された以下の 展覧会図録が詳しい。本稿も多くの ろうか。ポストン美術館のすぐれた日本美術コレクションは、美術館草創期のポストンの蒐集家たちと、 情報をそこから得ている。 西欧に倣って新しい国家を作ろうとしていた当時の日本の文化状況の中から生まれたものだった。 ・フェノロサ二ポストン美術館秘蔵フェ ノロサ・コレクション屏風絵名品展」 ポストン美術館の日本美術コレクションは、エドワ 1 ド・シルベスタ 1 ・モ 1 ス ( 一八三八 5 一九二五 ) 、ア 1 一九九一年、奈良県立美術館他 ネスト・フランシスコ・フェノロサ ( 一八五三 5 一九〇八 ) 、そしてウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲロ 1 ( 一八五〇 5 ・ビゲロー 二ポストン美術館所蔵肉筆 おかくらてんしんかくぞう 浮世絵展江戸の誘惑』二〇〇六年、 一九二六 ) の三人によって形成されたといってもよいだろう。また、岡倉天心 ( 覚三、一八六三 5 一九一三 ) 神戸市立博物館他 がポストン美術館中国・日本美術部長として果たした役割も、極めて重要である。 ( アン・ニシムラ・モース「ウィリアム・ス タージス・ビーゲロー ー日本愛好家 ポストンは、アメリカ北東部、ニュ 1 イングランドの中心都市である。イギリスで宗教的弾圧を受けた清 にして日本主義者ー」同展覧会図録 所収 ) 教徒ら百二人が信仰の自由を求めて新天地アメリカを目指しメイフラワ 1 号に乗って到着したのが、アメ ・岡倉天心〕『岡倉天心とポストン美 リカ発祥の地として知られているプリマスである。ポストンは、そこから約六十キロ北西の地にあり、 術館』一九九九年、名古屋ポストン 美術館 チャ 1 ルズ川の対岸ケン。フリッジには、一六三六年創立のハ ト大学がある。東インド会社の船に積ま ( アン・ニシムラ・モース「正当性の提 れた紅茶をポストン港に放り込んだ一七七三年の「ポストン茶会事件」は、アメリカ独立戦争の端緒となり、 唱ー岡倉覚三とポストン美術館日本 コレクション」同展覧会図録所収 ) 独立戦争にまつわる十六の史跡を繋いだ路上の赤いライン ( フリ 1 ダムトレイル ) が、ポストンの歴史的位 025
の襖絵のかたちに復元され、日本初公開となる。当初は破損した「めくり」の状態で発見されたと思われ るこの作品が、ポストンに保存されたのを幸運とせねばならない。私が約四十年前、『奇想の系譜』とい う著書のなかで、蕭白の異才ぶりを世に紹介したちょうどその頃、ヒックマン氏は、この「雲龍図」を、 ポストン美術館の日本絵画の収蔵庫に見出した。それまで、「スタディ 1 ・ピ 1 ス ( 要検討作品 ) 」として放 置されていたという。 疑問が湧くカビ 蕭白が光琳や応挙のような有名画家とは違うだけに、なぜそれほどの数を、という ゲロー自身のそれに関する言及は全くなく、フェノロサもかれの著書のなかで、あまり褒め言葉でない短 おかくらてんしん いコメントを残しているに過ぎないという。ただ、岡倉天心 ( 一八六三 5 一九一三 ) が、英文の著書『 The ldeals of the East ( 東洋の理想 ) 』のなかで、蕭白のことを "BIake ・ like instinct" すなわち、イギリスの 有名な詩人にして画家ウィリアム・ブレイク ( 一七五七 5 一八二七 ) に似た本能によって描いた画家だ、と評 しているのは注目される。ブレイクの描く絵や版画は、宗教的体験 にもとづく奇屋な幻想に満ちたもので、 テーマの宗教性を除けば、そのグロテスクなまでに荒々しい表現は、蕭白の絵のあるものに似ていなくも 、 0 ヾ 十 / ーし ヒゲローに蕭白の絵を推選したのは、フェノロサより天心だった可能性が高い。あるいは、ビゲロ 1 自身、この作品の持っスケ 1 ルの大きさに共鳴したのかもしれない 当初百点を越えていたポストンの蕭白画は、一九三〇年代の不況時代に、うち七十点が売却された。 残された写真によれば、重要な作品はそのなかにわずかしか含まれてない。一九九七年に発行された『ポ ストン美術館日本美術調査図録』 ( アン・ニシムラ・モ 1 ス、辻惟雄編ポストン美術館 / 講談社 ) に載る蕭白画 しよう・け・つしようて は、蕭月、蕭亭ら彼の弟子たちの作品数点を含んで総数四十一点である。ただしこれは一双屏風を一点 とする日本の数え方によっている。 今回の展観は、ポストン美術館の絵画・彫刻・工芸の名品を選りすぐったものだけに、国宝・重文級の作 品がすべて勢揃いする。その壮観のなかで蕭白の作品は、もとの通り襖絵八面に改装された「雲龍図」 たかず ( 、もと襖二面分の「鷹図」色をはじめ、六曲一双屏風二点、六曲片双屏風四点、二曲片双屏風 一一点と、襖絵・屏風絵が合わせて十点展示され、掛軸一点がそれに加わる。ポストン美術館の蕭白画が日 本で展示される機会は、一九八一年の松坂屋での展覧会 ( ポストン美術館秘蔵近世日本屏風絵名作展 ) 以来 数度あったが、 今回のように、大画面作品十点がまとめて展示されるのは最初であり、前述の「雲龍図」 039
ごあいさっ 東洋美術の殿堂と称されるアメリカのポストン美術館より、日本美術の粋を集めた展覧会「ポストン美術館日本 美術の至宝」を開催いたします。 本展覧会は、在外一一大絵巻といわれる「吉備大臣入唐絵巻」と「平治物語絵巻」を全巻公開するとともに、貴重 な奈良時代の仏画「法華堂根本曼荼羅図」、祥啓筆「山水図」に代表される中世水墨画、長谷川等伯や尾形光琳な ど近世絵画の巨匠たちの名品を紹介するもので、まさにポストン美術館史上最大規模の日本美術展です。 ポストン美術館の現在十万点を超える日本美術コレクションの形成に大きく貢献した一人が、ウィリアム・スター ジス・ビゲローです。そのコレクション寄贈百周年を記念して、ポストン美術館では日本とアメリカの専門家が連携 しながら、過去五年間にわたって大規模な美術品の保存修復を行ってきました。 本展覧会は、その成果を世界に先駆けて初公開します。中でも特筆すべきは、鮮やかな色彩を取り戻した十三 世紀の重命筆「四天王像」、当初のダイナミックな襖絵の姿に生まれ変わった十八世紀の奇才・曽我蕭白筆「雲龍図」 です。海外に渡った日本美術をよみがえらせ一般に公開することは、日本文化を海外に広めるとともに、国際的 な文化交流を通じて海外との友好関係をうながすことにつながります。 本展覧会は、東京国立博物館を皮切りに、約一年三カ月にわたり名古屋ポストン美術館、九州国立博物館、大 阪市立美術館で開催されます。かって海を渡ったまばろしの国宝とも呼びうる日本美術の至宝が、一堂に里帰り するまたとない機会をお楽しみいただければ幸いです。 最後になりましたが、 本展覧会の開催にあたり、貴重な作品をご出品いただきましたポストン美術館をはじめ、 ご協賛、ご後援、ご協力を賜りました関係各位に厚く御礼申し上げます。 日本側主催者
奇才曽我蕭白 ③ポストン美術館の二つの山水図屏風田沢裕賀 第六章 アメリカ人を魅了した日本のわざーー、刀剣と染織 ⑦米国人が見た刀剣とう文化酒井元樹 作品解説 出品リスト List of 受、 orks 第五章 凡例 ・本書は一一〇一一一年三月二十日から六月十日まで東京国立博物畑靖紀 / 森實久美子 / 鷲頭桂 ( 以上、九州国立博物館 ) 、知念 理 ( 大阪市立美術館 ) 館、同年六月一一十三日から九月十七日および同年九月一一十九 日から十二月九日まで名古屋ポストン美術館、二〇一三年一 ・論文は、アン・ニシムラ・モ 1 ス、辻惟雄 (ä—=o 月一日から三月十七日まで九州国立博物館、同年四月一一日か 館長 ) 、田沢裕賀が執筆した。 ら六月十六日まで大阪市立美術館において開催する展覧会 ・章解説は、井上瞳、沖松健次郎、金井裕子、救仁郷秀明、 「ポストン美術館日本美術の至宝」の東京展図録である。 知念理、田沢裕賀、酒井元樹が執筆した。 ・作品番号は展覧会場での展示番号と一致するが、展示の順 ・コラムは、フィリップ・メレディス / ターニヤ・ウェダ ( 以上、 序とは必ずしも一致しない ポストン美術館 ) 、井上瞳、金井裕子、救仁郷秀明、知念理、 ・作品解説は原則として作品番号、名称、作者等、員数、材 田沢裕賀、酒井元樹が執筆した。 質技法、法量 ( 単位センチメ 1 トル ) 、時代世紀、コレクショ ・英文和訳は庵原理絵子が、和文英訳はまい子・べアが行った。 ン名の順とした。 ・掲載の写真は、主にポストン美術館の提供による原板を使用 ・作品解説の執筆者は左記の通りで、分担は文末に示した。 アン・ニシムラ、モース / 井戸美里 / 呉景欣 ( 以上、ポストン美 術館 ) 、沖松健次郎 / 小山弓弦葉 / 金井裕子 / 救仁郷秀明 / ・編集は、東京国立博物館、名古屋ポストン美術館、九州国立 博物館、大阪市立美術館、ポストン美術館、、 酒井元樹 / 田沢裕賀 / 丸山士郎 ( 以上、東京国立博物館 ) 、 小林達朗 ( 東京文化財研究所 ) 、井上瞳 ( 名古屋ポストン美術館 ) 、 プロモーションが行った。 179 211 Ⅳ三 266 235
別基金によって遺族から購入された。現在、経巻 ( 罕 2 ) は取り出され、代わって天心が墨書した願文 が納入されている。 きびだいじんにつとうえまき へいじものがたりえまき 第二章「海を渡った二大絵巻」として、絵巻の中から「吉備大臣入唐絵巻」 ( ) と「平治物語絵巻」 (#) を取り上げた。「吉備大臣入唐絵巻」は、小浜の酒井家に伝わり、昭和七年 ( 一九三一 l) ポストン美術 とみたこうじろう 館で三十年以上にわたって部長を務めた富田幸次郎が購入にあたったもので、この購入が、文化財の海 外流出を防止するための「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が制定される契機となったことで知られて いる。「吉備大臣入唐絵巻」は、大正十二年 ( 一九二三 ) の酒井家の売り立てに出され、札元の一人であっ た大阪の古美術商戸田商店が十八万八千九百円で買収したものの、関東大震災とその後の不況により、 長い間買い手がっかず、困った戸田商店が、山中商会に斡旋を依頼し、ポストン美術館が購入したのであ る。これにより、ポストン美術館は同館に欠けていた平安時代の物語絵巻の入手を果たしたのだが、こ の水準の作品の購入は以後不可能になった。 きびのまきび 「吉備大臣入唐絵巻」は、遣唐使として唐にわたった奈良時代の吉備真備が唐人の出す難問に答えてい く物語。現在の四巻あわせた全長は、二四メ 1 トルを超える。昭和三十九年 ( 一九六四 ) 、東京オリンビッ ク記念の展覧会での展示のために里帰りし、保存と展示の観点から、修理によって四巻に改装されたが、 ご - フだんしよう それ以前は、一巻の長大な絵巻であった。物語は、『江談抄』や『吉備大臣物語』 ( 大東急記念文庫 ) からも 知られ、現存する絵巻部分は、物語のほば半分に相当する。近年、黒田日出男氏が、現状の絵巻に錯簡 のあることを指摘し、全体像を復元する興味ある説を発表している ( 『吉備大臣入唐絵巻の謎』小学館、一一 〇〇五年 ) 。それによると、物語は真備の知恵を恐れる唐人が繰り出す難題を真備が次々と解き、『文選』「囲 やばたいのし 碁」『耶馬台詩』といった宝物を持ち帰る物語の全体像が今の倍ほどの長さに描かれていたと想像される。 これまでも、絵の部分に筆致の違いなどが指摘されていたが、原本にあたっての比較はできなかった。 今回の展覧会は四巻を同時に見られる貴重な機会である。 一方の「平治物語絵巻」は、三河国西端 ( 愛知県碧南市 ) の本多家に伝来し、フェノロサが、明治十五年 ( 一 八八一 l) に見て、入手を強く望んだ作品で、明治十七年 ( 一八八四 ) に、「いろいろな困難を克服してこれ を入手したことは、そのまま一篇の小説になるだろう」 ( 『東亜美術史綱』 ) と自身で記している。もとは、 ろ - くは、らぎようこうの上、き 十五巻近い大作であったと考えられるが、現在は、東京国立博物館に「六波羅行幸巻」 ( 国宝 ) 、東京・静 しんぜいのまき ろくはらかっせんのまき 嘉堂文庫美術館に「信西巻」 ( 重要文化財 ) が残るほかは、模本と「六波羅合戦巻」を切った色紙が何枚か残 もんぜん 図 3 吉備大臣入唐絵巻 ( No. 26 部分 ) 図 4 平治物語絵巻 ( No. 27 部分 ) 032
転写して制作されたもので、絵具の一部に西洋の画材が用いられていることが判明したという。 第五章「奇才曽我蕭白」。ポストン美術館には、江戸後期の京都画壇の作品が意外と少ないのだが、そ の中で、というよりも全絵画作品の中で突出して多く収蔵されているのが曽我蕭白の作品である。フェ 土、るやまお - フきょ ノロサは絵画制作に理念の表出を求めた。円山応挙の写生画と対峙する蕭白は、「画を望まば我に乞うべ し、絵図を求めんとならば円山主水 ( 応挙 ) よかるべし」と語ったという。フェノロサは、単に表面的な蕭 白の表現の面白さを評価したのではなく、蕭白の作品に高い精神性を見出していたというべきであろう。 ほうこじれいしようじよずびようぶみたてくめせんにん 今回の展覧会には、蕭白の制作年のわかる最初の作品である「鹿居士・霊昭女図屏風 ( 見立久米仙人 ) 」 色から、晩年の作品までが揃う。特にポストン美術館に収められた時点から、襖から剥がされた状態 うんりゅうず で保管され、今回の修復作業によって公開が可能となった「雲龍図」 ) が注目される。雲龍図は、禅 宗寺院の襖絵によく描かれる。現状の八面の本紙の横幅が各一三五・〇センチなので、褝宗寺院の方丈を 飾っていたとすると、方丈中央の室中と呼ばれる部屋の向かいあった両側四面ずつに相当すると考えら れる。その推測にもとづくと中央部分に正面の襖に相当する長大な絵が他にあったことになる。右側か ら四面目の左端に爪の一部が見えることから、現状のままでは龍の体が繋がらず、かなりの襖が欠失し ているのは確かである。しかし、その間にもう一頭の姿を描くのが窮屈だとすれば、一頭の龍がぐるり と部屋を囲んでいたことになる。この龍に囲まれた部屋に一人いたなら、どのような気分になるのだろ うか。鑑賞というよりも体験するといったほうがこの龍にはふさわしい個々の作品については、辻准 雄先生の「〈特別寄稿〉ポストン美術館の曽我蕭白コレクションについて」をご覧いただきたい。 西洋に日本美術を体系的に紹介することで、真の日本理解を図ろうとした、モース、フェノロサ、ビゲ ロ 1 、そして岡倉天心、さらに、ポストン美術館とその後の日本美術コレクションの形成を支えたポストン の人たちによって、捨て去られようとしていた日本の美術がしつかりと守られてきた。海の向こうの正 倉院とも呼ばれるポストン美術館。世界に示された西欧のための日本美術の最良の教科書を、今、開く ことができる幸運。ポストン美術館が、作品の保存を考慮して長期間にわたって自館での公開を控えるこ とで実現したこの展覧会は、日本とポストンとの百年を超える友好の証ということができる。 ( たざわひろよし / 東京国立博物館絵画・彫刻室長 ) 図 8 雲龍図 ( No. 62 ) 037
コラム だったんじんしゆりようず ポストン美術館の日本美術コレクション ~ 人の日本人表具師が修復作業に携わった。 伝わる一対の襖絵「韃靼人狩猟図」 ( 週 ~ されることを前提としたものであったため、 は有名だが、 そこにアメリカで最も古い東 ( 今日、その役割はアジア全体の平面美術 . は、収蔵された時には掛幅装であったが ( 図 ~ 巻かれたことで、深いしわやひび割れが生 洋絵画修復室があることはあまり知られ ( 品の修復へと拡がり、六名の常勤職員が主 1 ) 、本展のために本来の襖の形に戻され ( じた。本図を慎重に修復し、襖として表装 ていない明治三十七年 ( 一九〇四 ) からボ . 要地域である中国、日本、インド、ヒマラヤ、】た絵画の一例である ( 図 2 ) 。日本では、こ ( することにより破損の進行が食い止めら おかくらかくぞうてんしん ストン美術館に在職した岡倉覚三 ( 天心、・中東を専門に担当している。 のような絵画を掛幅装にすることが、明治 " れ、同時に、掛幅の周囲に付けられていた 一八六三 5 一九一三 ) によって設立されたこ ( 展覧会「日本美術の至宝」の準備は五年 ~ 時代にはよく行われていた。しかし、これ " 裂を取り除くことで、一つのまとまった絵 の修復室では、一一十世紀前半を通して数 ~ がかりで行われてきた。本展に出品される ( らが描かれた紙は安定した平面の上に表装 ~ の構図を与えることができた。 美術品の多くは、百年 以上も前に当館が収蔵 して以来、本格的な修 復処置は施されてこな かった。日本で未公開 なのはいうまでもなく、 ポストン美術館の展示 室でさえも一度も展示 修されたことがないもの も存在する。本展の準 備を通して、担当者は ポストン美術館が所蔵 する非常に貴重な美術 ロ明に対する・不格的な修 復処置と調査を行うこ とかできた。以下はそ の数例である。 かのうもとのぶ 狩野元信 ( 一四七七 5 図一五五九 ) によるものと 名品絵画がよみがえる 「日本美術の至宝」修復作業 フィリップ・メレディス ターニヤ・ウェダ 図 3 : 収蔵時の雲龍図 ( 1912 年撮影 ) 図 4 : 修復中の雲龍図 070
覧会によってニュ 1 イングランドにもたらされた日本への関心と熱狂が、コレクションの将来的発展に影 響を与えたことは間違いない。ある来場者は、日本の展示が「フェアの大きな驚きの一つであり、日本は 未開の、良くても発展途上にある国とみなされてきたが、ヨ 1 ロッパの最も洗練された国が高度な文明 の象徴と自負し誇りとする芸術作品よりも優れていることを示す数々の証を目の当たりにした」 ( 註 5 ) と 五ロっこ。 確かに、博覧会で日本が展示した豪華な金工品、磁器、漆器はアメリカ中の来場者を魅了し、「日本も の」の大流行を引き起こした。二年以上にわたる大規模な計画と六十万ドルを超える財政支出をかけて 日本政府が行った展示は、日本の大工が伝統的な様式で建てた販売場、そして本館でなされた。本館 サ における日本の展示は、諸外国の中でも傑出した地位を占めていた。後にポストン美術館の日本美術部 長となるアーネスト・フランシスコ・フェノロサ ( 一八五三 5 一九〇八、図 2 ) は「精巧かっ巨大な金工品、見 事な飾り棚、金蒔絵の屏風、木彫の家具など、日本の展示は驚きの宝庫」 ( 註 6 ) と評した。 ラ 多くの欧米人にとって、フィラデルフィア万国博覧会のような場が、日本と直に接触する唯一の機会で あった。ゆえに一八七〇 5 八〇年代、彼らの日本美術に対する知識は、概ね日本当局が商業的実用化の ために選んだ卓越した「職人的技術」がうかがえる商品か、ノ 。、リのジャポニストたちのサ 1 クルで人気が 図 あった浮世絵に限られていた。しかし、交通と観光の基盤整備に伴い、西洋の裕福な人々の中には日本に 一カ月にわたって滞在する者も出てきた。マレ 1 のガイドブックを片手に、彼ら「グロ 1 ブ・トロッター」た ちは横浜に下船し、外国人向けに制作された手彩色の写真を頼りに各地を旅行した ( 註 7 ) 。彼らはまた美 術商や骨董店を巡り、帰国後友人に自らの実体験を広めることができるような物を探した。多くのニュ 1 イングランドの家庭では、、 しまだに十九世紀に彼らの祖先が日本で買い求めた「骨董品」が飾られている。 年 ポストン美術館の日本美術コレクションは十九世紀最後の十年に大部分が形成されたが、当時西洋で取 得されたものとは根本的に性質を異にする。それらは主に三人の男性によって成し遂げられたーエド ワード・シルベスタ 1 ・モース ( 一八三八 5 一九二五 ) 、ア 1 ネスト・フランシスコ・フェノロサ、そしてウィリア ム・スタ】ジス・ビゲロ 1 ( 一八五〇 5 一九二六 ) である。彼らは一八七〇 5 八〇年代、日本に滞在してい た ( 図 3 ) 。急速な近代化と西洋化を進める日本で、新しい機関編成への積極的な参加者として、彼らは文 ヒ的エリ 1 トのグル 1 プに前例のない入会を果たした。上層階級の人々は、彼らに対して自らのコレクショ 図 ン〈の門戸を開き、高名な鑑定家が彼らの購入を吟味した。時に彼らは、古典芸能の宗家らによる稽古」、、 014