二〇三 二〇四 二〇五 二〇七 二〇九 に降る。二月、曹操、白馬で袁紹を破る。関羽、劉備と再会。四月、孫策 ( 二六 ) 没。孫権 ( 一九 ) これを継ぐ。一〇月、曹操、烏巣で袁紹の兵粮を 焚く 六劉備、汝南で曹操に大敗、荊州の劉表を頼る。 七五月、袁紹没。九月、曹操、袁尚・袁譚を討つ。 八八月、曹操、劉表を討ち、また袁尚・袁譚を破る。 九七月、曹操、袁尚を破って河北を平定。 一〇一月、曹操、袁譚を斬って青州を平定、袁煕・袁尚、烏丸に奔る。 一二春、曹操、烏丸討伐の軍をおこす。劉禅生まる。八月、曹操、白狼山で 頓を斬る。九月、遼東の太守公孫康、曹操に袁尚・袁煕の首を献ず。郭嘉 ( 三八 ) 没。諸葛亮 ( 二七 ) 、劉備 ( 四七 ) の軍師となる。 一三一月、曹操、郊郡に玄武池をつくり水軍を訓練。六月、曹操、丞相となる。 七月、曹操、南征。八月、荊州の牧劉表没し、劉琮これを継ぐ。曹操、孔 融 ( 五六 ) を殺す。九月、曹操、新野に南下、劉琮を降す。劉備、夏口に 奔り、諸葛亮を孫権のもとへ派遣。一二月、赤壁の合戦で曹操、大敗。劉 備、江南の四郡を平定。 一四劉備、荊州の牧となり、孫権の妹を娶る。周瑜、彝陵で曹仁を大破。流れ 矢を受けて負傷。
この夜の二更、果たして手に手に草の束を持った一手の軍勢が陣屋に殺到して、一斉に火をかけ 。両人が勢いに乗 た。すかさず、劉賢・邪道栄が両側から討って出ると、その軍勢はわっと退い ってこれを追ううち、十里あまり行くと、とっぜん、前を逃げていた軍勢が消え失せた。驚いた二 人が、急いで陣屋に取って返せば、まだ燃えつづけている火の光を浴びて、陣中から一人の大将が 躍り出す。これそほかならぬ張翼徳であったから、劉賢は、 「陣へははいれぬぞ。このまま孔明の陣屋へ押し寄せよう」 と邪道栄へ呼びかけるなり、ふたたび軍勢をひきいて取って返したが、十里も行かぬうち、横合 から趙雲が一隊をひきいて討って出で、一撃のもとに邪道栄を突き落とした。劉賢があわてて馬を 粛飛ばすところ、うしろから追いすがった張飛に組みつかれた。縛り上げられて孔明の前に引っ立て てられた劉賢が、 も「すべて邪道栄の差し金でやったことで、本心からではござりませぬ」 智 と言うと、孔明は縄目をとかせて、着物を与え、気付の酒を飲ませてから、人をつけて城へ送り 葛帰してやったが、帰城の上は父親に降参をすすめるよう、もし降参しなければ、攻め落とした上、 一門皆殺しにすると固く言い含めた。劉賢は零陵にもどって父親の劉度の前に出、孔明の情義ある 回 二仕打をつぶさに話して、降参をすすめた。劉度はその勧めに従い、城頭に白旗をかかげて城門を開 たいしゅ いんじゅ 第き、印綬を捧げて城外の玄徳の本陣へ降参を申し入れた。孔明は劉度をそのまま太守として留め、 劉賢を荊州へ連れ帰って軍務に服させることとしたので、零陵の領民たちは、大いに喜んだのであ つ ) 0 さがね
「貴公、またまた諸葛亮にしてやられましたな。劉備は前に劉表のもとに身を寄せていた時ですら、 このままでは貴 おりあらば奪い取ろうと狙っておったのに、西川の劉璋を棄てて置くはずはない。 わざわ 公にまで禍いが及びましようぞ。さらば、それがしが諸葛亮めにひとあわふかせてくれるほどに、 もう一度ご足労下さらぬか」 「その策とは」 「貴公は呉侯にお目通りせずに、もう一度、荊州へ行って、こう劉備にお伝え下さらぬか。孫・劉 両家はもはや縁組みを結んだのであるから一家も同然。もし劉家が西川を取るに忍びないとあらば、 わが東呉が軍勢を出して攻めかかり、首尾よく取った上は、それを嫁入りの引出物とするによって、 宴荊州は東呉に引き渡してもらいたいとな」 へきえん 「西川は僻遠の地ゆえ、容易には取れますまい。それは、ちと無理ではござらぬか」 銅周瑜は笑った。 「貴公は人が好すぎる。それがしが本心から西川を取って彼にやる気でいるとでも思われてか。そ 大 操れがしは、ただこう言っておいて劉備を油断させ、実は荊州を取ろうとしておるのでござる。東呉 ひょうろう′一うりき の軍勢が西川を攻めるには、荊州を通らずには済まされぬ。そこで、彼に金銀・兵粮の合力を頼 回 六めば、劉備が城を空けて迎えに出るに相違なく、その時に、一挙に攻めかかって、荊州を奪い取れ 五 ば、それがしの恨みをはらすこともできるし、貴公の難儀もお救いできようというものではござら 第 ぬか」 魯粛は大いに喜んで、ふたたび荊州にやって来た。玄徳が孔明に諮ると、孔明は言った。
だいてまいった者として、それがし殿がむざむざ人の奸計に陥るのを見るに忍びませぬ。なにとぞ 思いとどまられまするよ、つ」 と言ったが、張松が、 「黄権の申すことは、同族の信義をさき、逆賊の威勢を助けるもので、殿のおためにはなりませぬ と言ったので、劉璋は彼を叱りつけた。 「わしの心は決まっておる。貴様はなんで逆らうのか」 すそ 黄権は叩頭したため額より血を流しながら劉璋ににじり寄り、衣の裾をくわえてとめようとした。 しが、劉璋は大いに怒り、裾を払って立ち上がった。黄権はなおもくわえて放そうとしなかったので、 を門歯が二本、折れ飛んだ。劉璋が左右のものに命じて、黄権を追い立てさせると、彼は声をあげて 楊泣きながら立ち去った。 反劉璋が出掛けようとしたとき、一人の者が、 年「黄公衡殿の忠言を容れられないのは、自ら死地にはいるようなものにござりまするそ」 きぎはし けんねいゅげん 張と叫んで、階の前に平伏した。見れば、建寧郡兪元の人、姓は李、名は恢である。 回「『君には諍むる臣あり、父に諍むる子あり』とか聞いておりまするが、黄公衡殿の直言、なにと ルそお聞き入れ願わしゅう有じまする。劉備を西川へ引き入れるのは、虎を門内へ迎え入れるが如き ものにごギ、りまする」 と叩頭して諫めたが、劉璋は、
降参した。子竜が縛り上げて玄徳と孔明の前に引っ立てて行くと、玄徳はすぐさま首を刎ねろと命 Ⅱじたが、孔明が急いでとめて、 「劉賢を捕えて参れば、命を助けて遣わすそ」 邪道栄が行かせてくれと熱心に言うので、孔明が、 「どのようにして捕える所存か」 と尋ねると、 「軍師がそれがしを今一度お帰し下さりますれば、それがしきっと首尾よく取り計らいまする。今 夜、夜討ちをおかけ下さらば、それがし陣中にあって呼応し、劉賢を手捕りとして軍師に献するで ござりましよう。劉賢が擒となれば、劉度は降参いたします」 玄徳は信じようとしなかったが、孔明は、 「邪将軍の言葉に詐りはござるまい」 と言って、彼を帰らせた。無事に陣地へもどった邪道栄は、これまでの事をすべて劉賢に話した 「して、どうする所存じゃ」 と言われて、 「敵の裏をかくのでござります。今夜、軍勢を陣屋の外にひそませておき、陣中には旗さし物だけ を立てておいて、孔明が夜討ちをかけて来たところを手捕りにするのでござります」 と答え、劉賢も同意した。 いつわ とり - 」
283 略年表 一九九 二〇〇 一九五 一九四興平一二月、曹操ふたたび徐州を攻撃。陶謙、青州刺史田楷・平原の相劉備 ( 三三 ) に救援を乞う。劉備、予州の牧となって小沛に駐屯。呂布、張 に迎えられて克州の牧となる。八月、曹操、濮陽において呂布に苦戦。陶 謙 ( 六三 ) 没、劉備、徐州の牧となる。孫策、江東に帰り、周瑜 ( 二〇 ) を 幕下に加う。 一一曹操、定陶で呂布を破る。三月、李催・郭汜、長安を騒がす。夏、呂布、 鉅野で曹操に大敗、劉備を頼る。七月、献帝、洛陽へ向一つ。一〇月、曹操、 州の牧となる。 一九六建安一七月、献帝、洛陽にはいる。曹操 ( 三六 ) 入京して録尚書事となる。九月、 曹操、献帝を許昌に移す。一〇月、劉備、下郵で呂布に敗れ、曹操を頼る。 孫権 ( 一五 ) 、呉郡陽羨の県長となる。 一一一月、曹操、張繍に大敗。春、袁術、淮南で成を建国。 三七月、曹操、張繍・劉表を大破。九月、曹操、袁術を討つ。一二月、曹操、 下郵で呂布・陳宮を斬り、張遼 ( 三〇 ) を幕下に加う。劉備、献帝に拝謁、 左将軍に補せらる。 四一月、公孫環、袁紹に敗れて自害。五月、劉備、許都を脱出して下郵を奪 回。六月、袁術没。一二月、曹操、官渡で袁紹と戦う。 五一月、曹操、董承らを殺し、下郵を抜く。劉備、袁紹を頼り、関羽、曹操 一九七
「この漢中の民は十万あまりで、暮しも豊かに食糧の貯えも多く、四面要害に囲まれておりますと し 1 」こく ころ、このたびの馬超の敗戦にて、子午谷より漢中に流れこんで来た西涼の兵士たちも数万を下り りゅうしようだじゃく せいせん ませぬ。さらば、それがしの思いまするに、益州の劉璋は懦弱な男ゆえ、まず西川四十一州を取 って足場となし、しかるのち王位にお即きになっても遅くはないと存じまするが」 ちょうえい と言ったので、張魯は大いに喜び、弟張衛と出兵の協議を始めた。 一方、この由は早くも間者によって西川へ報じられた。 しよう きようり編っ キ、ぎよく ろきよう げんな りゅうえん さて益州の劉璋、字季玉は、劉焉の子で、漢の魯の恭王の末孫である。章帝の元和年間、竟陵 とへ転封になったので、その子孫がこの地に移って来たのである。劉焉はのちに益州の牧にすすみ、 よう ちょうい 馬興平元年 ( 一九四 ) に廱がもとで死んだので、州の重役、趙題らが劉璋を益州の牧に推したのであ ほ・つ一 はせい る。劉璋は前に張魯の母親と弟を殺したので、かねがね反目しており、廳羲を巴西の太守として、 を 張魯の侵攻を防がせていた。この時、靡羲は張魯が軍をおこして西川を取ろうとしているのを探知 衣 褶するや、劉璋にこれを急報した。劉璋は生まれつき臆病だったので、この知らせを聞くや、心中い たく憂え、急いで役人たちを集めて協議した。と、一人が昻然と進み出て言うのに、 回 さんずんふらん 九「殿、ご安心下さいますよう。それがし非才とはいえ、この三寸不爛の舌にて、張魯めにわが西川 第へ目を向けることもできぬようにして進ぜまする」 しよく 正に、の臣下の一言に、」 弗州の豪傑、現われいずる、というところ。さてこの人は誰か。それ は次回で。 っ えき
ろうせい りよふ ほうせん 隴西の豪族。強大な武力を背景に献帝を擁立呂布 ( ? ー一九八 ) 字は奉先。董卓の義子。後 し、専横をきわめる。 漢末随一の武勇をうたわれながら、転変常な ・ばとう・ じゅせい ふくは ばえん 馬騰 ( ? ) 字は寿成。漢の伏波将軍馬援の末孫。き性格のため天下の嫌われ者となる。 ろしゆく 巨驅強力の隴西の豪族。 魯粛 ( 一七二ー二一七 ) 字は子敬。孫権の幕僚。 もうき ばちょう * 印は正史に記載なく『演義』によった。 馬超 ( 一七六ー二二一 l) 字は孟起。馬騰の長子。 劉備父子に仕えた蜀の五虎将の一人。 ほうと - っ しげん ほうすう 廠統 ( 一七八ー二一三 ) 字は士元。別名鳳雛。劉 備の軍師。諸葛亮と並び称される智恵者。 りかく 李催 ( ? ー一九七 ) 董卓の部将。董卓没後、郭 汜と共に長安に乱入、一時天下をとる。 りゅうきよう 劉協 ( 一八一 ー二三四 ) 後漢第九代の献帝。 りゅうしよう きギ - く 劉璋 ( ? ) 字は季玉。益州の栁。 りゅうび げんとく ちゅうざん 物劉備 ( 一六一 ー二二一一 l) 字は玄徳。漢の中山の 人せい 場靖王の末孫。黄巾の乱に際して関羽、張飛と 共に挙兵。 主 りゅうぜん あと 巻劉禅 ( 二〇七ー二七一 ) 字は公嗣。幼名阿斗。 本 劉備の子。 「ーりゅうひょう けいしようナい 劉表 ( ? ー二〇八 ) 字は景升。荊州の牧。 けん
そんりゅう こすのを控えておるのは、ただただ孫・劉両家が心を合わせるのを恐れてにほかなりませぬ。今日、 殿が一時の怒りにかられて合戦をはじめられれば、曹操が虚に乗じて攻め下るは当然、かくてはお 国の大事ともなりましように」 ・一よう 顧雍も横から、 きよと 「許都よりの間者がはいっておらぬはずはござりませぬ。もし孫・劉両家の不和が知れれば、曹操 とうごおそ りゅうび が人を介して劉備の心を取り結ばうとするに違いなく、さすれば東呉を怖れておる劉備のことゆえ、 曹操につきましよう。そうなると、わが国の安らぐ日は絶えてなくなりましようそ。されば、ムフ、 考えて最良の計は、使いの者を許都へ遣わして、劉備を荊州の牧に推挙することでござります。こ れを知れば、曹操とて東南への出兵を諦めざるを得ますまい。しかも劉備の殿にたいする恨みも解 けようと申すもの。その後で、当方より腹心の者をもって離間の策をほどこし、曹操と劉備を噛み 合わさせ、すきをみて攻めかかりますれば荊州を取ることもかないましよう」 いかにももっともじゃ。して、誰をやったらよいか」 よろ 「当地に、曹操がいたく尊敬いたしておる者が住まっております。彼が宜しゅうござりましよう」 孫権がそれは誰かと尋ねると、 「華歌がおるではござりませぬか」 孫権は大いに喜び、上奏文を持たせて許都へ遣わすこととした。命を受けた華歌はただちに打ち ぎよう どうじゃくだい 立ち、許都へ急行して曹操に対面を申し入れたが、彼が臣下たちを郊郡に集めて、銅雀台落成を 祝う行事を催している由を聞き、郊郡へ赴いて呼び出しを待った。 かきん
と言うので、大いに喜んだ玄徳が、 Ⅱ「その四つの郡はどこから先に手をつけたら宜しゅうござるかな」 と尋ねると、 しよう 「湘江の西の零陵が最も近うござればこれをまず取り、次に武陵を取ってから湘江の東にある桂陽 を取り、最後に長沙を取られるのが宜しゅうござりましよう」 じゅうじ 玄徳は馬良を召し抱えて従事とし、伊籍をその副官とした。 うんちょう かくて玄徳は孔明と協議して劉琦を襄陽へ移して、雲長を荊州に呼びもどした上、ただちに軍 ちょうひ さきてちょううんごづめ 勢を揃えて零陵攻略に打ち立っこととしたが、張飛は先手、趙雲は後詰、孔明・玄徳は中軍とな び一レくりゅうほ、つ てはず って、総勢一万五千とし、雲長は荊州の留守、糜竺・劉封は江陵の留守と、それぞれ手筈をとと のえた。 りゅうど りゅうけん ここに零陵の太守劉度は、玄徳の軍勢、迫ると聞いて、息子劉賢と協議したが、劉賢が、 「父上、案ずることはござりませぬ。敵に、張飛・趙雲とやら申す剛の者がおりましようと、わが けいどうえし 、ばんぶふとう 方の大将邪道栄は万夫不当の荒武者、苦もなく討ち取るでござりましよう」 と言うので、劉度は、劉賢に命じて邪道栄とともに一万余の軍勢をひきいて、三十里先の山を背 にした川辺に陣を張らせた。間もなく物見の者より、 じきじき 「孔明が直々、一手の軍勢をひきいて出て参りました」 との知らせがあったので、邪道栄が軍勢をひきいて出陣した。両軍、相対峙するや、邪道栄が馬 を乗りいだし、山をも断ち割るような大斧を軽々と使いながら、大音に呼ばわった。