コラム 1 明治十一年 ( 一八七八 ) に来日したア 1 ネ ~ に生まれ、上京して狩野四家の一つ木挽町 ( 九一 ) に師事して狩野派を研究する一方、 ~ なってからの作品です。従来描いたどの作 ただの スト・フランシスコ・フェノロサ ( 一八五三 5 狩野勝川院雅信に学ぶ。また橋本雅邦は講演「美術真説」において同時代の日本画 ~ よりもはるかに緻密でデリケートな仕上げ になっています」 ( 註 3 ) と記している。芳崖が 一九〇八 ) は、明治の美術界にさまざまな木挽町狩野家邸内で川越藩御用絵師の子 ~ の奨励を積極的に行い、自らが理想とする , 皮よ日本美 " として生まれ、芳崖と同じく勝川院に入門絵画の理論を掲げた。このとき、新しい日 ( フェノロサの影響下で描いたというこの作 方面で大きな影響を与えた。彳 ( かの・フしよう、よく 術に魅せられ、古美術を精力的に収集する】する。芳崖、雅邦は狩野勝玉 ( 一八四〇 5 本画の創世を進めるパ 1 トナーとしてフェノ " 品には、伝統的な山水画の様式を継承しな きむらりつカく 一方で、当代の画家たちを援助して作品を " 九一 ) 、木村立獄 ( 一八二七 5 九〇 ) ととも〕ロサが見出したのが、芳崖である。明治十 ( がらも、遠近感のある西洋の画法を取り入 購入し、帰国後、ポストン美術館にそのコ「に勝川院門下の四天王と称され、いずれも五年 ( 一八八一 l) に開かれた第一回内国絵画れた実験的な試みを見ることができる。本 レクションを寄贈している。ここでは、フェ次代の狩野派を担うべく期待された絵師】共進会で審査官を務めたフェノロサは、芳 ~ 作品は翌年第二回内国絵画共進会に出品 崖の作品を初めて目にして激賞し、翌年に ~ され、初めての入賞を果たした。 ノロサが来日時に関わりをもち支援した画たちであった。 しかし明治維新に伴う幕藩体制の崩壊と ( は芳崖を雇い入れて月給を払って制作をさ 家たちについて狩野派を中心に取り上げ、 日本画壇の指導者としてどのような影響・ともに狩野派は御用絵師としての地位を失 ( せるまでにな「た。この頃の作品として、鑑画ムムでの活動 せつざんばけいず フェノロサはさらなる理想の日本画の追 う。その一方で急激な欧化政策によって、明現在フリ 1 ア美術館所蔵の「雪山暮溪図」 を残したのかをたどりたい。 治初期には油絵と文人画が全盛となった。 ( ( 図 1 ) が残るが、フェノロサはこれについて ~ 究を、鑑画会という組織を活動の場とし 維新後、芳崖は家禄を失い、養蚕に従事す ~ 「明治十六年に私のために描いた最初の大 ( て、芳崖や雅邦をはじめとする画家たち 狩野派の終焉 とともに推し進める。鑑画会は、明治十 まずフェノロサらが来日する以前、明治るが失敗し、文人画を描いたり、陶器や漆作で、私に雇われその影響を受けるように 初期の狩野派の画家たちが置かれた状況器の下絵付に従事して糊口をしのいだとい 雅邦も輸出用の扇面画を描いた を概観したい。江戸時代に幕府や諸大名 り、三味線の駒を造る内職をするなどした に仕えた絵師は御用絵師と呼ばれ、特に徳 麦、兵部省海軍兵学寮製図掛に勤務し地 川幕府の絵事御用を務めた狩野派は奥絵彳 、こ。 ( 註 2 ) 師として、中橋狩野、鍛冶橋狩野、木挽図の作成に携わってしナ 町狩野、浜町狩野の四家により幕末まで かの - フ」・フカ フェノロサの来日 安定した勢力を保っていた狩野芳崖 ( 一 このような状況下、明治十一年、政府の 八二八、八八 ) 、橋本雅邦 ( 一八三五 5 一九 〇八 ) らは、このような長らく幕府の庇護お雇い外国人教師としてフェノロサが来日 にあった狩野派のもとで幕末を迎えることする。フェノロサは次第に日本美術への関 えいとくたちの となった。狩野芳崖は長府藩御用絵師の家 ~ 心を深め、狩野宗家の永悳立信 ( 一八一四 5 フェノロサと狩野派の画家たち井上瞳 0 図 1 雪山暮溪図狩野芳崖筆フリーア美術館蔵 Freer Gallery Of Art, Smithonian 旧 s 蹴ⅷ on , Washington, D. C. : Gift ofCharles Lang Freer, F 1902.226 050
静寂と輝き 第三章主宀、冖 中世水墨画と初期狩野派 Stillness and Radiance —Medieval lnk Painting and the EarIy Kano SchooI 水墨画は鎌倉時代後期に、特に禅僧を介しての中国との交流に伴い日本に導入され た。その後、室町時代前期では、褝宗寺院に所属する褝僧画家たちが、宋・元の水 墨画を規範とし日本の水墨画制作の大部分を担った。しかし応仁の乱 ( 一四六七 5 七七 ) を契機に、水墨画の担い手は、禅僧画家から狩野派を中心とする職業画家たち きんじきんうん に代わってゆく。た初期狩野派は水墨画のみならず、金地金雲と鮮やかな彩色を組 み合わせた多様な様式を展開する。 ポストン美術館所蔵の中世水墨画と初期狩野派作品のほとんどは、フ = ノロサとビゲ ローが収集したものであり、それらは一九一一年にポストン美術館の所蔵品となった。 しようけい かんのんず ここでは水墨画導入期の優品「観音図」 ( ) や、褝僧画家の祥啓が宋画を範として制 さんすいず 作した山水画の名品「山水図」 ( ) など、中世の水墨画とともに、狩野派発展の基礎 しようえい もとのぶ ( 救仁郷秀明 ) を築いた元信から松栄に至る初期狩野派の優品をご覧いただく かのうは
物当 蔵 館 庫 嘉 静 図 毬 打 人 から江戸時代初期にかけて好んで描かれた主題で しきぶてる あり、ポストン美術館に所蔵される本図は、式部輝 忠本 ( 文化庁蔵 ) とともに現存作品中最も初期の例 とされる。 本図は近年、東京・静嘉堂文庫美術館に所蔵され だったんじんだきゅうずびようぶ る「韃靼人打毬図屏風」 ( 挿図 5 ) との画像の比較に より両者がもとはセットであり、狩野元信が描いた たっちゅうこうりんいんだんな 京都・大徳寺の塔頭興臨院檀那の間の襖絵 ( 同寺の すずききいっ ほ・フざんししよう むらさきのだいとくじめいさいき 『紫野大徳寺明細記 = 宝山誌抄』や鈴木其一の「癸巳 さいゅうにつき 西遊日記』に記される ) に相当する可能性が指摘され ている。購入当初は軸装であったが、現在は襖の形 に復元されている。狩野派による作品をはじめ「文 ききかんずかん 姫帰漢図巻」をその典拠としていることが知られる が、この旧興臨院本と想定されるポストン美術館 本および静嘉堂文庫美術館本は、後の狩野派系統 の諸本にまで継承される重要な位置付けを担う作 ( 井戸美里 ) 品である。 まつじゃこうねこずびようぶ 和松に麝香猫図屏風 かのううたのすけ 伝狩野雅楽助 ( 生没年不詳 ) 筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一六〇・一横三四八・八 室町時代十六世紀中頃 〔印章〕「輌隠」 ( 朱文長方印 ) 「ロ信」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション 子猫をかたわらに連れ、じっとどこかを見つめる 親猫の視線の先には、現在サントリ 1 美術館に所蔵 されるもう一匹の猫を描いた屏風一隻、「麝香猫図 屏風」 ( 挿図 6 ) が存在し、もとは一双の屏風をなし ていたことが知られる。両者に捺された印章から、 かのうもとのぶ 画家は輌隠とわかる。輌隠は、狩野元信の弟、雅楽 ゆきのぶ 助之信と同一人物である可能性が高い。繊細な毛 描きが施されたあまり見慣れないこの種の猫は麝香 猫と呼ばれ、遠い異国を想起させる。麝香猫を主題 とする作品は、京都・東福寺霊雲院に伝来した同寺 かの・フしようえ、 第二十四世太虚祥廓の賛、狩野松栄 ( 一五一九 5 九 一 l) の直信印を有する「麝香猫図」の扇面のほか、狩 のうえいとく 野永徳 ( 一四五三 5 九〇 ) 一門が制作に携わったとさ れる京都・南禅寺に伝わる「牡丹麝香猫図」の襖の ( 井戸美里 ) 存在が知られる。 挿図 6 麝香猫図屏風サントリー美術館蔵 1 2 まつおしどりずびよラぶ 松に鴛鴦図屏風 かのううたのすけ 伝狩野雅楽助筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一五四・七横三四八・八 室町時代十六世紀中頃 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ビゲローコレクション 伸びやかな松竹のもと可憐な花が咲く水辺の光景 、鴛鴦や小鳥を遊ばせる花鳥図である。片側に樹 木と岩塊を大きく配して近景にモチーフを密集さ せ、もう一方に開放的な水景を広げて空間を対比す る。現状では一隻であるが、その構成から見て本来 は一双の右隻に相当するものと思われる。その手慣 れた舞台設定は、堅実で丁寧な細部の描写ととも かちょうずびようぶ かのうもとのぶ 、狩野元信の周辺で制作された花鳥図屏風に共 通している。落款印章などはないものの、本図は表 現やモチ 1 フの類型に多くの共通点があることか ら、元信の弟・雅楽助のような同時期の狩野派の優 れた画家の手になる可能性が指摘されている。 その大きな特徴の一つは彩色法である。室町時代 の狩野派の花鳥図には水墨のみで描かれたものと金 地着色のものが多い。しかし本図は、水墨を基調に しながらも赤や緑をポイントとして使用し、落ち着 いた画面の中で彩色を効果的に印象付けている。同 様の表現をとる作例には伝雅楽助筆本 ( 東京国立博物 館蔵 ) や松栄筆本 ( 山口県立美術館蔵 ) などがあり、本 図もこの系譜に連なる優品として狩野派における花 ( 畑靖紀 ) 鳥表現の豊かさを伝える意義をもつ。 きようめいしょずとうせんめん 京名所図等扇面 かの、フしよう・ん、 狩野松栄 ( 一五一九、九二 ) 筆 五面 ( 十面のうち ) 紙本金地着色 石清水八幡宮上弦五一一・四下弦二一・一一径一九・一一 清水寺上弦五一一・四下弦一 - 一・一一径一九・ニ 住吉神社上弦五一一・四下弦ニ一・二径一九・一一 天橋立上弦五 - 一・四下弦ニ一・ニ径一九・ニ 宇治橋上弦五一一・四下弦一一一・ニ径一九・一一 安土桃山時代十六世紀後半 〔印章〕各面「直信」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション 247
・ 6 本図の観音像が真正面を向いて相称的な姿勢で 静坐して描かれていることは、本図が礼拝の対象で あったことを示唆する。彩色された身体と白衣を際 立たせるはっきりとした衣文線と対比して、背景の けんがい 木々や岩、懸崖は暗い色調で描写される。 アーネスト・フランシスコ・フェノロサは、本図を やまなかきちべえ 山中吉兵衛 ( 後の山中商会 ) より購入した際、これを 狩野元信の最高傑作にあたるものと考えた。狩野 派の二代目として工房を確立した元信は、幅広い注 文層の需要に応え制作した。そのため元信の真筆を めぐっては議論される作品も多く、本図もまた印章 。。判売しにくいことから特定を困難にしている。し いんりようけんにちろく かし『蔭凉軒日録』によれば、狩野派の始祖である 狩野正信は早くから仏画と肖像画を専門としてい たことがわかっており、また京都・大徳寺が所蔵す る正信の「釈迦三尊像」と本図は多くの点で共通し が、本図の画面左下に捺された朱文団扇印は判読 できず、画家を特定することはできない。本図の着 賛の時期については、賛末の款記に「前南褝横川」 とあり、横川景一一一が京都・南禅寺に入院した長享元 年 ( 一四八七 ) よりも後と想定される。しかし、横川 ほあんけ、 の詩文集『補庵京華後集』の文明十一年 ( 一四七九 ) じうんいんしゅはそかわしげゆき 、この賛が慈雲院主 ( 細川成之 ) のために書かれた ことが記されることから、時期が合わず、横川の賛 を模して後世に書かれた可能性も指摘されている。 ( 井戸美里 ) びやくえかんのんず 白衣観音図 かのうもとのぶ 狩野元信筆 絹本着色 縦一五七・一一横七六・四 室町時代十六世紀前半 〔印章〕「 ( 不明 ) 」 ( 壺形印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション そ・フきそ・フ 宗祗像 かのうもとのぶ 伝狩野元信筆 絹本着色 縦九八・〇横五四・四 室町時代十六世紀 一九五八年取得フレデリック・—J ・ジャック基金 編笠をかぶり、白ひげを伸ばした人物が、馬に乗 る姿を描く。この人物は、室町時代に人気を博した 連歌の大成者・宗祗 ( 一四二一 5 一五〇一 l) と考えら れてきた。もっとも、本図には賛や制作背景などを 伝える史料がなく、像主の特定につながる明確な裏 付けを欠いている。しかし、出陣影を彷彿とさせる 騎馬姿が、生涯を行旅のうちに過ごした宗祗にふさ わしく、また本図が連歌にゆかりの深い北野社に伝 来したと推測されることなどから、伝承を支持する 見解が示されている。 筆者は、狩野派の礎を築いた室町時代の絵師・狩 野元信と伝えられる。特に、堂々たる体驅を誇る馬 ひきうまずえま の描写は、元信画として知られる「曳馬図絵馬」 ( 兵 ほそかわすみもとぞう 庫・賀茂神社蔵 ) や「細川澄元像」 ( 重要文化財、東京・ 永青文庫蔵 ) に極めてよく似た特徴を備えている。 人体の描写はやや不自然さを伴うが、それは本図が 遺像と考えられることと無関係ではなかろう。画面 左下の絵師のものと思しき花押が、元信のそれとは 異なるため、元信様式を継承した狩野派の絵師の筆 ( 鷲頭桂 ) による可能性も考えられる。 きんざんじずせんめん 金山寺図扇面 かのうもとのぶ 伝狩野元信筆 けいじよしゅう c ノん 景徐周麟 ( 一四四〇 5 一五一八 ) 賛 紙本金地着色 上弦四九・三下弦一 - 一・五径一八・七 ている。本図は繰り返し写され、狩野探幽や狩野 芳崖に至るまで何世代にもわたって狩野派の規範 となる作品の一つであったことは確かである。 ( 呉景欣 ) だったんじんしゆりようず ”韃靼人狩猟図 かのうもとのぶ 伝狩野元信筆 紙本着色 各縦 - 六六 室町時代十六世紀前半 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 韃靼人の故郷を舞台として繰り広げられる狩猟 や打毬の様子を描いた韃靼人図は、室町時代末期 室町時代十六世紀前半 〔印章〕「元信」 ( 朱文壺形印 ) 〔賛〕景徐周麟「題取金山幾集中 / ロロ杜牧賦ロロ / 楼ロロ 口々逢ロロ / 畢竟詩人輸画工 / 宜竹ロ麟」 ( 印章 ) 「景徐」 ( 朱 文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ビゲローコレクション 中国江蘇省の名刹、金山寺を主題とする扇面。 画面左隅に「元信」印が捺され、臨済宗の僧、景徐 周麟の賛および印章を伴う。金雲とともに細やかな 筆致と彩色によって描く。賛は、剥落が激しく判読 が困難であるが、景徐による語録詩文集である『翰 林葫蘆集』に採録されており、「題取金山幾集中、 多如杜牧賦秦宮、楼楼寺寺逢僧話、畢竟詩人輸画 ェ」と補うことができる。金山寺を描いた作品には、 し」・フレ」しょ , ノ〕 ずかんきんざんじ あ 雪舟画の写しである「唐土勝景図巻」「金山寺・阿育 王寺図」などの実景図が有名であるが、やまと絵風 の建物に中国風の人物を描く和漢融合の作品とし せいりよくさんすいず て、奈良国立博物館所蔵の「青緑山水図」扇面など も残されている。また、『翰林葫蘆集』には金山寺に 取材する賛をほかにも見出すことができ、当時五山 を中心とした神林で流行した画題の一つであったと 考えられる。本図は、景徐周麟の没年 ( 永正十五年〈一 五一八〉 ) が作期の下限となることから、元信印を有 する扇面画の中でも初期の作品として貴重である。 ( 井戸美里 ) りんころしゅう 246
近世絵画 華びらく 第四章 The Blossoming of Early Modern Painting かのうえいとく 狩野永徳 ( 一五四三 5 九〇 ) をはじめ、安土桃山時代は傑出した才能をもっ画家らが 次々に登場した絵画の黄金期である。狩野派、長谷川派、雲谷派、曽我派など漢画系 の諸派が、スケ 1 ルの大きな障屏画制作に腕を竸った。その水墨表現は力強く、戦国 武将らが好んだ雄雄しい覇気を感じさせる。 かのうたんゅう 江戸時代になると、徳川幕府の御用絵師となった狩野探幽 ( 一六〇二 5 七四 ) が瀟洒・ 淡麗な新様式を確立し、画檀全体に大きな影響を及ぼした。京都にとどった狩野派 もあり、装飾性豊かな独自の画風を保持した。一方、やと絵系の土佐派は安土桃山 とさみつき 時代には低迷したが、土佐光起 ( 一六一七 5 九一 ) が宮廷の絵所預職に復帰し、中央で の権威を回復した。また京都の町衆出身の画家では、新たな装飾美の世界を切り開い がたこうりん たわらやそうたっ た俵屋宗達、宗達の創造を受け継ぎ、琳派の系譜を大成した尾形光琳 ( 一六五八 5 一七一六 ) らが活躍した。 本章は、安土桃山時代から江戸時代前期までに現れたこれら主要画派の作品をは じめ、異国趣味や享楽的な世相を反映した風俗画、そして今日では奇想の画家として よく知られている伊藤若冲 ( 一七一六 5 一八〇〇 ) の作品などで構成される。ポストン 美術館が収蔵する近世絵画の粋を通して、在外コレクションでは随一とされる質の高 さを実感していただけるだろう。 ( 知念理 ) いとうじゃくちゅう
世絵画の特徴を語るのに、永徳、等伯の巨匠二人の画風によってはじめることができるのは、ポストン 美術館ならではといえよう。江戸時代初期には、安土桃山時代の様式を残した長谷川派、雲谷派、曽我 - フんこ′、し」 - フかん とうばはんろうずびようぶ にちよくあん しちょうずびようぶ 派の画家が活躍していた。雲谷等顔筆「東坡・潘闃図屏風」 ( 色、曽我一一直庵筆「鷙鳥図屏風」をは 室町時代の水墨画家の系譜を意識した雲谷派と曽我派の特徴をよく示しており、今回「鷙鳥図屏風」を曽 ”てかしようは′、 我派の末裔を自称した曽我蕭白の作品と比較して見ることができるのも貴重な機会といえるだろう。一 ばくぎゅうやばずびようぶ はせがわさこん 方「牧牛・野馬図屏風」 ( 西は等伯の子である長谷川左近の作品だが、等伯の作品に往々見られる狩野 派様式に対する対抗意識は感じられない。 長谷川派の作風の多様性を示した興味深い作品である。 安土桃山時代の覇権を誇示するかのような絵画様式から、江戸幕府の官僚的武士政権に適った穏やか かのうたんゅう 力、し」、フ おながず で瀟洒な絵画様式への転換を果たしたのが狩野探幽である。「海棠に尾長図」 ( は、その典型的な作 品で、中国絵画を規範にした室町時代の掛け軸の伝統を受け継ぎながら、写生体験によるやわらかい筆、」 致によって簡潔な描写がなされ、みずみずしさを魅力とした印象的な作品となっている。探幽の影響は、 おうしょラくんず せんきよう 伝統的やまと絵画派である土佐派にも及び、「王昭君図」鮎のような作品を生み出している。「仙境・ しようしろうぎよくず かのうせいせんいんおさのぶ 蕭史・弄玉図」 ( ) は、江戸時代後期に、狩野派の画風変革を進めた狩野晴川院養信の筆になる。養信は、 古画の模写と同時代の多様な絵画様式を吸収することで狩野派の絵画に新しい様式を吹き込んだ。本図 は、中国画の模写によって学んだ細密で構築的な描写と、金泥を加えた濃彩による装飾的な作風で、写 実的空間を意識した濃密な作品となっている。フェノロサが師事した狩野永悳立信は、養信の弟で、ポス トン美術館には今回出品の作品以外にも養信の優品が多く収蔵されている。探幽の様式が江戸幕府の絵 かのうさんせつえい 画を代表するものとなった時期に、京都で桃山様式を継承した作品を描いていた京狩野の狩野山雪、永 のう じっせつずびようぶ 納親子の作品も展示される。「十雪図屏風」絽 ) は、中国の十人の文人の雪にまつわる詩を絵画化した もので、学者肌で漢学の素養に富んだ山雪らしい作品。幾何学的に整理された無機的な冷ややかさが、 しきかちょうずびようぶ 不思議な静寂を生みだしている。永納の「四季花鳥図屏風」 (±?) は、水平、垂直と対角線を意識した形 態と構成に父と同様の京狩野の特徴を見ることができる。装飾性に富んだ永納の代表作といえる。 すいきんちくじゃくず たわらやそう 琳派作品は、三点が出品される。「水禽・竹雀図」 ( は、「伊年」の印のある水墨花鳥図で、俵屋宗 達の工房で数多く制作された同種の水墨花鳥図の中でも動きに富んだ珍しい作品で、竹の枝に止まる三 おがたこうりん 羽の雀の姿が小西家伝来の「光琳資料」 ( 重要文化財 ) の中に見出せるという指摘がされている。尾形光琳 けしずびようぶ が実際に見た作品かもしれない。「芥子図屏風」は、総金地の六曲屏風に芥子だけを描いたもので、 図 7 松島図屏風 ( No. 55 ) 035
町時代以降盛んに描かれた狩野派による韃靼人図の規範的作品で、山水図の中に人物図を取り込んだ雄 大な表現は、韃靼人図の初期的様相を一小し、元信様式の展開の上からも注目されている。これと同様に まつじゃこうわこず 水墨を主体としポイントとなる部分にのみ着色を施した印象的な描写の元信様式の作品が「松に麝香猫図 まつおしどりずびようぶ ・・朝 - フい , ル かのううたのすけ 屏風」 ( 四と「松に鴛鴦図屏風」 ( せである。前者には「輌隠」の印が捺され、元信の弟狩野雅楽助が 描いたものとされており、後者もこれと近い時期に元信周辺の画家によって描かれたものと考えられ、 きんざんじずせんめん 室町時代狩野派の水墨花鳥図の盛行を示す作例である。「金山寺図扇面」 ) は、元信の印が捺された けいじよしゅうり . ん 金地の扇面で、永正十五年 ( 一五一八 ) に没した褝僧景徐周麟による金山寺を主題とした詩が記されてい る。禅宗ゆかりの金山寺を描いているが、その山並みには着色によるやまと絵の表現が用いられ、十六 きようめいしょずとうせんめん 世紀前半の狩野派による和漢融合の実態を知る上で貴重な作例である。「京名所図等扇面」 ( 犯 ) は、現 在、十面の揃いで、屏風に貼られていた多数の扇面の一部と想像される。京都以外の名所を描いた作品 かの - フしようえ のほかに物語図なども含まれており、「直信」印が捺されていることから、元信の子狩野松栄の工房で制 作されたと想像される。「金山寺図扇面」から定型化した仕込み絵の扇面画制作への展開を考える上で貴 重なものといえよう。 第四章「華開く近世絵画」では、安土桃山時代から江戸時代の日本絵画の展開を示そうと試みたが、展 覧会という限られた場では、ポストン美術館の近世絵画の全貌を示すことは困難であった。それほどま でに、ポストン美術館には、多様な展開を示す優品が多く揃っている。 かのうえいとく 桃山という時代様式を作り上げたのは、織田信長、豊臣秀吉に寵愛された狩野永徳である。永徳の豪 放な作風は、戦場を駆け巡った武将たちに愛され、武将たちは、永徳の絵画スタイルによる狩野派の金地 だったんじんちょうこうずびようぶ 着色の障壁画で殿舎を飾った。「韃靼人朝貢図屏風」は、引手跡があることから、もと襖であった ことを確認できる作品で、武将好みの皇帝の権威を示す主題が選択されている。同じ韃靼人を描いた襖 である「韃靼人狩猟図」 ( 週が、大観的構成により広がりのある空間を作ろうという意識によって描か れているのに対し、近景の拡大と、金と絵具の響きあう豪華さという感性に直接的に働きかける美意識 への転換が示されている。人物の容貌などに永徳風を示すが、永徳自筆の作品の多くが失われており、 永徳自身が関与するものとするか、その後継者のものとするか意見は分かれるであろう。永徳のライバ 2 」一カ・わし」 - フ′、 りゅうこずびようぶ ルとして知られる長谷川等伯の六十八歳の落款を記した「龍虎図屏風」色は、晩年の基準作とされる もので、奥行きの浅い空間の中に限定されたモチーフを大きく配する点で桃山的作風を示している。近 びようぶ 図 6 龍虎図屏風 ( No. 44 ) 034
でも、ビゲロ 1 コレクションとしてポストン維新後の日本画家の没落期から、フェノロ 美術館に寄贈された作品があると考えら . サによる日本画の革新運動を経て東京美 皮らのコレクションには、 れる。また無論、彳 術学校開校に至る期間とも重なっている。 鑑画会出品の画家のみでなく、フェノロサ ( これは流派としての狩野派は幕藩体制の の師である狩野永悳立信をはじめ、狩野崩壊とともに終焉したが、鑑画会という揺 きくちょうさ 勝川院雅信、菊池容斎、柴田是真ら、周】籃期を経て、東京美術学校において近代 辺の同時代の画家たちも含まれている。 の日本画を誕生させたとも捉えられよう。 このようにフェノロサは、自らが理想と . フェノロサが行った画家たちに対する指導 する新しい日本画の創造を目指して画家と支援を考えるとき、明治美術界における たちを指導し、制作を資金的に援助し、そ ( フェノロサの存在がいかに大きかったかを の作品を購入するという一貫した指導と支 . あらためて知ることができる 援を鑑画会という組織において実践したの ~ ( いのうえひとみ / 名古屋ポストン美術館学芸員 ) であった。まさに明治十年代の日本画壇の 一翼は、フェノロサによって担われていたと ( 1 ) 「狩野芳崖ーその人と芸術ー」展図録、山種美術 いっても過言ではない。 館、一九八八年 ( 2 ) 「橋本雅邦ーその人と芸術ー』展図録、山種美術 館、一九九〇年 フェノロサが鑑画会で実践した彼の理論 ( 3 ) 一九〇ニ年十月十ニ日付フリーア宛書簡、山口静一 にもとづく画家の教育は、明治二十二年 「フェノロサ・上」三省堂、一九八ニ年、ニ三七頁。 なお、「雪山暮溪図」はもとフェノロサのコレクショ ( 一八八九 ) に開校した東京美術学校におい ンで、フェノロサが富豪のフリーアに譲渡した作品 おか・、・り て結実し、その理念はフェノロサから岡倉 ~ 群の一つである。 てんしん 天心 ( 一八六三 5 一九一三 ) へと受け継がれ ~ ( 4 ) 佐藤道信「鑑画会」百本美術院百年史こ巻上、財 団法人日本美術院、一九八八年、四四四頁 る。狩野芳崖は開校直前に死去したもの ( 5 ) 関根黙庵「浮世画人伝」一八九九年、一四四頁 の、橋本雅邦や狩野友信らが教鞭をとり、 ( 6 ) 石井槌學「日本絵画三代志」創元社、一九四ニ年、六七頁 よこやまたいかんひしだしゅんそう しもむらかんざん 横山大観、菱田春草、下村観山ら次世代 ( ( 7 ) 一八八四年四月ニ十六日付モース宛書簡、ウェイン マン著、蜷川親正訳「エドワード・ U) ・モース ( 下 ) 」 の画家たちが育っていった。ここで、鑑画 中央公論美術出版、一九七六年、六六頁 会で中心メンバーとなって活躍した画家た ちの生年が木村立嶽 ( 一八二七年 ) 、狩野 芳崖 ( 一八二八年 ) 、橋本雅邦 ( 一八三五年 ) 、 狩野友信 ( 一八四三年 ) であるのに対し、東 京美術学校で学んだ横山大観 ( 一八六八 年 ) 、下村観山 ( 一八七三年 ) 、菱田春草 ( 一 八七四年 ) らと、三十年以上の開きがある。 このプランクとはすなわち、幕末から明治 ゼしん 註 らんき 表 1 鑑画会関連画家 うちビゲロー コレクション * 2 6 ( 2 ) 作者 狩野芳崖 橋本雅邦 木村立嶽 狩野勝玉 狩野友信 小林永濯 狩野忠信 岡倉秋水 2 本多天城 [ 祐輔 ] 2 岡不崩 [ 梅溪 ] 1 下村観山 1 渡邊省亭 1 三島蕉窓 1 端館紫川 1 高橋 [ 金子 ] 玉淵 1 遠藤廣宗 1 瀧村弘方 1 安藤廣近 8 ( 4 ) 「秋景山水」第 1 回鑑画会大会 芝 [ 狩野 ] 永章 1 山本松溪 [ 「冬山暮景」第 1 回鑑画会大会 2 等褒状 ] ( 2 ) ていたが、その後売却された作品数 * 3 [ ] 内の履歴は 1911 年に登録されていたが、その後売却された作品 出品履歴 * 3 「群鷲図 ( 谿間雄飛図 ) 」第 1 回鑑画会大会 「雪景山水」第 2 回鑑画会大会 「弁天 ( 騎龍弁天 ) 」第 2 回鑑画会大会 2 等褒状 [ 「羅漢」「出山釈迦」「山水 ( 雨中帰路 ) 」第 2 回鑑画会大会 ] 「山水」第 2 回鑑画会大会賞状、「仙山楼閣」鑑画会大会例会 [ 「松下人物」第 1 回鑑画会大会 4 等褒状、「鷹」第 2 回鑑画会大会賞状 ] 9 ( 11 ) っ 0 11 2 ⑨ 「山水 ( 月夜山水 ) 」第 2 回鑑画会大会賞状 「草花 ( 朝顔遊蝶 ) 」第 1 回鑑画会大会 「山水図 ( 雪景山水 ) 」鑑画会例会 「水中群魚 ( 江汀群魚図 ) 」第 1 回鑑画会大会 4 等褒状 「栗樹秋禽図」第 1 回鑑画会大会 4 等褒状 052
まちだへいきち 七年 ( 一八八四 ) に町田平吉を会主として アメリカへ フェノロサを中心に組織された美術団体 さらにフェノロサは画家たちを資金的に である。当初は明治初期の欧化政策に対 援助するだけでなく、最終的にはこれら作 して古美術の研究を行う会として発足し 品を購入し、アメリカで売却し、日本の美 こが、後に画家の養成と新しい美術運動 術を広く啓蒙することを視野に入れてい の場へと転化していった。この鑑画会には た。明治十七年の書簡でフェノロサは、「私 狩野派出身の画家を中心とする三十五名 たちの次の活動は現存の東京の画家の創作 が参加したことがわかっており、旧幕奥絵 を集めることです。私の示唆によって彼ら 師狩野四家からの主要画家には、中橋家 に傑作を描かせ、私たちが良いと思う作品 ・」ばやし・えい′、 かのうただのぶ を彼らのために売ってやることです」 ( 註 7 ) から小林永濯・狩野忠信、木挽町家から と記している通り、フェノロサとビゲローが 狩野芳崖・橋本雅邦・木村立嶽、浜町家か かのうともの ら狩野友信らカ ( カ 。、、こ。 ( 註 4 ) フェノロサは特 購入した作品は、後にポストン美術館をは じめ、フィラ、テルフィア美術館、フリーア に狩野派を重視したことは明らかである が、それ以外の円山四条派、土佐派、住吉 イ " 美術館などに渡ることとなった。鑑画会に ラ > 派、歌川派などの画家たちも名を連ねてお Å関連したビゲロ 1 コレクションはポストン り、流派を超えての参加が認められる。 ← ( 美術館へ寄託された後、一九一一年に寄贈 学わ 大—J されている。フェノロサのコレクションは、 フェノロサは鑑画会において美術論を説 バ】ホストンの外科医チャールズ・ゴダード・ くとともに、画家たちの作品を批評して自 、 0 らの理論を実践した作品を描かせた。『浮 ウエルドに売却後ポストン美術館に寄贈さ 4 ′室 0 世画人伝』には、フェノロサが小林永濯に の ( れ、これ以外のフェノロサ所有のコレクショ , 「番 5 ンは、デトロイトの実業家チャ 1 ルズ・ラ 鑑画会の買い上げ典型作品である「常備品」 ~ 屋É ( ング・フリ 1 アに売却後フリ 1 ア美術館へ、 の制作を依頼したと記されている。 ( 註 5 ) こ うして描かせた作品をフェノロサが手元に 物 ~ また遺族に渡ったフェノロサの個人コレク 置いていたことがわかる資料として、フェ ションはフィラ、テルフィア美術館へ、それぞ 前面れ収蔵されることとなった。 ノロサが当時住んでいた加賀屋敷一番館の 実際に一九一一年の時点でポストン美術 室内写真が残っており、本展出品の狩野 図 c こ・フりゅうひやくりず 館に所蔵されていた鑑画会関連の画家につ 芳崖「江流百里図」 ( ) と橋本雅邦「騎 りゅうべんてん いてまとめたのが表 1 であるが、鑑画会に 龍弁天」 ( ) が写っている ( 図 2 ) 。「騎龍 弁天」は第一一回鑑画会大会に出品され一一等 ( る指導と、同郷の富豪ウィリアム・スター】窮境を脱し、以後専ら製作に従事して傑 ~ 参加した画家三十五名のうち、実に半数 褒状を受けた作品である。これらの作品に ( ジス・ビゲロー ( 一八五〇 5 一九二六 ) によ ~ 作逸品を世に残すことが出来たのであると ~ 以上の二十名の画家について、フェノロサ は陰影法や線遠近法によって画面の奥行が " る資金的援助により、明治維新後没落の ~ 云ふ。画家に対する報酬筆墨用具其他の ( かビゲローのコレクションとしてポストン美 表現されるなど西洋の画法が用いられてお】感があった日本画家たちが美術界の前面に ~ 費用まで総てビゲロ 1 が支出したと云ふか術館に収蔵されている。なお、前出のフェ り、フェノロサの絵画理論の実践が明らか】再び現れてくる。後に石井柏亭は当時の状 ( ら、其頃の日本画界は実に鑑画会とフェノ ( ノロサ邸に掲げられていた「騎龍弁天」は にあらわれている 況を回想し、「其後高名になった狩野派の ~ ロサ・ビゲロ 1 ・河瀬等に負ふ所が少くなか現在ビゲローコレクションとなっていること から、当時フェノロサが所有していた作品 こうした鑑画会におけるフェノロサによ ( 二大家芳崖と雅邦も此会の援助によって ~ った訳である」と記している。 ( 註 6 ) 051
菩薩立像 1 弥勒菩薩立像 ・ 2 弥勒菩薩立像像内納入品 ( 弥勒上生経、宝篋印陀羅尼 ) 僧形八幡神坐像 地蔵菩薩坐像 第ニ章海を渡った二大絵巻 っ 1 吉備大臣入唐絵巻 平治物語絵巻三条殿夜討巻 第三章静寂と輝きーー中世水墨画と初期狩野派 中国・元時代または鎌倉時代十四世紀初 一山一寧賛 観音図 室町時代十五世紀中頃 拙宗等揚筆 三聖・蓮図 室町時代十六世紀 伝雪舟等楊筆 寿老図 室町時代十六世紀 伝楊月筆 枇杷に栗鼠図 室町時代十五世紀後半 文清筆 山水図 室町時代十五世紀末 5 十六世紀初 祥啓筆 山水図 室町時代十六世紀前半 伝蔵三筆 瀟湘八景図屏風 室町時代文明十一年 ( 一四七九 ) 横川景三賛 布袋図 室町時代十六世紀前半 狩野元信筆 白衣観音図 室町時代十六世紀 伝狩野元信筆 宗祗像 室町時代十六世紀前半 伝狩野元信筆景徐周麟賛一面 金山寺図扇面 二面 室町時代十六世紀前半 伝狩野元信筆 韃靼人狩猟図 六曲一隻 室町時代十六世紀中頃 伝狩野雅楽助筆 松に麝香猫図屏風 六曲一隻 室町時代十六世紀中頃 伝狩野雅楽助筆 ・ 4 松に鴛鴦図屏風 五面 ( 十面のうち ) 安土桃山時代十六世紀後半 狩野松栄筆 京名所図等扇面 第四章華ひらく近世絵画 4 韃靼人朝貢図屏風 龍虎図屏風 っ一 36 35 40 39 34 33 快慶作 康俊作 円慶作 伝狩野永徳筆 長谷川等伯筆 四巻 一巻 一面 六曲一双 二曲一隻 六曲一双 身區驅巻身區身區 平安時代八世紀末、・九世紀前半 鎌倉時代文治五年 ( 一一八九 ) 鎌倉時代文治六年 ( 一一九〇 ) 鎌倉時代嘉暦三年 ( 一三二八 ) 鎌倉時代元亨二年 ( 一三一三 ) 平安時代十二世紀後半 鎌倉時代十三世紀後半 安土桃山時代十六世紀後半 江戸時代慶長十一年 ( 一六〇六 ) 中国日本特別基金 中国日本特別基金 中国日本特別基金 マリー・アントワネット・エヴァンス基金 中国日本特別基金 ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション エレン・グリーノウ・パ 1 カ 1 嬢寄贈 ロバート・トリ 1 ト・ペイン止氏寄贈 フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション 中国日本特別基金 フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション フェノロサ , ウエルドコレクション フレデリック・»-a ・ジャック基金 ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション フェノロサ , ウエルドコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタ 1 ジス・ビゲローコレクション ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション フェノロサ・ウエルドコレクション 右隻〕フェノロサ・ウエルドコレクション 左隻〕ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション 〇 0 〇〇 〇 0 〇〇 0 〇 X 〇 〇 0 〇〇 〇〇 X 〇 〇〇 X 〇 0 〇〇〇 0 〇〇〇 〇〇〇 0 〇〇 0 〇 〇 X X 〇 〇 X X 〇 〇 X X 〇 0 0 〇〇 0 0 〇〇 〇 X X 〇 〇 X X 〇 0 〇 0 0 267