いと士」 兄者にお届け下さらぬか。それがし曹操に暇乞いし、嫂方をお連れしてご当地へ参る」 「もし曹操が許さねば、どうなさるご所存かな」 「死んでもここに留まる心はない」 「では早く書面をおっくりくだされい。玄徳殿が待ちかねておいでであろうから」 関公は書面をしたためて玄徳に答えた。 そもそも義は心に背かず、忠は死を顧みずとか。それがし幼少の頃より書物にしたしんでいさ ようかくあい さはくとう ( 注こ さか礼儀をわきまえており、かって羊角哀・左伯桃の故事を読んで三嘆して涙を落としたことが かひ ひょうろう 折あります。先頃、下郵を守りしおりは、内に兵粮の貯えなく、外に援軍なきため、一度は死を あねうえ 将決意いたしましたが、二人の嫂上の身がおもんばかられて、身を棄つることもなり難く、故に しばら じよなん 敗暫くここに身を寄せて再度のご対面のおりをお待ちいたしておりました。近頃、汝南に参って 兵はじめて兄者のお便りを耳にし、ただちに曹操殿に暇を乞うた上、嫂方をお守りして御許に馳せ かみひと 本参ずる所存にございました。それがしもし心変わりいたすことあらば、神人ともそれがしを滅せ られるものにございましよう。思いのたけを申し述べたくも、筆紙にては尽くし難く、ひとえに 回 六見参の時を待ちおります。右、伏してご推察のほどを願い上げます。 第陳震は返書を得て帰った。関公は奥へ行って二人の嫂にこの由を知らせ、曹操に暇乞いをするた じようしようふ ことわりふだ めただちに丞相府にまかり出でた。曹操はその来意を知ると 、門に回避牌を掛けた。関公は空し しゆったっ く立ち帰って、以前からの従者たちに、車馬をととのえ、何時でも出立できるようにしておくこ あによめ
「丞相が安衆まで退く際、わざと行軍を遅らせられ、必ず勝っと仰せられたのは、如何なるわけに 、こギ、りまするか」 「あの時は前後をはさまれて退路もなく、生きるか死ぬかの戦いよりほかになかったので、奇手を おび 用いるため、わざと敵を誘き出したもの。それゆえ必ず勝っと申したのじゃ」 荀彧はこれに感服した。 ところへ郭嘉が伺候した。 「どうしたのじゃ。遅いではないか」 ーし と曹操が言うと、郭嘉、袖の中から一通の書面を取り出し、 決 こうそんさん ひょうろう 琵「ただいま袁紹の使者が丞相への書面を持参いたし、公孫環を攻めるため、兵粮と軍勢を借用い ったしたいと申し越して参ったのでございます」 を「袁紹は許都を狙いおるとか聞いたが、わしの帰ったのをみて気を変えおったのじゃな」 和と封を切って読めば、その言辞すこぶる傲慢なので、郭嘉に尋ねた。 賈「何たる無礼な奴か。きやつを討ち平らげたいものじゃが、それには力がたらぬ。どうしたらよい 回力」 ・一うう りゆら′ほ、「′ 「劉邦が項羽の敵でなかったことは、殿もよくご承知のはず。ただ高祖 ( 劉邦 ) は智にて勝ち、項 羽ごとき剛の者もついに手捕りとされましたが、いま、袁紹には十の敗因あり、殿には十の勝因が おそ はんぶんじよくれい ございます。袁紹は兵力にすぐれたりとは申せ懼るるにはたりませぬ。彼が繁文縟礼であるのに そで
はきゅう いるとき、周瑜が巴丘より軍勢をひきいて呉郡に立ち帰ったとの知らせがあったので、 - 一うきん 「公瑾 ( 周瑜の字 ) が帰ったなら、もう安心だ」 と言った。元来、周瑜は巴丘を守っていたのであるが、孫策が矢傷を受けたと聞いて、見舞にも ふほう どる途中、呉郡に近づいたときに彼の訃報に接し、夜を日についで馳せつけて来たもの。周瑜が孫 策の柩の前に泣き伏した時、呉太夫人が出て遺一一 = 口を伝えれば、周瑜は、 「それがし及ばずながら一命を投げすててもお役に立たせていただきます」 と平伏した。間もなく孫権が来た。周瑜が挨拶すると、孫権の言うのに、 斬「兄上のご遺命を忘れぬように」 を とんしゅ 吉周瑜、頓首して、 て「肝脳、地にまみるとも、先君の知己のご恩に報いる所存でござります」 怒「父兄の大業を継いだものの、どうしてこれを守ったらよいものか」 ほろ こんにち 「古より『人を得る者は昌え、人を失う者は亡ぶ』と言われております。今日、深謀遠慮の人を 補佐の役に求めることがまず先決、さすれば江東の地を保つこともかないましよう」 回 九「兄上は、国内の事は子布 ( 張昭 ) に問い、 国外の事はすべて公瑾にまかせよとご遺一言なされたぞ」 第「子布殿は賢達の士にござりますれば、ゆうにその大任を果たすこともかないましようが、身ども 8 には才なく、ご遺命に沿いえぬこともあろうかと存じますれば、将軍のご相談役として一人の者を ご推挙いたしたく存じまする」 ひつぎ さか
州に着いて呂市に会い 「わが殿にはかねてより将軍のご英名をお慕い申し上げておりましたが、このたびは是非若殿がた めに将軍のご息女を申し受けて、この先末長く誼みを結びたいと仰せいだされ、それがしかくは参 上っかまつりました」 呂布は奥にはいって妻の厳氏に相談した。もともと呂布には夫人二人と妾が一人いた。まず厳氏 ちょうせん そうひょう を正妻に迎えて、のちに貂蝉を妾にとり、小沛にいたおり、曹豹の娘を第二夫人に迎えたのであ るが、曹氏は子供もないまますでに死し、貂蝉にも子ができず、厳氏に一人だけ娘があって呂布は たま これを掌中の珠のように可愛がっていた。さてこのとき厳氏は呂布に答えて、 えんこうろ わいなん 軅「袁公路殿は久しく淮南を治められて、兵粮軍備の貯えも多く、近々に天子の位にも昇られようと じようじゅあかっき か伺っております。もしその大業成就の暁には、わたくしの娘も皇后になる望みもあろうと申す をものーーーしたが、あちら様にはお子が何人いらっしやるのか」 先「息子が一人おるだけだ」 奉 呂 「まあ、それなら、さっそくご承知なさりませ。たとい皇后になれないでも、徐州はこのさき安泰 回でごギ、いまするぞ」 + 呂布はそこで心をきめ、韓胤を厚くもてなして縁組を承知した。韓胤が立ち帰って袁術に報告す ゆいのう ると、袁術は即刻結納の品々を用意し、ふたたび韓胤に命じて徐州に届けさせた。呂布はそれを受 けて、彼のために酒宴を設け、客舎に泊まらせた。
りるなり、郭常の息子のうしろ髪をひっかんで関公の馬前にひきすえた。関公は名を尋ねると、 げんしよう 「それがしは、姓を裴、名を元紹と申します。張角の死後、仕える主人もなく、山賊どもを集め てここに隠れておりましたが、今朝、この男が参って、『日に千里も行くような馬に乗った客人が おれの家に泊まっている』と申し、その馬を盗もうとそれがしを誘い出したのでございます。将軍 とは全く存じませんでした」 と言い、郭常の息子も平伏して命乞いをしたので、関公が、 「お前の父御の顔に免じて、命だけは助けてつかわそう」 と言うと、急子は頭をかかえてこそこそと逃げ去った。 関公があらためて裴元紹に、 「そなたはわしの顔も知らぬのに、どうして名を知っておるのじゃ」 しゅう がぎゅう 「これより二十里のところに臥牛山と申す山があって、そこに姓を周、名を倉という関西の男がお ひげ ります。千斤のものを持ちあげる腕力があり、胸は板のように厚く、鬚はねあがり、みるからに強 かしら ちょうほう そうな男でございますが、もと張宝の下で一手の大将をいたし、張宝の死後、山賊の頭になって おります。それがし、その周倉がかねがね将軍のご勇名を語っては、お目通りの術がないのを無念 がっておるのを聞いておりました」 「山賊などは豪傑のいたすことではない。そなたたちもこれより正業に帰り、自らをおとしめるよ うなことはやらぬようにいたせ」 そう かんせい
めたのを知って大いに喜び、韓胤を街頭に引き出して斬首にした。陳登がひそかに曹操に進言した。 「呂布は山犬のごとき奴。腕カばかりで頭のない上、去就をわきまえぬ男にございますれば、早い うちに方をつけておくがよろしいと存じます」 「奴が大それた野心をもっ男で、末長く味方につけておくことのできぬことは、わしも知っておる。 彼の内情を知りつくしているのはなんじら父子だけだが、一つわしの力になってくれい」 「丞相が手を下される時には、それがし必すお手引いたすでございましよう」 第一うりよう ちんけい ちつろく 曹操は喜んで、陳珪に中二千石の秩禄を贈り、陳登を広陵の太守とした。陳登が辞し去るにあ たって、曹操は彼の手をとって言った。 軅「東方のことは頼んだそ」 陳登はしかとうなずき、徐州に立ち帰って呂布に目通りした。呂布が首尾を尋ねると、 を「父は秩禄を贈られ、それがしは太守に任ぜられました」 先「なんと、貴様はわしのために徐州の牧を手に入れようともせで、おのれの官位のために働いて来 呂たのか。うぬの父親は曹操殿に味方して袁公路との縁談をたつようにわしに勧めておきながら、わ 回しには何一つとらせず、おのれ親子だけ高位をつかみおったわけか。よくもわしを売りおったな」 十呂布が剣を引き抜いて斬りかかろうとしたとき、陳登はからからと笑った。 「将軍がこんなにも馬鹿だとは、思いもよりませんでしたそ」 「なに、わしが馬鹿だと」
でござる」 げんとく 、ま、ちど丞相の御許にお帰りになっては、どうでござ % 「玄徳殿のご所在が分からぬとあらば、しし る」 「それはできますまい。貴公お帰りの上、丞相によくよくお詫びいたしおいてくだされい」 きようしゅ と笑った関公は張遼と拱手して別れ、張遼は夏侯惇とともに軍勢を随えて帰って行った。 関公は車の行列に追いついて、この由を孫乾に話し、二人はを並べて進んだ。行くこと数日し たとき、にわかの大雨に何もかもずぶ濡れとなったが、遙かな丘の裾に屋敷のあるのが見えたので、 関公は一行を連れて宿を求めに行った。一人の老人が迎えに出たので、関公がわけを話すと、老人 じよう 「わたくしは姓を郭、名を常と申し、代々この土地に住んでおる者でございます。かねがね将軍の ご高名を承っておりましたが、お顔を拝することができようとは夢にも思っておりませんでした」 ギ、しき と言って、羊をつぶし酒を出してもてなし、二人の夫人を奥に案内して休ませた。郭常は草堂で 関公・孫乾の酒の相手をし、また荷物をかわかしたり馬にかいばをかったりする世話をやいた。日 の暮れ方、とっぜん一人の若者が数人の男たちを連れて屋敷にはいって来ると、無遠慮に草堂に上 がって来た。 郭常は、 かく おんもと くつわ
274 つるおと 突きたった。孫策がその矢を抜きとって弓につがえ、いま射かけた者へ射返せば、弦音とともに、 ばったり倒れた。他の二人は槍をかまえて左右よりさんざんに突きたて、 「われらは許貢殿の食客だ。主君の仇、思い知れ」 と叫んだ。孫策は手許にえものがないので、やむなく弓で防ぎながら逃れようとしたが、二人は いっかな退こうとせず、孫策は身に数カ所も穂先を受け、馬も傷ついた。もはやこれまでかに見え ていふ たとき、程普が数人の者をひきいて駆けつけたので、孫策、 くせもの 「曲者を射ちとれ」 と叫び、程普らが一斉に躍りかかって、かの者たちを斬りきざみ肉のかたまりのようにした。孫 1 ) かい じんばおり 策はと見れば、顔中、朱に染まり、深手を受けているので、戦袍を切りさいて傷を縛り、呉会 ( 呉 郡 ) に連れ帰って養生させた。後の人がこの許家の三人を讃えた詩に、 孫郎が智勇江のに冠たりしに こんき 山中に射猟して困危を受く 許客三人よく義に死す よじよう ( 注一 ) 殺身の予譲もいまだ奇となさじ ちゅうげん かだ さて孫策は手傷を負うて帰り、華陀を呼びにやらせたが、彼はすでに中原に去っておらず、弟 たた
130 陳登が帰宅して父陳珪にこの由を話すと、陳珪から前もって玄徳に知らせておくよう命じられ、 すぐさま馬を飛ばすところ、関・張が帰って来るのに出会ったので、かくかくしかじかと告げた。 もともと関・張は玄徳より一足先に帰って来たものであったが、張飛はこれを聞くなり、ただちに 城へ攻めかかろうとした。ところを雲長に 「向うが甕城に待ちうけているというからには、行けば必ずやられる。わしに車胄を殺す手がある。 あざむ おび 夜にまぎれて曹操の軍勢が徐州に着いたように騙き、車胄を誘き出して殺すのだ」 と言われて、いかにももっともと思いとどまった。おりもよし彼らの部下は曹操の旗じるしを よろい 前々から持っており、軍衣や鎧もすべて同じであったので、その夜の三更に城下に行って門を開け ちょうぶんえんちょうりよう すいか ろと叫んだ。城壁の上から誰何されると口々に曹丞相より派遣されて来た張文遠 ( 張遼 ) の軍勢 だと答えた。知らせを受けて車胄が、急いで陳登を呼んでこれを諮り、 「迎えに出ねば、疑いをかけられる恐れがあるし、またうかつに出て企みにかかるのも困る」 と言って櫓に上り、 「この闇夜では見分けがっきかねる。夜の明け次第お目にかかろう」 と一言ったところ、下からは、 「劉備に知られては一大事。早く開けて下されい」 との答え。なお心を決めかねているところへ、城外の開門開門の声しきりに起こったので、えい ままよと車胄、鎧を着、馬にまたがり、兵一千をひきいて城門を駆けて出、吊り橋を一気に渡って、
272 そんさく ひょうろう けんあん さて孫策は江東を切りしたがえて以来、精兵を整え兵粮も豊かに貯えていたが、建安四年 ( 一九 りゅうくん ろ - 一う ぐほんよしよう かきん 九 ) には劉勲を破って廬江を攻めとり、虞翻を予章郡へ遣わして太守華歌を投降させた。これより ちょうこうきよしよう そうそう 威勢おおいにふるうに至ったので、張紘を許昌に遣わして勝利を報ずる上奏文を奉った。曹操は 孫策が強大になったのを知って、 「獅子の子め、なかなかやりおるわい」 そうじん そんきようめあ と嘆息し、曹仁の娘を孫策の末弟孫匡に妻わせて両家の誼みを固め、張紘を許昌に留めておい きよと 孫策は大司馬の地位を求めたが、曹操が許さなかったのを根にもって、常々、許都を襲おうと きょ - 一う の心を抱いていた。そこで呉郡の太守許貢はひそかに許都へ使者をやって曹操に上書しようとした。 その文意は、 よろ 孫策の武勇、古の項籍 ( 項羽 ) にも比すべきもの。朝廷には宜しく高位をもって彼を都に召還 第二十九ロ しようはおう うきっ 小霸王怒って于吉を斬り 、 : っとう ロへきがんじ 碧眼児坐して江東を領す こうせき