「これはわたしくども兄弟に天がお授け下されたものです」 と陳留王がおっしやり、螢の火に随って行くと、ようやく道に出ることができた。明け方ごろに は、もはや足が痛んで進むこともようおできにならなくなった。と、丘の裾に高く草が積んである。 帝と王はそのわきに横になられた。草の山の前に屋敷がある。屋敷の主は、その夜の夢に二つの真 紅の太陽が屋敷の裏に落ちたのを見て驚いてはねおき、着物を羽織り外に立ちいでてあたりを見廻 した。すると草の積んであるところから真紅の光が一筋天に射しのばっている。急いで近寄ってみ れば、お二方がそのわきに横になっておられた。 叱「これ、お前たちはどこの家の子じゃ」 丁帝はご返事もできない。陳留王が帝を指さして、 卓「このお方は今上陛下におわすぞ。十常侍の乱にあわれて、ここまで避難あそばされたのである。 」わたしは帝の弟の陳留王だ」 議 屋敷の主は大いに驚き、再拝して、 明「臣は先朝の司徒であった崔烈の弟崔毅と申し、十常侍が官を売り賢者を嫉むを見て、ここに隠棲 いたしておるものでございます」 回 と帝をたすけて屋敷へお迎えし、酒食をおすすめした。 第 さて閔貢は段珪に追いついて引っ捕らえ、天子のご所在を訊ねた。ところが途中にて見失い行方 が分からぬとの答えに、閔貢はその首を刎ねて馬の首に掛け、兵を四方へ出して行方を尋ねさせる さいれつ さいき
鮑信はさらに王允をたすねて同じく進言したが、王允も、 6 「まあゆっくり相談してきめたらよい」 と言うので、鮑信は手勢をひきいて故郷の泰山へ引き揚げた。 董卓は何進兄弟の部下の兵をことごとく己が手におさめ、ひそかに李儒に言うのに、 「わしは帝を廃して陳留王を立てようと思うが、どうだ」 「いま朝廷には力ある者がおりませぬ。この時をはすしたらいろいろと差しさわりも起きましよう。 おんめい 明日、温明園に百官を集めて廃立のことを告げ、従わぬ者は斬ってすてますれば、天下の大権を握 るのも今日明日のことと申せましよう」 董卓は喜んだ。次の日、さかんな宴席を用意して百官を招待すれば、百官は董卓の威勢をおそれ て一人残らず出席した。董卓は百官が揃うのを見計らって、おもむろに乗馬のまま門前にあらわれ、 剣を帯びて席に着いた。酒が数巡したとき、董卓は盃を置かせ奏楽をやめさせて、 「われら一言申したき事あり、おのおの方お聞き下されい」 と大声で言った。一同しんとなるところ、 きんじ髪当っ 「天子は万民の主であり、威儀そなわらずば社稷をたもちがたい。今上陛下は懦弱におわせられ、 陳留王こそ聡明にして学を好まれ、まさに御位に上られるべき方とお見受け申す。われらは帝を廃 して陳留王を立てたく思うが、おのおの方のご意見は如何」 聞きおわっても百官の中からは声もおこらない。その時、一人が宴卓を押しのけてつかっかと進 だじゃく
何苗は逃れようとしたが、ひしひしと取り囲まれ粉微塵に斬りきざまれた。袁紹はさらに兵士た ひげ ちに十常侍の家族を殺しつくせと命じ、老幼を分かたずことごとく斬り殺させたが、鬚のないため に誤って殺される者も数多くあ・つた。曹操は宮中の火を鎮める一方、何太后におすすめして暫時政 務をとっていただき、張譲らに追手をさしむけて少帝をたずねさせた。 ほくばう さて張譲・段珪は少帝と陳留王を擁して炎の下をくぐりぬけ、夜道を北山まで逃れた。二更ご かんせい ろ ( 午後十時前後 ) 、うしろでどっと喊声があがり人馬が迫って来た。その先頭に立った河南中部の えんり ( 注二 ) びんこう 掾吏閔貢が、 「逆賊、待てい」 と叫ぶと、張譲はもはやこれまでと河に飛びこんで死んだ。帝と陳留王はまだ事の次第をご存知 く寺、むら ないので、声をひそめ河辺の叢に身を伏せられた。兵士どもは馬を駆って八方おたずねしたが、 ひも 帝のお姿を見出すことが出来ない。帝と王は真夜中過ぎまで隠れておいでになったが、露は下る飢 じくはなるで、ひしと抱きあって泣きだしたが、ふとまた、人に知られてはと声を呑んで叢の中に ひそまれた。 「ここには長くはいられませぬ。ほかに活路を見つけましよう」 と陳留王が申され、お二方は御衣の袖を結びあわせて岸辺へ這い上がられた。しかし一面の茨、 一寸先も見えぬ闇では、道もお分かりにならない。途方にくれるおりしも、幾百千の螢がむらがり 集まってあたりを照らしだし、帝のご前を去ろうとしない こなみじん
、 6 じた詩にも、 はかり 1 ) と 董賊ひそかに廃立の図をいだき す 漢家の宗社丘墟に委てらる 満朝の重臣みな嚢括さるるに ただあり丁公の丈夫なる とう 董卓は陳留王に登殿を請うた。群臣の拝賀がおわると、董卓は何太后、弘農王および帝の妃唐氏 ふびん を永安宮におしこめて宮門を封鎖するよう命じ、群臣がみだりに立ち入ることを禁じた。不憫や少 あぎな 帝は四月に即位され、九月には早くも廃される事となったのである。董卓の立てた陳留王協は、字 はくわ れい しょへい を伯和と申され、霊帝の次子におわせられる。これすなわち献帝である。このとき御年九歳。初平 えつけん ( 注三 ) しようこく ( 注四 ) と改元あった。董卓は相国となって、謁見するにも名をいわず、ご前において小走りせす、剣を 佩し履のまま殿上にのばり、その威勢ならぶ者もなかった。李儒が名士を抜擢して人望をあつめる さいよう よう進言して蔡琶を推挙したので、董卓は蔡琶に出仕を命じたが、彼はそれに応じなかった。 董卓は怒って、 「もし来なければ、お前の一族を皆殺しにする」 と使者に言わせた。 えいあん のうかっ ( 注五 )
と荒々しく叫んだ。 帝がわなわなと身をふるわせて口をきくこともお出来にならぬところ、陳留王がりんとして駒を 進め、 「何者か」 とうたく せいりよう 「西涼の刺史董卓」 「貴様は陛下の守護に参ったのか。それとも陛下を奪いに参ったのか」 「守護したてまつらんと参ったもの」 叱「さらば、天子がここにおわすに、なぜ下馬いたさぬ」 丁董卓は大いに驚き、あわてて馬を下りて道の左側に平伏した。陳留王は董卓にねぎらいの言葉を 卓おかけになったが、終始見事に振舞われた。董卓はひそかに感じいると同時に、この時早くも少帝 」を廃し王を立てんとの志を抱いたのであった。帝はその日宮中に還御され、何太后にまみえてお二 ぎよくじ 議 人していたくお泣きになった。宮中を点検してみると伝国の玉璽がなくなっていた。董卓は兵を城 殿 外に陣取らせ、毎日、甲冑に身を固めた部隊をひきいて入城し市内をわがもの顔にのしまわったの 温 で、人民は生きた心地もなかった。また彼は、覊るところなく禁裡に出入した。後軍校尉鮑信は、 三袁紹をたすねて、董卓はよからぬ心をもっておるゆえ早々に除いた方がよいと進言したが、袁紹は、 「朝廷が治まったばかりのいま、軽挙妄動するのはよくない」 と取りあわぬ。
8 とともに、自分もただ一騎であちこち尋ねまわった。たまたま崔毅の屋敷に立ち寄ったところ、崔 毅が首を見てわけをたずねたので、閔貢は事の次第を詳しく話し聞かせた。崔毅は閔貢を帝のご前 に案内し、君臣ともどもに声をあげて泣いた。閔貢が、 かんぎよ 「国には一日たりと君主がなくてはかないませぬ。すみやかに都へご還御下されますよう」 と奏上し、崔毅の屋敷の一頭きりの痩せ馬を帝のお召馬とし、閔貢と陳留王は同じ馬に乗った。 しとおういんたいいようひゅう じゅんうけい ちょうばう 屋敷を出て三里たらず行ったとき、司徒王允・太尉楊彪・左軍校尉淳于瓊・右軍校尉趙萌・後軍 ほうしん 校尉鮑信、中軍校尉袁紹らの一行数百人がお迎えし、君臣相ともに涙にくれた。ます段珪の首を都 さら へ送って曝しものとし、帝と陳留王に良馬に乗りかえていただいて、まわりを厳しく警固して都に 帰った。これより先、洛陽の童の間に、「天子といっても天子じゃない。王といっても王じゃない。 ほくぼ、つ 万乗の君、北鄧に走る」と歌われたことがあったが、この時になって始めてさこそとうなずけたも のである。 帝のご一行が数里もいかぬとき、とつじよ、日を遮るばかりの旗さしものをおしたてた一群の人 馬が、天をおおうばかりの黄塵をけたてて殺到してきた。百官色を失い、帝も大いに驚かれた。袁 紹が馬を乗り出して、 「何者か」 と問うと、錦の旗のかげから一人の大将が飛び出してきて、 「天子はいずくにおわすか」 ( 注三 )
う きんじよう 、一うれい 孝霊皇帝、早く臣民を棄てたまい、今上皇帝の嗣を承けたもうに、海内の人民あげて望み そう けいちょう を寄せたり。しかるに帝、天資軽佻にして、威儀につつしみなく、喪中におけるも礼にしたが あら はずか わず、徳を失うことすでにして彰われ、大位を辱しむるものあり。皇太后母として教うるところ えいらく す なく、政事を統べて荒乱にみちびく。永楽太后 ( 董太后の諡 ) にわかに崩ぜらるるに、世論の不 ちんりゅうきよう のり 審をいだくあり。三綱の道、天地の紀に、欠くるところ果たしてなきや。陳留王協は、聖徳 みな 大いに盛んにして、規矩粛然たり。喪におりて哀しみ悼み、言に邪なく、美しき御名、天下に聞 ・一う・のう こえたり。洪業を承けて、万世の統たるにかなうというべし。ここに皇帝を廃して弘農王とし、 したが ひやくせい 皇太后は政を還して、請うて陳留王を奉じて皇帝となし、天に応じ人に順いて、以て百姓の望 即 みをかなうべし。 じじゅ 位 留李儒が策文を読みおわると、董卓は左右の者に命じて帝を玉座より引き下させ、天子の璽綬を解 ひざまず き去って北面して跪かせ、臣下の列に加えた。また太后を引き出して朝服を脱がせ、お言葉を待 て 廃たせた。帝と太后は声をあげてお泣きになり、群臣たち一人として面を曇らせぬはなかった。その 帝とき、階の下から一人の大臣が、 漢 「賊臣董卓、天を欺く所業とはこのことぞ、わが首の血でも喰え」 回 ぞうかん ( 注二 ) 四 と大音に叫ぶなり、手にした象簡をふるって董卓におどりかかった 第 ていかん 卓が大いに怒って、武士に引きすえさせれば、尚書丁管である。卓は引き出して斬りすてるよう しんしよくじじゃく 命じた。丁管は息もつがせず罵りつづけ、死ぬる時まで神色自若たるものがあった。後の人が嘆 きギ、はし おくりな かいだい
「今上陛下は暗弱にして、国家の主たることができぬ。わしは伊尹・霍光の故事にならって、帝を 廃して弘農王として、陳留王を帝に立てる所存だ。不服な者はこの場で斬って捨てる」 群臣おそれおののき、言葉を発する者もない。そのとき中軍校尉袁紹が進み出た。 「今上陛下はご即位あっていまだ日も浅く、失徳のこともなにひとつない。貴様がご正嫡を廃して 庶子を立てんとするのは、謀反の心あってと見受けたり」 董卓は怒って、 「天下の事はわしの手にある。わしのやる事にさからう気か。貴様、この剣の切れ味でもみよ」 叱袁紹も剣を抜き、 蒻「貴様の剣が切れるとなら、わしの剣もなまくらではないぞ」 卓二人は酒宴のまっただなかに睨みあう、正に、丁原大義に命を落とし、袁紹歯向かってまた危し、 て というところ。さて袁紹の命はどうなるか。それは次回で。 ーし 議 殿 明 温 回 第 注一前将軍大将軍につぐ七将軍の一。次の西涼は通称で、正しくは涼州。 二河南中部の掾吏「掾史」の誤り。河南の尹 ( 第二回注六 ) の下にある督郵 ( 行政監察官 ) の一人で 最上席にある。 三左軍・右軍・後軍・中車校尉左・右・後の三校尉は七将軍中の左・右・後の三将車に属する校尉。 ′」うのう しんかく - 一う
「そんな中途はんばなやりかたでは、さきざき身の禍いのもととなりましようぞ」 と袁紹が言ったが、 「余の心はすでに決まっておる。そちは黙っておれ」 と聞きいれなかったので、一同はそのまま引き退がった。 ろくしようしよじ ( 注一四 ) ・ 次の日、何太后は何進に命じて録尚書事を兼ねさせ、その他の者をもことごとく官職に封じた。 董太后は張譲らを禁裡に召して、 「何進の妹はわたしが引き立ててやったものです。それがいまではどうです。わが子を御位に即け、 朝廷の内外を腹心で固めて、わがもの顔に振舞っています。あれを押えるには、どうしたらよいで とお諮りになると、張譲が言った。 みす きよう 「皇太后さまがお出ましになって簾のかげで政務をおとりになり、協皇子さまを王に封ぜられ、国 とうふつトう 舅董重殿を高位に昇せられて兵馬の権をさずけられ、臣らを重くお用い下さりますれば、万事御 心のままになるでギ、りましょ , つ」 せんじ ちんりゅう 董太后は大いに喜んだ。翌日、董太后は朝廷にお出ましになり、宣旨を下して、皇子協を陳留 ひょうき 王に封じ、董重を驃騎将軍とし、張譲らを朝政に預らしめることとした。〔ひと月あまりするうち、 ( 注一五 ) 権力はすべて董太后の手に帰した。〕何太后は董太后が権勢をほしいままにしているのをみて、一 日、宮中に宴席を設け、董太后を招いた。宴半ばしたとき、何太后がやおら立って盃を董太后に献
と董卓にきかれ、伍孚は眼をいからせて大喝した。 「貴様はわしの主人ではなく、わしは貴様の家臣ではない。謀反とは何事だ。貴様の罪は天をおお うばかりに重なり、みながみな殺してくれようと思っているのだ。貴様を車裂きにして天下に曝し てやれぬとは無念だ」 董卓は大いに怒り、引き出して五体ばらばらに斬りきざむよう命じた。伍孚は死の間際まで罵り 1 11 ロ つづけた。後の人が彼を讃えた峙 , 漢末の忠臣伍孚を説わん み 沖天の豪気世間に無す 位 朝堂に賊を殺さんとして名なお在り 留 たた 陳 万古称うるに堪う大丈夫 て し 廃 かっちゅう 帝以来董卓は、出入には常に甲冑の兵を護衛につけるようになった。 漢 時に袁紹は渤海にあり、董卓が権をもてあそぶと伝え聞いて、ひそかに王允の許に密書を送った。 回 四その密書の大略は、 国賊董卓は天を欺いて主を廃し、まことに忍ぶべからざるものがあります。しかるに公はその 跋扈を許し、あたかも聞かざるが如くにしておられますが、これ国に報い忠をいたさんとする臣 ばっかい おういん さら