馬 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 4
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1. 三国志演義 4

248 「遅れては一大事、早々に手を下すべきと存じます」 と言っているのが聞こえたから、この裏切者めがと、抜き身を振りかざして駆けこむなり、 だま 「逆賊、よくもわしを欺しおったな」 と大喝した。一同があっと仰天するところ、馬超が韓遂目がけて斬りつければ、あわてた韓遂が 手で防ごうとしたので、左手がすっ飛んだ。五人の大将たちも剣を抜き合わせたので、馬超は外へ 走り出た。五人がこれを取り囲めば、馬超は一人で宝剣を揮って闘い、あっというまに、血しぶき を上げて馬玩が倒れ、梁興も倒れたので、残った三人はばらばらと逃げた。馬超が韓遂を斬ろうと してふたたび幕中に踏みこめば、もはや左右の者に運び去られて姿がない 。ところへ、本陣の裏手 に火の手が上がり、軍勢、一斉に動きはじめたから、馬超は急いで馬に乗り、廳徳・馬岱も馳せつ きょちょ けて、揉み合いとなった。馬超が軍勢をひきいて討って出たとき、曹操の軍勢、前には許緒、後に しし△、 ) う かこうえん そう一一う は徐晃、左には夏侯淵、右には曹洪、四手に分かれて押し寄せ、西涼の軍勢また敵味方に分かれて はげしく打ち合う。馬超は廳徳・馬岱を見失い、百騎あまりをひきいて渭橋の上に立ちはだかった。 夜もようやく明けそめるおりから、李堪が一手の軍勢をひきいて橋の下を通りかかったので、すか うきん さず槍をひっさげ馬を飛ばせて追いかければ、李堪はひたすら逃げようとする。ところへ于禁が追 いすがって、馬超へ矢を射かけた。、、 : カ馬超が弦音にさっと身をかわしたから、矢は前を走ってい る李堪に突き立ち、彼は馬からころげ落ちて死んだ。馬超が馬を返して于禁にとってかかれば、于 禁がまっしぐらに逃げ去ったので、彼はふたたび橋の上に帰った。曹操の軍勢は橋のたもとに続々 押し寄せ、虎衛軍がまっ先に立って、左右から雨のように矢を射かけたが、馬超が槍ではじき飛ば りかん ふる

2. 三国志演義 4

212 いまもし行かねば、 「曹操は天子の詔を奉じて父上を召し出そうとしておるのでございますから、 謀反呼ばわりをいたすに相違ござりませぬ。彼が言って来たのを受けて、京師へ上り、時をみて事 をおこさば、かねてよりの望みも達せられるのではござりませぬか」 ばたい と馬超が答えると、馬騰の兄の子、馬岱が、 「曹操は何を企みおるや知れませぬゆえ、お出ましあって、彼の手にかかるようなことがあるやも 知れませぬそ」 と諫めたが、馬超は、 「わたくしが西涼の軍勢を残らずひきい、父上にお供して許昌に攻め入り、天下のために賊を亡ば すことにいたさば、宜しいではござりませぬか」 ばきゅうばてつ 「そなたは羌兵をひきいて西涼を守っておれ。わしは次男馬休、馬鉄と甥の馬岱を連れて行く。曹 操とて、そなたが西涼におり、かっ韓遂殿がついておるのを見れば、手出しもできまい」 「おいでの上は、決して軽々しく都にはいったりなさりませぬよう。臨機応変に、彼の動静を見定 められますよう」 「わしとて考えがある。心配いたすな」 ごづめ かくて馬騰は西涼の兵五千をひきい、馬休・馬鉄を先鋒、馬岱を後詰として許昌を目指したが、 許昌の手前二十里のところで軍勢をとめた。 もんかじろう ( 注一 l) こうけい 曹操は馬騰の到着を知るや、門下侍郎黄奎を呼んで、 「今度、馬騰が南征することになったので、そなたを行軍参謀にする。まず馬騰の陣へ出向いて軍

3. 三国志演義 4

が進み出た。これそ曹洪であるので、馬騰が急いで馬を返そうとする時、左右に鬨の声がおこり、 左から許緒、右から夏侯淵が討っていで、背後にも徐晃が討って出て、西涼の軍勢との間を絶ちき って馬騰父子三人をまん中に取りこめた。馬騰は形勢非なりと見てとり、カの限り斬りまくった。 馬鉄は早くも矢玉の雨の中で死に、馬休は馬騰の後について右に左に馳せまわったが、斬り抜ける ふかで ことができない。二人は深傷を受けた上、馬が矢を受けて倒れたので、ともどもに捕えられた。曹 操は黄奎と馬騰父子を引っ立てて来させた。黄奎は、 「それがしに罪はござらぬ」 と大声で叫んだが、曹操は苗沢を呼んで対決させた。馬騰が、 「ええい腐れ儒者めが大事を誤りおって。国賊を殺せぬとは、これがわしの運命か」 弔 を と罵るうち、曹操は引き出すよう命じ、馬騰はなおも罵りながら、その子馬休、黄奎とともに首 喪 竜を刎ねられた。後の人が馬騰を嘆いた詩に、 ロ ひと 父子忠烈を斉しゅうし 柴 あら 忠貞一門を著わす 回 おもんば 生を捐てて国難を図かり 十 五 死を誓って君恩に答えんとす 第 血を嚼みし盟一言在り 奸を誅せんとの義状存す ちゅう とき

4. 三国志演義 4

と一一一一口い これより曹操の軍中ではみな許緒のことを虎侯と呼ぶようになったのである。さてこの とき、許緒が言うのに、 「それがし、明日、きっと馬超を手捕りにいたしてご覧にいれまする」 「馬超は名うての剛の者、油断は禁物であるぞ」 「それがし誓っておくれは取りませぬ」 そこでただちに、明日、虎侯が馬超と一騎打をする旨の挑戦状を、届けさせた。これを見て馬超 は大いに怒り、 第一しやく 「下郎め、小癪なり」 と と、即座に、明日は誓って『虎癡』を殺す旨の返事をやった。 超 馬翌る日、両軍、陣を出て互いに向かい合った。馬超は靡徳を左翼に、馬岱を右翼に、韓遂を中軍 に据えたうえ、槍をひっさげて陣頭に立ち、 裸 を「虎癡、早くいでよ」 緒と叫んだ。 曹操が門旗の下にあって大将たちを見かえり、 回 りよふ 九「どうじゃ、馬超は呂布にも劣らぬ武者振りじゃのう」 なぎなた 五 と言う、その言葉も終わらぬうち、許褶が馬を躍らせ薙刀をふるって討って出た。馬超、槍をし 第 ごいてこれに応じ、百余合、打ち合ったが勝負がっかない。そのうち馬が疲れきってしまったので、 二人は陣へ取って返し、馬をかえて出直したが、また百余合、打ち合ったのに、勝負がっかぬ。

5. 三国志演義 4

おしろい 馬を進めて西涼の軍勢を眺めれば、いずれ劣らぬたくましい勇士ばかり、また、馬超が白粉をはい ひたたれしろがね たような顔、紅をさしたような唇、腰は細く肩幅広く、人を圧する勇姿に、白の袍、白銀造りの よろい 鎧をつけ、手に長柄の槍を持って、上手に廳徳、下手に馬岱を控えて陣頭に馬を立てているので、 思わず、あつばれな武者振りかなと心中、舌を巻き、自ら馬を乗り出して叫んだ。 むほん 「おのれ、漢朝の名将の子孫でありながら、なにゆえ謀反いたすか」 馬超は歯ぎしりして、 「逆賊、何をほざく。君を欺き上をなみする罪、生かしておけぬ。わが父・弟を手にかけた上は、 ふぐたいてん 不倶戴天の仇だ。ええい、貴様のなま肉を喰ってやる」 うきん と罵るなり、槍をしごいて躍り出た。曹操のうしろから于禁が出て、両馬ぶつかりあったが、八、 りつう ち。よう・こう 九合するうち、于禁が敗走し、張部が代わって出たが、二十合戦ってまたも敗走した。李通がこ れに入れかわって躍り出せば、馬超さらにひるむ色もなく受けて立ち、数合したかと思うや、一撃 に突き落とした。馬超、槍先をかえしてうしろをさしまねけば、西涼の軍勢がどっと討って出たの で、曹操の軍勢はさんざんに駆け散らされ、その勇猛さには、曹操の左右を固めた大将たちも歯が たたない。馬超・靡徳・馬岱は百余騎をひきいて一気に本陣に突き入り、曹操の姿を求めた。曹操 は乱軍の中にあって、 ひたたれ 「赤の袍が曹操だぞ」 と西涼の軍勢が呼びかわすのを聞き、馬上のままあわてて赤い袍を脱ぎ棄てた。するとまた、 ひげ 「長い髯の奴が曹操だそ」

6. 三国志演義 4

せば、矢はみなばらばらと飛び散った。馬超は供の者たちを突き入らせたが、曹操の軍勢の囲みは 固く、血路を開くことができない。馬超は一声おめくなり、北岸へ躍りこんだが、供の者どもはす べて中に取り籠められ、彼一人、敵勢の中を駆けまわるうち、馬が石弓に当たって倒れ、地上に投 げ出された。してやったりと曹操の軍勢が詰め寄り、もはやこれまでかと見えたとき、西北から一 隊の軍勢が殺到した。これぞ廳徳・馬岱である。二人は馬超を救い出して空いた馬に乗せるや、と って返して血路を斬り開き、西北の方へ落ちのびた。曹操は馬超が逃げたと聞くや、諸将に、 「昼夜を分かたず追え。首を取った者は、賞金千金をあたえ、万戸の侯に封じ、生け捕った者は大 将軍に封ずるそ」 と と触れたから、大将たちは勇み立ち、われこそ功名を挙げんと、先を争って後を追った。馬超は 超 馬人馬の疲れを考えるいとまもなく、ひたすらに逃げたが、随う者は次第に少なくなり、足のつづか ろう いなくなった徒歩の者どもは、次々に生け捕られて、わすか三十余騎を随え、廳徳・馬岱とともに隴 りんとう を 西の臨溌目指して落ちのびたのであった。 衣 ちょうあん 緒曹操は自ら安定まで追ったが、馬超が遠ざかったのを知ってようやく軍勢をまとめ、長安に引 き返した。大将たちもすべて集まったが韓遂はすでに左手をなくして、片輪になっていたので、曹 回 九操は彼に長安で軍勢を休ませるよう命じ、西涼侯の職を授け、また楊秋・侯選も列侯に封じて渭ロ きよと ようふあぎなざん ロオカくて、軍勢に許都に引き揚げるよう命じたが、涼州の参軍の阜、字義山が、 第を守るよう命じこ。、 長安に来て曹操に目通りした。曹操が用件を尋ねると、 キう 「馬超は呂布にも劣らぬ剛の者で、深く羌人の心をつかんでおります。いまもし丞相が余勢を駆っ あんてい ばん - 、

7. 三国志演義 4

とうかん 潼関に戦敗して風を望んで逃れ ん もうとくそう - 一う 孟徳愴惶として錦袍を脱す 雪 まさ . を み 剣もて髭髯を割きしとき応に胆を喪えり 恨 て 馬超が声価天を蓋いて高し 興 を 兵曹操がまっしぐらに逃げるところ、一騎が追い迫ったので、振りかえれば、正に馬超である。曹 孟操は仰天し、左右の将校は、われさきに逃げ出して、曹操一人を置きざりにした。 「曹操、待てい」 回 馬超の大喝に、曹操は思わす鞭をとり落とす。見る間に近づいた馬超、曹操の背中目掛けて槍を 十 第振り上げた。曹操は木立を縫って逃れようとし、そのとき繰り出した馬超の槍先が一本の木に突き ささり、急いで抜き出した時には、曹操は遙か彼方を走っていた。馬超はなおも馬を飛ばせて後を 追ったが、 このとき、山かげから躍り出た一人の大将、 という叫び声。あわてふためいた曹操は、腰の刀を抜いて髯を切り落とした。と、一人の兵士が 曹操が髯を切った旨を馬超に知らせたから、馬超は皆の者に 「短い髯の奴が曹操だそ」 と叫ばせた。これを聞いて曹操、急いで旗の端を破り取り、頭をくるんで逃げた。後の人の詩に おお うしな

8. 三国志演義 4

「わしはそなたの父君と兄弟の契りを結んだものじゃ。そのような事ができると思うか。そなたが 兵をおこすなら、わしもお力を添えましようぞ」 馬超が拝伏すると、韓遂は曹操の使者を引き出して首を刎ねさせ、ただちに配下の八手の軍勢を こうせんていぎんりかんちょうおうりようこうせい 勢揃いさせて馬超ともども進発した。その八手の大将とは、侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成 ばたい ばがんようしゅう 宜・馬玩・楊秋の面々である。この八将は韓遂に随い、馬超の手の靡徳・馬岱ともども二十万の しようよう ちょうあん 大軍をもって、長安目指して押し出した。長安郡の太守鍾絲はこれを曹操に急報するとともに、 食いとめようと城外の野に陣を布けば、西涼の先鋒馬岱は、一万五千の軍勢をひきい、野山をうず めて大波のごとく押しよせる。鍾緜が馬を乗り出して名乗りを上げるところ、馬岱はひと振りの宝 ふる 刀をかざして躍りかかり、斬りまくられた鍾緜がまっしぐらに逃げるのを、刀を揮って追いか。た その後に馬超・韓遂が大軍をひきいて到着し、ひしひしと長安を取り囲んだ。鍾緜は城内に立て籠 ったが、この長安城は西漢が都としたところであるから、城郭は堅固、壕は深く、容易に落ちるも のではない。十日間きびしく囲んで攻め立てても、破ることができないので、廳徳が献策して言う 「長安城内は土質悪く水は塩からくて飲むに堪えませぬ上、柴や薪もござりませぬ。今日まですで に十日間、囲んで参りましたからは、軍民ともに飢えに迫られておるに相違ござりませぬ。されば、 いったん軍を退いて、かようかようにいたされれば、この城は苦もなく取れましようぞ」 「それは妙計だ」 ごづめ と馬超は、ただちに『令』の字旗を持った伝令を各隊へ廻して、全軍の後退を命じ、自ら後詰を ぎ し - 一も

9. 三国志演義 4

積むそばから凍りつき、夜明け方には石のように固まって、立派な土城ができ上がっていた。間者 2 から城の出現を知らされた馬超は軍勢をひきいて見に来たが、これは神の助けではないかと仰天し きょち - よ あく たものであった。翌る日、馬超が大軍をひきい陣太鼓を打ち鳴らして押し寄せると、曹操は許褶た だ一騎を随えて陣頭に乗り出し、鞭をあげて叫んだ。 もうとく 「孟徳がただ一騎で参ったぞ。馬超、出て来い」 馬超が馬に乗り槍を小脇にして出て来ると、 「貴様、わしには陣が作れぬと馬鹿にしておったが、どうじゃ、一夜にして築き上げたそ。この上 は早々に降参いたせ」 馬超は烈火の如く怒って討って出ようとしたが、曹操のうしろに一人の者が、すさまじい形相で、 おおわざもの 手に大業物をひっさげて控えているのに気が付いたので、もしゃ許褶ではないかと思い、鞭をあげ て尋ねた。 「貴様の軍中に虎侯とかいう者がおるそうだが、どこにおるのか」 なぎなた 聞くより許緒が薙刀をひっさげて、大音に叫んだ。 しよう 「わしが誰郡の許緒だ」 そのすさまじい眼光とあたりを払う威風に、馬超はたじたじとなって馬を返した。曹操も許緒を 随えて陣屋へもどったが、これを見ていた両軍の者どもは、ただ驚きあきれるばかりであった。曹 操は大将たちに、 ちゅうこう あぎな 「賊も仲康 ( 許褶の字 ) が虎侯と知ったようじゃな」

10. 三国志演義 4

と諫めると、曹操は言った。 「そなたとわしとで糧秣を護送して行き、後詰をすればよいであろうに」 さて曹洪・徐晃は潼関に到着すると、鍾緜と入れ代わって要害を固め、決して討って出ようとし ない。馬超は軍勢をひきいて関の下まで押し寄せ、曹操を先祖からいちいち罵った。激怒した曹洪 は、手勢をひきいて討って出ようとしたが、徐晃が、 「これは将軍を誘い出そうとの馬超の計略。絶対に討って出ることはなりませぬそ。丞相がおいで になれば、きっと良い計略がありましよう」 徐晃が懸命に 馬超の軍勢は夜も昼も交代で罵りつづけ、曹洪は討って出ようといきりたったが、 , ひきとめていた。九日目になったとき、関から見下すと、西涼の軍勢が一同、馬を乗り棄て、関の 前の草原に腰を下しており、多くの者は疲れきった風で、横になって寝ている。曹洪が時を移さず 馬をひいて来させ、三千騎をひきいて一斉に討って出れば、西涼の軍勢は馬を棄て戈を投げ出して 逃げ出したので、曹洪は勢いに乗って追いすがった。この時、徐晃は関の中で兵粮や秣を点検して いたが、曹洪が討って出たと聞いて仰天し、急いで兵をひきいて後を追いかけ、曹洪に馬を返すよ かんせい ばたい うに呼びかけた。ところへ、にわかに背後に喊声が湧くとみるまに、馬岱が軍勢をひきいて討って 出た。曹洪と徐晃があわててとってかえすおりしも、一陣の太鼓とともに、山かげから二手の軍勢、 左から馬超、右から廳徳に討って出られ、さんざんに揉み立てられた。曹洪はとうてい支えきれず、 軍勢の大半を失い、重囲を衝き破って関へ逃げもどったが、西涼の軍勢に急追されて、関を棄てて 落ちのびた。靡徳は潼関を破って、なおも追討ちをかけたが、曹洪らを救いに馳せつけた曹仁の軍 っ せき まぐさ