徐州 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 2
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1. 三国志演義 2

317 略年表 六四月、霊帝 ( 三四 ) 没。少帝劉弁 ( 一四 ) 即位。八月、十常侍の乱、董卓 ( 五一 ) 入京。呂布、丁原を殺して董卓につき、袁紹、董卓に反対して逃 亡。九月、董卓、少帝を廃して献帝劉協 ( 九 ) を立てる。一二月、曹操、 陳留で挙兵。 一九〇初平一一月、袁紹ら挙兵。董卓、劉弁を弑す。二月、董卓、献帝を長安に移し洛 陽を焚く。 一一二月、関羽、華雄を斬って勇名を挙ぐ。孫堅、洛陽で伝国の玉璽を得。七 月、袁紹、冀州を取る。曹操、東郡の太守となり、荀彧 ( 二九 ) を幕下に . 刀 , っ 三一月、袁紹、界橋で公孫環に大勝。四月、王允、呂布とともに董卓 ( 五 四 ) を殺す。曹操、 ~ 兌州の牧となり青州の黄巾賊を平定、青州軍を編成。 程昱 ( 五 (l) ・于禁を幕下に加う。六月、李催・郭汜、長安を占拠して王允 ( 五六 ) を殺す。一一月、孫堅 ( 三七 ) 、劉表と戦って陣没。孫策 ( 一八 ) こ れを継ぐ。 四夏、陶謙、徐州の牧となる。秋、曹操、陶謙を攻めて十余城を抜き、領民 一〇万を殺す。 一九四興平一二月、曹操ふたたび徐州を攻撃。陶謙、青州刺史田楷・平原の相劉備 ( 三 三 ) に救援を乞う。劉備、予州の牧となって小沛に駐屯。呂布、張遞に迎 えられて州の牧となる。八月、曹操、濮陽において呂布に苦戦。陶謙 ( 六三 ) 没、劉備、徐州の牧となる。孫策、江東に帰り、周瑜 ( 二〇 ) を幕

2. 三国志演義 2

しようまい 呂布は物見の者より、張勲の軍は街道沿いに一路徐州に向かい、橋の軍は小渺に、陳紀の軍 と ろうや けっせき かひ しゅんぎん は沂都に、雷薄の軍は瑯に、陳蘭の軍は碣石に、韓暹の軍は下邸に、楊奉の軍は浚山に向かい、 七軍の兵馬、日に五十里、途々略奪を働きながら押し寄せきたるとの報告を受けて、急ぎ幕僚一同 ちんきゅうちんけい を呼び集めて協議し、陳宮や陳珪父子もこれに同席した。 「このたびの徐州の危機はすべて陳珪父子が招いたものにござる。二人が朝廷に媚を売って爵禄を 申し受けながら、将軍に禍いをふりかえたものにござれば、この二人の首を斬って袁術に差し出さ ば、・伐も引き岶物げるで。こギ、いましょ , つ」 ちんとう と言う陳宮の言葉に、呂布がげにもと、即座に陳珪・陳登の召捕り方を命じたところ、陳登から をからと笑って、 ちりあくた 七 「これは何と情ないことを申されるのか。それがしの目からすれば、かの七軍なそ塵芥の如きも の。とやかく申すまでもないことではござらぬか」 大 路「貴様に敵を破る計があるなら、見逃してやる」 「将軍がもしそれがしの計をお用いあれば、徐州は安泰におわしますそ」 回「申してみよ」 う一う + 「袁術の軍は多勢とは申せ、みな烏合の衆、互いに信のおける者どもではござりませねば、わが方 で要害を固め、かたがた奇兵を出してこれを衝けば、勝を得ること疑いござらぬ。さらに、徐州を 安泰に保つのみか、袁術を生捕りとする手もござる」 っ

3. 三国志演義 2

かくて酒が数巡してから、紀霊は書面を受け取って先に帰った。呂布が玄徳に、 1 「わしがおらずば危いところであったな」 あく と言い、玄徳は厚く礼を述べて関・張とともに帰った。かくて、三手の軍勢は、翌る日それそれ に陣を引き払った。 わいなん 玄徳が小沛に入り、呂布が徐州に帰ったことはさておき、紀霊は淮南に立ち帰って袁術に見え、 呂布が轅門に戟を射当てて和睦を取り計らった事を告げて書面を差し出した。袁術は烈火の如く怒 「呂布はわしから多量の兵粮を受け取っておきながら、そんな児戯を弄して劉備にカ添えするとは 不届な。わしが改めて直々出陣して劉備を亡ばし、かたがた、呂布に痛い目を見せてくれよう」 と言うと、紀霊が言った。 「殿、それはよくよくのご考慮が必要と思われます。呂布の武勇は並なみのものにはあらず、しか も徐州をも従えおることなれば、もし彼が劉備と首尾相通じた時には、容易にはあっかいかねます。 聞けば彼の妻厳氏に、すでに妙齢の娘があるとのこと。殿にも若殿がおありのことでありますれば、 彼に縁組を申し入れられるがよろしゅうございます。彼がもし承知いたさば、必ず劉備をそのまま うと した にしてはおきますまい。これ『疎きは親しきをへだてずの計』にございます」 かんいん 袁術はこの言に従って、即日韓胤を使者に立て、進物をたずさえて徐州へ向かわせた。韓胤は徐 まみ

4. 三国志演義 2

進んで戦おうともせず、袁紹も、いもとなく思って、軍を進めようとしなかったのである。そこで、 りよふ ぞうはせい うきんりてん そう 曹操は降参した呂布の部将臧霸に青州・徐州方面を固めさせ、于禁・李典を黄河の河畔に留め、曹 じん かんと 仁に大軍を委ねて官渡の渡しに駐屯させておいて、一軍をひきいて許都に帰った。 さて劉岱・王忠は兵五万をひきいて徐州から百里あまりのところに陣をとったが、本陣に曹丞相 の旗じるしを掲げて、それ以上進まず、もつばら河北の戦況に注意していた。一方、玄徳も曹操の を腹のうちが分からないので、やはり進んで動こうとはせす、ひたすら河北の様子をさぐっていた。と、 三にわかに曹操よりの使者が到着して、劉岱・王忠に軍を進めよとのこと、二人は陣中で協議した。 馬「丞相には城を攻めろとのご命令じゃ。貴公、先にかかられい」 お と劉岱が言えば、王忠は、 の お「丞相は貴公を先陣にお命じあったのではないか」 「わしは主将だ。先に出る筋合はない」 袁 「ではいっしょに兵をひきいて寄せかかろうではござらぬか」 回 「さらば籤を引き、当たった者が行くこととしょ , つ」 十 第かくて王忠が「先』の字を引きあてたので、やむなく半数の兵をひきいて徐州に寄せかかった。 玄徳は敵勢きたると聞き、陳登を招いて諮った。 えんほんしょ 「袁本初殿は黎陽に陣を取っておるものの、幕僚間の不和のため、兵を進めようとされず、曹操の

5. 三国志演義 2

とのこと。曹操はただちに曹仁に兵三千を与えて小沛城攻略に向かわせ、自ら大軍をひきいて、 そんかんごとん しようかん 玄徳とともに呂布討伐に向かった。山東に進んで蕭関に近づいたとき、泰山の山賊孫観・呉敦・ きょちょ いんれいしようき 尹礼・昌稀が三万あまりの兵をひきいて行手をさえぎった。曹操が許緒に出馬を命するや、敵の大 将四人も揃って出馬したが、許緒の獅子奮迅の力闘にあって四方へ逃げ散り、曹操は余勢を駆って これを揉み立て揉み立て蕭関まで迫った。これを早馬が呂布に知らせた。 ちんけい ちんとう 時に呂布は、徐州に帰ると、陳登とともに小沛の救援に赴くべく、陳珪に徐州の守備を命じた。 陳登の出陣にのぞんで、陳珪が言った。 「先に曹操殿は東方の事をすべてそちにまかすと仰せられた。呂布の命も今日明日じゃ、心してや びじく 「外のことはわたくしがよしなに取り計らいます。呂布が敗れて帰って参りましたら、父上は糜竺 殿と城を固めて、呂布を立ち入らせないで下さいませ。その時にはわたくしは別に逃げる手がござ います」 「したが、呂布の家族がここにおり、腹心の者どもも多いが、これはどうしたものか」 「それについては、わたくしに考えがございます」 陳登は呂布のもとに罷り出て言った。 「徐州は四方から敵を受けており、曹操がカの限り攻めよせて来るのも必定にござりますれば、わ そうじん

6. 三国志演義 2

186 きょちょ ちょうりトっ かんせい 喊声がおこる。計られたかと張飛、急いで脱け出そうとするところ、東から張遼、西から許緒、 かこうえん じよ - 一う がくしん か、一うとん りてん うきん 南から于禁、北から李典、東南から徐晃、西南から楽進、東北から夏侯惇、西北から夏侯淵、八方 から大挙殺到する。張飛、前後左右とあばれまわったが、配下のものどもすべてもとの曹操の部下 であったから、危しとみてことごとく降参してしまった。張飛は奮闘するうち、徐晃とあってはげ しく斬り結ぶところへ、背後から楽進が迫ったので、ようよう血路をひらいて囲みを脱れ出たが、随 かひ って来たのは数十騎のみ。小沛に帰ろうと思ったが、すでに退路を断たれ、徐州、下邸に落ちょう ばうとう かと思ったものの、これまた敵にさえぎられそうで、もはやこれまでと芒陽山目指して落ちのびた。 さて玄徳は軍勢をひきいて夜討ちに出たが、敵陣間近に迫った時、にわかに鬨の声があって背後 から一隊の軍勢が襲いかかり、早くも軍の中程を絶ちきった。そこへ夏侯惇が殺到したので、玄徳、 あらて 囲みを破って逃げれば、新手の夏侯淵が追いすがる。振り返って見れば、随って来る者は僅か三十 騎余り。急ぎ小沛に逃げもどろうとしたが、小沛の城には早くも火の手が上がっている。小沛を見 棄てて徐州か下郵へ逃れようと思ったが、曹操の大軍が山野を埋めて退路をさえぎっている。もは や帰る先はなしと観念し、 「そうだ、袁紹が『もし万一のことがあったら、わしのところへ来い』と言っていた。この上はし ばらく世話になって、再起をはかろう」 と、青州への道筋を目指して馬を飛ばすおりしも、李典が真向に立ちはだかったので、玄徳ただ とり , 一 一騎、馬首を北へ向けて落ちのびれば、李典は残った将兵をすべて擒とした。 とき

7. 三国志演義 2

ぞうは の厚意に感じて、降参を申し出たので、曹操は彼を中郎将とし、関内侯の爵位を授けて、臧霸に帰 りよふ 順をすすめるよう命じた。臧霸は、呂布すでに死し、張遼がすでに降参したと聞いて、手勢をひき そんかんごとんいんれい いて降参したが、曹操が十分な恩賞を与えたところ、臧霸はまた孫観・呉敦・尹礼を説いて帰順さ しようき ろうやしよう せたので、残るは昌稀ただ一人となった。曹操は臧霸を瑯瑯の相に封じ、孫観らにもそれそれ官位 きよと を授けて青州・徐州の沿海地方を守らせた。かくして、曹操は呂布の妻子を許都へ送り、三軍に十 分の手当てをしたのち、陣を引き払って帰京の途についた。途中、徐州を通ったとき、領民たちが りゅう 道端に香を焚いて出迎え、劉玄徳を栁として留め置かれるよう願い出た。曹操が、 ( 注二 ) まいえっ 「劉使君は大功を立てられたので、天子に搨謁して爵位を受けられた上、帰って来られるであろう」 しやき しゃちゅう ーし と言うと、人民は叩頭して喜び、曹操は車騎将軍車胄に暫時徐州を治めるよう命じた。曹操は じようしよ、つふ やかた 囲きよしようがいせん 打許昌に凱旋して、出征将兵にそれぞれ恩賞を与え、玄徳を丞相府の近くの館に落ち着かせた。 あく 田 翌る日、献帝が朝廷にお出ましになると、曹操は玄徳の戦功を奏上し、玄徳をご前に伺候させた。 瞞玄徳が礼服に威儀を正して階の下に拝伏すると、帝は殿上にのばるよう仰せいだされて、 曹「そなたの祖先は誰であるか」 回 とご下問あったので、玄徳は、 十 ちゅうぎんせいおう こうけい りゅうゆう りゅう - 一う 二「臣は中山の靖王の末孫、孝景皇帝陛下の玄孫、劉雄の孫、劉弘の子にございます」 そうせい と奏上した。帝が皇室の系図をお取り寄せになって、宗正卿 ( 宮内大臣 ) に読み上げるようお命 じあれば、 きざはし かんだい ( 注こ

8. 三国志演義 2

と言ったが、 「朱霊・路昭がつけてある。玄徳も心変りしたくもできはしまい。ましていったん出したものだ。 今さら考えたところではじまるまい」 111 ロ と、二度と玄徳を追おうとはしなかった。後の人の玄徳を嘆じた詩 , まぐさ そうそう 兵を束ね馬に秣して去ること怱々 おも 、いには念う天言衣帯の中にあることを つきやぶ こひょう 鉄籠を撞破りて虎豹逃れ にわか - 一うりゅう 頓に金鎖を開いて蛟竜走る ばとう せいりよう さて馬騰は、玄徳が去った上、辺境から急を告げて来たりしたので、同じく西涼州の任地へ帰 しゃちゅう そんけんびじく った。玄徳の軍勢が徐州に着くと、刺史車胄が出迎え、歓迎の酒宴が済んで孫乾・糜竺らが目通 りした。玄徳は家に帰って家族たちと久々に対面し、かたがた人をやって袁術の様子をさぐらせた。 その間者が帰ってきての報告に、 らいはくちんらん すう 「袁術のあまりの贅沢な暮らしように、雷薄・陳蘭らはことごとく嵩山に引き籠ってしまい、威勢 全く衰えた袁術は、袁紹に帝号を譲る旨の書面をやりましたところ、袁紹から直々出向くようとの ぎよぶつ 使者が参ったので、彼は軍勢・宮中の御物などを取りまとめて、まず徐州を押し通らんとしており

9. 三国志演義 2

さても玄徳はただ一騎青州を目指し、日に三百里も飛ばして城下に着き、開門を頼んだ。番卒は 姓名を尋ねて、刺史に報告した。刺史は袁紹の長子袁譚である。袁譚はかねてより玄徳を慕ってい たので、彼がただ一騎で到着したと聞くや、ただちに門を開いて迎え入れ、役所に案内して事の次 第を尋ねた。玄徳が、合戦に破れて頼って来た仔細を物語れば、袁譚はとりあえす玄徳を客舎に休 ませておいて、父袁紹にこの由通報するとともに、一方、配下の兵を出して、玄徳を送らせた。平 ぎよう 原県境に至れば、袁紹自ら大勢の部下を引き連れ、郊郡から三十里も出張って玄徳を迎えた。 殺玄徳が平伏して礼を述べれば、袁紹あわてて礼を返し、 妃「先日は息子が患っていたため、加勢にも出られず、いたく気にかけておったが、今日、幸いにも てこうしてお目にかかれ、平生の望みもかない嬉しく存ずる」 ひざもと な「身どもかねてよりお膝許に馳せ参ぜんものと思っておりながら、そのおりもなかったところ、こ を のたび曹操に攻められて妻子まで奪われ、四方の士を広く迎えいれられる将軍のご器量を頼みに、 兇 れんびん 賊かくは恥をもかえりみず頼って参りました。ご憐憫をたもうことがかないますれば、誓ってご恩に 酬ゆる所存にございます」 回 四袁紹はいたく喜んで、彼を厚くもてなし、冀州に住まわせた。 第 びじく かんよう さて曹操はその夜、小沛を取り、ただちに軍を進めて徐州に押し寄せた。糜竺・簡雍が敵しよう ちんとう もなく、やむなく城を棄てて落ちのびれば、陳登が徐州を曹操に献じたので、曹操は大軍をひきい えんたん

10. 三国志演義 2

州に着いて呂市に会い 「わが殿にはかねてより将軍のご英名をお慕い申し上げておりましたが、このたびは是非若殿がた めに将軍のご息女を申し受けて、この先末長く誼みを結びたいと仰せいだされ、それがしかくは参 上っかまつりました」 呂布は奥にはいって妻の厳氏に相談した。もともと呂布には夫人二人と妾が一人いた。まず厳氏 ちょうせん そうひょう を正妻に迎えて、のちに貂蝉を妾にとり、小沛にいたおり、曹豹の娘を第二夫人に迎えたのであ るが、曹氏は子供もないまますでに死し、貂蝉にも子ができず、厳氏に一人だけ娘があって呂布は たま これを掌中の珠のように可愛がっていた。さてこのとき厳氏は呂布に答えて、 えんこうろ わいなん 軅「袁公路殿は久しく淮南を治められて、兵粮軍備の貯えも多く、近々に天子の位にも昇られようと じようじゅあかっき か伺っております。もしその大業成就の暁には、わたくしの娘も皇后になる望みもあろうと申す をものーーーしたが、あちら様にはお子が何人いらっしやるのか」 先「息子が一人おるだけだ」 奉 呂 「まあ、それなら、さっそくご承知なさりませ。たとい皇后になれないでも、徐州はこのさき安泰 回でごギ、いまするぞ」 + 呂布はそこで心をきめ、韓胤を厚くもてなして縁組を承知した。韓胤が立ち帰って袁術に報告す ゆいのう ると、袁術は即刻結納の品々を用意し、ふたたび韓胤に命じて徐州に届けさせた。呂布はそれを受 けて、彼のために酒宴を設け、客舎に泊まらせた。