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検索対象: 三国志演義 5
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1. 三国志演義 5

って劉備の庇護下にはいる。 武両全の部将。 」もうき しめい 馬超 ( 一七六ー二二一 I) 字は孟起。馬騰の長子。呂蒙 ( 一七八ー二一九 ) 字は子明。孫権に仕えた 劉備父子に仕えた蜀の五虎将の一人。 文武兼備の名将。 ろしゆく しげん ほうとう ほ、つす . う 庸統 ( 一七八ー二 一 lll) 字は士元。別名鳳雛。劉魯粛 ( 一七二ー二一七 ) 字は子敬。孫権の幕僚。 * 印は正史に記載なく『演義』によった。 備の軍師。諸葛亮と並び称される智恵者。 りゅうきよう 劉協 ( 一八 ー二三四 ) 後漢第九代の献帝。 りゅうし、よう・ きぎよく 劉璋 ( ? ) 字は季玉。益州の牧。 ちゅうぎん りゅうび げんとく 劉備 ( 一六一 ー二二 lll) 字は玄徳。漢の中山の 靖王の末孫。黄巾の乱に際して関羽、張飛と 共に挙兵。軍師・諸葛亮の助けを得て蜀の主 となる。 りゅうぜん 物劉禅 ( 二〇七ー二七一 ) 字は公嗣。幼名阿斗。 かんがん 場劉備の子。宦官を寵愛して亡国を招く暗君。 蜀の後主。 主 りゅうひょう けいしようけい 巻劉表 ( ? ー二〇八 ) 字は景升。荊州の牧。 ・・りゅうき 劉琦 ( ? ー二〇九 ) 劉表の長子。温厚篤実の人 こうか であったが継母蔡氏にうとまれ、江夏へはし さい

2. 三国志演義 5

310 二〇九 ( 五六 ) を殺す。九月、曹操、新野に南下、劉琮を降す。劉備、夏口に奔 り、諸葛亮を孫権のもとへ派遣。一二月、赤壁の合戦で曹操大敗。劉備、 江南の四郡を平定。 一四劉備、荊州の牧となり、孫権の妹を娶る。周瑜、彝陵で曹仁を大破。流れ 矢を受けて負傷。 一五一二月、曹操、銅雀台をつくる。周瑜 ( 三六 ) 没。 一六一月、曹操 ( 五七 ) 、世子曹丕 ( 二五 ) を五官中郎将・副丞相とす。二月、 曹操、張魯を討つ。三月、馬超 ( 三六 ) ・韓遂 ( 四〇 ) ら挙兵、潼関に進出。 五月、廳統 ( 三四 ) 、劉備 ( 五一 ) の軍師となる。九月、曹操、潼関で馬超 らを大破。劉備、劉璋に迎えられて益州にはいる。関羽 ( 五〇 ) 、諸葛亮 ( 三一 ) とともに荊州を守る。張飛 ( 四四 ) 、長江の巡察にあたる。 一七一月、曹操 ( 五八 ) 郞に帰還。◎孫権、秣陵に本拠を移し、濡須に出城を 築く。一〇月、曹操、濡須へ出陣。荀彧 ( 五〇 ) 没。一二月、劉備 ( 五 ll) 浯城を占拠。 一八五月、曹操、魏公となる。七月、献帝 ( 三三 ) 曹操の三女を貴人とす。劉 備、雛城を攻め、廳統 ( 三六 ) 陣没。八月、馬超 ( 三八 ) 涼州で挙兵。 一九◎馬超、劉備に降伏。五月、劉備、成都に入り益州の牧となる。七月、曹

3. 三国志演義 5

309 略年表 二〇四 二〇五 二〇七 一九九 二〇〇 左将車に補せらる。 四一月、公孫璟、袁紹に敗れて自害。五月、劉備、許都を脱出して下郵を奪 回。六月、袁術没。一二月、曹操、官渡で袁紹と戦う。 五一月、曹操、董承らを殺し、下邸を抜く。劉備、袁紹を頼り、関羽、曹操 に降る。二月、曹操、白馬で袁紹を破る。関羽、劉備と再会。四月、孫策 ( 二六 ) 没、孫権 ( 一九 ) これを継ぐ。一〇月、曹操、烏巣で袁紹の兵粮を 焚く 六劉備、汝南で曹操に大敗、荊州の劉表を頼る。 七五月、袁紹没。九月、曹操、袁尚・袁譚を討つ。 八八月、曹操、劉表を討ち、また袁尚・袁譚を破る。 九七月、曹操、袁尚を破って河北を平定。 一〇一月、曹操、袁譚を斬って青州を平定、袁煕・袁尚、烏丸に奔る。 一二春、曹操、烏丸討伐の軍をおこす。劉禅生まる。八月、曹操、白狼山で 頓を斬る。九月、遼東の太守公孫康、曹操に袁尚・袁熙の首を献ず。郭嘉 ( 三八 ) 没。諸葛亮 ( 二七 ) 、劉備 ( 四七 ) の軍師となる。 一三一月、曹操、郊郡に玄武池をつくり水軍を訓練。六月、曹操、丞相となる。 七月、曹操南征。八月、荊州の牧劉表没し、劉琮これを継ぐ。曹操、孔融

4. 三国志演義 5

311 略年表 操南征。荀攸 ( 五八 ) 没。一一月、曹操、伏皇后・伏完一族を殺す。◎劉 備と孫権 ( 三三 ) 、荊州をめぐって対立。 二〇一月、献帝、曹貴人を皇后に立つ。七月、曹操、張魯を破って漢中を取る。 八月、孫権、合瀧で張遼 ( 四七 ) と戦う。一一月、張魯、曹操に降伏。 二一五月、曹操、魏王となる。 一三一月、曹操、居巣・濡須で孫権を破る。一〇月、曹丕 ( 三一 ) 魏王の太子 となる。◎劉備、漢中に進出。◎魯粛 ( 四六 ) ・陳琳没。 二三一月、耿紀・紀晃 ( および吉本 ) ら曹操に謀反して失敗。四月、劉備、陽 平関で張部と戦う。七月、曹操、劉備討伐の軍をおこし、九月、長安に出 陣。◎楽進没。 二四一月、劉備、陽平関で夏侯淵を斬る。三月、曹操、斜谷に進出して劉備と 対峙、五月、引揚げ。七月、劉備、自立して漢中王となる。八月、関羽、 襄陽を占拠、樊城で徳を斬り于禁を捕う。一〇月 ( 『演義』では一二月 ) 、 呂蒙、江陵を占拠。関羽 ( 五八 ) 父子、臨沮において斬らる。一二月、呂 蒙 ( 四一 l) 没。

5. 三国志演義 5

108 うた。これもすべてわしがいたらなかったればこそのこと。このうえ、そのようなことはできぬ。 降参して領民の苦しみを救うてやらねばならぬ」 これを聞いて、一同、涙にくれるところへ、進み出た者がある。 「殿のお一言葉は、正に天意にかなうものでございます」 はせい せいじゅう 誰ならんと見やれば、これぞ巴西郡西充国の人、姓は誰、名は周、字允南である。この人、か ねてから天文の心得があったが、劉璋に尋ねられて、 「それがし、天文を按じまするに、群星蜀郡に集まり、中に一つ、月のごとく輝く大星は、まごう しるし かたなき帝王の象にござります。しかも、一年ほど前、『新し、飯 しくいたいならば、先主のおいで わらべうた 待たねばならぬ』という童歌がはやりましたが、あれも今日の事を告げたもの。天道にさからう のはよろしくございませぬ」 一 ) うけんりゅうは 黄権・劉巴はこれを聞いて大いに怒り、斬って棄てようとしたが、劉璋に止められた。ところへ、 たいしゆきよせい 蜀郡の太守許靖が、城壁を越えて降参して出たとの知らせがあり、劉璋ははげしく泣いて館に帰っ かんよう あくる日、劉皇叔の使者、幕僚の簡雍が来て開門を申し入れているとの知らせがあったので、劉 ごうぜん 璋は門を開いて迎え入れるよう命じた。はいって来た簡雍は、車に乗ったまま、傲然とあたりを睨 めまわしている。と、やにわに剣をひっさげておどり出し、 「下郎、いかに志を達したからとはいえ、無礼であろうそ。貴様、わが蜀に人物がいないと思って あん ひととせ しよう しゅう いんなん

6. 三国志演義 5

やかた さて、討ちもらされた兵が益州に逃げ帰って劉璋に注進すると、劉璋は仰天して館の門を固く閉 ざし、引きこもってしまった。ところへ、城の北に馬超の援軍が到着したとの知らせがあったので、 やぐら ようやく城の櫓に登って眺めやると、馬超と馬岱が城壁の下に立って、 きよく 「劉季玉殿とお話し、たした、 と叫んでいる。劉璋が上から、何事かと尋ねると、馬超が馬上から鞭をつきつけて、 ぎん 「わしはもともと張魯の軍勢をひきいて益州を救いにまいったのだが、 はからずも張魯が楊松の讒 言を信じて、わしを殺そうとしたので、劉皇叔に降参した。貴公も国土を差し出して降参し、領民 戦にいらざる苦しみを与えるようなことをやめられよ。もし迷いがさめずば、わしがまず攻めよう 関そ」 っちけ 第一んとう 葭 劉璋は驚きのあまり土気色になり、その場に昏倒した。一同が助けおこすと、気をとりもどして、 「わしが愚かだったのじゃ。もはや悔いてもおよばぬこと。このうえは門を開いて降参し、城内の 大 超民を救おう」 とうわ 董和が言った。 回 りようまっ くだ 五「城内にはなお三万の軍勢があり、金銀・糧秣も優に一年間の貯えがございます。降ることはな いと存じまするが」 7 「いや、わしは親の代からこの蜀を二十年あまり治めてまいったが、その間、なに一つ領民のため になることをしてやれず、あまっさえ、この三年の間の戦いで、親子兄弟を山野に失わさせてしも えき たくわ むち

7. 三国志演義 5

308 これを継ぐ。 四夏、陶謙、徐州の牧となる。秋、曹操、陶謙を攻めて十余城を抜き、領民 一〇万を殺す。 一九四興平一二月、曹操ふたたび徐州を攻撃。陶謙、青州刺史田楷・平原の相劉備 ( 三 三 ) に救援を乞う。劉備、予州の牧となって小沛に駐屯。呂布、張遞に迎 えられて克州の牧となる。八月、曹操、濮陽において呂布に苦戦。陶謙 ( 六 lll) 没、劉備、徐州の牧となる。孫策、江東に帰り、周瑜 ( 二〇 ) を幕 下に加う。 二曹操、定陶で呂布を破る。三月、李催・郭汜、長安を騒がす。夏、呂布、 鉅野で曹操に大敗、劉備を頼る。七月、献帝、洛陽へ向かう。一〇月、曹 操、州の牧となる。 一九六建安一七月、献帝、洛陽にはいる。曹操 ( 三六 ) 入京して録尚書事となる。九月、 曹操、献帝を許昌に移す。一〇月、劉備、下郵で呂布に敗れ、曹操を頼る。 孫権 ( 一五 ) 、呉郡陽羨の県長となる。 一一一月、曹操、張繍に大敗。春、袁術、淮南で成を建国。 三七月、曹操、張繍・劉表を大破。九月、曹操、袁術を討つ。一二月曹操、 下邸で呂布・陳宮を斬り、張遼 ( 三〇 ) を幕下に加う。劉備、献帝に拝謁、 一九五 一九七

8. 三国志演義 5

れて来させ、みずから縄をほどいてやって、気付の酒を与えた。 4 「どうじゃ、降参するか」 「命をお助けいただいたうえは、喜んで降参いたしまする。劉瑣・張任はそれがしと生死を誓いあ しつか った者どもゆえ、もしそれがしをゆかせていただきますれば、かの両名もご膝下に馳せ参じさせ、 維城をお引き渡しいたしまする」 玄徳はいたく喜び、衣服や乗馬を与えて、雛城にもどらせた。魏延が、 「あの者を帰すことはなりませぬぞ。逃がせば、二度ともどってはまいりますまい」 と言ったが、玄徳は、 「わしが仁義をもってもてなしたに、裏切るようなことはあるまい」 と聞き入れなかった。 ここに雛城に帰った冷苞は、劉瑣・張任に会うや、捕えられたことはひたかくしにして、 「十人あまり斬り殺し、馬を奪って逃げて来たのだ」 りゅうしよう と言った。劉瑣は成都へ急使を馳せて加勢を求めた。劉璋は鄧賢が殺されたと聞いて大いに驚 りゅうじゅん き、諸将を集めて協議したが、長子劉循が進み出て、 「それがし軍勢をひきいて雛城へまいりまする」 「息子がゆくと言っておるが、誰かついていってやってくれぬか」 すると一人が進み出た。 きつけ

9. 三国志演義 5

114 と言って、書面を幕僚たちに回し、二度と西川におもむこうとはしなかった。 とうごそんけん ちょうしよう さて東呉の孫権は、玄徳が西川を手中におさめ、劉璋を公安へ追いやった由を知るや、張昭・ 第一よう 顧雍を呼んではかった。 「はじめ劉備がわしより荊州を借りていったとき、西川を取ったら返すと申した。今日、すでに巴 しよく 蜀四十一州を手に入れたとあらば、かの地を取りもどそうそ。もし返さぬとあらば、力すくでも 取りもどしてやろう」 すると張昭の言うのに、 「わが国はようやく安泰を得たときなれば、戦をおこすのはよろしくござりませぬ。それがしに一 計あり、劉備めに荊州を奉還いたさせてご覧にいれます」 正に、西蜀に新しき日明けなれば、東呉また旧土をうかがう、というところ。さてその計とは。 それは次回で。 しようりしゅん 注一斉の無塩戦国時代、斉の無塩というところにいた鍾離春という醜女のこと。西子は西施。 せいそうえん 二左将軍ここは誤り。このとき、劉巴は「左将軍の西曹の掾」となった。左将軍は劉備であるから、 蜀においては大将軍にあたり、その西曹の掾とは、つまり総理府の局長のような役にあたる。 いく」 ( 注五 )

10. 三国志演義 5

えんほちょうろりゅうしよう ばちょう さて閻圃が張魯に劉璋を助けぬよう勧めていたところへ、馬超が進み出て、 「それがし、殿のご恩顧にあずかりながら、いまだなに一つお役に立っておりませぬ。なにとそ一 かぼう りゅうび 手の軍勢をお貸し下さりませ。さらばそれがし、葭萌関を攻め取って劉備を手捕りとなし、きっと 劉璋より二十州を取り上げて殿に奉りまする」 - 一うけん 張魯は大いに喜び、ます黄権を急いで帰らせておいて、二万の軍勢をそろえて馬超にあたえた。 トっ・は′、 かんぐん このとき靡徳は病いのため出陣できす、漢中に留まった。張魯は楊柏を監車 ( 目付役 ) に命じ、馬 超は従弟馬岱とともに吉日をえらんで打ち立った。 げんとく ここに玄徳の軍勢は維城にあったが、法正が出した使者が立ち帰って報告した。 ふ 「鄭度が、劉璋に作物や各地の穀倉をすべて焼き払い、巴西の領民を浯水の西へ移したうえ、城の ばちょう かばう 馬超大いに葭萌関に戦い えき 第六十五回り 4 うび 劉備自ら益州の牧を領す 寺 ) くもっ かんちゅう ほうせい はせい