劉備 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 5
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1. 三国志演義 5

310 二〇九 ( 五六 ) を殺す。九月、曹操、新野に南下、劉琮を降す。劉備、夏口に奔 り、諸葛亮を孫権のもとへ派遣。一二月、赤壁の合戦で曹操大敗。劉備、 江南の四郡を平定。 一四劉備、荊州の牧となり、孫権の妹を娶る。周瑜、彝陵で曹仁を大破。流れ 矢を受けて負傷。 一五一二月、曹操、銅雀台をつくる。周瑜 ( 三六 ) 没。 一六一月、曹操 ( 五七 ) 、世子曹丕 ( 二五 ) を五官中郎将・副丞相とす。二月、 曹操、張魯を討つ。三月、馬超 ( 三六 ) ・韓遂 ( 四〇 ) ら挙兵、潼関に進出。 五月、廳統 ( 三四 ) 、劉備 ( 五一 ) の軍師となる。九月、曹操、潼関で馬超 らを大破。劉備、劉璋に迎えられて益州にはいる。関羽 ( 五〇 ) 、諸葛亮 ( 三一 ) とともに荊州を守る。張飛 ( 四四 ) 、長江の巡察にあたる。 一七一月、曹操 ( 五八 ) 郞に帰還。◎孫権、秣陵に本拠を移し、濡須に出城を 築く。一〇月、曹操、濡須へ出陣。荀彧 ( 五〇 ) 没。一二月、劉備 ( 五 ll) 浯城を占拠。 一八五月、曹操、魏公となる。七月、献帝 ( 三三 ) 曹操の三女を貴人とす。劉 備、雛城を攻め、廳統 ( 三六 ) 陣没。八月、馬超 ( 三八 ) 涼州で挙兵。 一九◎馬超、劉備に降伏。五月、劉備、成都に入り益州の牧となる。七月、曹

2. 三国志演義 5

311 略年表 操南征。荀攸 ( 五八 ) 没。一一月、曹操、伏皇后・伏完一族を殺す。◎劉 備と孫権 ( 三三 ) 、荊州をめぐって対立。 二〇一月、献帝、曹貴人を皇后に立つ。七月、曹操、張魯を破って漢中を取る。 八月、孫権、合瀧で張遼 ( 四七 ) と戦う。一一月、張魯、曹操に降伏。 二一五月、曹操、魏王となる。 一三一月、曹操、居巣・濡須で孫権を破る。一〇月、曹丕 ( 三一 ) 魏王の太子 となる。◎劉備、漢中に進出。◎魯粛 ( 四六 ) ・陳琳没。 二三一月、耿紀・紀晃 ( および吉本 ) ら曹操に謀反して失敗。四月、劉備、陽 平関で張部と戦う。七月、曹操、劉備討伐の軍をおこし、九月、長安に出 陣。◎楽進没。 二四一月、劉備、陽平関で夏侯淵を斬る。三月、曹操、斜谷に進出して劉備と 対峙、五月、引揚げ。七月、劉備、自立して漢中王となる。八月、関羽、 襄陽を占拠、樊城で徳を斬り于禁を捕う。一〇月 ( 『演義』では一二月 ) 、 呂蒙、江陵を占拠。関羽 ( 五八 ) 父子、臨沮において斬らる。一二月、呂 蒙 ( 四一 l) 没。

3. 三国志演義 5

って劉備の庇護下にはいる。 武両全の部将。 」もうき しめい 馬超 ( 一七六ー二二一 I) 字は孟起。馬騰の長子。呂蒙 ( 一七八ー二一九 ) 字は子明。孫権に仕えた 劉備父子に仕えた蜀の五虎将の一人。 文武兼備の名将。 ろしゆく しげん ほうとう ほ、つす . う 庸統 ( 一七八ー二 一 lll) 字は士元。別名鳳雛。劉魯粛 ( 一七二ー二一七 ) 字は子敬。孫権の幕僚。 * 印は正史に記載なく『演義』によった。 備の軍師。諸葛亮と並び称される智恵者。 りゅうきよう 劉協 ( 一八 ー二三四 ) 後漢第九代の献帝。 りゅうし、よう・ きぎよく 劉璋 ( ? ) 字は季玉。益州の牧。 ちゅうぎん りゅうび げんとく 劉備 ( 一六一 ー二二 lll) 字は玄徳。漢の中山の 靖王の末孫。黄巾の乱に際して関羽、張飛と 共に挙兵。軍師・諸葛亮の助けを得て蜀の主 となる。 りゅうぜん 物劉禅 ( 二〇七ー二七一 ) 字は公嗣。幼名阿斗。 かんがん 場劉備の子。宦官を寵愛して亡国を招く暗君。 蜀の後主。 主 りゅうひょう けいしようけい 巻劉表 ( ? ー二〇八 ) 字は景升。荊州の牧。 ・・りゅうき 劉琦 ( ? ー二〇九 ) 劉表の長子。温厚篤実の人 こうか であったが継母蔡氏にうとまれ、江夏へはし さい

4. 三国志演義 5

309 略年表 二〇四 二〇五 二〇七 一九九 二〇〇 左将車に補せらる。 四一月、公孫璟、袁紹に敗れて自害。五月、劉備、許都を脱出して下郵を奪 回。六月、袁術没。一二月、曹操、官渡で袁紹と戦う。 五一月、曹操、董承らを殺し、下邸を抜く。劉備、袁紹を頼り、関羽、曹操 に降る。二月、曹操、白馬で袁紹を破る。関羽、劉備と再会。四月、孫策 ( 二六 ) 没、孫権 ( 一九 ) これを継ぐ。一〇月、曹操、烏巣で袁紹の兵粮を 焚く 六劉備、汝南で曹操に大敗、荊州の劉表を頼る。 七五月、袁紹没。九月、曹操、袁尚・袁譚を討つ。 八八月、曹操、劉表を討ち、また袁尚・袁譚を破る。 九七月、曹操、袁尚を破って河北を平定。 一〇一月、曹操、袁譚を斬って青州を平定、袁煕・袁尚、烏丸に奔る。 一二春、曹操、烏丸討伐の軍をおこす。劉禅生まる。八月、曹操、白狼山で 頓を斬る。九月、遼東の太守公孫康、曹操に袁尚・袁熙の首を献ず。郭嘉 ( 三八 ) 没。諸葛亮 ( 二七 ) 、劉備 ( 四七 ) の軍師となる。 一三一月、曹操、郊郡に玄武池をつくり水軍を訓練。六月、曹操、丞相となる。 七月、曹操南征。八月、荊州の牧劉表没し、劉琮これを継ぐ。曹操、孔融

5. 三国志演義 5

308 これを継ぐ。 四夏、陶謙、徐州の牧となる。秋、曹操、陶謙を攻めて十余城を抜き、領民 一〇万を殺す。 一九四興平一二月、曹操ふたたび徐州を攻撃。陶謙、青州刺史田楷・平原の相劉備 ( 三 三 ) に救援を乞う。劉備、予州の牧となって小沛に駐屯。呂布、張遞に迎 えられて克州の牧となる。八月、曹操、濮陽において呂布に苦戦。陶謙 ( 六 lll) 没、劉備、徐州の牧となる。孫策、江東に帰り、周瑜 ( 二〇 ) を幕 下に加う。 二曹操、定陶で呂布を破る。三月、李催・郭汜、長安を騒がす。夏、呂布、 鉅野で曹操に大敗、劉備を頼る。七月、献帝、洛陽へ向かう。一〇月、曹 操、州の牧となる。 一九六建安一七月、献帝、洛陽にはいる。曹操 ( 三六 ) 入京して録尚書事となる。九月、 曹操、献帝を許昌に移す。一〇月、劉備、下郵で呂布に敗れ、曹操を頼る。 孫権 ( 一五 ) 、呉郡陽羨の県長となる。 一一一月、曹操、張繍に大敗。春、袁術、淮南で成を建国。 三七月、曹操、張繍・劉表を大破。九月、曹操、袁術を討つ。一二月曹操、 下邸で呂布・陳宮を斬り、張遼 ( 三〇 ) を幕下に加う。劉備、献帝に拝謁、 一九五 一九七

6. 三国志演義 5

114 と言って、書面を幕僚たちに回し、二度と西川におもむこうとはしなかった。 とうごそんけん ちょうしよう さて東呉の孫権は、玄徳が西川を手中におさめ、劉璋を公安へ追いやった由を知るや、張昭・ 第一よう 顧雍を呼んではかった。 「はじめ劉備がわしより荊州を借りていったとき、西川を取ったら返すと申した。今日、すでに巴 しよく 蜀四十一州を手に入れたとあらば、かの地を取りもどそうそ。もし返さぬとあらば、力すくでも 取りもどしてやろう」 すると張昭の言うのに、 「わが国はようやく安泰を得たときなれば、戦をおこすのはよろしくござりませぬ。それがしに一 計あり、劉備めに荊州を奉還いたさせてご覧にいれます」 正に、西蜀に新しき日明けなれば、東呉また旧土をうかがう、というところ。さてその計とは。 それは次回で。 しようりしゅん 注一斉の無塩戦国時代、斉の無塩というところにいた鍾離春という醜女のこと。西子は西施。 せいそうえん 二左将軍ここは誤り。このとき、劉巴は「左将軍の西曹の掾」となった。左将軍は劉備であるから、 蜀においては大将軍にあたり、その西曹の掾とは、つまり総理府の局長のような役にあたる。 いく」 ( 注五 )

7. 三国志演義 5

いすわって同地を返そうといたしませぬゆえ、双方とも激しい恨みを抱きおります。よって、いま た 弁舌に長けた者を遣わして孫権に書面を送り、彼を説いて軍勢を催して荊州を攻めるように仕向け ひつじよう ますれば、劉備が両川の軍勢をおこして荊州を救うは必定。そのとき、大王が軍勢を催して漢中 きたい へ攻めかかり、劉備を前後から攻めたてられなば、必すや危殆に陥りましよう」 まんちょう いたく喜んだ曹操は、ただちに書面をしたためて満寵を使者とし、江東の孫権のもとへ急行さ はくねし ちょうしよう あざな せた。孫権が満伯寧 ( 寵の字 ) の到着を知って幕僚にはかると、張昭が進み出て言った。 しよかっ 「魏と呉とは本来、何の恨みもござりませぬに、先には諸葛 ( 孔明 ) のロ車に乗せられて、長年に かわたる合戦にまきこまれ、領民たちを困苦のきわみに落としてしまいました。今日、満寵がまいっ わばく たのは、和睦のために相違ござりませねば、手厚くもてなすがよろしいかと存じまする」 位 の孫権はこれに同意し、幕僚たちに彼を迎えいれさせて対面した。挨拶をすますと、孫権は満寵を ひんきやく 中 賓客としてもてなし、満寵は曹操の書面を差し出して言った。 漢 徳「呉と魏はもともと含むところもござりませんでしたが、劉備のために、思わぬ不和を招くに至っ たものでござります。魏王にはこのたびそれがしをご差遣あって、将軍に荊州を攻めていただき、 回 きようげき 三魏王は漢川に出兵して前後から挾撃いたし、劉備を破ったうえは、その領土を分け取りして、二 第度と侵しあ , っことはすまいと伝えるようとのことでご、りました」 孫権は書面を読んでから、酒宴を設けて満寵をもてなし、 いったん客舎に引き取らせた。 かくて孫権が幕僚たちにはかると、顧雍が、 あいさっ

8. 三国志演義 5

えんほちょうろりゅうしよう ばちょう さて閻圃が張魯に劉璋を助けぬよう勧めていたところへ、馬超が進み出て、 「それがし、殿のご恩顧にあずかりながら、いまだなに一つお役に立っておりませぬ。なにとそ一 かぼう りゅうび 手の軍勢をお貸し下さりませ。さらばそれがし、葭萌関を攻め取って劉備を手捕りとなし、きっと 劉璋より二十州を取り上げて殿に奉りまする」 - 一うけん 張魯は大いに喜び、ます黄権を急いで帰らせておいて、二万の軍勢をそろえて馬超にあたえた。 トっ・は′、 かんぐん このとき靡徳は病いのため出陣できす、漢中に留まった。張魯は楊柏を監車 ( 目付役 ) に命じ、馬 超は従弟馬岱とともに吉日をえらんで打ち立った。 げんとく ここに玄徳の軍勢は維城にあったが、法正が出した使者が立ち帰って報告した。 ふ 「鄭度が、劉璋に作物や各地の穀倉をすべて焼き払い、巴西の領民を浯水の西へ移したうえ、城の ばちょう かばう 馬超大いに葭萌関に戦い えき 第六十五回り 4 うび 劉備自ら益州の牧を領す 寺 ) くもっ かんちゅう ほうせい はせい

9. 三国志演義 5

孔明は、 「、、に・も、それはよい」 と言って、彼に書面をつくらせ、使者を成都へ遣わした。 さて劉循が逃げもどって父親と対面し、雛城が落ちた由を告げると、劉璋はあわてて諸官を集め じゅうじていど てはかった。すると従事鄭度が、 りゅうび 「当今、劉備は城を攻め取り多くの土地を奪ったとは申せ、軍勢は少なく、兵士や領民の心もよう ひょうろう つかんではおりませぬ。しかもゆく先々の作物を兵粮にあて、物の具の貯えもないありさま。さ え しとう さくもっ 捉れば、巴西・梓潼の住民をすべて浯水の西に移し、米倉や作物をことごとく焼き払ったうえ、城の 張守りを固めて、敵のまいるのを待ち受けるに越したことはござりませぬ。彼らが寄せてまいったと めて、決して、討って出ぬのでござります。対陣が長びけば兵粮も尽き、百日をいでずしておのずと を兵を退くは必定。その虚に乗じて追い討たば、劉備を手捕りとできましようそ」 計 と進言したが、 孔 「それは違う。敵を防いで民を安んするということは聞いておるが、民を移して敵に備えるなそと いうことは聞いたこともない。それは万全の計とは一言えまいぞ」 六協議するおりしも、法正より書面が来たとの知らせ。使者を呼びいれると、書面を差し出したの で、劉璋はそれをひらいてみた。その大略は、 ひつじよう

10. 三国志演義 5

授 ちょう。しト - う 首さて張昭が策を献じて、 そうそう 高「出陣はしばらくお控えになるがよろしゅうござります。いまもし軍をおこせば、曹操が再度攻め ひつじよう りゅうしよう りゅうびとう 1 」 寄せてまいることは必定。よって、書面を二通っくり、一通は劉璋に送り、劉備が東呉と手を結 て せいせん んで西川を取ろうとしておると言いやって、彼が劉備に疑いを抱いて攻めるようにしむけ、もう一 取 ちょうろ 関通は張魯に送って、荊州へ軍を進めさせるのでございます。かくて劉備が前後を衝かれて度を失う ところへ、軍を出しますれば、容易に荊州を攻め取ることがかなうでござりましよう」 そんけん 一一孫権はこれを聞きいれて、ただちに劉璋と張魯のもとへ使者を差し向けた。 第 げんとく かばう ちゅうとん ここに玄徳は、葭萌関に久しく駐屯している間に、 深く領民の心を懐けていた。かかるところ - ) うめい そん じゅ へ、とっぜん孔明から、孫夫人が東呉へ帰った旨の知らせがあり、また、曹操が軍勢をひきいて濡 ロ - 一う よう 浯関を取りて楊・高首を授し 第六十二回らく 維城を攻めて黄・魏功を争う わた なっ っ