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検索対象: 三国志演義 2
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1. 三国志演義 2

「将軍、お名前は」 関公は頭を下げて、 げんとく かんう 「身どもは劉玄徳の弟の関羽でござる」 がんりようぶんしゅう 「すると顔良・文醜を討ち取られた関公でおわしますか」 「左様」 老人は大いに喜んで、内に請じ入れた。関公が、 「車の中にまだ二人のご夫人がおいでなのじゃ」 ギ、しき 走と一言うと、老人は妻女を迎えにやらせた。二人の夫人が草堂に来ると、関公は拱手してそのかた 騎わらに立った。老人が関公にすわるようすすめると、関公が、 を「嫂上がおられるのに、それはできませぬ」 と言ったので、妻女に二人の夫人を奥へ案内してもてなさせ、自分はそこで関公をもてなした。 公 髯関公が老人の姓名を尋ねると、老人が言った。 カ かん ぎろう 「わたくしは姓を胡、名を華と申します。桓帝の御時には議郎となったこともありますが、その後、 回 七職を辞してこうして郷里に引 0 こんでおります。いま息子の胡と申すのが、榮陽の太守王植殿 じゅうじ 第のもとで従事をいたしておりますが、将軍がもしあのあたりをお通りになるようでしたら、息子に 手紙をことづかっていただけないでしようか」 関公はそれを承知した。 おんとき

2. 三国志演義 2

236 千を関所の前に並べて、 「これは何者か」 関公、馬上で身をかがめて、 「それがしは漢寿亭侯関羽にござる。なにとそお通し願いたい」 「して丞相の手形は」 「取り急いだため頂戴いたして参りませんでした」 「わしは丞相の命によってこの関を守り、間者の往来をもつばら詮議いたしておるが、手形を持た ぬとあらば、かくれて逃げて来たものじゃな」 関公は怒って、 「東嶺の孔秀がわしの手にかかって死んだのを知らぬのか。貴様も死にたいと申すか」 「誰ぞ召捕れい」 韓福の声に、孟坦が出馬し、ふた振りの刀を舞わして関公に斬りかかった。関公は車を引き退が らせておいてこれを迎えたが、孟坦は三合と戦わずに馬首を返して逃げ、関公これを追った。孟坦 は関公を誘いこむつもりでいたが、いかんせん関公の馬早く、たちまち追い着いてただの一刀でま っ二つとした。関公が馬首を返してもどるところを、門のかげにひそんだ韓福、弓を十分に引きし ばってひょうと放せば、見事、関公の左の臂に突きたった。関公がロで矢を抜きとるなり、流れ出 る血をそのままに、馬を躍らせて韓福に迫れば、軍勢どっと逃げ散り、韓福は逃げるいとまもなく、 かんじゅてい うで

3. 三国志演義 2

にして、夜の明けるまで戸外に立ちつくし、疲労の色をいささかも見せなかった。曹操はこのあり さまに、ますます敬服するばかりであったが、 許昌に着くと、関公たちのために一戸の屋敷を与え た。関公はその屋敷を二分し、内門に年取った兵士を十人回して警護させ、己は外側の建物に寝起 たま きした。曹操が関公をともなって献帝に謁見させると、帝より偏将軍の位を賜い、関公はお礼を言 上して退出した。翌る日、曹操は盛大な酒宴を張って、幕僚・武士たちを一堂に集め、関公を賓客 あやにしき として上座になおらせて、綾錦や金銀の器を贈ったが、関公はそれらをすべて嫂たちに渡して保 ていちょう 約管を頼んだ。関公が許昌に着いて以来、曹操は彼をとりわけ鄭重にもてなし、三日ごとに小宴会、 事五日目ごとに大宴会を開いた上、十人の美女を側使いにといって関公に贈った。しかし関公は彼女 公らをすべて奥へ差しだして二人の嫂に仕えさせ、かつまた三日に一度は内門の前に伺候して嫂たち てのご機嫌を伺ったが、両夫人が皇叔のことを尋ねおわって、「どうそお引き取り下さい」と言うま 屯では退がらなかったので、これを聞いた曹操は、感嘆してやまなかったことであった。 じんばおり 山 一日、曹操は関公の着ている緑色の戦袍が相当古くなっているのを見て、ゆきたけをはからせ、 土 じんばおり 高価な錦の戦袍を贈ったが、関公はそれを受けとると、下に着込んで上にはもとの古いのを着けた。 回 五「雲長そう始末にすることはないではないか」 第と曹操が笑うと、 「始末にいたすわけではござらぬ。この古いのは劉皇叔より賜わったものゆえ、これを着ておりま ちょうだい すと兄者のお顔を見るような心地がいたします。丞相より新しいものを頂戴いたしたからとて兄 えつけん

4. 三国志演義 2

「生きながらえて国に報ゆることもできず、その上、兄者に背くとは、全くあさましい限りじゃ」 と、曹操が、 もと 「雲長、お許の髯はどれくらいあるかの」 「およそ五、六百本はございましようか。毎年秋になると三本五本と抜けますので、冬は紗の袋で、 切れぬよう包んでおりますが、〔人に会うときには、はずすのでございます〕」 ちょうけん そこで曹操は髯を包むようにと、紗の錦で袋をこしらえて、関公に贈った。翌る日の朝見のお 約り、帝は関公が錦の袋を胸に垂らしているのをお目にとめられてご下問あったので、関公は、 事「臣の髯がすこぶる長いため、貯えおくよう丞相より袋を頂戴いたしたものにござります」 公 と奏上した。帝がその場で袋をはすすよう仰せられれば、その髯は下腹にとどくほどであったの 関 びぜん 屯「まことの美髯公じゃの」 山 と仰せられたが、これより人呼んで美髯公と言うようになった。 ある日、宴果てて曹操が関公を見送って丞相府の門外に出たとき、関公の馬が痩せているのを見 回 五 、刀ーレ 十 第「貴公の馬はどうして痩せておるのか」 と尋ねると、 「それがしえらく重いので、馬がたえきれずに、し 、つもこのように痩せておるのでございます」 しゃ

5. 三国志演義 2

と叫び、一同斬りかかろうとするところを、剣を引きぬいた関公にばたばた斬り伏せられた。卞 喜が本堂を飛びおりて回廊を逃げれば、関公は剣を投げ棄て薙刀をひつつかんで追いかけ、卞喜が ひつい 不意に飛鎚を飛ばすのを、薙刀で受けとめ、踏みこむなり一刀両断にして二人の嫂の様子を見にも どる。早くもまわりを取り囲んでいた兵士らが、関公の姿を見て逃げ散るのを、すっかり追い払っ てから、普浄に 「ご坊がおられなければ、それがし命のないところでございました」 レ」一一 = ロ , っとス いつ 走「愚僧もここにはおられぬから、衣鉢を持って他国を回ることにしよう。いすれお会いすることも で 騎ござろうほどに、将軍もお大事にな」 を関公はくりかえし礼を述べ、車を守って榮陽へ向かった。 おうしよく 千榮陽の太守王植は、韓福とは互いに縁組をしている間柄であったので、韓福が関公に殺された 髯と聞くや、関公を闇討しようと協議し、関所を固めさせた。関公が着くと、王植が関を出てにこや かに迎え、関公が兄を尋ねて行く由を語るのを聞いて、 回 七「ご遠路のところまことにご苦労に存じます。またご夫人も車上にて大変お疲れでございましよう よろ し、まずます城内で一晩ごゆるりとお休みの上、明日、出掛けられたら宜しいではござりませぬ 第 3 、刀」 と言った。関公がその慇懃な態度を見て、二人の嫂を連れて城に入ると、客舎にはすっかり支度 いんぎん

6. 三国志演義 2

関公の薙刀を頭から肩に喰って、馬からころげ落ちた。かくて軍勢を駆け散らし、車を無事に通す ことができた。 関公は布をひきさいて傷口を手当すると、途中の闇討ちを気づかって、息つぐまもなく夜道を沂 りゅうせいつい ( 注こ 水関まで来た。この関を守る大将は、拜州の人で姓を卞、名を喜といし 、流星鎚の使い手、もと 黄巾の残党であったが、その後、曹操に仕えて、この関所をあずかっている者である。その時、関 ちんこく 公が間もなく到着すると聞いて一計を案じ、関所の門前の鎮国寺に刑手二百人あまりをひそませて おいて、関公を寺に誘いこみ、盃を投げるのを合図に斬り殺す手筈をきめた。彼は一切の手配を済 走ますや、関を出て関公を迎えた。関公は卞喜が迎えに来たのを見て、馬を下りて挨拶した。卞喜が、 で おんもと 騎「将軍のご高名、かねがね承っておりまするが、このたびは皇叔の御許にお帰りとは、世にもまれ をな忠義のお志、つくづく感服いたしおります」 ちくいち 千 と言い、関公が孔秀・韓福を斬った次第を逐一述べると、「 公 髯「それは当然のことにございます。丞相へはそれがしよりよしなに申し伝えておきまする」 と言うので、関公はいたく喜び、害を並べて沂水関を通り、鎮国寺門前で馬を下りれば、僧侶た 回 ばだい 七ちが鐘を鳴らして出迎えた。元来、この鎮国寺というのは漢の明帝の菩提所で、寺内には三十人あ ふじよう 第まりの僧がおり、そのうちの一人に、たまたま関公と同郷の法名を普浄という僧侶があった。時に たくら 普浄はその企みを知っていたので、進み出て関公に言った。 ほとう 「将軍は蒲東を出られて何年になられますかな」 すい くつわ

7. 三国志演義 2

112 注一関内侯秦の時に定められた二十等爵の第十九等の爵位で、若干の封戸を与えられ、都に出仕する。 二使君漢代における刺史およびこれに準ずるものの尊称。都の太守は府君。劉備は先に徐州の牧の 職を預ったことがある。 三「成公 : : : 」成王は周朝第一一代の天子。周公は武王の弟で、幼少の成王を補佐した。召公は周公の 弟。ここでは権力を握っている曹操を周公にたとえたもの。 四「鼠に投ぜんとするも : : 」物を鼠に投げつけて打ち殺そうとしても、そばの器物をこわすといけ ないと心配する。君側の奸を除こうとして、かえって君を傷つけるのを恐れることにたとえる。

8. 三国志演義 2

「もはや二十年にもなりましようか」 「愚僧を覚えておられるかな」 「郷里を出て久しくなるので、とんと覚えがござらぬ」 「愚僧の家は将軍のお宅と河一つ隔てていただけですそ」 卞喜は普浄が懐しそうに話しはじめたのを見て、秘密が洩れては事面倒とばかり叱りつけた。 「宴席の用意もできておるのに、控えおらぬか、くそ坊主め」 「いやいや。久方ぶりに行き逢うたのじゃ。昔話ぐらいかまわぬでござろうが」 と関公が言うと、普浄は茶を一服さしあげたいからと方丈へ誘ったが、関公に、 「車におられる夫人方にまず差しあげて下されい」 と言われ、人に茶を持たせてやってから改めて方丈に案内した。そして、手で己の腰の戒刀を持 ち上げ、関公に目くばせしたので、関公ははっとさとって、左右の者に薙刀を持って側についてい るよう命じた。やがて下喜が関公を本堂の宴席に案内すると、関公は、 「卞喜殿、貴公がわしをお招き下さったのは本心からか、それとも何そ下心あってからか」 まんまく と言い、卞喜の返答も待たすに、目ざとく幔幕の影に刑手らのいるのを見つけて大喝した。 「貴様は物の分かった男と思ったのに、これは何事か」 卞喜は事洩れたと知るや、 「それ、かかれ」

9. 三国志演義 2

「お前たちは車をお守りして先に参れ。追手。ゝ 無用なご心配をおかけせぬよう」 と命じ、従者らは車を押して街道筋へ向かった。 さて曹操が関公をどうしたものかと協議しているおりしも、左右の者が関公の書面を差しだした。 ただちに読んで、 「雲長が立ち退いたぞ」 と大いに驚くところへ 、北門を固めた大将から、 折「関公が門を押し通り、車馬二十余人、打ち揃って北方へ立ち去りました」 を 将との急報があり、そこへ関公の屋敷からも、 敗「関公は拝領の品々をすべて封じ、美女十人を奥におき、漢寿亭侯の印を部屋に残して、丞相より より立ち 兵差しつかわされた者どもはそのままに、己の連れて参った従者と荷物だけを持って、北尸 本退きました」 と注進して来た。一同があっと驚くところ、一人の大将が進み出て、 回 「それがし屈強の者ども三千騎をひきい、関雲長を手捕りとして丞相のご覧に供しましよう」 十 さいよう 、一うりゅう 第みなが見やれば、これそ将軍蔡陽。正に、万丈の蛟竜の穴、逃げようとして、またも行きあう 第一ろう 虎狼三千騎、というところ。蔡陽が関公を追おうとするが、さてこの先どうなるか。それは次回で。 カかかったなら、わしが引き受けるによって、奥方に

10. 三国志演義 2

を 事 さて程昱の言う計略とは、 うんちょう 「雲長は万夫不当の勇者でございますゆえ、智謀を用いねば降すことはかないませぬ。されば、 関りゅうび かひ て劉備のもとより降参して参った兵士を下郵に遣わし、逃げもどったと言いつくろわせて、あとで 屯城内より内通いたさせることといたします。その上で彼を合戦に誘き出して負けたふりをしながら 山遠方にさそい出し、精兵をもって退路を絶ったのち降参をすすめればよいのでございます」 事 ~ そうそう 曹操はそれに従って、すぐさま徐州から投降して来た兵数十人を下邸へ差し向け、関公に降参さ 回 かこうとん 五せた。関公はもとの部下であるから、そのまま城内において疑いもしなかった。次の日、夏侯惇が 第先鋒となって兵五千をひきい、戦いをいどんだ。関公が取り合わずにいると、夏侯惇が人を出して 城下でさんざんに悪口を言わせたので、大いに怒った関公は三千の兵馬をひきいて討っていで、夏 侯惇と切先を交えた。十合あまり打ち合ったとき、夏侯惇が馬首をかえして逃げれば、関公これに 第二十五ロ どぎんたむろ かん 土山に屯して関公三事を約し ロはく・は そうそう 白馬を救って曹操重囲を解く かん