・松木寛「日本水墨画の原型ー伝周文筆望海楼図をめ がわかっている。上述 ぐって」『美術史学」第ニ六号、東北大学大学院文学 の紙本・横長の夏珪画 研究科美術史学講座、ニ〇〇五年 三点がこの八景図八 ・松木寛「バーク・コレクション / 《伝周文筆山水図屏 風》ー室町水墨画の制作法をめぐって」「日本の美 幅のうちの三幅と考え ーク・コレクション 三千年の輝きニューヨーク・ るのはあまりに早計で 展」日本経済新聞社、ニ〇〇五年、三五 5 四三頁 ・松木寛「伝周文筆山水図屏風の研究ー前田育徳会本 あろ、フが、これらに曵 と大和文華館本について」「美術史学第ニ九号、東 からぬ関係があること 北大学大学院文学研究科美術史学講座、ニ〇〇八年 は認めてよいだろう ・松木寛「伝周文筆山水図屏風の研究 ( 2 ) ー春冬山水 図屏風 ( クリーヴランド美術館 ) と四季山水図屏風 以上のようにポスト ( 静嘉堂文庫美術館 ) 」「美術史学」第三〇号、東北大 学大学院文学研究科美術史学講座、ニ〇〇九年 ン美術館の祥啓筆「山 水図」は、足利将軍家】 ( 2 ) 祥啓による夏珪様式の関東水墨画への導入について 蔵所蔵の夏珪画を復元 ・相澤正彦・橋本慎司編著「関東水墨画型とイメージ 館 の系譜」国書刊行会、ニ〇〇七年五月、一ニ 5 術するための重要な素材 蔵 頁、一ニ〇 5 一五一頁。また特にポストン美術館本 氏 ドを提供できる可能性 については同書、一ニ〇 5 一ニ一頁。 雄 正 を秘めている。そして ・なお祥啓の伝記については、同書、五四 5 六八頁が 筆 下 啓 詳しい この祥啓画から復元で 祥 筆 ( 3 ) 中国絵画史研究の側からの夏珪に関する近年の研究 珪 夏 きる夏珪のイメージ については以下を参照。 伝 図 図 は、従来重視されてき ・嶋田英誠・中澤富士雄責任編集「世界美術大全集東 城 洋編 6 南宋・金」所収の作品解説 ( 三五九 5 三六ニ 山 江 た絹本の夏珪画に見 【 0 頁 ) 、小学館、ニ〇〇〇年四月 図 図 られる狭隘な空間では 川裕充著『臥遊中国山水画ーその世界」中央公論 美術出版、ニ〇〇八年十月、一三五頁 なく、紙本の夏珪画に 代に近接する時期の謹直な夏珪学習を強え併せて想定される夏珪画三点がともに将 ~ 展開される大観的な堂々たる空間構成であ く反映した作品と推定される。この祥啓画 ( 軍家に所蔵され、多くの作品からなる一連 ( る。これこそ夏珪の山水画が、元から明に かけての中国絵画ならびに室町水墨画に大 は、夏珪様山水という点だけでなく、淡彩 ( のシリーズ物の一部を構成していたのでは きな影響を及ばした主たる要因と考えられ を用いず紙に墨で描く筆墨法、横長の掛幅 " ないか、という想像に駆られる。それらは、 えんじばんしよう という画面形式、画面の縦横比、広々とし ~ 例えば祥啓画の祖本が烟寺晩鐘、畠山記 ( るのである。 さんしせいらん くにごうひであき / 東京国立博物館登録室長 ) た大観的な空間表現といったいくつかの共「念館本が山市晴嵐、下條家旧蔵本が漁村 ~ ( しょ・フしようキ 6 っ 1 い せきしよう 通項から見て、畠山記念館本・下條家旧蔵 . タ照に相当するような瀟湘八景図八幅対 実際、足利将軍家 ( 註 本の両者とかなり近しい関係にあることが ( であったかもしれない。 わかる。 には夏珪の八景図八幅があったことが永享 ( ( 1 ) 夏珪と室町水墨画の関係に関する近年の研究につい むろまちどのぎようこうおかざりき ては以下を参照。 祥啓が京都で模写した将軍家コレクショ ~ 九年 ( 一四三七 ) の『室町殿行幸御飾記』に ・山下裕ニ「夏珪と室町水墨画」 ( 辻惟雄先生還暦記念 ぎよぶつぎよがもくろ 会編「日本美術史の水脈」べりかん社、一九九三年六 ンの中に、ポストン美術館の祥啓画の祖本 ~ 記されており、また『御物御画目録』には 月 ) 八〇一 5 八三三頁 にあたるような紙本で横長の夏珪画があっ ~ 「紙横」の項目に「八景夏圭」と記録され ・畑靖紀「室町時代の南宋院体画に対する認識をめ た可能性はかなりある。そしてそのような ( ていて、夏珪によって紙に描かれた横長の ぐってー足利将軍家の夏珪と梁楷の画巻を中心に」 「美術史」一五六号、美術史学会、ニ〇〇四年三月 祖本に畠山記念館本と下條家旧蔵本を加 ~ 八景図八幅が将軍家に所蔵されていたこと 図 3 重要文化財山水図伝夏珪筆畠山記念館蔵 ぎよそん 117
なんびん 南蘋の画風を受けながら長崎で制作された花鳥図 や、唐絵目利による珍鳥図、さらには明代花鳥画の 模写などによる多様な刺激が若冲に吸収されていた ことを想像させる。本図は、「動植綵絵」 ( 東京・宮内 庁三の丸尚蔵館蔵 ) に先行するものであり、「動植綵 ろうしようおうむず 絵」中の一幅「老松鸚鵡図」には、本図を左右反転 させた鸚鵡が描かれている。 なお、ポストン美術館には若冲が松の木にとまる 鸚鵡を描いた横幅「松に鸚鵡図」も所蔵されている。 ( 田沢裕賀 ) 羅漢は、煩悩を絶って悟りをびらいた高僧で、 しやかわ 人々から供養を受けるに値する聖者のこと。釈迦涅 槃の後もこの世で正法を護持し、衆生を済度する ように告げられた十六人の羅漢に対する信仰が唐代 に盛んになり、さまざまな羅漢図が描かれるように 本図は、十六幅揃った「十六羅漢図」で、唐末・ ぜんげつだいし 五代の禅月大師が創始したとされる図様にもとづ いている。「禅月様羅漢図」には、粗放さを強調し げんびったい たような筆線で人物の着衣などを描いた減筆体の水 墨画作例が知られており、本図は大阪・藤田美術館、 東京国立博物館などに所蔵される伝禅月筆の絹本 墨画の羅漢図を写したものと考えられる。背景は、 、墨の滲みを利用して墨 第四幅の枇杷の葉のように 面の境を白く残す若冲が得意とした筋目描の技法で じゅうろくらかんず 十六羅漢図 と・フじゃくちゅう 伊藤若冲筆 四幅 ( 十六幅のうち ) 紙本墨画 各縦一一三・七横五九・〇 江戸時代十八世紀後半 〔印章〕各幅「藤汝鈞印」 ( 白文長方印 ) 、「若冲居士」 ( 朱文円印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ピゲローコレク ション さいレ」 どに、西洋の銅樹脂酸塩が用いられていることが判 描かれた樹木など改変されている部分も少なくな 明した。さらに多くの顔料に油性の固着剤を加える 。羅漢のグロテスクな表情や人体表現のバランス ことで、個々の人物像に新しい造形表現を生み出し の悪さは、手本となった羅漢図にすでに写し崩れと ている。 ( アン・ニシムラ・モース ) 思われる不明暸な描写があったためと想像される が、若冲としては緊張感が欠けた表現が見られるこ ていないゅうらくずびようぶ とも確かである。 邸内遊楽図屏風 なお、同様な技法で描かれ、印章の組み合わせを 六曲一隻 もんじゅふげんず 紙本金地着色 同じくする「文殊普賢図」双幅が、本図と同じとき 縦一四八・四横三四七・四 ( 田沢裕賀 ) にビゲローによって寄贈されている。 江戸時代十七世紀 一九一九年アルベルティン・・ LL ・ウアレンタイン夫人寄贈 せいおうおうこうずおしえはりびようぶ 西欧王侯図押絵貼屏風 水辺のほとりの邸宅で、色とりどりの文様の装東 六曲一隻 を身にまとい、宴や舞に興じる武家や僧侶たちの姿 紙本着色 を描く本図は、寛永期頃に流行を見る「邸内遊楽図」 縦一ニ七・〇横三三三・六 の好例である。ポストン美術館本は、もとはハー 安土桃山 5 江戸時代十七世紀前半 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション ド大学サックラー美術館に所蔵される一隻 ( 挿図 9 ) と対をなす一双の屏風であったと考えられており、 文禄三年 ( 一五九四 ) ポルトガルの宣教師たちの ロイヤル・オンタリオ美術館本、大阪市立美術館寄 来日に伴い、聖母子像や聖人像などを描く汕彩画 託本などに描かれた水景の描写や着物の文様などの が持ち込まれた。西欧から入ってきた新奇な図様や モチーフや画風に類似性が認められ、長谷川派との 描法がもてはやされる中、慶長十九年 ( 一六一四 ) の 徳川家康による宣教師追放までの間、イエズス会 宣教師たちが設立したセミナリオにおいて、日本人 の画家たちは儀礼や大名への贈答品のための絵画 制作を行った。 天正十 5 十八年 ( 一五八二 5 九〇 ) の間に日本人 使節団は西欧へ渡ってはいたが、当時の西欧に対す る知識の多くは版本を通して習得されていた。本図 を制作した日本人画家は、今では赤外線によっての ・。多『館 0 術叩記 み確認される垂直線によるグリッドを用いながら、 美 cn 囲 ラ 一連の西洋の版本に見られるスペインの皇帝とその ク 王侯の図像を大画面に転写したと考えられる。ま 学 4 大幻 一番左の扇に見られる遠近法の使用による画面 7 ◆ の不整合性は、本図に描かれる建築的要素が他の 素材から引用されたことを示している。 こうした作品は近年まで、西洋絵画の様式にもと E c 図 づく画家が日本の伝統的な顔料や画材により描い たものであるとされてきたが、ポストン美術館の保 邸 存科学者たちによる調査の結果、本図の右から五扇 図 0 目の人物が着用している鎧の着色に使用される緑な 253
物当 蔵 館 庫 嘉 静 図 毬 打 人 から江戸時代初期にかけて好んで描かれた主題で しきぶてる あり、ポストン美術館に所蔵される本図は、式部輝 忠本 ( 文化庁蔵 ) とともに現存作品中最も初期の例 とされる。 本図は近年、東京・静嘉堂文庫美術館に所蔵され だったんじんだきゅうずびようぶ る「韃靼人打毬図屏風」 ( 挿図 5 ) との画像の比較に より両者がもとはセットであり、狩野元信が描いた たっちゅうこうりんいんだんな 京都・大徳寺の塔頭興臨院檀那の間の襖絵 ( 同寺の すずききいっ ほ・フざんししよう むらさきのだいとくじめいさいき 『紫野大徳寺明細記 = 宝山誌抄』や鈴木其一の「癸巳 さいゅうにつき 西遊日記』に記される ) に相当する可能性が指摘され ている。購入当初は軸装であったが、現在は襖の形 に復元されている。狩野派による作品をはじめ「文 ききかんずかん 姫帰漢図巻」をその典拠としていることが知られる が、この旧興臨院本と想定されるポストン美術館 本および静嘉堂文庫美術館本は、後の狩野派系統 の諸本にまで継承される重要な位置付けを担う作 ( 井戸美里 ) 品である。 まつじゃこうねこずびようぶ 和松に麝香猫図屏風 かのううたのすけ 伝狩野雅楽助 ( 生没年不詳 ) 筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一六〇・一横三四八・八 室町時代十六世紀中頃 〔印章〕「輌隠」 ( 朱文長方印 ) 「ロ信」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション 子猫をかたわらに連れ、じっとどこかを見つめる 親猫の視線の先には、現在サントリ 1 美術館に所蔵 されるもう一匹の猫を描いた屏風一隻、「麝香猫図 屏風」 ( 挿図 6 ) が存在し、もとは一双の屏風をなし ていたことが知られる。両者に捺された印章から、 かのうもとのぶ 画家は輌隠とわかる。輌隠は、狩野元信の弟、雅楽 ゆきのぶ 助之信と同一人物である可能性が高い。繊細な毛 描きが施されたあまり見慣れないこの種の猫は麝香 猫と呼ばれ、遠い異国を想起させる。麝香猫を主題 とする作品は、京都・東福寺霊雲院に伝来した同寺 かの・フしようえ、 第二十四世太虚祥廓の賛、狩野松栄 ( 一五一九 5 九 一 l) の直信印を有する「麝香猫図」の扇面のほか、狩 のうえいとく 野永徳 ( 一四五三 5 九〇 ) 一門が制作に携わったとさ れる京都・南禅寺に伝わる「牡丹麝香猫図」の襖の ( 井戸美里 ) 存在が知られる。 挿図 6 麝香猫図屏風サントリー美術館蔵 1 2 まつおしどりずびよラぶ 松に鴛鴦図屏風 かのううたのすけ 伝狩野雅楽助筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一五四・七横三四八・八 室町時代十六世紀中頃 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ビゲローコレクション 伸びやかな松竹のもと可憐な花が咲く水辺の光景 、鴛鴦や小鳥を遊ばせる花鳥図である。片側に樹 木と岩塊を大きく配して近景にモチーフを密集さ せ、もう一方に開放的な水景を広げて空間を対比す る。現状では一隻であるが、その構成から見て本来 は一双の右隻に相当するものと思われる。その手慣 れた舞台設定は、堅実で丁寧な細部の描写ととも かちょうずびようぶ かのうもとのぶ 、狩野元信の周辺で制作された花鳥図屏風に共 通している。落款印章などはないものの、本図は表 現やモチ 1 フの類型に多くの共通点があることか ら、元信の弟・雅楽助のような同時期の狩野派の優 れた画家の手になる可能性が指摘されている。 その大きな特徴の一つは彩色法である。室町時代 の狩野派の花鳥図には水墨のみで描かれたものと金 地着色のものが多い。しかし本図は、水墨を基調に しながらも赤や緑をポイントとして使用し、落ち着 いた画面の中で彩色を効果的に印象付けている。同 様の表現をとる作例には伝雅楽助筆本 ( 東京国立博物 館蔵 ) や松栄筆本 ( 山口県立美術館蔵 ) などがあり、本 図もこの系譜に連なる優品として狩野派における花 ( 畑靖紀 ) 鳥表現の豊かさを伝える意義をもつ。 きようめいしょずとうせんめん 京名所図等扇面 かの、フしよう・ん、 狩野松栄 ( 一五一九、九二 ) 筆 五面 ( 十面のうち ) 紙本金地着色 石清水八幡宮上弦五一一・四下弦二一・一一径一九・一一 清水寺上弦五一一・四下弦一 - 一・一一径一九・ニ 住吉神社上弦五一一・四下弦ニ一・二径一九・一一 天橋立上弦五 - 一・四下弦ニ一・ニ径一九・ニ 宇治橋上弦五一一・四下弦一一一・ニ径一九・一一 安土桃山時代十六世紀後半 〔印章〕各面「直信」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション 247
たちこめる雲と霞の中、現れた龍は、うねる波間 に鱗状の尾を打ちつける。リズミカルで豊かな墨の 濃淡が、壮大な構図全体に広がっている。一九一一 年、本図は四枚のまくりの状態で当初ポストン美術 つじのぶお 館に収められた。その後に辻准雄氏の研究によって 本図がもともとは八面からなる襖絵であったことが 提示され、今回の修復作業で本来の形態に新たに仕 立て直された。かっては、寺院の堂内構造にもとづ いて龍の頭尾部分を対峙するように配置し、内陣を 正面にして側面を胴体が取り囲むようなかたちで、 襖絵が飾られていた。胴体部分が描かれた四面の襖 は、本図よりも小さなサイズであったことが確認さ れているが、現在は消失している。残念ながら、本 図の伝来は明らかでない 蕭白が描いた滋賀・石山寺の掛軸「龍図」の款記 には、南宋の画家陳容に倣ったと記されている。確 かにポストン美術館所蔵の陳容作の巻子「九龍図 巻」 ( 一二四七年、挿図四と比較したとき、陳容の作 品に見られる変幻自在で神秘的な龍の姿は、本図に おける蕭白の龍にも通ずる。蕭白は巨大なサイズを 生かし、力強い筆をもって龍をダイナミックに描き 出した。 ( アン・ニシムラ・モース ) 挿図 10 九龍図巻 ( 部分 ) ポストン美術館蔵 たかず 鷹図 そかしようは′、 曽我蕭白筆 紙本墨画 各縦一六五・八横一三五・三 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕第一一面「曽我蕭白暉雄図」 〔印章〕第一一面「鸞山」 ( 朱文円印 ) 、「蕭白」 ( 朱文小方印 ) 、 「如鬼」 ( 朱文方内円印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ピゲローコレクション ーも・フきんるい 鷲や鷹といった猛禽類を蕭白が繰り返し題材に求 めたことには、鷹を好んで描いた曽我派と自身とを 重ね合わせる目的があったと考えられる。しかし曽 我直庵や二直庵が描いた鷹と比べると、蕭白が細部 まで緻密な注意を払い、熱意をもってそれぞれの鷹 の個性を描き分けていたことがわかる。鳥を描いた 蕭白の作品の中でも、本図が最高傑作にあたること は間違いない 硬く真っ直ぐな松の幹に対し、円を描くように曲 げられた鷹の体驅は構図に強い緊張感を与え、また 画面の中央に向けられた足や胸とは逆に頭を右に背 けた鷹のポ 1 ズは、鳥のもっ用心深さと警戒心を見 事に捉えている。蕭白の筆線を見ると、鷹の輪郭や 羽の細部を描くための鮮明で鋭い線と、木や岩、草 の表現に見られる自由で奔放な線は対照的である。 ポストン美術館が所蔵する蕭白の「雲龍図」と本 図は全く同一の寸法である。近年の修復作業で「雲 龍図」の襖から取り除かれた補紙は、もとは本図と 連なる襖絵から取られた可能性が高い。残念ながら、 その襖絵は現存しない。しかし、「雲龍図」と本図の 二作品は、同じ寺院のために制作され飾られていた ( 呉景欣 ) ことは間いないといえよ、フ あさひなくびひきずびようぶ 朝比奈首曳図屏風 ? てかしようは′、 曽我蕭白筆 一一曲 - 隻 紙本墨画淡彩 縦一六五・四横一八〇・八 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕「曽我蕭白暉雄図 / ( 花押 ) 」 〔印章〕「蕭白」 ( 朱文方印 ) 、「如鬼」 ( 朱文方内円印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション -6 腰に大きな岩を括り付けた青鬼と、体を紅潮させた 武者が首引きのカ比べをしている。こちらにチラリと 目線をやり、首だけでなく手も使うしたたかな青鬼 、足蹴をして息を止めるかのように口を結ぶ正々 堂々とした武者の対比は、ある種の滑稽さを伴う。 あさひなさぶろうよしひで 剛勇無双をうたわれた朝比奈三郎義秀を題材に さかたきんとき したものと考えられているが、武者は坂田金時で、 みなもとのよりみつわたなべのつな 行司は源頼光と渡辺綱であるとの説もある。また くびひき よく知られた狂言「首引」に、鬼の姫君に供されそ みなもとのためとも うになった源為朝が、鬼たちとの首引によるカ比 べに勝ってその難を逃れたというものもあり、典拠 は未だ明らかでない 青鬼の身体や武者の衣などに淡い青色が施され、 武者たちの身体や綱などには赤色により僅かな陰影 ほうこじれいしようじよずびようぶ が付けられている。「鹿居士・霊昭女図屏風」 ( 色 などとの落款や印の近似から、蕭白三十歳前後の ( 金井裕子 ) 作と考えられる。 ふうせんずびようぶ 風仙図屏風 ってかしようは′、 曽我蕭白筆 六曲一隻 255
右隻縦一四九・一一横三五一・〇 左隻縦一五八・八横三五一・六 江戸時代十七世紀前半 〔印章〕各隻「長谷川印」 ( 朱文重廓長方印 ) 左隻「 ( 不明 ) 」 ( 朱文重廓長円印 ) 一九 - 一年寄贈ウィリアム・スタージス・ピゲローコレク 右 安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、 自然の中で草を食んだり水浴びをしたりしながら、 自由に戯れる牧馬や牧牛たちの姿を描写する大画 面絵画は、流派の別を問わず多く見られるが、本図 のように、桜花の中で戯れるさまざまな姿態の牧馬 、水辺に集う牧牛を牧童とともにそれぞれ一双に こうしたさまざまな毛色の 配置する作品は珍しい き、 ~ 0 スノ , かい 牧馬の図様については「驥毛図解」など、先行する 藍本や粉本から、また、牧童とともに牧牛を描く図 ぐんぎゅうさんばくずかん 様については「群牛散牧図巻」などの宋元画から学 んだ可能性が指摘されている。本図の絵師、左近は 長谷川等伯の息子であるが、近年の研究で、新潟・ さんばそ・フずえま 實相寺蔵「三番叟図絵馬」に寛永元年に三十二歳と ある款記から一五九三年という生年が明らかとな 等伯の息子のうち、宗也とともに左近も後妻、 妙清の子であることが判明した。等伯の「牧馬図屏 風」に野馬の調教を行う武家という風俗画的要素を 看取できる一方、左近の作品は、色彩を極力抑えた 狩野山楽筆「牧馬図屏風」や雲谷派による「群馬図 屏風」など、中国絵画より学んだ作品との間に共通 ( 井戸美里 ) 性を見出すこともできよう。 とうばはんろうずびようぶ 東坡・潘闃図屏風 - フん一」′、し」・つか′ル 雲谷等顔 ( 一五四七 5 一六一八 ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 右隻一五八・五横三五七・四 左隻一五八・二横三五七・四 安土桃山 5 江戸時代十七世紀 ション 隻 ヴ / 〔落款〕各隻「雪舟末葉等顔筆」 〔印章〕各隻「雲谷」 ( 白文瓢車印 ) 、「等顔」 ( 白文方印 ) - 九一 - 年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 東坡は中国北宋時代の文人・蘇軾 ( 一〇三六 一〇一 ) のこと。潘闃 ( ? 5 一〇〇九 ) も同じく北宋 時代に活躍した詞人である。いずれも高官であった が政治的罪に追われ地方に流された境遇にあった。 向かって右隻には、東坡と前進をためらう驢馬、そ してそれを引く童子の姿を描く。また左隻には後ろ 向きに驢馬に乗り山容を見やる人物と二童子が見 え、こちらは華山を離れる際に名残惜しいために後 ろ向きに騎驢し詩を詠んだという潘闃の逸話を描い たものと思われる。樹木や遠山、水辺を中心に淡い 色彩が施されているほか、人物の服飾にも金泥で文 様が描かれている。 雲谷等顔は周防国 ( 山口県 ) を中心に活躍した毛 利家の御用絵師で、幕末まで続いた雲谷派の祖。武 士の家に生まれるが狩野派のもとで学んだ後西国に もうりてるもと 下り、文禄二年 ( 一五九一一 l) 、毛利輝元により雪舟画 系の再興を命じられ、雪舟の旧居・雲谷軒を拝領し こ。等顔は本図のほかにも、同様の主題である「騎 ろじんぶつずびようぶ 驢人物図屏風」 ( 六曲一双、『国華』八二〇号所収 ) を描 いているが、本図はこれよりさらに硬い筆線であり、 より時代の下った晩年頃の制作と考えられる。 ( 金井裕子 ) しちょうずびようぶ 鷙鳥図屏風 曽我二直庵 ( 活躍期二六二五 5 六〇頃 ) 筆 六曲一双 紙本墨画 右隻縦一五一・七横三四八・六 左隻縦一五一・九横三四八・〇 江戸時代十七世紀 〔落款〕各隻「曽我直庵一一」 〔印章〕各隻「包胤」 ( 朱文重廓方印 ) 、「二直庵」 ( 朱文方印 ) にちよくあん 隻 右 も・つきんるい 鷹などの猛禽類を主題とする鷙鳥図は、弱肉強食 の世界を勇猛果敢に生きる武人たちが自らの境地を 重わ愛好した主題である。室町時代後期には広範囲 ときし に普及し、美濃の守護・土岐氏一族をはじめ武人画 家によっても盛んに描かれた。右隻には、渓流に突 き出した岩頭に立ち、轟々と落下する瀑布を凝視す る鷲を描く。左隻は芙蓉、水葵を配する秋景で、勢 いよく伸びた松の枝にとまり、静かな水面をじっと うかがう鷹を描く。獰猛な生質を秘めた鋭い眼光が 強い存在感を放ち、画面空間に緊張感を与えている。 筆者曽我二直庵は、十七世紀前半から中頃過ぎ までの活躍が推定される曽我派の絵師。安上桃山 そがちよくあん 時代に活躍した曽我直庵を父とし、泉州堺に住ん だと伝えられる。明暦二年 ( 一六五六 ) の年紀がある 自署系図 ( 奈良・法隆寺蔵 ) に室町後期の曽我蛇足 の末裔というが、関係は不明。父子ともに画鷹の名 手で、奈良や和歌山・高野山に作例が多く残されて いる。本図は父・直庵の伸びやかな樹法、皴法を踏 襲しようとする鷙鳥図で、二直庵の画業では比較的 早い時期に位置すると推測される。フェノロサ、ビ ゲローが一対をなす作品として購入、分蔵した作品 といわれ、紙継ぎは各隻ほば同寸だが、一双画面の 空間構成に若干の違和感が残る。通常は「二直庵」 「包胤」の順で上・下に置かれる両印が逆転している など、両隻の款印についても比較検討が必要であろ ( 知念理 ) じっせつずびようぶ 十雪図屏風 かのうさんせつ 狩野山雪 ( 一五九〇 5 一六五一 ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 各縦一五八・五横三六三・〇 右隻一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ビゲローコ レクション 左隻一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 一隻 249
奇才曽我蕭白 ろうかくさんすいずびようぶ 楼閣山水図屏風 って力しよう 2 は′、 曽我蕭白 ( 一七三〇 5 八一 ) 筆 六曲一双 紙本墨画 右隻縦一五八・九横三四六・四 左隻縦一五九・三横三四六・〇 江戸時代十八世紀後半 〔落款〕右隻「三浦潔明画」左隻「曽我蕭白画」 〔印章〕各隻「曽我師龍」 ( 朱文方印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション やれ白 第五章 関連も指摘されている。他の人物よりも大きめに描 かれた僧侶の姿が目立ち、また、九曜、菊、藤、桜、 牡丹、銀杏、朝顔、蝶、車輪、水車、文字などの文 様を施した着物の描き分けについては、ことのほか 慎重である。このような小袖の文様については、 ( 想 定されている制作年代である寛永期よりは少し時代が下 るが ) 寛文年間頃に刊行された小袖の文様を地色と ともに注記した「御ひいながた」のごとき雛形本と の関連も想起される。ただし、小袖のみならず漆器 などにまで頻出して描かれる「九曜」紋については、 そうした雛形本にも見えず、むしろ、家紋を意識し て描かれたことも推測させる。 ( 呉景欣、井戸美里 ) 蕭白の少し後、京都で活躍した画家白井華陽が よルじようム・フりや′、 天保二年 ( 一八三一 ) に著わした『画乗要略』に、蕭 白は曽我派だけでなく雲谷派を学んだと記されてい る。左隻の垂直に立ち上がる岩山の形、その所々に 隻 右 隻 配される樹木、線を重ねるように作られる岩肌をあ らわす皴など、雲谷等顔 ( 一五四七 5 一六一八 ) の山 水図に祖型をたどる特徴を、本図に見ることができ る。雲谷派学習の段階から蕭白様式の作品に至る 過渡的様相を示していると見ることができる。と同 時に、学習段階を超えた完成度の高さを見ることも ほ・つ・じれいしようじよ できる。蕭白は、三十歳で描いた「腕居士・霊昭女 ずびようぶ 図屏風」 ( 引 ) ですでに高い画技を示しており、画 面を埋め尽くすように点苔を打った圧迫感はこの時 期の作品と共通している。 蕭白は高田敬輔 ( 一六七三 5 一七五五 ) を師とした し」 . い - フ - 敬輔が没したのは蕭白二十六歳のときであ り、蕭白は三十歳の頃には伊勢で盛んに絵を描いて いたという。本図には、敬輔同様の太目の輪郭線が 目立っ部分もある。雲谷等顔の山水図と同様に左 右隻の入れ替えが可能な構図で描かれているようだ が、実際には中央部分で繋がっている。ただし、一 双を並べたときには左右の水平線の高さの設定が違 うために、見るものに不自然さを感じさせる。三十 歳頃の蕭白最初期の山水図となるだろう。右隻の 署名は、蕭白が三浦氏を名乗っていたことの証拠と されている。 ( 田沢裕賀 ) ほうこじれいしようじよずびようぶみたてくめせんにん 居士・霊昭女図屏風 ( 見立久米仙人 ) ってかしよう′、 曽我蕭白筆 六曲一隻 紙本墨画淡彩 縦一五六・一横三六三・八 江戸時代宝暦九年 ( 一七五九 ) 〔落款〕「平安散人 / 曽我蕭白 / 藤原暉雄 / 行三十歳 / 図之 ( 花押 ) 」 しわ 〔印章〕「鸞山」 ( 白文方印 ) 、「曽我氏」 ( 朱文方印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ビゲローコレクション は」・つ・つ : ん 鹿居士は中国唐代の隠者鹿蘊 ( ? 5 八〇八 ) のこ とで、莫大な財産を破棄した後、郊外の庵で竹製品 を作り、娘の霊昭女がそれを売って生計を立ててい たという。禅宗絵画の主題としてよく知られたもの の一つであるが、ここでは渓流沿いの小さな庵で竹 製品を編む蘊と、川辺で足先を冷やす霊昭女の談 笑する様子が描かれる。 濃厚で重層的な墨線により濃密な空間が築かれ ているが、鹿居士の肉身の陰影や瞳、ひげ、霊昭女 の唇や衣文線、衝立の輪郭線のほか、樹木の幹や葉 脈、点苔、急須からこばれる湯など、あらゆる箇所 に執拗に金泥が施されていることに気づく。また霊 昭女が裾をめくり足元を露わにする表現は珍しく、 川で洗濯をする娘の足に気をとられ法力を失った久 米仙人の逸話に通じるものと考えられ、作者曽我蕭 白のなんらかの意図が感じられる。画中の衝立には 唐代の褝僧・普化の姿と蕭白の落款が残る。普化は 諸国を遊行した奇僧として知られており、蕭白は自 らの落款の横にその姿を描くことによって自己の投 ( 金井裕子 ) 影を図ったと考えられる。 うんりゅうず 雲龍図 ってかしよう′、 曽我蕭白筆 八面 紙本墨画 各縦一六五・六横一三五・〇 江戸時代宝暦十三年 ( - 七六三 ) 〔落款〕「曽我蕭白行年三十四歳画」 〔印章〕「鸞山」 ( 朱文円印 ) 、「蕭白」 ( 朱文方印 ) 、 「虎道」 ( 白文方印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ビゲローコレク ション ふ 254
ッ / 雪舟筆との款記をもっ本図をめぐっては多くの 議論が重ねられてきた。近年の研究により、雪舟 は道釈人物画を制作したが、その中には何点かの 寿老図を含めた弟子の手による作品もあることが 明らかになった。しかし雪舟の基準作となるもの の多くは山水画であり、人物画に関してはその真 筆が疑われる作品がほとんどである。岡山県立美 ととうてんじんず 術館蔵の「渡唐天神図」 ( 挿図 4 ) などの伝雪舟とさ れる他の人物画と比較すると、構図に共通点が見 出せるが、本図の衣文線に見るぎこちない筆致は、 雪舟の原本を写した室町時代の模本である可能性 を示す。 その作者は、各画面に捺された印から、室町時 代の画家・拙宗等揚と考えられる。彼は雪舟等楊と 同一人物とみなされており、本図はその重要な作 品の一つとして知られている。ただし画面には擦 れや傷みが認められ、また三聖の着衣も、三教図 などによれば本来は特徴を明確に区別すべき線描 が近似していることから、本図には後世の加筆が 少なくない さらに蓮図ではモチ 1 フの配置に大 画面の一部を切り取ったかのような不自然さも感 じられる。そのため現状から三幅の当初の姿を知 るためには、やや慎重な手続きが必要である。 ( 畑靖紀 ) じゅろ、フ十・ 寿老図 せっしゅうと・フよ・フ 伝雪舟等楊 ( 一四二〇 5 一五〇六 ? ) 筆 絹本墨画 縦九三・四横五一・三 室町時代十六世紀 〔落款〕「行年八十三歳雪舟筆」 〔印章〕「等楊」 ( 朱文方印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション せきしようし 中央の寿老は松の木と鶴、亀、赤松子という仙 人に囲まれ、岩の上に座している。寿老人は南極 星を人格化した南極老人とも称され、長寿を授け る神とされてきた。寿老人の絵画化には二種あり、 本図のように通常の老人の姿で描かれることもあ れば、長頭短の姿であらわされることもある。 ( 呉景欣 ) びわ りすず 枇杷に栗鼠図 よ - っ洋いっ 伝楊月 ( 活躍期〕十五世紀後半 5 十六世紀初頭 ) 筆 紙本墨画 縦四三・五横三〇・三 室町時代十六世紀 〔印章〕「楊」 ( 白文重廓方印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 枇杷の実を付けた枝からもう一方の枝へと栗鼠 が飛び移ろうとする直前の一瞬が精妙な筆遣いで 描かれている。枇杷の実の丸みや臍の向き、葉の 表裏や枝の形状は、墨の濃淡によって的確にあら わされている。栗鼠は、非常に細い線で毛が描かれ、 これに淡墨面を併用して胴体と足の形が表現され ている。栗鼠といえば、日本では中国の画家、松 ようでん 田 ( 葛叔英 ) と用田が著名であり、彼らの栗鼠図は 室町時代までに日本に輸入され、高い評価を得て いた。本図は松田か用田の枇杷栗鼠図に触発され て描かれたものかもしれよ、 オ ( たたし栗鼠の描き ー↓ 0 3 挿図 4 渡唐天神図岡山県立美術館蔵 2 方はやや異なり、松田が短い線を用いるのに対し、 本図では長い線を引き重ねて描いている。 わぎよく かさぎでら 楊月は、薩摩の出身で、和玉と号し、笠置寺に しゅうぶんせっしゅう 居し、周文、雪舟、牧谿を学び、山水・人物・花鳥 を能く画いたと伝えられ、文明十七年 ( 一四八五 ) さんすいず の賛を有する「山水図」 ( 東京・畠山記念館蔵 ) により、 活躍期は十五世紀後半から十六世紀初めにかけて の時期と考えられる。本図は従来、楊月の作品と されてきたが、「楊」の印章は、基準的な「臣僧楊月」 ( 白文方印 ) とは異なり、またいくつかの作品に捺 された「楊月」 ( 白文重廓方印 ) とも異なる。本図の 作風は、現存する楊月の基準的な作例と合致せず、 本図が楊月の作品かどうか疑問はもたれるものの、 南宋院体画的な対角線構図による枇杷一一枝の配置 や、その対角線と直交するような栗鼠の視線と姿 勢によって生まれる緊張感あふれる構成、また枇 杷の実や栗鼠の描写にうかがえるシャープな造形 ( 救仁郷秀明 ) 感覚は、高く評価できる。 さんすいず 山水図 ぶんせい 文清 ( 活躍期〕 + 五世紀中頃 ) 筆 紙本墨画 縦七三三横 = = ニ・〇 室町時代十五世紀後半 〔印章〕「文清」 ( 朱文方印 ) 一九〇五年取得中国日本特別基金 後景の山容部分との間に空間的な広がりをもた せつつ、前景の松樹の後ろに平面的に配置された いちしようかねよし 竹叢や岩塊などのモチ 1 フは、一条兼良 ( 一四〇 ずい 二 5 八一 ) と京都・相国寺の瑞渓周鳳 ( 一三九一 5 一 こざんず 四七三 ) の賛をもつ大阪・正木美術館所蔵「湖山図」 と通底する。文清については、年記のある作品、 京都・大徳寺所蔵「養叟宗頤像」 ( 享徳元年〈一四五 一 (>) および奈良・大和文華館所蔵「維摩居士図」 ( 長 も 244
第四章 華びらく近世絵画 だったんじんちょうこうずびようぶ 韃靼人朝貢図屏風 かの・フえいとく 伝狩野永徳 ( 一五四一一了九〇 ) 筆 一一曲一隻 紙本金地着色 縦一五三・一一横一七〇・四 安土桃山時代十六世紀後半 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 画面は上下に分かれており、上部には向かって右 から左へと進む二艘の船が、下部には陸地を進む騎 天 本図は洛中洛外を中心とする名所を描く、清水 寺、字治、鞍馬寺、石清水、天橋立、住吉、不明寺 院のほか、二十四孝、大職冠、平家物語に取材する 物語からなる十面の扇面である。ポストン美術館に 所蔵された折には画帖形式であったが、 裏面に貼寸 されたと思われる書き入れには、「右三」「左廿七」な どの番号の指一小があることから、もとは屏風に貼り 交ぜられた扇面群のうちの十面と考えられる。東 せんめんちらしびようぶ 京・出光美術館所蔵「扇面散屏風」 ( うち三面は直信 つきなみふうぞくずせんめんながしびようぶ 印 ) や京都・光円寺所蔵「月次風俗図扇面流屏風」 ( 元信印 ) のような、京都の名所や風俗のほかに唐人 物図や物語図を屏風に貼り交ぜた作品を想定する こともできよう。また、本図には、一連の洛中洛外 らくちゅう の名所を小画面に描く奈良県立美術館所蔵の「洛中 ・り ~ 、力い十・カじよう 洛外図画帖」などと比較すると、石清水や天橋立、 住吉など、京の中心部から離れた名所も描かれてお り、狩野派による名所を描く扇面や画帖などの小画 面絵画のバラエティーを考えるうえでも興味深い ( 井戸美里 ) 4 馬の異民族が描かれている。両端に引手跡が残るこ とから、当初はさらに左方向に広がる構成の襖で あった可能性が高い これらの図様は同じくボストン美術館が所蔵する 「韃靼人朝貢図屏風」 ( 六曲一双、 11.4443. 1L6829 ) の 向かって右より第五扇・第六扇との近似が指摘され ている ( ただし本図とは図様が左右反転している ) 。 いずれの屏風も一部改変された形で現存しており、 おうかいずびようぶ 当初の図様は滋賀・観音寺所蔵「王会図屏風」 ( 六曲 一双 ) とほば同じであったことから、本図も本来は「王 会図」襖絵の一場面であったと考えられる。 「王会図」は、狩野一渓著『後素集』 ( 一六二三年 ) に「覇王の多会して酒宴し遊び給」とあり、本図は このうち、聖太子・太宗の皇居に向かう諸異民族の 表現であることが指摘されている。 人物の容貌表現や姿形が、京都・南禅寺大方丈襖 絵などの狩野永徳の作風に近似していることから、 十六世紀後半に永徳周辺で制作されたものと考え られる。 ( 金井裕子 ) りゅうこずびようぶ 龍虎図屏風 ) か・わし」 - フ 2 は′、 長谷川等伯 ( 一五三九 5 一六一〇 ) 筆 六曲一双 紙本墨画 各縦一五四・一一横三四〇・〇 江戸時代慶長十一年 ( 一六〇六 ) 各隻〔落款〕「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆六十八歳」 〔印章〕「長谷川」 ( 朱文重郭長方印 ) 、「等伯」 ( 朱文方印 ) 右隻一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 左隻一九一一年寄贈ウィリアム・スタージス・ピゲローコ レクション 自啌弁土長月法厭等第 かのう 第靄 隻 右 ・ 4 雨を降らせる龍と、風を呼ぶ虎。右隻では、逆巻 く大波の上、濃墨を滲ませあるいは垂らして表現さ れた妖雲の中から龍が姿を現し、左隻では、右から 続く大波を背景として、水辺に張り出した岩の上で 強い風を吹き起こして龍を睨む虎が描かれて対峙す る。天空から姿を現す龍と、風に吹かれる竹を僅か に添えて岩の上に座す虎を組み合わせた水墨の龍虎 図は、京都・大徳寺に伝わる中国南宋の画家牧谿の 「龍虎図」 ( 重要文化財 ) 以来の定型化した組み合わせ である。本図は、龍の顔や体のひねり、虎の足の配 置や尻尾を前にもっていく描写など、先の「龍虎図」 と直接的な関係にあることがわかる。長谷川等伯 は、牧谿に私淑し、その作品に強い影響を受けてい ちくかくずびようぶ る。「竹鶴図屏風」 ( 東京・出光美術館蔵 ) は、やはり かんのんえんかくず 大徳寺所蔵の牧谿筆「観音・鶴猿図」 ( 国宝 ) 三幅対 の直接的影響にあることを伝えているか、それらを 通して等伯が学んだのは、微妙な墨調により変化す る大気の表現であり、それが霧となり風や光を感じ しようりんずびようぶ させるものとなった。「松林図屏風」 ( 国宝、東京国立 博物館蔵 ) は、その帰結として誕生したのである。 長谷川等伯は、能登七尾に生まれ、仏画や室町 時代のやまと絵、水墨画に細緻な筆を振るっていた が、京に上り豊臣秀吉の寵愛を受けるようになり、 その画風は、豪快で強い表現を目指した桃山風へと 変わっていった。本図は、落款より、六十八歳にあ たる慶長十一年 ( 一六〇六 ) の作と知られる。晩年の ほ・フげんそ・フご・フ イロロに記された法眼の僧綱位を加えた「法眼落款」 といわれる作品の最初のものである。「法眼落款」の 作品は、奥行きの深い空間を求めるのではなく、平 板な空間に筆勢を強調したモチ 1 フを配した簡潔な 表現がとられている。龍の描線は、動勢をはらんで いるが単調であり、虎の体の縞模様は、それ自体で 動きを強調する動勢に富んでいる。等伯晩年の作風 ( 田沢裕賀 ) をよく伝える代表作である。 ぼくぎゅうやばずびようぶ 牧牛・野馬図屏風 はせがわさこん 長谷川左近 ( 一五九三 ! ・ ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 248
禄元年〈一四五七〉 ) の存在から、十五世紀中頃を中 、いに活躍した水墨画家と考えられている。文清の作 品は、大徳寺に数点残されており、同寺と密接な関 わりをもった画家であったと想定されるが、この画 家をめぐってはこれまでもさまざまな議論が展開さ じよせつ れ、ポストン美術館で購入された当初は如拙と同一 人物であるとみなされたこともあった。さらに、朝 鮮半島の山水画の特色を色濃く残す韓国国立中央 ろうかくさんすいず 博物館に所蔵される「楼閣山水図」には「文清」印が 捺されていることから、朝鮮半島の山水画との影響 関係が指摘されてきた。しかし近年、印章や様式の 詳細な検討がなされ、韓国国立中央博物館所蔵「楼 閣山水図」をはじめとする「月」の部分が一画足り ない「文清」印をもっ諸作品は、本図や正木美術館 本の画家文清とは異なり、朝鮮絵画であることが判 明した。 ( 井戸美里 ) さんすいず 山水図 祥啓 ( 活躍期〕十五世紀後半 5 十六世紀初頭 ) 筆 紙本墨画 縦三九・四横九一・五 室町時代十五世紀末 5 十六世紀初 〔印章〕「賢江」 ( 朱文重廓長方印 ) 、「祥啓」 ( 白文重廓方印 ) 一九一 - 年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 祥啓は鎌倉の建長寺の書記を務め、関東を中心 に活躍した禅僧画家である。文明十年 ( 一四七八 ) に 上京し、数年間、芸阿弥のもとで将軍家所蔵の中 国絵画などを模写して学び、関東水墨画に大きな影 響をもたらした。祥啓の師、芸阿弥は特に夏珪様の 山水画を得意としたことで著名である。夏珪は中 国・南宋の宮廷画家で、その様式は、室町時代にお いて山水画の規範的様式であった。 本図はまさに夏珪様式に拠って描かれたものであ り遥かかなたまで広がる水辺の景が巧みにあらわ されている。自然の崇高さ、広大さの表現とともに、 卓抜な筆致によって画面からは清浄で爽やかな空気 が醸し出され、「山水図」 ( 重要文化財、東京・根津美 術館蔵 ) とともに祥啓山水画の代表作といってよい 出来映えである。描写密度の濃さや、奥行きが重視 された表現などから、現存作品の中では最も夏珪様 式に近接した画風といえるだろう。京都遊学からさ ほどときを隔てぬ時期、すなわち十五世紀末から十 六世紀初頭にかけて本図は制作されたと推定され ( 救仁郷秀明 ) しようしようはつけいずびようぶ 瀟湘八景図屏風 ぞうさん 伝蔵三 ( 生没年不詳 ) 筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 各縦一五八・〇横三六五・四 室町時代十六世紀前半 〔印章〕各隻「宗円」 ( 朱文方印 ) 、「蔵三 ( 蔵或 ) 」 ( 白文方印 ) 一九 - 一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 瀟湘八景は、中国・北宋時代後期の文人画家、宋 てき 迪が十一世紀中葉に創始した画題で、湖南省洞庭湖 の南側を流れる瀟水と湘水が合流する付近の煙靄に かすむ八つの佳景を描くものである。日本では鎌倉 時代末にすでに描かれ、室町時代に入ると屏風や襖、 掛幅など、さまざまな画面形式に描かれ流布する。 さんしせいらんぎよそんせきしようえんじばんしよう 本屏風右隻には山市晴嵐、漁村タ照、烟寺晩鐘、 しようしようめー・フ ど・フていしゅうげつ えんばきはん 遠浦帰帆の四景、左隻には瀟湘夜雨、洞庭秋月、 へいさらくがんこうてんばせつ 平沙落雁、江天暮雪の四景が描かれる。画面の諸処 に金泥を用いて大気や光、霞が表現され、全体とし ひょうびよう て縹渺とした水辺の景観がよくあらわされている。 各隻の画面上部には、それぞれ色紙四枚ずつが貼ら れていた痕跡があり、制作当初は瀟湘八景詩八首 の書かれた色紙が貼られていたものと推定できる。 八景はやや孤立して配置され、有機的な関連性に乏 しいとこれまで評されてきたが、 色紙の貼付を前提 隻 右 い」・つ一しい一」 とした制作であれば、作者はむしろそれを考慮して 各景の独立性を強めて構成したのかもしれない。金 泥の使用やモチーフの明晰な描写により本図はおよ そ十六世紀前半頃の作と推定されている。一方、鋸 歯状の特徴的な岩の描写は、一四三七年以前の制 しゅうぶん さんすいず しようし」′、カ・れ 作とわかる伝周文筆「山水図」 ( 惟肖得巌賛京都・ 慈照院蔵 ) とよく似ていて、十五世紀前半の周文系 山水図の伝統を継承するので、あるいは本図の制作 年代は十五世紀にさかのばるかもしれない。 本図の作者は従来、蔵三とされてきた。通説では、 各隻に捺された「宗丹」と「蔵三」の印章について、 「宗丹」は後捺された偽印で、「蔵三」印が絵の作者 の印章と解釈されている。しかし本図の印文は例え うさぎず ば「月に兎図」 ( 神奈川・常盤山文庫蔵 ) の印と異なり、 「蔵三」というよりは「蔵或」と読めるようで、作者 ( 救仁郷秀明 ) についてはなお検討を要する。 ほていず 布袋図 おうせんけいさん 横川景三 ( 一四二九 5 九三 ) 賛 紙本墨画淡彩 縦六一・九横四六・一 室町時代文明十一年 ( 一四七九 ) 〔印章〕「 ( 不明 ) 」 ( 朱文団扇形印 ) 〔賛〕横川景三 ( 前額印 ) 、「 ( 不明 ) 」 ( 朱文長方印 ) 「昼閻浮界夜兜率宮天上天下 / 抛向嚢中宝珠在掌八面玲瓏 / 惑乱童子笑破虚空主丈挑月扇子 / 揮風唳五十六億七千万歳 後龍華 / 樹下成等正覚称弥勒尊仏者 / ケ契此翁耶 / 前南禅 横川」 ( 印章 ) 、「 ( 不明 ) 」 ( 朱文壺形印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ , ウエルドコレクション 布袋は、中国に実在した禅僧契此 ( ? 、・九一六 ) で あるが、その死後には、弥勒菩薩の化身などとされ、 好んで図像化されてきた。着色布袋図は南宋時代 には制作されていたと見られ、そうした作品を下敷 きとして描いたと考えられる。ここに見られるよう な丸い大きな腹をした、満面の笑みを浮かべる布袋 の姿は、背景や唐子の有無というモチーフの違いは 見られるものの、屈曲の多い衣文表現や細かい毛描 かのうまさのぶ きなどは、狩野正信筆「崖下布袋図」 ( 重要文化財、 〕いド ) よしゅうり・ル 景徐周麟賛 ) との間に類似性を見出すことができる つき 245
・ 6 本図の観音像が真正面を向いて相称的な姿勢で 静坐して描かれていることは、本図が礼拝の対象で あったことを示唆する。彩色された身体と白衣を際 立たせるはっきりとした衣文線と対比して、背景の けんがい 木々や岩、懸崖は暗い色調で描写される。 アーネスト・フランシスコ・フェノロサは、本図を やまなかきちべえ 山中吉兵衛 ( 後の山中商会 ) より購入した際、これを 狩野元信の最高傑作にあたるものと考えた。狩野 派の二代目として工房を確立した元信は、幅広い注 文層の需要に応え制作した。そのため元信の真筆を めぐっては議論される作品も多く、本図もまた印章 。。判売しにくいことから特定を困難にしている。し いんりようけんにちろく かし『蔭凉軒日録』によれば、狩野派の始祖である 狩野正信は早くから仏画と肖像画を専門としてい たことがわかっており、また京都・大徳寺が所蔵す る正信の「釈迦三尊像」と本図は多くの点で共通し が、本図の画面左下に捺された朱文団扇印は判読 できず、画家を特定することはできない。本図の着 賛の時期については、賛末の款記に「前南褝横川」 とあり、横川景一一一が京都・南禅寺に入院した長享元 年 ( 一四八七 ) よりも後と想定される。しかし、横川 ほあんけ、 の詩文集『補庵京華後集』の文明十一年 ( 一四七九 ) じうんいんしゅはそかわしげゆき 、この賛が慈雲院主 ( 細川成之 ) のために書かれた ことが記されることから、時期が合わず、横川の賛 を模して後世に書かれた可能性も指摘されている。 ( 井戸美里 ) びやくえかんのんず 白衣観音図 かのうもとのぶ 狩野元信筆 絹本着色 縦一五七・一一横七六・四 室町時代十六世紀前半 〔印章〕「 ( 不明 ) 」 ( 壺形印 ) 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション そ・フきそ・フ 宗祗像 かのうもとのぶ 伝狩野元信筆 絹本着色 縦九八・〇横五四・四 室町時代十六世紀 一九五八年取得フレデリック・—J ・ジャック基金 編笠をかぶり、白ひげを伸ばした人物が、馬に乗 る姿を描く。この人物は、室町時代に人気を博した 連歌の大成者・宗祗 ( 一四二一 5 一五〇一 l) と考えら れてきた。もっとも、本図には賛や制作背景などを 伝える史料がなく、像主の特定につながる明確な裏 付けを欠いている。しかし、出陣影を彷彿とさせる 騎馬姿が、生涯を行旅のうちに過ごした宗祗にふさ わしく、また本図が連歌にゆかりの深い北野社に伝 来したと推測されることなどから、伝承を支持する 見解が示されている。 筆者は、狩野派の礎を築いた室町時代の絵師・狩 野元信と伝えられる。特に、堂々たる体驅を誇る馬 ひきうまずえま の描写は、元信画として知られる「曳馬図絵馬」 ( 兵 ほそかわすみもとぞう 庫・賀茂神社蔵 ) や「細川澄元像」 ( 重要文化財、東京・ 永青文庫蔵 ) に極めてよく似た特徴を備えている。 人体の描写はやや不自然さを伴うが、それは本図が 遺像と考えられることと無関係ではなかろう。画面 左下の絵師のものと思しき花押が、元信のそれとは 異なるため、元信様式を継承した狩野派の絵師の筆 ( 鷲頭桂 ) による可能性も考えられる。 きんざんじずせんめん 金山寺図扇面 かのうもとのぶ 伝狩野元信筆 けいじよしゅう c ノん 景徐周麟 ( 一四四〇 5 一五一八 ) 賛 紙本金地着色 上弦四九・三下弦一 - 一・五径一八・七 ている。本図は繰り返し写され、狩野探幽や狩野 芳崖に至るまで何世代にもわたって狩野派の規範 となる作品の一つであったことは確かである。 ( 呉景欣 ) だったんじんしゆりようず ”韃靼人狩猟図 かのうもとのぶ 伝狩野元信筆 紙本着色 各縦 - 六六 室町時代十六世紀前半 一九一一年寄贈フェノロサ・ウエルドコレクション 韃靼人の故郷を舞台として繰り広げられる狩猟 や打毬の様子を描いた韃靼人図は、室町時代末期 室町時代十六世紀前半 〔印章〕「元信」 ( 朱文壺形印 ) 〔賛〕景徐周麟「題取金山幾集中 / ロロ杜牧賦ロロ / 楼ロロ 口々逢ロロ / 畢竟詩人輸画工 / 宜竹ロ麟」 ( 印章 ) 「景徐」 ( 朱 文壺形印 ) 一九一一年寄贈ウィリアム・スター ) ンス・ビゲローコレクション 中国江蘇省の名刹、金山寺を主題とする扇面。 画面左隅に「元信」印が捺され、臨済宗の僧、景徐 周麟の賛および印章を伴う。金雲とともに細やかな 筆致と彩色によって描く。賛は、剥落が激しく判読 が困難であるが、景徐による語録詩文集である『翰 林葫蘆集』に採録されており、「題取金山幾集中、 多如杜牧賦秦宮、楼楼寺寺逢僧話、畢竟詩人輸画 ェ」と補うことができる。金山寺を描いた作品には、 し」・フレ」しょ , ノ〕 ずかんきんざんじ あ 雪舟画の写しである「唐土勝景図巻」「金山寺・阿育 王寺図」などの実景図が有名であるが、やまと絵風 の建物に中国風の人物を描く和漢融合の作品とし せいりよくさんすいず て、奈良国立博物館所蔵の「青緑山水図」扇面など も残されている。また、『翰林葫蘆集』には金山寺に 取材する賛をほかにも見出すことができ、当時五山 を中心とした神林で流行した画題の一つであったと 考えられる。本図は、景徐周麟の没年 ( 永正十五年〈一 五一八〉 ) が作期の下限となることから、元信印を有 する扇面画の中でも初期の作品として貴重である。 ( 井戸美里 ) りんころしゅう 246