陳宮 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 1
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1. 三国志演義 1

ちんりゅう まは陳留へ難を避けておられる。よくここまで来ることが出来たのう」 と伯奢にいわれて、曹操はこれまでのことを告げ、 「陳県令に出会わなかったら、いまごろは五体ばらばらになっていたことでしよう」 伯奢は陳宮に頭を下げて、 「この甥が、もし貴殿にお会いせねば、曹家の一族は死に絶えていたでござろう。あばら家ではご ざるが、今宵はごゆるりとお休み下されい」 と立って奥へはい ? た。しばらくして出てきて陳宮に、 「拙宅には良い酒もござらぬゆえ、西の村まで行って購めて参ります」 と一言うと、急いで驢馬に乗って出て行った。 位 留曹操は陳宮とそのまましばらく待っていたが、にわかに屋敷の裏手で刀を磨ぐ音が起こった。 「呂伯奢とて、血のつながった縁者ではなし、出て行くというのも解せぬことだ。ひとっ様子をう て 廃かがって見よ , つ」 帝曹操が陳宮とともに足音を殺して裏手に廻ると、 「ふん縛って殺したらよかろうー一 と言う声。 第 「思った通りだ。先手を打たねば、危いそ」 言うなり、二人は剣をひき抜いて躍り出し、男女の見さかいなく、居合わせた八人を皆殺しにし もと

2. 三国志演義 1

244 逃げれば、これに随う部将成廉は楽進の放った矢に射殺され、呂布は同勢の三分の二を失った。敗 卒が逃げ帰って陳宮に知らせると、陳宮は、 「軍勢がなくては城も守りきれぬ。急ぎ落ちょう」 と、高順とともに呂布の家族を守って定陶から落ちのびた。曹操は余勢を駆って、破竹の勢いで えんじゅっ 城内へ殺到し、張超は自尽し、張遞は袁術のもとを頼って落ちて行った。かくて山東一帯は、こ とごとく曹操の手に帰し、曹操が人民を慰撫して城壁を修築したことはさておく。 さて呂布は落ちて行く途中で、追いついて来た諸将と会い、陳宮も尋ねあてて来た。 「味方は無勢なりとはいえ、まだまだ曹操を破るくらいのことはできる」 けんどちょうらい と呂布は、再び軍勢をひきいて取ってかえそうとする。正に、勝敗兵家の常なれど、捲土重来 成るや成らずや、というところ。さて呂布の勝負はどうなるか。それは次回で。 注一領軍都尉曹操は漢丞相となってから相府に「領軍」を置いており、その役目は近衛の師団長格で あった。ここでは親衛隊長とでもいうところか。 一一十囲囲は助数詞。両手の拇指と人差指で作る輪の大きさ。また、木の太さなどを表わすときに、 両腕で抱えた太さをいう場合があるが、ここでは前者。 せいれん

3. 三国志演義 1

守りを固めてくれ。わしは兵を進めて曹操を打ち破って参る」 と命じ、二人はかしこまって承知した。陳宮は「この由を聞いて〕急いで呂布に見えた。 「将軍は竟州を棄てて、どこへ行かれようとなさるのでございますか」 「わしは濮陽に出陣して、鼎足の陣構えをとろうと思うのだ」 「それはいけません。薛蘭ではとても竟州を守りきることはかないません。これより南へ百八十里 ・行った泰山の谷あいに精兵一万を伏勢されるがよろしい。曹操の軍は州の破れたのを聞き必すや 先を急いで参るでございましようほどに、その半ばをやり過ごしておいて一撃すれば、一挙に全軍 を手捕りに出来ましよう」 を「わしが濮陽に布陣するのは、良策あってのこと。そちの知るところではないわ」 呂布はついに陳宮の言を用いす、薛蘭に ~ 兌州をまかせて進発した。一方、曹操の軍が泰山の難路 海にきト・し、カ、カ子 / ゝっこ時、郭嘉が言った。 叔「ご用心召され。ここには伏兵がありましょ , っそ」 劉曹操は笑った。 回「なにが、呂布は策なき男。薛蘭に ~ 兌州をまかせ濮陽へ出陣したのでもそれは知れる。ここに伏兵 第をするような奴ではない。曹仁に兵をあたえて竟州を囲ませ、わしは濮陽へ進んで呂布の不意を衝 いてくれよ , つ」 陳宮は曹操の軍勢が迫ったと聞いて、 まみ

4. 三国志演義 1

我慢ならねえ。殴ってやる。貴様を殴るのは、呂布を殴ることだ」 一同が止めようとしたがかなわず、曹豹に鞭が五十まで下されたとき、みなが頼みこんで、よう よう許してもらった。宴果てて家に帰った曹豹は、恨み骨髄に徹し、その夜のうちに書面を持たせ て、人を小沛の呂布のもとへ急行させた。書中、張飛の無礼の数々を詳しく述べ、かっ、玄徳すで わいなん に淮南へ打ち立ち、今宵張飛が酔いつぶれているいま、兵をひきいて徐州を襲いたまえ、この機会 逃すべからすとあった。 ちんきゅう し呂布は書状を見て、陳宮を呼んで相談すると、 幸 「小沛はもともと長く住むべきところではありません。いま徐州に乗ずる隙があるのに、むざむざ 都 許取り逃がさば、後で悔んでも間に合いませんぞ」 と陳宮に言われて、呂布これこ従 レ , い、ただちに鎧を着けて馬に打ち乗るなり、五百騎を引き具し 移 こうじゅん を て先発した。 後には陳宮が大軍をひきいて続き、さらに高順が続いて打ち立った。小沛は徐州か 徳ら四、五十里のこととて、馬はたちまち着いた。呂布が城下に至ったときは、あたかも四更 ( 夜中 曹の二時前後 ) の頃おい、月冷たく冴えて、城中知る者とてない。呂布は城門に乗りつけて、 回「御大将より内密の使者だ」 第と叫ぶ。城中では曹豹の手の者が曹豹に知らせたので、曹豹は櫓に上ってたしかめた上、兵士に 門を開かせ、呂布の合一一一口葉一声、同勢どっと喊声をあげてなだれこんだ。時に張飛は寝部屋に酔い 伏していたが、左右の者があわててゆりおこし、 やぐら

5. 三国志演義 1

ドし 応 そうそう ちんきゅう 公 さて陳宮はあわや曹操に手を下さんとしたが、その時、『わしは国のために彼に随ってここまで 鎮来た、これを殺せば義が立たなくなる。ままよ、こ奴を棄ててほかへ行こう』と思いなおし、剣を 鞘にもどすと馬を引き出して、夜の明けるのも待たずに一人東郡へ立ち去った。曹操は目を醒まし て て陳宮の姿がないのに気づき、『あの男は、昨夜のわしの言葉から、わしを不仁な男と思い、一人 発で行ってしまったのだろう。わしも急ごう。ぐずぐずしてはおれぬ』と考え、夜を日についで陳 りゅう 留に着いた。父親に対面してこれまでのことを話すとともに、家産を投げ出して義兵を募りたい と訴えると、父親が、 えい・一う この土地に衛弘とい一つ孝廉がおるが、巨万の富をもち、義の 五「軍用金が少のうては事もなるまい 3 ためには金を惜しまぬ男じゃ。あの男のカ添えが得られれば、お前の志もかなうだろう」 と言うので、曹操は酒を用意して宴席を設け、辞を低くして衛弘を招くと、己が志を述べた。 第五回 そう いつわりみことのり 矯の詔発せられて諸鎮曹公に応じ りよふ 関兵を破って三英雄呂布と戦う こうれん

6. 三国志演義 1

91 第四回漢帝を廃して陳留位に即き・・ 陳宮は返すことばもなく黙りこんでしまった。 その夜のうち数里行って、月の光をあびて宿屋の門をたたき宿をとった。馬に十分秣をやって、 曹操は先に眠った。陳宮は、つくづく考え、 「わしは曹操をりつばな男と見たればこそ、官を棄ててついて来たのに、かくも残忍な男とは知ら なんだ。このまま生かしておけば、必ずや後の禍いとなるであろう」 と、白刃をかざして曹操の胸に擬した。正に、あな恐ろしやその心底、曹操・董卓いすれ劣らず、 というところ。さて曹操の命はどうなるか。それは次回で。 注一節古代から天子の使者に授けられた「しるしばた」。「節を返す」とは、天子より授けられた官を 去ることを意味する。 二象簡臣下が天子のご前に出るときに持っ象牙のしやくで、用事があればこれに書きつけてメモの かわりともした。 三初平と改元少帝劉弁は四月即位して「光熹」と改元、八月「昭寧」と改元したが、九月に廃位、 献帝が即位して「永漢」と改元、十二月ふたたび「中平」にもどして「中平六年」とした。「初平」 と改元したのは翌年 ( 一九〇 ) 正月のことである。 四相国天子をたすけ政治の一切を処理する。宰相に同じ。 五謁見するにも名をいわす云々原文」・・賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿」。臣下は天子のご下問に答え

7. 三国志演義 1

「孟徳殿には、どこへ逃れようとされたのでござるか」 8 「郷里へ帰り、偽りの詔書を発して天下の諸侯を集め兵をおこしてともに董卓をたおさんこと、こ れ身どもの願いであった」 これを聞くと県令は自らそのいましめをとき、上座になおして再拝した。 「貴殿はまことに天下の忠義の士でござる」 曹操も礼をかえして、県令の名をたすねた。 きゅう こうだい 「それがし姓は陳、名は宮、字を公台と申す者。老母妻子はみな東郡におります。只今、貴殿の忠 義の心に感じいり、これより官を棄てて貴殿のお伴をいたしとう存じます」 曹操はいたく喜んだ。その夜のうち陳宮は路銀をととのえ、曹操に衣服をかえさせ、おのおの剣 をひと振りずつ背に負って馬で故郷へ向かった。 せい第」う 行くこと三日、成皐のあたりへさしかかったときには日も暮れかかってきた。曹操は鞭をあげて、 とある森の奥をさししめした。 りよ 「ここには姓は呂、名を伯奢といって、わが父と義兄弟の契りを結んでおる方がいる。たずねてみ て家郷の消息を聞き、一夜の宿を求めてみるのはどうだろう」 「それは結構なことと存する」 二人は屋敷の前で馬を棄てると、中にはいって伯奢に会った。 「朝廷では各地へ触れを廻して、そなたを厳しく追及しておると聞いているそ。そなたの父御もい はくしゃ とう

8. 三国志演義 1

そうそう か一」うとん 曹操があわてて馬を飛ばすおりしも、真南より一隊の人馬が到着した。これそ夏侯惇が同勢をひ をきいて救援に駆けつけたもので、呂布の前に立ちはだかって奮戦した。暮れ方にいたって天を覆え てんい りようぐんと 餘すような豪雨となったので、互いに軍を退けた。曹操は陣屋にもどって厚く典韋を賞し、領軍都 尉に昇せた。 ちんきゅう 祖 さて呂布は陣屋に引き取って陳宮と策を練ったが、陳宮の言うのに、 恭 ばくよう 陶「濮陽の城内に田と申す金持がおり、家の者千人あまりという当郡きっての豪家でありますが、彼 りよおんこう 回に命じて曹操の陣屋へ密使を送らせ、『呂温侯は残虐無道のため、人民どもは大いに恨んでいる。 こうじゅん れいよう 第いま彼は高順に城をまかせて兵を黎陽に移そうとしているから、夜陰にまぎれて兵を進めよ。さ 四らば自分が内応する』という密書を届けさせましよう。もし彼が来たら、城内に誘いこんでおいて 四方の門に火を掛け、門外に伏勢しておくのです。かくすれば、たとえ曹操に天地を思うままにす とうきようそ 陶恭祖三たび徐州を譲り りよふ 第十二回そうもうとく 曹孟徳大いに呂布と戦う りよふ くつが

9. 三国志演義 1

りかくかくし とに送りとどけたが、李催・郭汜はこれを知って廳舒を斬りすて、張楊に書面をやって呂布を殺さ ちょう ちょうばく せようとしたので、呂布は張楊のもとを去って張逡のもとに身を寄せた。おりしも張逡の弟張 ちょう 超が陳宮を兄に引見させたところ、陳宮が、 「いまや天下大いに乱れ、英雄豪傑各地にむらがり起こっておりまするに、殿には千里にあまる広 ま曹操 大な国を領されながら、人に使わるるとはまことに不甲斐なき仕儀にはござりませぬか。い 東征して州に人なく、しかも呂布は当世に並ぶ者なき勇士、もし彼と力を合わせて州をお取り 召されるなら、天下を定めん霸業は殿のお手にありと申せるでございましよう」 と勧めたので、張遞は大いに喜び、ただちに呂布に命じて竟州を襲わせるとともに、濮陽まで占 じゅんいくていいく けんじようとうあはんけん を拠させた。ただ郵城・東阿・范県の三城のみ、荀彧・程昱の計によって辛くも落城を免れ、他は そうじん 孔ことごとく破られた。曹仁は数々の戦いに敗れ去って、かく危急を告げきたったものである。 海 これを聞いて曹操、 叔「竟州が落ちたら、わしが帰るところはない。急ぎ手を打たずばなるまい」 ろうばい 向金 と狼狽するところ、郭嘉が、 回「殿には、これをしおに劉備に恩を売り、軍を退いて竟州に帰陣なさるがよろしかろうと存じま 十 と言ったので、曹操はげにもとうなずいて、ただちに返書を劉備にあたえ、陣を引き払って兵を 退い

10. 三国志演義 1

れを間者が知らせて来たので、呂布は軍をひきいて討って出たが、曹操の本陣間近に迫った時、左 側に奥深い森のあるのを眺めて、伏勢を恐れて引き返した。曹操は呂布の軍が引き揚げたと聞き、 諸キに向かって、 「呂布の奴は森に伏兵ありと思ったのじゃ。あの中に旗指物を立てつらねて余計疑わせてくれよう。 この本陣の西に堤がのびており水がかれているが、あそこに精兵をすぐって伏せて置こう。明日、 呂布が必ず森を焼きに来ようから、堤に伏せた者どもがその退路を断てば、奴を手捕りにできよう と、鼓手五十名だけを本陣に残して太鼓を打ち鳴らさせ、村からかり立てて来た男女に本陣で喊 む声をあげさせておいて、屈強の兵士多数を堤のかげにひそませた。 畭さて呂布が帰って陳宮にこの旨を話すと、 た「曹操は詭計を弄する奴にござれば、軽々しく出るのは禁物でございます」 祖「わしは火攻めで、伏勢を破ってやる」 陶と、陳宮・高順に留守を命じた。翌日、呂布は大軍をひきいて出陣し、遙かに森の中の旗を見か 回けるや、一挙に兵を進めて四方から火を掛けたが、誰一人出て来ないので、本陣へ突き入ろうとし 第た時、ど 0 と太鼓の音が響き渡 0 た。これ如何と思い惑う時、とっぜん本陣の裏手から一隊の軍勢 が討って出た。呂布、馬を躍らせてこれを追えば、石火矢一声、堤内の伏兵一時に討っていで、夏 侯惇・夏侯淵・許緒・典韋・李典・楽進が轡を並べて討ちかかる。呂布かなわじと見て、一目散に くつわ かん