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検索対象: 三国志演義 1
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1. 三国志演義 1

140 なでございました」 と趙雲が言えば、玄徳も、 「しばらくがまんしておられい、いずれ会う日がありましようそ」 と二人は涙をふるって別れた。 えんじゅっなんよう さて袁術は南陽にあって袁紹が新たに冀州を得たと伝え聞き、使者を立てて馬千頭を貰いたい と申し入れた。袁紹がこれを断ったので袁術は怒り、以来兄弟の仲も思わしくなくなった。袁術は また使いを荊州へやり、劉表に兵粮二十万石の借用方を申し入れたが、劉表も断ったので、袁術は これを恨みとして密書を孫堅のもとに送り、劉表を討たそうとした。その密書は、 先に劉表が公の帰路をさえぎりしは、わが兄本初が謀りしこと。今また本初は劉表をかたらっ すみ て江東を襲わんとす。公速やかに兵をおこして劉表を討ちたまえ。われらも公のために本初を討 ち、重なる仇をはらさん。公は荊州を取り、われらは冀州を取るべし。切に誤りなからんよう。 孫堅は密書を得て、 「小癪なり劉表。先に帰路を邪魔立てされた恨み、今こそはらしてやるそ」 ていふこうがい かんとう と幕下の程普・黄蓋・韓当らを集めて協議した。程普が、 「袁術は策士ゆえ、信用なりませぬぞ」 と言ったが、孫堅は、 ′ 1 しやく

2. 三国志演義 1

の一言うのに、 1 「賊軍は多くわが軍は手薄にござりますれば、火急に兵を募り、賊に備えるが至当かと心得ます」 劉焉はこの意見をいれ、ただちに義兵募集の高札を出した。高札が泝県に立てられたとき、これ に応じて添県より一人の英雄が現われた。この人、学問をあまり好まず、性温和でロ数すくなく、 たけ 喜怒を色にあらわさない。生来大志を抱き、つとめて天下の豪傑と交わりを結んでいる。身の丈七 尺五寸 ( 後漢の一尺は約二三センチ ) 、両の耳は肩まで垂れ、手を伸ばせば膝下にとどき、目はよく己 ちゅうぎんせいりゅうしよう の耳を見、顔は冠の白玉の如く、唇は紅をさしたよう。中山の靖王劉勝の末孫、漢の帝陛下の びあざな げんとく りゅうてい 玄孫、姓は劉、名は備、字 ( 通称 ) は玄徳である。そのかみ漢の武帝の御代、劉勝の子劉貞、泝鹿 亭侯に封ぜられ、のち皇室に規定の祭祀料を差し出すことを怠って官を召し上げられたことがあり、 りゅうゆう りゅう第一う こうれん ( 注 その血筋の泝県に遺ったものである。玄徳の祖父は劉雄、父は劉弘という。劉弘はかって孝廉に 推挙されて官に仕えたが、若くして死んだ。玄徳は幼くして父親に死に別れ母親に孝養をつくした。 わらじ むしろ 家は貧しく、草鞋を売り蓆を織って身過ぎとしていた。添県の楼桑村に住んでいたが、家の東南に 桑の大木があって、高さ五丈あまり、遙かに望めば亭々として馬車の傘のようであった。ある相術 師が言ったことがある。 「この家からは、きっと貴人が出られましようぞ」 玄徳は幼時、村の子供たちとその木の下で遊んでいて、 「おれは天子になって、この車に乗ってみせるぞ」 五 ) ろうそう たくろく

3. 三国志演義 1

ワ 1 きだし、劉陶とともに獄に下したもうた。その夜、十常侍は二人を獄中において謀殺し、偽りの詔 ちょうさ おうせい を出して孫堅を長沙の太守とし、区星の討伐に当たらせた。 りゅうぐ ゅう 五十日せずして勝報いたり、江夏は平定された。詔あって孫堅を烏程侯に封じ、劉虞を幽州の牧 だい に封じをまい、張挙・張純の討伐のため兵をひきいて漁陽へ向かわしめられた。代州の劉恢は書面 を以て劉虞に玄徳を薦めた。劉虞は大いに喜んで玄徳を都尉に取り立てるとともに兵をひきいて賊 の本拠を衝き、数日にわたる激戦のすえ賊の鋭鋒を挫きさった。張純は陣中で兇暴をきわめたので 賊徒どもに見放され、頭目の一人が張純を刺し殺し、一同をひきい首をささげて降参してきた。張 くび 挙は戦勢の非なるを見て自ら縊れ死に、かくて漁陽は平定された。劉虞が劉備の大功あったことを 、」うどう かみつ 奏上したので、朝廷は督郵を鞭打った罪を赦されて下密県の丞に任ぜられ、のち高堂の県尉に移さ べつぶしば こうそんさん れた。公孫環も上奏文を奉って先の玄徳の功を奏上したので、別部司馬に昇せられ、平原県令に任 ぜられた。玄徳は平原県に着任して以来、兵粮・軍資金・兵馬ともにゆたかになり、ふたたび昔日 の威風をとりもどした。劉虞は賊平定の功により太尉に封ぜられた。 ちゅうへい 中平六年 ( 一八九 ) 夏、霊帝にはご病気が日々につのらせられたので、後事を議するため大将軍 かしん 何進を宮中にお召しになった。この何進は豚殺しより身をおこした男、妹が宮中に召し出されて貴 人 ( 皇后につぐ妃の官名 ) となり、皇子弁をもうけたので皇后に立てられ、彼もそれ以来重用される きよう ちょうあい おうびじん ようになったものである。帝はまた王美人 ( 美人は貴人につぐ妃の官名 ) をご寵愛になり、皇子協を じん ゆる ( 注九 ) と

4. 三国志演義 1

荀彧、 この節は許都に収まったばか 「将軍は武勇に秀でたりとは申せ、謀を用うることをご存じない。 りのこととて、軽率に兵を動かすのは宜しくござらぬ。それがしに一計あって、名づけて『二虎競 食の計』と申す。ただいま劉備徐州を領すとは言え、まだ勅命を受けてはおりませぬ。よって殿に みことのり は詔を請われて劉備に徐州の牧の任を授け、そのおりに密書をあたえて、呂布を手にかけさせる しが宜しいと存じます。この計成らば劉備は頼むべき猛将を失うこととなって、追って倒すこと容易 にとなり、また計成らざる時は、呂布が劉備を殺すことになるは必定。すなわち『二虎競食の計』で 都 許ごギ、る」 じよう せいとう 曹操はこの策をいれて、ただちに詔を請い、勅使を徐州へ差し立てて、劉備を征東将軍宜城亭侯 移 をに封じ、徐州の牧を領せしむるとともに、密書一通を送った。 げんとく 徳さて劉玄徳は徐州にあって、帝が許都に幸されたと聞き、慶賀の上奏文を奉ろうとしていたおり ちよくじよう 曹しも、にわかに勅使下向との知らせがあったので、城外に出迎えた。ご勅諚を拝受して、勅使の 回ために宴席を設けて接待したが、席上、勅使から、 第「足下がこのたびのご恩命を拝したは、実に曹将軍のご推輓によるものですぞ」 と言われて玄徳が謝辞を述べると、勅使は密書を取り出して玄徳に渡した。玄徳それを読んで、 ワ」 「これはよくよく考えさせて下されい」 はかり′」と みゆき すいばん

5. 三国志演義 1

太史慈が劉緜に随って軍を退けば、孫策も追わずに軍勢をととのえた。そのとき長史張昭から、 「敵は周瑜殿に曲阿を取られ、戦意を失っております。今宵こそ夜討ちの好機と存じます」 と言われてげにもとうなずき、軍勢を五手に分けて一挙に突き進んだ。ために劉緜の軍勢はさん ざんに討ち崩され、四方八方に逃げ散った。太史慈は単騎踏み止まって戦ったがカ及ばず、十数騎 を随えて夜のうちに涇県へ落ちて行った。 さて孫策はまた新たに陳武を得たが、この人、身の丈七尺、顔は黄色く眼赤く、容貌怪異。孫策 ははなはだ彼を敬愛して校尉に取り立て、先鋒を命じて薛礼にかからせた。陳武は十数騎をひきい しるし て敵陣に突きいり、首級五十余をあげたが、薛礼は門を閉ざして出ようとしない。孫策が一挙に敵 城を押しつぶそうとしたとき、劉緜が融と合流して牛渚を奪ったという思いがけぬ知らせがあり、 激怒した孫策はみずから大軍をひきいて牛渚に押し寄せた。劉緜・融の両名が馬を乗り出してこ れを迎えれば、孫策が、 「こりや、わしが参ったに、なぜ早々に降参せぬか」 うび と叫ぶところ、劉緜の背後から一人の荒武者が槍をしごいて躍り出る。これぞ部将の于糜である。 孫策は三合せずしてこれを生け捕り、馬首をかえして帰陣した。劉緜の部将樊能は于糜の捕えられ たのを見るや槍をかまえて追いすがり、その穂先あわや孫策の背中を突き通すかと見えたとき、孫 策の陣中の兵士が、 「殿、うしろから狙われておりますぞ」 はんのう

6. 三国志演義 1

一九五 四夏、陶謙、徐州の牧となる。秋、曹操、陶謙を攻めて十余城を抜き、領民 一〇万を殺す。 一九四興平一二月、曹操ふたたび徐州を攻撃。陶謙、青州刺史田楷、平原の相劉備 ( 三 三 ) に救援を乞う。劉備、予州の牧となって小沛に駐屯。呂布、張遞に迎 えられて州の牧となる。八月、曹操、濮陽において呂布に苦戦。陶謙 ( 六三 ) 没、劉備、徐州の牧となる。孫策、江東に帰り、周瑜 ( 二〇 ) を幕 下に加う。 一一曹操、定陶で呂布を破る。三月、李催・郭汜、長安を騒がす。夏、呂布、 鉅野で曹操に大敗、劉備を頼る。七月、献帝、洛陽へ向かう。一〇月、曹 操、竟州の牧となる。 一九六建安一七月、献帝、洛陽にはいる。曹操 ( 三六 ) 入京して録尚書事となる。九月、 曹操、献帝を許昌に移す。一〇月、劉備、下郵で呂布に敗れ、曹操を頼 る。孫権 ( 一五 ) 呉郡陽羨の県長となる。 一九七 一一一月、曹操、張繍に大敗。春、袁術、淮南で成を建国。

7. 三国志演義 1

と鎧をつけ槍を引っさげて馬に乗り、程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰ら都合十三騎をしたがえて 陣を出、山に登って廟に参詣した。馬を下りて参詣を済ますと、孫策は廟前にぬかずいて祈った。 「もし孫策が江東において大業を立て、亡き父の志を継ぐことがかないましたら、ただちに廟宇を 建てなおして、祭祀をたやさぬでありましよう」 祈願してから廟を立ちいで、馬にまたがると諸将に向かって、 「わしは峠を越して劉緜の陣備えをさぐって来ようと思う」 と言った。一同が思い留まるよう言ったが、孫策は聞き入れす、皆とともに峠に出て南方の村や 林を眺めた。 この知らせが早くも物見の兵から劉緜にもたらされた。 「これは孫策の誘いの手じゃ、追うな」 と劉緜が言ったが、太史慈は、 「いま孫策を捕えなければ、二度と機会はない」 とこおどりし、劉緜の命も待たずに鎧をつけて馬に飛び乗り、槍をにぎって陣を出るや、 「度胸のある者はついて来い」 と叫んだが、一人として動かない。ただ一人、身分の低い部将が、 「太史慈殿こそまことの勇士。それがしご加勢いたす」 と馬を躍らせて随ったが、諸将はどっとあざ笑った。

8. 三国志演義 1

ぬいて死を待っ要はござりませぬ。それがし非才ながら一手の軍勢を拝領して討っていで、一戦っ 1 かきつりましょ , つ」 劉表これを許し、蔡瑁は一万余の軍勢をひきいて襄陽城外の蜆山に布陣した。孫堅が勝ちに乗っ た軍勢をひきいて長駆進撃して来ると、蔡瑁が馬を乗り出した。 「あれは劉表の後妻の兄なるそ、誰か生捕りにして参れ」 てっせき 孫堅の声に、程普が鉄脊の矛をしごいて馬を乗り出し、蔡瑁と切先を交えたが、数合せすして蔡 瑁は敗走した。孫堅が大軍をもって駆け散らせば、敵兵の死体、野にみち、蔡瑁は襄陽城に逃げこ んだ。剛良が、蔡瑁は良策を聞き入れすに惨敗したのだから軍律に照らし斬首にせよと言ったが、 劉表は彼の妹を娶ったばかりなので処刑しようとしなかった。 さて孫堅は軍勢を四方に分け、襄陽を取り囲んで攻めたてた。ある日、狂風にわかに吹きおこっ て、本陣の『帥』の字の旗竿を吹き折った。韓当が、 「これは不吉の 丿。いったん兵を引き揚げるがよろしいと存じます」 と言ったが、孫堅は、 たんせき 「わしはこれまで連戦連勝、襄陽を取るも旦タに迫っておるではないか。旗竿が風に折れたはどの ことで、あわてて兵を退く法などないわ」 と、 しっそう力攻めにでた。 一方、城中では刷良が劉表に言った。 めと

9. 三国志演義 1

228 注一劉皇叔劉備は前漢景帝 ( 紀元前一五六ー一四一 ) の末孫と称えており、系図によれば時の献帝の 叔父にあたっているのでこう呼ばれた。第二十回に詳しい 一一掎角の勢掎角とは鹿を生捕りにする時に足と角を同時に捉える方法で、これより転じて、軍を左 右に展開して相呼応しながら攻撃する戦術のことをいう。

10. 三国志演義 1

備に徐州を譲る。 とうたく ちゅうえい 董卓 ( 一三九ー一九一 l) 字は仲穎。残忍好色な ろうせい 隴西の豪族。強大な武力を背景に献帝を擁立 し、専横をきわめる。 ばとう じゅせい ばえん 馬騰 ( ? ) 字は寿成。漢の伏波将軍馬援の末孫。 巨躯強力の隴西の豪族。 ばちょう もうき 馬超 ( 一七六ー二二一 l) 字は孟起。馬騰の長子。 劉備父子に仕えた蜀の五虎将の一人。 りかく 李 ( ? ー一九七 ) 董卓の部将。董卓没後、郭 汜と共に長安に乱入、一時天下をとる。 りゅうきよう 劉協 ( 一八 ー二三四 ) 後漢第九代の献帝。 りゅうび げんとく ちゅうぎん 物劉備 ( 一六一 ー二二三 ) 字は玄徳。漢の中山の 場靖王の末孫。黄巾の乱に際して関羽、張飛と 登 共に挙兵。 主 りゅうひょう ナいしようナい 巻劉表 ( ? ー二〇八 ) 字は景升。荊州の牧。 ほうせん ・本・ - りよふ 呂布 ( ? ー一九八 ) 字は奉先。董卓の義子。後 漢末随一の武勇をうたわれながら、転変常な ふくは き性格のため天下の嫌われ者となる。 * 印は正史に記載なく演義』によった。