太史慈 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 1
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1. 三国志演義 1

けんとく キ」んとう さて曹操が山東を平らげて朝廷にこのむね上奏すると、朝廷は曹操を建徳将軍費亭侯に陞された。 だいしば ( 注こ 時に李催は自ら大司馬となり、郭汜は大将軍となって朝廷をわがもの顔にのし歩いていたが、廷臣 ようひゅうだいしのう ( 注二 ) しゅしゅん 誰一人としてこれに異をさしはさむ者もないありさま。ここに太尉楊彪、大司農朱儁がひそ に献帝に上奏して、 「当今、曹操は兵二十余万を擁し、軍師武将数十名を抱えておりますれば、もしあの者をして社 しよく 稷の力といたさせ、悪人ばらを除くことができれば、正に天下にとってこの上もなきしあわせと 存じまする」 兵帝はご落涙あって、 「朕はかの二賊がために久しい間ないがしろにされて参った。あの者共を誅することがかなわば、 大 汜嬉しく思 , っそ」 郭 楊彪が、 みことのり 李「されば、臣に一計がござります。まずあの両名に同士討ちをさせた上、曹操に詔を下して逆賊 回を残らず攻め亡ばさせ、朝廷の安泰をもたらさんとの策にござりまするが」 十「してそれをどうしてやるか」 四「郭汜の妻女ははなはだ嫉妬深い女と聞いております。されば人を彼の妻女のもとへ遣わして離間 の計を打たせれば、かの逆賊どもは自ずと殺しあうことになると存じまする」 ちゅう しゃ

2. 三国志演義 1

「こりや、そちは用なくば退がっておれ」 と言ったので、呂布は暗い顔で退出した。 董卓は貂蝉を手に入れてからというもの、彼女にうつつをぬかしてひと月あまりも政務を見よう としなかった。董卓がたまたまちょっとした病気にかかった時、貂蝉は夜も帯をとかず、我が意に もあらで看病これつくすふりをしたので、董卓はいよいよ憎からず思っていた。呂布がある日見舞 に上がると、ちょうど董卓が眠っているところだった。貂蝉が寝台のうしろから半身をのり出し、 手で自分の胸を指さし、また董卓を指さして涙をほろはろ落とした。呂布がこれを見て心もはりさ 健けんばかりの思いをしているとき、董卓はうつつのうちに、呂布がまばたきもせで床のうしろを見 を 計詰めているのを見、振り返って見れば、そこに貂蝉が立っている。董卓はかづとして、 環「貴様、わしの可愛がっている女にいたずらする気か」 と叱咤し、控えの者を呼んで彼を追いださせると今後の出入りを禁じた。 み りじゅ 巧 呂布は無念やるかたなく怒りをこらえて帰る途中で李儒に行きあったので、この由を話した。李 徒 司儒は急いで董卓の前に伺候し、 「太師は天下をお取りなされようとしておられるに、何故ささいなことで温侯をとがめ立てなそさ 回 れたのでございますか。もし彼が心変りでもすれば、万事休しまするそ」 「では、ど , っせよとい , つのじゃ」 きんばくたま 「明朝さっそくに彼を召して金帛を賜わり、慰めのお言葉をかけておやりになれば、無事に相済む

3. 三国志演義 1

もらいたいといって来るでございましよう。その機をはずさず策を用うれば、何の労することもな く取ることができるというものです」 袁紹は大いに喜び、ただちに書面を公孫環のもとへ送った。公孫璟は書面を受け取り、ともに冀 州を攻めて領地を分けどりにしようとあるのを見て大いに喜び、即日兵をおこした。一方袁紹は密 じゅんしんしんひ上う 使をやって韓馥に公孫璟のことを知らせた。韓馥は狼狽して幕僚の荀諶・辛評を呼びよせ協議し 辛評が言うのに、 えんだい 「公孫璟が燕・代二カ国の兵をもって長駆押し寄せきたるとあっては、その鋭鋒当たるべからざる りゅうびかんちょう ほんしょ ものがありましよう。しかも劉備・関・張がこれに加わらばとてもかないますまい。当今、袁本初 殿は、智勇群を抜き、配下の名将も少なくありません。将軍が彼に州刺史の任をお譲りになれば、 と 彼も必ず将軍に厚くむくいるでありましようし、公孫璟を恐れることもなくなりましよう」 べつが ( 注一 ) かんじゅん 公 韓馥はただちに別駕関純を使者としてこのむね袁紹に申しいれることにした。 ちょうし ( 注二 ) こうぶ 長史耿武はこれを諫めて、 紹「袁紹はよるべもなく力もっきてひたすらわれわれの鼻息をうかがっているばかり、たとえて申さ ば赤子を掌にのせているようなもので、乳をやらなければたちどころに餓死させることもできるの 回 第でございます。それを何を好んでこの大任を委ねたりしようとなされるのです。これでは虎を羊の 群に引き入れるようなものにござりまするそ」 えら 「わしはもともと袁家の恩顧に与った者。才能も本初殿には及ばぬ。賢者を択んで任を譲るは古よ

4. 三国志演義 1

たものである。曹操が驚きあわてる時、夏侯惇・夏侯淵が「徐栄、殿に手出しする気か」と大喝し ながら、十数騎をひきいて駆けつけた。 徐栄が斬ってかかれば、夏侯厚、槍をしごいてこれに応じ、数合せずして徐栄を突き落とし、追 手の兵士どもを駆け散らした。やがて曹仁・李典・楽進らもおのおの兵をひきいてたずねあつまり、 かだい 曹操と悲喜こもごもの対面をし、かくて敗残の兵五百人あまりをよび集めて河内へ引き揚げた。董 卓はこの間にも長安へ向かっていた。 さて諸侯はそれそれ洛陽に屯営したが、孫堅は宮中の火災をすっかり消しとめて城内に駐屯し、 けんしよう 陣屋を建章殿の焼跡にかまえた。そして兵士たちに命じて宮中の瓦礫を片づけさせ、董卓があば いた陵を修復させた上で、太廟の跡に仮り屋をしつらえ、諸侯に請うて漢室歴代の霊位を安置して 、・す・・こ→へ 犠牲を供えお祭りした。祭典が済み諸侯はそれそれ引き取った。孫堅は陣屋に帰ったが、夜空に雲 負を帯びたまま露天にすわり、空を仰いで星の動きを観 一つなく月と星の輝きかわすありさまに、」 しびえん ( 注三 ) 察したところ、紫微垣に白色の気が立ち籠めているので、 「帝星の明らかならざるは、賊臣の国を乱せるしるし。万民塗炭の苦しみを嘗め、都は廃墟と化し てしまった」 と嘆息して、思わず涙を落とした。 と、かたわらにいた兵士が手で示しながら、 はいきょ

5. 三国志演義 1

「今上陛下は暗弱にして、国家の主たることができぬ。わしは伊尹・霍光の故事にならって、帝を 廃して弘農王として、陳留王を帝に立てる所存だ。不服な者はこの場で斬って捨てる」 群臣おそれおののき、言葉を発する者もない。そのとき中軍校尉袁紹が進み出た。 「今上陛下はご即位あっていまだ日も浅く、失徳のこともなにひとつない。貴様がご正嫡を廃して 庶子を立てんとするのは、謀反の心あってと見受けたり」 董卓は怒って、 「天下の事はわしの手にある。わしのやる事にさからう気か。貴様、この剣の切れ味でもみよ」 叱袁紹も剣を抜き、 蒻「貴様の剣が切れるとなら、わしの剣もなまくらではないぞ」 卓二人は酒宴のまっただなかに睨みあう、正に、丁原大義に命を落とし、袁紹歯向かってまた危し、 て というところ。さて袁紹の命はどうなるか。それは次回で。 ーし 議 殿 明 温 回 第 注一前将軍大将軍につぐ七将軍の一。次の西涼は通称で、正しくは涼州。 二河南中部の掾吏「掾史」の誤り。河南の尹 ( 第二回注六 ) の下にある督郵 ( 行政監察官 ) の一人で 最上席にある。 三左軍・右軍・後軍・中車校尉左・右・後の三校尉は七将軍中の左・右・後の三将車に属する校尉。 ′」うのう しんかく - 一う

6. 三国志演義 1

そもそも天下の大勢は、分かれること久しければ必す合し、合すること久しければ必す分かれる しゅう しん そかん もの。周のすえ七国分かれ争い、秦に併合されたが、秦が亡ぶや楚・漢が分かれ争い、また漢に併 - 、うぶ 合された。漢朝は、高祖が白蛇を斬って義兵を興し、天下を統一したのにはじまり、のち光武帝の 中興があって、以来献帝まで伝わり、つ いに三国に分かれた。このたびの乱の源をただせば、およ かんれい かんがん そ桓・霊二帝より始まったといえる。桓帝は儒者と官僚を弾圧し、宦官を重用した。桓帝が崩じ、 とうぶたいふちんばん そう 霊帝が即位すると、大将軍の竇武と太傅の陳蕃の両名が相ともに補佐に当たった。おりしも宦官曹 せつ ろうだん 節らが権力を壟断しており、竇武・陳蕃は彼らを朝廷から一掃しようとったが、事破れて却って 殺害され、これよりして宦官はいよいよ専横をきわめることとなった。 けんねい おんとく 建寧二年 ( 一六九 ) 四月十五日、帝が温徳殿におでましあって、正に玉座に着こうとされたとき、 とっぜん殿中の一角に不気味な風が吹きおこるとみるまに、青色の大蛇が梁上より飛来して玉座に 第一口 とうえんうたげ 桃園に宴して三豪傑義を結び ロこうきん 黄巾を斬って英雄始めて功を立っ かえ

7. 三国志演義 1

334 彼らが自分を殺そうとしているのではないかと疑い、その夜、剣を揮って八名の人を殺し立ち 去った。 ) 孫盛 ( 晋の人 ) の『雑記』にいう、太祖はその食器の音を聞いて、自分を殺そうとしている のだと考え、ついにその夜彼らを殺した。そして、ひややかに、「わしが人を裏切ることがあ っても、人がわしを裏切るようなことはさせぬ」というと、立ち去った。 (o) この三本の注のうち、作者はことさらに (= ) ( ) を使い、かっ注にもない呂伯奢殺害の話ま でつけ加えることによって冷酷非情な曹操というイメージを作りあげ、さらに陳宮という良心的な 人物を登場させて、このイメージをよりいっそう強調させるという操作を行なっているのである。 正史に記載され、『平話』において初歩的な形がつくられていたものを、思いきり拡大した典型 おとな 的な例は、第三十七回の「劉玄徳三たび草廬を顧う」の一段であろう。 いおり ふくりようは、つす、つ じよしょ 劉備が襄陽郊外の庵で司馬徽に会って「伏竜・鳳雛」という伏線を張られるところから、徐庶 - 」うめい の登場、その名軍師ぶりがしめされたあと、徐庶の許都行きとなって、ようやく孔明の名が明らか にされ、そのあと三度にわたる臥竜岡行きと次第にクライマックスへ盛り上がってゆく。この盛り 上がりは絶妙で、作者の並々ならぬ手腕をいかんなくしめしているところである。 ところが、ここで面白いのは、作者がここでも裴松之の注を巧みに使っていることである。とい うのは、注では劉備が司馬徽を訪ねて意見を求めたところ、徽が「この地に伏竜・鳳雛がいる」と ほうしげん 、それは誰かと尋ねられて、「諸葛孔明・靡士元のことだ」と答えているのである。作者はこ しよかっ - 一うめい

8. 三国志演義 1

皇甫鄧はただちに李催を訪ねた。 せいりレ、う 「このたび天子はそれがしが西涼の人間であり、貴殿と同郷の誼みなるをもって、特にそれがし を遣わされてご両所の仲をまとめるよう仰せいだされたるに、郭汜殿はすでに詔にしたがわれまし おばしめ 。しかが思召されるか」 た。貴殿ま、 「わしには呂布を破った大功があり、以来大政をおたすけして四年、数々の功績は天下の知るとこ ろじゃ。しかるに郭阿多はたかが馬盗人、それがおこがましくも公卿を取りこめてわしに歯向かお ろう うとするからには、きやつを叩き殺してやるばかりだ。わが方の策士の数をご覧じろ、とても郭阿 交多ごときが及ぶところではあるまいに」 たの ゅうきゅうこうげい ( 注三 ) 兵「それは違いましようそ。むかし有窮の后昇は、弓を善くするのを恃んで禍いを思わず、ついに あだ 亡ばされました。近くは董太師の強大なりしことは貴殿もよくご承知のところ、呂布が恩を讐にし 汜て裏切り、たちまちのうちに首を都門にさらされる羽目となりました。たとい強大なりとも恃むに 郭 たらざるはこれによっても明らか。将軍は身は大将軍として鉞・節を持し、ご一門ことごとく顕職 李に就いておられる今日、国恩の薄きを申せましようや。いま郭阿多は公卿を奪いましたが、将軍は 回至尊を奪われました。これいずれか軽重を問うことができましようや」 第李催大いに怒って剣を抜き放ち、 はずか 「天子はわしを辱しめるために貴殿をよこしたのか。手はじめに貴様の素っ首を打ち落としてくれ る」 と、つ えっせつ

9. 三国志演義 1

108 に一 1 卓 が つ 太を賊はさ たと大貴袁功曹たわ袁大お 傅ふは急て の曹事公術あ操まれ術切れ をいい華 ち操のら り 、ねら大だの つまで雄 、は瀬が し を大い 兄 と味李りの 曹公戸県 者 す臣に め方儒手 操孫ぎ令 るす怒 を が 賞 は環わ 華 からっ ての・の お大呂呈敗 。互て と す ひに り将布ふ軍 そ命そき る 者い を ま華らが どに かじれを の す雄を 、は左 も譲喝 ち に 人玄ち様 るを召の 叩っし と が討し旨 を徳とに きてた つ 、ち寄を や・お重 賤 出ひ た も取せ関 つ関言ん 上 の せか て・葉ぜ 別 しりてへ し、え は 彼、協知 肉張が ら は て が勢議ら やを過 な る お 内いしせ 酒つぎ る る 応また をれま を と で すす。李 届てし あ は るま李粛 けいよ ら よす儒が ば 県 つう 人たそ さがあ ら つ - 卩 なか言わ 身 をん ぬ の な陣 ど んうて 足 か ぐ屋 軽 とでのふ も ああに た きへ は 、め め引 同 情 つり たき 座 てま が はす て 董 ら 免 か 由盟 卓 よ 、・々主 . た つ つ し袁 早 な む き紹 馬 席 諸 る 大の を 侯 で : 事 : 赤又 も 父 て ん ま袁 同 れ た ず隗 3 : ば る もは き 出 董 っ現 取 過 一三ロ しまのうち関に攻めこみ、董卓を生捕りにしてやろう。時

10. 三国志演義 1

何苗は逃れようとしたが、ひしひしと取り囲まれ粉微塵に斬りきざまれた。袁紹はさらに兵士た ひげ ちに十常侍の家族を殺しつくせと命じ、老幼を分かたずことごとく斬り殺させたが、鬚のないため に誤って殺される者も数多くあ・つた。曹操は宮中の火を鎮める一方、何太后におすすめして暫時政 務をとっていただき、張譲らに追手をさしむけて少帝をたずねさせた。 ほくばう さて張譲・段珪は少帝と陳留王を擁して炎の下をくぐりぬけ、夜道を北山まで逃れた。二更ご かんせい ろ ( 午後十時前後 ) 、うしろでどっと喊声があがり人馬が迫って来た。その先頭に立った河南中部の えんり ( 注二 ) びんこう 掾吏閔貢が、 「逆賊、待てい」 と叫ぶと、張譲はもはやこれまでと河に飛びこんで死んだ。帝と陳留王はまだ事の次第をご存知 く寺、むら ないので、声をひそめ河辺の叢に身を伏せられた。兵士どもは馬を駆って八方おたずねしたが、 ひも 帝のお姿を見出すことが出来ない。帝と王は真夜中過ぎまで隠れておいでになったが、露は下る飢 じくはなるで、ひしと抱きあって泣きだしたが、ふとまた、人に知られてはと声を呑んで叢の中に ひそまれた。 「ここには長くはいられませぬ。ほかに活路を見つけましよう」 と陳留王が申され、お二方は御衣の袖を結びあわせて岸辺へ這い上がられた。しかし一面の茨、 一寸先も見えぬ闇では、道もお分かりにならない。途方にくれるおりしも、幾百千の螢がむらがり 集まってあたりを照らしだし、帝のご前を去ろうとしない こなみじん