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検索対象: 三国志演義 5
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1. 三国志演義 5

おんため 「わが国を味方につけようどの、いは明らかでござりますが、申すことにも一理ござります。ひとま うんちょう ず満寵を帰して、挾撃を承知のむね、曹操に伝えおき、一方、荊州へ人をやって雲長の動静をさ ぐってみるがよろしゅ、つ ) ギ、りましょ , つ」 しよかっきん と言い、諸葛瑾が、 「聞くところによれば、雲長は荊州にまいってから、劉備の仲立ちで妻をめとり、息子と娘を生み ましたが、娘はまだ幼く、縁組みをいたしておらぬとか。それがし、かの地へまいって殿の若君の 御為に縁組みを結んでまいろうと存じます。もし雲長が承知いたさば、彼と結んで曹操を破るがよ く、もし承知いたさぬときは、曹操と結んで荊州を取るがよろしかろうと存じます」 と言ったので、その計を用い、まず満寵を許都へ帰しておいて、諸葛瑾を使者として荊州へ遣わ した。諸葛瑾が荊州に到着し、雲長と対面して挨拶をすますと、雲長が言った。 「子瑜殿、ご用の向きを承ろう」 「ご当家と縁組みを結びにまいったのでござります。わが君呉侯の若殿ま、 。いたくご利発にわたら せられまするが、将軍に姫君がおいでと承り、ご縁組みを取り結ばうと思ってまいったのでござり ます。両家が誼みを結び、力をあわせて曹操を破るのは、まことに天下の快事ではござりませぬか。 なにとそ、ご承諾いただきとう存じまする」 聞いて雲長はさっと顔色を変え、 「虎の子を犬の子にやれるか。貴様の弟がいなければ、生きては帰さぬところだ。そんなことは聞

2. 三国志演義 5

「『五虎大将』の筆頭にござります」 「その五虎将は」 「関・張・趙・馬・黄でござります」 すると雲長は、 しりルう もうき よくとく 「翼徳はわしの弟じゃ。孟起 ( 馬超 ) は名門の出で、子竜は久しく兄者に従っておるゆえ、わしの ししかにももっともであるが、凩忠ごとき . 奴がわしと 弟も同然、この三人がわしと同列に並ぶことよ、 同等とは許せぬ。大丈夫たる者が、あんな老いばれと並ぶことはできぬ」 み と怒って印を受けようとしない。費詩は笑った。 しようかそう寺、ん , 一うそ 進 「これは将軍のお言葉とも思えませぬ。昔、蕭何・曹参は高祖皇帝とともに大事を挙げ、最も近し かんしんそ のい者でありましたが、韓信は楚より亡命いたせし大将にすぎませぬ。しかるに彼は王となって、蕭 中 何・曹参の上に位するに至りましたに、蕭何らがそれを不満としたとは聞いておりませぬ。このた 漢 徳び漢中王には、五虎将の爵に封じられたとはいえ、将軍とはご兄弟の間柄にして、他人とは考えて おられませぬ。さすれば、将軍は漢中王、漢中王はとりもなおさす将軍であって、他の者たちと同 回 かふくゆうかん 列に見なすことはできますまい。将軍は漢中王のご厚恩にあずかっておられるお方、禍福憂歓をと うんめん もにせられてこそ当然、官爵の高下を云々されるべきではないと存じます。いまいちど、ご考慮の 第 ほど願わしゅう存じまする」 言われて雲長、はっと気がっき、

3. 三国志演義 5

216 りゅうほう もうたっ それから劉封・孟達にも命じた。 「三千の兵をひきいて山中の要害へおもむき、旗さし物を立て連ねて味方に気勢をそえ、敵の意気 かべん ばちょう 三人がそれぞれ軍勢をひきいて打ち立ったあと、人を下辧へやって馬超に何事か計を授け、ただ げんがんはせい ろうちゅう ちょうひ ぎえん かんちゅう ちに打ち立たせ、また、厳顔を巴西・間中の陣へやって張飛・魏延とかわらせると、二人を漢中 へ向かわせた。 ちトすノ - 一う か・一う . しト - う えん さて張部と夏侯尚は夏侯淵のもとにたどりついて、 とく てんとう かん・一う りゅうび 「天蕩山を取られ、夏侯徳と韓浩は殺されました。今や劉備がみずから軍勢をひきいて漢中に向か って来るとのことゆえ、至急、魏王に注進して、ただちに屈強の軍勢のご派遣を青、 一三ロ—> これに備え ねばならぬと存じますが」 そう、一う きよしよう 夏侯淵はただちに使者をたてて、この由、曹洪に知らせ、曹洪は夜を日についで許昌に馳せ上 そうそう ると、曹操に注進した。曹操は大いに驚き、急ぎ文武諸官を集めて、漢中へ加勢を差し向ける軍議 ちょうしりゆ、「 ( 4 、フ を催した。長史劉曄が進み出て、 ちゅうげん 「漢中を失うようなことがあっては、中原もおだやかにはすみますまい ここはぜひとも、大王 のご出馬が望ましゅう存じまする」 と言うと、曹操は、 「あのとき、そなたの申すことをきいておれば、このような羽目にはならなかったであろうにの つら

4. 三国志演義 5

かんべい そうじんかん さて曹仁は関公が落馬したのを見るや、ただちに軍勢をひきいて討って出たが、関平がこれを押 やじり しもどし、関公を救って帰陣した。臂の矢を抜き取ってみると、鏃に塗ってあった毒がすでに骨に までしみ透って、右臂は青ぶくれに腫れ上がり、動かすこともできない。あわてた関平は、大将た ちと、 りようじ 「父上がもしこの臂を駄目にされては、戦うこともできなくなる。いったん荊州にもどって療治す るより仕方なかろう」 と相談し、一同して関公の前にまかり出た。 「どうしたというのじゃ、そなたたちは」 と関公にきかれて、一同が、 「殿の右臂のご負傷では、敵がまいったとて討って出ることもかなわないのではないかと思われま けず かんうんちょう 関雲長骨を刮って毒を療し 第七十五回りよしめ【 呂子明白衣にて江を渡る とお ひじ いや

5. 三国志演義 5

彼らをあらためて呼び上げ、各人に酒を与えて、 「われらは、祖先を同じゅうする血を分けた兄弟じゃ。二心あって、大事が語れるものではなかろ うが。いらざる疑いは無用であるそ」 と一言えば、一同、はっと平伏し、劉璋は玄徳の手をとって、はらはらと涙を落とした。 あにじゃ 「兄者のご恩、誓って忘れませぬそ」 かくて二人は、夜に入るまで酒をくみかわし歓談して別れたが、陣屋に引き取った玄徳は、廳統 を呼んで、 奪「貴公らは、なぜわしを不義の道に陥れようとするのじゃ。これからは、二度とあのようなことは 諏せぬよう」 て っ となじり、統は吐息して引き退がった。 を 一方、劉璋が陣屋にもどると、劉瑣らが言った。 雲「殿には本日の席上のありさまをなんとご覧めされましたか。一刻も早く、この地を引き揚ぐるが 趙 上策と存じまするが」 一「兄者劉玄徳殿は、そのようなお方ではない」 十 「たとえ玄徳殿にさような心がなくとも、配下の面々は、一人残らずわが西川を併呑して富貴をは 第 3 からんとしておりまするそ」 「その方らは、われらが兄弟の情をさこうと思っておるのか」 へいどん ふうき

6. 三国志演義 5

そんけんじゅしゅ そうそう かんちゅう を さて孫権が濡須口において軍勢をととのえているところへ、曹操が漢中より四十万の大軍をひ がっぴ 営 とうしゅうじよせい のきいて、合瀧の救援に来るとの知らせがあった。孫権は幕僚にはかって、ます董襲・徐盛の両名 そう ちんぶちょう じゅんしよう てに大船五十艘を授けて濡須の河口に待ち伏せさせ、陳武に長江沿岸の巡哨を命じた。 きた 騎「曹操はこのたび長駆、押し寄せ来るものゆえ、ます出鼻を挫いておくがよろしいと存じます」 ちょうしよう 寧張昭の言葉に、孫権が、 「曹操がやってまいるが、誰そ先駆けして打ち破り、彼の出鼻を挫く者はおらぬか」 回 ばっか りようとう と幕下の面々に言うと、凌統が進み出た。 十 「それがしにお申しつけ下さりませ」 「軍勢はどれほどいるか」 「三千人で十分でござります」 第六十八回 きた かんねい ぎじんおそ 甘寧百騎にて魏の営を劫い さじさかずきな そうそうたわむ 左慈盃を擲げて曹操を戯る

7. 三国志演義 5

とうせんちょうろよし 「東呉の孫権が人をやって東川の張魯と誼みを通じ、葭萌関へ攻めかからんとしております」 とのこと。玄徳が驚いて、 「葭萌関を取られては退路を断たれ、進むことも退くこともできなくなる。どうしたらよかろう 力」 もうたっ と言うと、寵統は孟達に向かい、 「貴公は蜀の方でござるから地理にはおくわしいはず。葭萌関の守備にまいっては下さらぬか」 「それがし、もう一人の者とともにまいりとう存じまする。この者とまいれば、万が一にも間違い は。こギりますまい」 玄徳が誰かと尋ねると、 なんぐんしこう ちゅうろうしよう りゅうひょう 「それは、以前荊州の劉表のもとで中郎将をつとめていた南郡枝江県の人、姓は霍、名は峻、字 ちゅうばく 仲にギ、います」 玄徳は大いに喜び、ただちに孟達と霍峻を葭萌関へやった。 廳統が宿所に帰ったところ、 「お客さまでございます」 と門番より取次ぎがあった。出迎えると、その人は身のたけ八尺、容貌魁偉、髪は短く切って 項に垂らし、着物もしどけなく乱れている。 どなた 「誰方でござるか」 とう′ ) かばう 力しし しゅん

8. 三国志演義 5

かくて張部は二人の大将とともに天蕩山に落ちのび、夏侯徳に対面して、事の次第をつぶさに物 語った。 「わしはここに軍勢を十万かかえておるゆえ、これをもって陣を取りもどしにいったらよかろう」 夏侯徳が言うのを、張部が、 「守りを固めて、みだりに動かれぬ方がよろしゅうござりましよう」 どら と言うおりしも、にわかに山麓に銅鑼・太鼓の音がとどろきわたり、黄忠の軍勢が押し寄せたと 取 隘の知らせ。夏侯徳はからからと笑った。 ロ「老いばれめ、兵法も知らないで、カ押しに出てまいったな」 て「黄忠は策略にも長けた者。一介の武辺者とは違いまするそ」 せいせん も「なにが、西川の軍勢は遠路はるばるやってきたもので疲れはてておる。そのうえわが陣中深くは 智 いって来るなそ、兵法を知る者とは言えまいに」 飛 張「ともあれ手ごわい相手でございます。固く守るに越したことはございませぬ」 猛すると韓浩が、 回「屈強の者三千を借用して迎え撃ちとう存じまする。必す打ち破ってまいりまする」 第 と言ったので、夏侯徳は彼に軍勢を与えて下山させた。黄忠が軍勢をととのえてこれを迎えよう Ⅱとすると、劉封が諫めた。 「日も暮れたことではあり、兵士たちも遠路を押してきて疲れておるから、一息ついたらよかろ いっかい

9. 三国志演義 5

130 して頼みになる者がおらぬ。それで、そなたに皇后の密書を伏完のもとに届けてもらいたいのじゃ。 そなたの忠義は、決して忘れぬそ」 かんきゅう 穆順は感泣して、 と 「陛下のご大恩、臣は命を賭してもお報いっかまつります。これよりただちにまいりとう存じます る」 そこで皇后は書面をおっくりになって穆順にお授けになり、彼はそれを髪の中にかくして宮中か やかた ら忍び出ると、伏完の館に急行してご書面を差し出した。伏完は伏皇后のご直筆であるのを見て、 穆順に言った。 「曹操の腹心ははなはだ多く、すぐには手を下しかねる。ただ一つ、江東の孫権と西川の劉備がこ そって兵をあげるなら、必ずや曹操みずから出陣するであろう。そのすきに朝廷の忠義の臣をつの きようげき ってともどもに事をあげよう。内外より挾撃すれば、十中の九まで仕損ずることはあるまい」 ・一うじトっ・ みつしよう せんげ しゅうと 「皇丈 ( 天子の舅。尊称 ) よりお二方へご返書を差し上げられて密詔のご宣下を請い、呉と蜀に密 使をお送りになって、ともどもに兵を起こし、国賊を討って天子をお救いいたすよう申しつけられ るがよろしゅ , つ。こギ、りましょ , つ」 もとどり 伏完はただちに紙をとりよせて返書をしたため、穆順に渡した。穆順はそれを髻の中にかくし、 伏完のもとを辞した。 しかるに、このことを早くも曹操に知らせた者があり、曹操は宮門において待ちうけていた。と

10. 三国志演義 5

234 常山が趙子竜 これたん 一身満て是胆 かくて玄徳は子竜を虎威将軍と呼び、大いに兵士たちの労をねぎらって、酒宴は夜もふけるまで 続けられた。 や第、く ところへ、曹操がふたたび大軍を発し、斜谷の間道より漢水に押し寄せたとの知らせ。 「曹操め無駄骨を折りにきおったか。漢水はもはやわしのものじゃ」 笑った玄徳は、軍勢をひきいて漢水の西に出陣する。曹操が徐晃に先鋒を命じて軍を進めようと ばっか したとき、幕下に進み出た者がある。 「それがし、いささかこのあたりの地理を承知いたしおりますれば、徐将軍におカそえしてともに 蜀を破りとう存じまする」 とうきょ おう しきん がもん はせい 曹操が見やれば、巴西郡宕渠の人、姓は王、名は平、字子均で、ときに牙門将軍 ( 陣門、城門を守 る部将 ) をつとめている者。曹操はいたく喜び、王平を副先鋒として、徐晃を助けさせた。曹操は 軍を定軍山の北に進め、徐晃は王平とともに手勢をひきいて漢水まで進み出たが、王平に対岸へ渡 って陣を布くよう命じた。 「渡河したうえで、もし急に退かねばならなくなったときは、困るのではござりませぬか」 かんしん 「むかし韓信が水を背にして陣を布いたのは、『身を死地に置いて生きる』というものだ」 すべ