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検索対象: 三国志演義 1
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1. 三国志演義 1

りよふしと 要うきようのぞ 兇を除いて呂布司徒を助け りかくかく 第九回ちょうあんおか 長安を犯して李催賈訒に聴く ばとう っと 王室に勤めんとして馬騰義兵を挙げ そうそうぐん あだ 第十回 父の讐を報ぜんとして曹操師を興す - 」うゆう りゆ、つ・ ) う・しゅ・くほくかい 劉皇叔北海に孔融を救い ロりよおんこうぼくようそうそう 第十一口 呂温侯濮陽に曹操を破る とうきようそ 陶恭祖三たび徐州を譲り りよふ 第十一一回そうもうとく 曹孟徳大いに呂布と戦う りかくかくし 李催・郭汜大いに兵を交え せいが 第十三回ようほうとうしようふたり 楊奉・董承双して聖駕を救う きよとみゆき そうもうとく 曹孟徳駕を移して許都に幸し 第十四回りよほうせん 呂奉先夜に乗じて徐郡を襲う たいしじさかんしようはおう 太史慈酣に小霸王と闘い げんはく一一 ロゼんはくふ 第十五ロ 孫伯符大いに厳白虎と戦う 解説立間祥介 登場人物表 ( 5 ) 後漢末地図 ( 8 ) 略年表 ( 朧 ) 191 206 229 245 269 295 321

2. 三国志演義 1

とうえんうたげ 桃園に宴して三豪傑義を結び ロこうきん 第一口 黄巾を斬って英雄始めて功を立っ ちょうよくとく とくゆう 張翼徳怒って督郵を鞭うち か一冫、、ゆうはか かんがん 第二回 何国舅謀って宦官を誅す おんめい とうたくていげんしつ 温明殿に議して董卓丁原を叱し と りしゆくりよふ 第三回 金珠を贈って李粛呂布を説く ちんりゅう 漢帝を廃して陳留位に即き 第四回【」う 董賊を謀らんとして孟徳刀を献す いつわりみことのり そう 矯の詔発せられて諸鎮曹公に応じ りよふ 第五回 関兵を破って三英雄呂布と戦う とうたくきよう きんけつや 金闕を焚いて董卓兇を行ない ロぎよくじ そんけん 第六ロ 玉璽を匿して孫堅約に背く えんしようばんがこうそん 袁紹盤河に公孫と戦い ロそんけんこう りゅうひょう 第七ロ 孫堅江を越えて劉表を撃っ おうしと れんかんけい 王司徒巧みに連環の計を使い ロとうたいし 第八ロ 董太師大いに鳳儀亭を鬧がす 目次 さわ っ 116 132 149 っ 0

3. 三国志演義 1

曹操の陣へ赴き、わが身と引替えに、徐州一郡の領民の命を救おうと思う」 その言終わらぬうち一人が進み出た。 「殿。殿は久しく徐州をおさめたもうて、領民みな殿のご恩に感じておりまする。いま曹操がいか に大軍であろうと、にわかに城を破ることはできませぬ。しばらく領民とともに固く守って出陣を お控え下され。それがし非才ながら、いささか計をほどこして、曹操を死すとも葬る場所もなきょ げうな目にあわせてくれましようぞ」 を人々は大いに驚いて、その計如何と尋ねる。正に、付き合いを求めて反って仇となり、道きわま 義ってまた活路開く、というところ。さてこの人は誰か。それは次回で。 馬 て し と ん め 室 王 回 十 第 注一節・鉞「節」については第四回注一参照。「鉞」はまさかり、昔、天子から征討の大将軍へ賜わっ たもの。この二つを賜わったことは、軍事を委任されたことをあらわす。 二張子房漢の高祖の天下統一をたすけた車師の張良のこと。 三行軍司馬司馬については、第二回注四参照。行軍司馬は唐以降に設けられたもので、出征将帥お よび節度使の下に置かれた。 ちゅう 四悪来殷の紂王 ( 紀元前十二世紀 ) の家臣。強力で知られる。 あだ

4. 三国志演義 1

しゅうせいけん 登場し、周静軒の詩が挿入される。この刊本の流れを引くもの 本』第八十七回に出るーーが に、『李卓吾先生批評三国志』がある。これは普通『李卓吾本』といわれ、前者の二節を合わ せて一回とした百二十回本である。 よしようと 一一『音釈補遺按鑑演義全像批評三国志伝』ーーー万暦一一十年 ( 一五九一 l) 、建安の余象斗刊本。一一十 巻、二百四十節。内容は周日校刊本に同じ。周静軒詩は前者より多い。 じゅんじ もうそう - 一う しゅうぞう 三『第一才子書繍像三国志演義』ー - ーー十九巻百一一十回本。いわゆる『毛宗崗本』。本書には順冶 きんせいたん 元年 ( 一六四四 ) の金聖嘆の序文があり、巻頭には「聖嘆外書」として金聖嘆の批評本のごと もうりん びわき く見せかけてあるが偽作である。本書は『琵琶記』の評者毛綸 ( 字は声山 ) が『李卓吾本』 ' よって改訂をほどこし、子の毛宗崗 ( 字は序始 ) の名で刊行したもの。この改訂は康熙十八年 ( 一六七九 ) ごろに完成したといわれる ( 周汝昌。作家出版社版『三国演義』前一言 ) 。 もうせいざん 彼まこの改訂にあたって、あらた この毛声山による改訂によって、『演義』は面目を一新した。 , 。 めて正史によって『嘉靖本』の誤りをただしたほか、周静軒の詩を削除して、唐・宋の詩人の作を 。また各回の題を対 挿入した。しかし、『嘉靖本』の内容そのものにはほとんど手を加えていない 句とし、『李卓吾本』で機械的につながれたのみだった二節のつながりを調整して自然なものにし 説 いわば、この改訂によって、『嘉靖本』は新しい生命をふきこまれ、生まれかわったわけである。 以来、この『毛宗崗本』が一般に行なわれるようになり、こんにちにいたっている。なお、この

5. 三国志演義 1

しれい と奏上すれば、帝は曹操を司隷校尉 ( 第二回注一 (l) に任ぜられて節と鉞 ( 第十回注一 ) を賜い 4- ろくしようしよじ 録尚書事 ( 第二回注一四 ) を兼ねしめられた。 さて李催・郭汜は曹操が遠路上京した旨を知って、遠来の疲れの休まらぬうちに戦いを決しよう と話し合った。 賈訒がこれを諫めて、 「それはなりますまい。曹操の兵はすぐれ部将は勇猛でありますから、むしろ降参して、これまで し の罪を免れるに如くはございません」 というと、李催が怒って、 「貴様はわたしの出鼻を挫く気か」 と剣を引き抜き、賈訒を斬って棄てようとしたので、諸将がようよう取り静めた。その夜、賈訒 は単騎故郷に落ちのびた。 そうじん 次の日、李催の軍馬が押し出せば、曹操はまず許褶・曹仁・典韋に屈強の騎兵三百を差し添えて、 りせんりべっ 李催の陣を三度駆け散らさせたうえ陣を布いた。双方の陣取りが定まるや、李催の甥、李暹・李別 が陣頭に乗り出したが、名乗りもあげぬうち許褶が馬を躍らせて打ちかかり、一刀の下に李暹を斬 り棄てた。李別が驚いて落馬するところを、これまた斬り殺し、二つの首を引きずって引き揚げた。 曹操は許褶の背中を撫でながら、 はんかい ( 注一一 ) 「そなたはまことわが樊喰じゃ」 し せつえっ たま

6. 三国志演義 1

挙 を 兵 ちょうせい はんちゅう 義 さて逆賊李・郭の二人は献帝を弑しようとしたが、張済・樊稠がこれを諫め、 騰 馬「それはよくない。今日、この場で殺したりすれば、ほかの連中が黙ってはおるま、 し。これまでど . おび しおり天子に祭り上げておいて、諸侯を関内に誘きよせ、彼らを片づけて手足をもいでおいてから始 ん末すれば、天下もわれらのものになるというものではないか」 勤李・郭はこれに従って、武器を収めた。 室帝が楼上より、 おういん 「王允を誅したるに、何故軍勢を退かぬのか」 回 十 と仰せられると、李・郭が言った。 第 引「臣らは王室のために功を立てましたるに、まだ何のご沙汰もいただきませぬ故、かくはお待ちい たしているのでござる」 第十回 ・はとう 王室に勤めんとして馬騰義兵を挙げ あだ そうそうぐん 父の讐を報ぜんとして曹操師を興す っと

7. 三国志演義 1

そうそうていとう りよふ 交さて「興平二年 ( 一九五 ) 夏四月〕曹操は定陶で呂布をさんざんに打ち破り、呂布は海辺まで逃 兵れて敗残の兵をまとめたが、そのうち諸将も集まって来たので、再び曹操と雌雄を決せんとした。 ちんきゅう しかし、陳宮の言うのに、 大 汜「いまは曹操の軍勢多く、戦うべき時にはござらぬ。まず落ち着く先を定めてからにしても遅くは 、りますまい」 えんしよう 李「わしはもう一度袁紹のところへ身を寄せようと思っているのだが、・ とうであろう」 回「ひとます冀州へ人を出して様子をさぐらせてからがよろしかろうと存じます」 第呂布はこれに従った。 さて袁紹は冀州にあって、曹操が呂布と事を構える由を聞き知ったが、幕僚の審配が進み出て、 「呂布は虎か豺のような者。もし ~ 兌州を手に入れなば、必ずや冀州を狙うでありましよう。むし 李催・郭汜大いに兵を交え せいが 第十三回ようほうとうしようふたり 楊奉・董承双して聖駕を救う や ま えん

8. 三国志演義 1

あねうえ 「嫂上はご無事か」 張飛、 「城内で捕われてしもうた」 玄徳は一言も発しない 関公、地団駄ふんで、 「お前は留守をしたいと言ったとき、何と言った。兄者が何と言われたか。今日、城を取られた上、 し 嫂上まで敵の手に渡して、よくおめおめとやって来られたものだな」 幸 張飛これを聞くや、大いに恥じいり、やにわに剣をとって己が首を刎ねようとする。正に、存分 許飲んだはよいけれど、後悔先に立たずとか、というところ。さて張飛の命はどうなるか。それは次 し 回で。 移 を 駕 徳 孟 曹 回 四 十 第 注一「血芒陽に」云々「芒陽」江蘇省北部にある芒・陽という二つの山の名。若い頃ここに亡命してい た漢の高祖が白蛇を斬ったと伝えられる。「赤幟」漢の旗じるし。「秦鹿」秦王室。「楚騅」楚の項羽。 騅は項羽の乗馬の名。 二樊喰漢の高祖の勇将。 いくたびか高祖の危機を救った。 三五霸春秋の時、周王室を擁して天下に号令した、斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公、楚

9. 三国志演義 1

そうそう か一」うとん 曹操があわてて馬を飛ばすおりしも、真南より一隊の人馬が到着した。これそ夏侯惇が同勢をひ をきいて救援に駆けつけたもので、呂布の前に立ちはだかって奮戦した。暮れ方にいたって天を覆え てんい りようぐんと 餘すような豪雨となったので、互いに軍を退けた。曹操は陣屋にもどって厚く典韋を賞し、領軍都 尉に昇せた。 ちんきゅう 祖 さて呂布は陣屋に引き取って陳宮と策を練ったが、陳宮の言うのに、 恭 ばくよう 陶「濮陽の城内に田と申す金持がおり、家の者千人あまりという当郡きっての豪家でありますが、彼 りよおんこう 回に命じて曹操の陣屋へ密使を送らせ、『呂温侯は残虐無道のため、人民どもは大いに恨んでいる。 こうじゅん れいよう 第いま彼は高順に城をまかせて兵を黎陽に移そうとしているから、夜陰にまぎれて兵を進めよ。さ 四らば自分が内応する』という密書を届けさせましよう。もし彼が来たら、城内に誘いこんでおいて 四方の門に火を掛け、門外に伏勢しておくのです。かくすれば、たとえ曹操に天地を思うままにす とうきようそ 陶恭祖三たび徐州を譲り りよふ 第十二回そうもうとく 曹孟徳大いに呂布と戦う りよふ くつが

10. 三国志演義 1

228 注一劉皇叔劉備は前漢景帝 ( 紀元前一五六ー一四一 ) の末孫と称えており、系図によれば時の献帝の 叔父にあたっているのでこう呼ばれた。第二十回に詳しい 一一掎角の勢掎角とは鹿を生捕りにする時に足と角を同時に捉える方法で、これより転じて、軍を左 右に展開して相呼応しながら攻撃する戦術のことをいう。