もうとく しよう そう そうすう か - 一う 誰郡の人、姓は曹、名は操、字孟徳その人である。曹操の父曹嵩は夏侯家の出であったが、中常 きちり そうとう あまん 2 侍曹騰の養子となって曹家の姓を名乗るようになったもので、曹操は幼名を阿瞞、また吉利ともい った。幼時より狩猟、歌舞音曲を好み、権謀術策にたけて、機智に富んでいた。曹操の叔父がその ゅうと、つ 度はずれな遊蕩ぶりを怒って曹嵩に忠告したため、曹嵩が曹操を叱責したことがある。すると曹操 はたちまち一計を案じ、叔父が家に来たときに、卒中のまねをして床に倒れた。驚いた叔父の知ら せに、曹嵩があわてて様子を見に行くと、彼は何事もなかったような顔をしている。 「お前が卒中と叔父御より聞いたが、もうよいのか」 「わたくしには左様な病はございませぬ。叔父上はわたくしを憎んでおいでになるので、ありもせ ぬことをいわれたのではありませんか」 曹嵩はこの言葉を信じ、以来、叔父が彼の目にあまる振舞いを注意してもいっこうに聞き入れな ふけ かった。そのため曹操はますます放蕩に耽った。 きようげん その頃、橋玄という人が彼に言ったことがある。 みだ 「世の紊れん日も近い。一世の賢者でなければ、これを治めることかなうまい。それが出来るのは、 あるいは貴公かも知れぬ」 なんようかぎよう また南陽の何顯も、彼を見て言った。 「漢の皇室は滅亡の寸前にある。天下を安んずる人は、必ずやこの人であろう」 じレはんきよしよう 汝南の許劭はよく人物を見ることで知られていたが、曹操はわざわざ彼を訪ねて行ってきいて そう
曹操は指さして、 「先を栗毛に乗って行くのがそうでございます」 呂布はそう聞くなり曹操を打ち棄てて追いかけた。曹操は馬首をめぐらせて東門目指して走ると ころを、典韋に行き会った。典韋が曹操を守って血路を斬り開き、城門のあたりまで来れば、火炎 ひときわ激しく、矢倉から投げ下す柴や草に一面火の海。典韋が戟でこれをかきわけ、馬を飛ばせ 火煙を冒してまず駆け抜ければ、曹操も後を追って出る。ようやく門の下まで来た時、燃えさかる 、つつ・はり 梁が焼け落ちて曹操の乗馬の尻に当たったため、馬はどうと倒れた。曹操は梁を地面へかかえ下 屮したが、腕から鬚、髪の毛まで、のこらす焼けただれた。典韋が馬を返して助けるところ、おりよ く夏侯淵が駆けつけ、力を合わせて曹操を火中より救い出した。曹操は夏侯淵の馬に乗り、典韋は 餘血路を斬り開いて前を走る。かくて混戦は夜の引き明けまで続き、曹操はようやく陣屋にもどった。 諸将が前に拝伏すれば、曹操はからからと笑って、 ひつぶ 祖「匹夫の計にかかるとは業腹な。この恨みは必ずはらしてやるぞ」 陶「ではただちに手を打たれますよう」 カくカ 回 と郭嘉が言えば、 やけど 第「敵の計の裏をかいてやるのじゃ。わしが火傷して死んだと言いふらせば、きやつは必ず兵をひき ばりよう 3 いて寄せてくるだろう。わしは馬陵山中に兵を伏せておいて、きやつらが半ば通ったところを一挙 に叩いてやる。さらば、呂布を手捕りにできようぞ」
一九五 四夏、陶謙、徐州の牧となる。秋、曹操、陶謙を攻めて十余城を抜き、領民 一〇万を殺す。 一九四興平一二月、曹操ふたたび徐州を攻撃。陶謙、青州刺史田楷、平原の相劉備 ( 三 三 ) に救援を乞う。劉備、予州の牧となって小沛に駐屯。呂布、張遞に迎 えられて州の牧となる。八月、曹操、濮陽において呂布に苦戦。陶謙 ( 六三 ) 没、劉備、徐州の牧となる。孫策、江東に帰り、周瑜 ( 二〇 ) を幕 下に加う。 一一曹操、定陶で呂布を破る。三月、李催・郭汜、長安を騒がす。夏、呂布、 鉅野で曹操に大敗、劉備を頼る。七月、献帝、洛陽へ向かう。一〇月、曹 操、竟州の牧となる。 一九六建安一七月、献帝、洛陽にはいる。曹操 ( 三六 ) 入京して録尚書事となる。九月、 曹操、献帝を許昌に移す。一〇月、劉備、下郵で呂布に敗れ、曹操を頼 る。孫権 ( 一五 ) 呉郡陽羨の県長となる。 一九七 一一一月、曹操、張繍に大敗。春、袁術、淮南で成を建国。
「曹操は妻子を都においておらす、一人でかり住まいをしております。ただちに人をやって呼び寄 せ、何事もなく参るようでしたら、刀を献じたのでありましよう。もし言を左右にして参らぬよう なら、必ずや殿のお命を狙ったに違いなく、引っ捕えて訊問いたさねばなりませぬ」 董卓はいかにもと、ただちに獄卒四人を曹操のもとへ差し向けた。しばらくして帰って来ての報 「曹操は住居に帰らず、東門より乗馬にて逃げ去ってござります。門衛がとがめたところ、『丞相 より申しつかった緊急の用事』と申し、馬を駆って立ち去った由」 李儒、 「曹操めおじけづいて逃げたのなら、お命を狙ったこと間違いござりませぬ」 董卓大いに怒り、 「わしがあれほど目をかけてやったのに、よくも裏切りおったな」 「これは彼一人の考えではござりますまい。曹操を捕えますれば分かりましよう」 かくして董卓は各地へ人相書と文書を発して曹操の逮捕を命じ、生捕りにした者は賞金千金、万 戸の侯に封じ、かくまった者は同罪とすると触れた。 さて曹操は城外に逃れ、誰郡めざして馬を飛ばせた。途中、中牟県の関所で捕えられ、県令の 前に引き出された。曹操は言った。 しよう ちゅうばう
馬に鞭くれ斬りぬけて逃げようとするところを徐栄とぶつかり、身をひるがえして逃げれば、徐栄 矢をつがえて、曹操の肩先を射ったが、曹操は矢を突き立てたまま辛くも逃れて、山の裾をまわっ く ~ むら た。と、叢にかくれた二人の兵士が曹操の馬をねらって一斉に槍を突き出したので、馬はどうと 倒れ、ころげ落ちたところを捕えられた。その時、一人の大将が馬を飛ばせて来るなり二人を斬り そう - 」う 殺し、馬を下りて曹操を助けおこした。見れば曹洪である。 「わしはここで死ぬ。そなたは早く行け」 「早く馬をお召しなされませ。それがしお伴っかまつります」 「賊が追って参ったら、どうするのか」 行 兇「天下にそれがしなくとも、殿なくばかないませぬ」 卓「わしが生きのびることあらば、みなそなたがカ、忘れぬぞ」 じんばおりよろい て曹操は馬に乗り曹洪は戦袍・鎧を脱ぎすて、薙刀をひきすって馬のあとに随った。四更をまわっ 焚たと思われるころ、大きな川が退路の前面に横たわり、うしろからは喊声が次第に近づいて来る。 闕「わしの命もこれまでじゃ。もはや生きる道はない」 たす 曹操が言うとき、曹洪は急いで曹操を馬から扶け下ろし、戦袍と鎧を脱がせて背に負うや、川の 回 ル中にはいって行った。ようやく向う岸についたとき、追手の兵も追いついて来て、対岸から矢を射 かけて来たが、二人はずぶ濡れのまま逃げた。夜の明けるころまでに三十里あまり来て、岡の麓で 息を入れるところへどっと喊声がおこり、一群の人馬が迫ってきた。徐栄が上流を渡って追って来 なぎなた
とうたく 「いまや漢皇室には主もなく、董卓が権力をほしいままにして、君を欺き民を害し、天下の者あげ て無念の牙を噛みしめております。それがし国のために力をいたそうとの志ありながら、カの足ら ぬのを口惜しく感じている者にござるが、お手前が忠義の士と承知して、ご援助のほどをお願いし たしたく存じます」 「いやいや、手前もかねがねその心はありましたが、これまで英雄にあえぬのを残念に思っていた 次第。貴公の大志を知った上は、家産をかたむけてもおカ添えいたしましよう」 みことのり 曹操は大いに喜んで、まず為りの詔を発して各地へ使者を立て、その上で義兵を募った。そし いちりゅう て義兵募集の白旗を一旒しつらえ、『忠義』の二字を大書すれば、二、三日のあいだに、勇士たち が降る雨の如く馳せ集まって来た。 しんあざなぶんけん ようへい さんよう ある日、陽平郡衛国の人、姓は楽、名は進、字文謙が、曹操のもとに投じて来た。また、山陽 まんせい 郡鉅鹿県の人、姓は李、名は典、字を曼成という者も投じて来た。曹操はこの二人を本陣付の役人 しよう か一一うとん げんじよう か一一うえい とした。また、沛国誰県の人、夏侯惇、字は元譲もやって来た。夏侯嬰 ( 漢の高祖の重臣 ) の末孫 たるこの人は、幼少より槍術・棒術を学び、十四歳の時、師について武術を学んでいたが、ある者 はずか が師を罵り辱しめたのでその男を殺し、各地を浪々していたところ、曹操が兵をおこすと聞いて、 かこうえん 従弟の夏侯淵とともにそれそれ壮丁千人をひきいて加わって来たものである。この二人は、もとも そうすう か、つ と曹操の従兄弟にあたっている。すなわち曹操の父曹嵩はもと夏侯家の出で、曹家へ養子にはいっ そうじんそうこう たものであるから、本来同族なのである。日ならずして、曹氏の従兄弟、曹仁・曹洪がそれそれ千 きよろく てん がく
卓は肥満しているため長く坐っていられず、横になって壁の方を向いた。曹操はかさねて、 「賊め死に時だ」 せつな と宝刀を抜きはなった。あわや刺さんとした刹那、何気なく鏡に眼をやった董卓は、曹操が背中 で刀を抜いたのを見たので、はっと体をもどし、 「孟徳、なにをするか」 この時、呂布が馬をひいてやってきた。曹操はあわてて刀を持ちかえて跪き、 「それがし宝刀を所持いたしおりましたので、献上いたさんものと思ったのでございます」 董卓が受け取ってみれば、言にたがわすその刀長さ一尺あまり、七宝を嵌めたわざものであった ので、呂布に渡して収めさせた。曹操は鞘もはずして呂布に渡した。董卓が曹操を連れて庭に下り 位 留立ち馬を見せると、曹操は礼を述べてから言った。 「早速、試させていただきとう存じまするが」 て 廃董卓は鞍と手綱をおかせる。曹操は馬をひいて館を出るや、一鞭くれて東南の方へ走りさった。 帝呂布が、 漢 「さきほど曹操は殿を刺そうといたしたように見受けましたが、見破られたので刀を献じたのでは 回 四、いませぬか」 「うむ、わしもおかしく思っていたのだ」 そこへ李儒が来たので、董卓がその事を話すと、李儒は、
人民を安んじ、賢人豪族を用うることをしばしば勧めたので、朝廷もこれよりようやく僅かながら 生気を取りもどした。ところが、青州の黄巾の賊がまたもや事をおこし、宗徒数十万が、てんでに しゅしゅん 頭目を立てて、良民をおびやかした。時に太僕朱儁が、賊徒を打ち破ることのできる者として一 人の者を推挙した。李催・郭汜が誰かと尋ねると、 そうもうとく 「山東の賊を片づけるなら、曹孟徳を使うべきです」 げ「孟徳はいまどこにおる」 を「昨今は東郡の太守として大いに兵を養っております。もし彼に賊徒の平定をお命じあらば、われ 義らが思いのままに打ち破ることができるでごギ、いましよう」 みことのり ほうしん 馬李催は大いに喜び、ただちに詔を起草して使者を東郡へ差し立て、曹操に済北の相鮑信ととも じゅよう て し に賊を平定するよう命じた。曹操は聖旨を拝受して鮑信と兵を合わせ、ともに軍をおこして寿陽に ん押し寄せた。鮑信は賊中深く斬りこんで重囲におち、賊に殺された。曹操は賊どもを追い散らして め 勤済北まで揉み立てたので、投降してくる者数万にのばった。曹操はそこで投降した賊を先鋒に使っ 室たので、曹軍のいたるところ、降参せぬ者はなかった。かくて百日たらずで、降参した賊三十万あ まり、男女百余万が配下にはいった。曹操はその精鋭をすぐって『青州兵』と呼ばせ、他はことご 回 十 とく帰農させた。これより曹操の勇名日ごとに轟き、〔四方の名士が続々彼のもとに馳せ参じた。 第 ちんとう 初平三年 (ー九 (l) 冬十二月のことである。〕勝報長安にいたるや、朝廷は曹操を鎮東将軍に任じた。 えん えいせん 曹操は竟州にあって賢士を集めていたが、叔父甥二人の者が曹操のもとに身を寄せて来た。潁川 とう
ず八方へ逃げ散り、曹操は砦を奪い取った。四更に至って、高順がようやく軍をひきいて到着し、 まさに攻め入ろうとした時、曹操自ら軍勢をひきいて討っていで、真向から高順と出合って両軍入 り乱れての戦いとなった。夜も引き明ける頃おい、真西の方に太鼓の音轟き、呂布が自ら援軍をひ きいて到着したとの知らせがあったので、曹操が砦を棄てて逃げれば、背後からは高順・魏続・侯 成が追いすがり、正面から呂布自ら軍勢をひきいて現われる。于禁・楽進の二将が呂布に立ち向か たがかなおうはすなく、曹操は北を目指して逃げた。ところへ山かげから一隊の軍勢がどっと討 って出る。これは左は張遼・右は臧霸。曹操は呂虔・曹洪に命じてこれを防がせたが効なく、さら とき に西を望んで馬を飛ばす。と、またもたちまち天を震わす鬨の声が湧きおこって一隊の人馬現われ、 都萌・曹性・成廉・宋憲の四将が退路にたちはだかった。曹操の諸将が必死に戦ううちに、曹操は まっ先に囲みを破って駆けぬけようとしたが、拍子木の音とともに矢が雨のように飛びきたって進 むことも退くこともできなくなり、 「誰かある、救けてくれい」 と大音に叫べば、騎馬の隊から一人の大将が躍り出た。これそ典韋。手に二本の鉄の戟をひっさ ご案じあるな」 しゆりけん と一声、ひらりと地面に下り立ち、戟を鞍に掛けると、短戟 ( 短い槍。わが国の手裡剣に相当 ) 十数 本を握り、 たんげき
の鉄の戟二本を両手にして馬に乗り、目もとまらぬ如く使うことができます」 曹操は典韋にそれを披露せよと命じた。典韋は戟を両の小脇にかいこんで馬を飛ばし、縦横に馳 せまわった。この時、にわかに吹きおこった烈しい風に本陣の大旗が今にも倒れそうになり、兵士 どもが支えようとしてもかないそうもないありさまに、典韋は馬を下りて兵士どもを退けると、片 手で旗竿をしつかりとっかんで風の中に仁王立ちとなり、小ゆるぎもしなかった。 曹操は、 いにしえあくらい ( 注四 ) 「これそ古の悪来の再来じゃ」 ひたたれ と言って、その場で本陣づきの都尉に取り立て、着ていた錦の直垂と、彫刻した鞍をおいた駿馬 一頭を引出物としてあたえた。 これより曹操は配下に文には謀臣、武には猛将を揃えて、山東を威圧するにいたったので、泰山 そうすう ろうや おうしよう の太守応劭をつかわして、琅郡へ父の曹嵩を迎えることにした。曹嵩は陳留から避難してこの琅 そうとく に隠棲していたものであるが、当日、迎えの手紙を受け取ったので、操の弟曹徳および一家の老 幼四十余人とともに従者百人あまりを連れ、車百輛あまりを連らねて州へと出発した。やがて徐 きようそ と、つけん 州にさしかかる。太守 ( 正しくは牧 ) 陶謙、字恭祖は温厚篤実な人であったが、かねてより曹操に 誼みを通じようとしていたものの適当な理由もなくしていたところであったので、曹操の父親が通 ていちょう 過するというのを聞くと州の境まで出迎え、鄭重な挨拶をしたうえ盛大な宴席を設けて二日間も ちょうがい てなした。曹嵩が出発するというとき、陶謙は自ら城外まで見送り、特に都尉張闔に命じ兵五百