しくしておるが、君忍は、法が正しく行なわれてはじめてわかるもの。恩を垂れるに相当の爵位を もってすれば、爵位の加わることをもって栄誉とするようになる。恩賞と栄誉がともに尊ばれるこ とになれば、君臣の節が生まれ、かくて国を治める道は、はじめて明らかとなるのじゃ」 と答えたので、法正は恐れ入って引き退がった。軍民ともに治まり、また四十一州 ( 西川全域を ちゅうとん さす ) に軍勢を駐屯させて、ことごとく平定させた。法正は蜀郡の太守となってよりこの方、およ そかっての日、とるにたらぬ恩義をかけられた者にも恩をもって返し、ささいな恨みを抱いた者に も必ず仕返しするというありさまであったので、ある人が、孔明に向かって、 ・一うち - しよく 「孝直 ( 法正 ) はあまり横暴ゆえ、少し注意してやってはいかがでございましようか」 と言ったが、孔明は、 そんけん 「むかし、わが君が荊州におかれて、北に曹操、東に孫権をひかえてお苦しみのおり、孝直を頼み とせられたところ、孝直はこころよくわが君のお力となり、わが君を今日あらしめたのではないか それをいまさら、彼をおさえ、窮屈な思いをさせるわけにはゆかぬ」 と、とりあわなかった。これを耳にした法正も、以来みすからの行ないを慎んだ。 ある日、玄徳が孔明と語りあっているところへ、雲長のもとより関平が金帛の礼を述べるために 到着したとの知らせがあった。玄徳が引見すると、関平は挨拶ののち、書面を差し出して、 「父は馬超殿の武芸ひいでたる由を聞き、西川へまいって腕を競ってみたいと申しており、この由、 伯父上にお伝えいたすよう申しつけられてまいりました」 きんばく
けげん と尋ねたのに、返事もせずにつかっかと奥へ通って、寝台にごろりと横になった。怪訝に思って、 しつこく尋ねると、 「しばらく休ませてくれ。それから天下の大事を知らせて進ぜよう」 と言うので、ますます不審に思い、側の者に酒食を供するよう命じた。その人はむつくり起きな っこうに遠慮するふうもなく、たらふく飲食すると、また眠ってしまっ おって食いはじめたが、い ほ - っ・せい た。どうにも不安なので、法正を呼びにやった。間者ではないかと思ったからである。あわてて駆 授けつけた法正を出迎えて、これこれかような男なのだがと言うと、法正は、 ほうえいげん ( 注一 ) 首「それは彭永一言かも知れませぬ」 高 と言いながら、近寄っていった。と、その人はばっと起き直るなり、 こうちよく 楊 「おお孝直、その後、変わりないか」 て 正に、西川の人、旧知に出会い、うすまく浯水をおさえこむ、というところ。さてこの人は誰か 取 関それは次回で。 回 十 第 注一彭永言嘉靖本では永年とある。永年の方が正しい
「これは・法正の斗明略に、こギ、ります。「って出るより守りを固めるがよろしゅ , っ ) ギ、りましょ , つ」 「敵は向かいの山を占めて、味方の様子を眺めているのじや討って出ぬという法はない」 いど ぞうごん 張部の再三の諫めを振り切り、夏侯淵は軍勢を分けて山を取りかこむと、悪口雑言して戦いを挑 ののし んだ。法正が山頂で白旗を振り、夏侯淵に存分に罵らせておいて、黄忠はじっと控えている。やが 待て午の刻も過ぎ、法正は曹操の軍勢にたるみが見え、士気衰えて多くの者が馬を下りて休んでいる を 労のを見てとると、さっと赤旗を振った。同時に笛・太鼓がいっせいに鳴り渡り、鬨の声どっと起こ つって、黄忠まっさきかけて馳せ下れば、その勢い、天崩れ地裂けるかと見えた。夏侯淵があわてふ をためくところ、黄忠、早くも絹傘の下に迫って、雷のごとき大喝を浴びせかける。夏侯淵は身構え いとま 忠る暇もなく、落ちかかった黄忠の薙刀に頭から肩まで真っ二つに斬り下げられていた。後の人が黄 て忠をたたえた詩に、 め 占 を そうとう 山 蒼頭 ( しらが頭 ) 大敵に臨み 対 - 」うしゅ たくま 皓首神威を逞しゅうす 回 ちょうきゅうお カ雕弓を趁いて発し 十 ふる 風雪刃を迎えて揮う 第 おたけび 雄の声虎の吼ゆるが如く しゅんめ 駿馬竜の飛ぶが似し ごと とき
ち 待 を 労 て っ 、一うめい を さて孔明が、 逸 忠「貴公が出陣されるなら、身どもより法正をさしそえてつかわすによって、何事も彼と相談してや てって下されい。身どももあとから応援の軍勢を差し向けるでござろう」 こうちゅう げんとく め 占 と言えば、黄忠は承知して、法正とともに手勢をひきいて打ち立った。そのあと孔明は、玄徳 を 対 「あの老人には、少し強く言ってやらねば、せつかくやっても役にたちませぬからな。さっそく加 回 一勢を送らねばなりますまい」 ちょううん と言って趙雲を呼んだ。 第 「一手の軍勢をひきいて、間道より奇兵を出して黄忠を助けよ。黄忠が勝ったならその要はない。 だがもし間違いがあったら、ただちに加勢せよ」 第七十一回 たいぎん こうちゅういっ 対山を占めて黄忠逸をもって労を待ち 、よ しゅう かんすい ちょううんか 漢水に拠りて趙雲寡をもって衆に勝っ ほうせい
まうとう さて法正はその人と顔を見合わせ、同時に手を拍って笑いだした。寵統が尋ねると、 こうかん ようあぎなえいげん しよく 「これは広漢の人で、姓は彭、名は、字を永言と申す、蜀の名士でございます。直言して劉璋 どばく の怒りに触れ、鉗 ( 髪をそり首かせをはめる ) の刑を受けて奴僕に落とされていたため、髪が短い のでございます」 ひんきやく 聞いて靡統は賓客としてもてなし、どうして来たのかと尋ねた。すると彼は、 「それがしは貴公の軍勢数万の命を救って進ぜようと思ってまいったのだ。劉将軍に対面のうえ、 じきじき 直々申し上げよう」 げ・れレ」く ていちょう と言う。法正がただちにこの由を玄徳に知らせると、玄徳は引見して、鄭重にそのわけをたす ねた。 「雛城の陣地には、お味方がどれほどおられまするか」 ほうせい しよかつりよういた ま、つと、つ 諸葛亮痛んで寵統のために哭き ロちょうよくとく げんがんゆる 第六十三ロ 張翼徳義をもって厳顔を釈す こんかん
まうとつほうせい りゅうしよう せいせんしよく 。いながらにして西川 ( 蜀の異称 ) を手中 さて寵統・法正の両人が、宴席で劉璋を討ち果たせ、 げんとく にできようと勧めると、玄徳は、 つ「わしは蜀にはいったばかりで、領民の信望も得ておらぬ。さようなことはまかりならぬ」 を と言い、二人がなおも一一一一口葉をつくして勧めるのに、し っこうに聞きいれなかった。 江 雲次の日、ふたたび城内において酒宴を催したが、玄徳と劉璋はこもごも心の内を語りあって、そ の睦まじさはひとしおのものがあった。 一酒がほどよくまわったところで、統は法正に向かい、 六「事ここにいたったからは、殿のご意向にかかずらってはおられまい」 ぎえん と言うと魏延を呼び、ご前で剣舞を演じ、すきを見て劉璋を斬って棄てよと命じた。承知した魏 延は、抜き身をひっさげて進みいで、 第六十一口 ちょううん き一 - んギ、 あと 趙雲江を截って阿斗を奪い ロそんけん のこ まんしりぞ 孫権書を遺して老瞞を退く
「このたび魏王には劉備討伐のため、大軍をひきいて南鄭にご出馬になった。われらもこの地を久 しく守っておるが、まだ功名らしきものは一つもあげておらぬ。明日はわしが討って出て、なんと しても黄忠を手捕りにしてまいるぞ」 「黄忠は智勇兼備の男。しかも法正が彼を助けておることでござりますれば、軽々しく立ち向かう けんそ 待べきにはござりますまい。当所は険阻な山地でござりますゆえ、固く守るに越したことはないと存 を 労じまする」 っ 「さればとて他の者に功名をあげられては、われらは魏王にあわす顔がないではないか。そなたは を 山を守っておれ。わしは討って出る」 逸 忠 と言って、夏侯淵が一同に、 黄 て「誰そ物見に出て敵を誘い出してみぬか」 め 占 と言うと、夏侯尚が言った。 を 山「それがしがまいります」 「物見に出て黄忠と出会っても勝ってはならぬ。負けるのじゃ。わしにうまい手がある。これこれ 回 十 第夏侯淵は命を受け、兵三千をひきいて定軍山の本陣を出た。 ふもと いど さて黄忠と法正は定軍山の麓に陣取りして、しばしば戦いを挑んだが、夏侯淵が一歩も出て来な い。してまた、攻め上ろうと思っても、危険な山道のこととてとうてい破りがたいとみたので、や
して凶兆にはござりませぬ。また天文をも占ってみましたが、太白が雛城の上にまいったのは、こ しよく のたび蜀の大将冷苞を斬ったことに応じており、すでにこれにて凶兆は現われたのでござります。 お疑いめされることなく速やかに軍をお進め下さりませ」 靡統に再三うながされて、ついに玄徳は軍をひきいて打ち立ち、黄忠・魏延がこれを陣に迎えい れた。廳統が、 「維城へゆくには、どのような道がござるか」 ちょうしよう 哭 と法正に聞くと、彼が地面に図を描いて見せたので、玄徳が張松より贈られた地図を取り寄せ て引き合わせてみると、寸分の違いもなかった。 統「山の北側には広い街道があって雛城の東門に通じ、南側の間道は西門に通じております。いずれ でも軍勢を進めることができまする」 痛と法正が言うので、寵統は玄徳に言った。 せんぼう 亮 「しからば、それがしは魏延を先鋒といたして南の間道より進み、殿には黄忠を先鋒として北側の 葛 街道より進んでいただき、同時に離城へ寄せかかることといたさ、 。しカカで、こ、いますか」 一一一「わしは若いときから武術になじんでまいったのであるから、間道をゆくことにした方がよかろう。 六軍師は街道より東門を攻められよ。わしは西門を攻める」 「街道には必ず敵が出張っておりましようゆえ、殿が軍勢をひきいて破って下されませ。それがし は間一迴よりまいります」
黄忠が定軍山のま下に押し出して、法正に諮ると、彼は指さしながら、 「定軍山の西に、一つのけわしい山がそびえておるが、あの山頂よりは、さだめし定軍山の様子を 手にとるように見ることができるでござろう。あの山を取ることができれば、定軍山はもはや取っ たも同然と申すものだが」 仰ぎ見れば、山頂に狭い平地があって、僅かの軍勢がいる様子である。その夜の二更、黄忠は兵 としゅう 士をひきい、銅鑼・太鼓を打ち鳴らして山頂に攻め上った。この山は、夏侯淵の部将杜襲が僅か数 百人をひきいて守っていたが、そのとき、黄忠が大軍をもって攻め上ってくるのを見て、山を棄て て逃げ去った。山頂に上れば、正に定車山は目の下にある。法正が言った。 「将軍は山の途中におって下されい。それがしが山頂に控えましよう。夏侯淵の軍勢がまいったら、 それがし合図の白旗を振りますゆえ、討って出るのをお控え下されい。敵が疲れて備えを怠ったと きに、赤旗を振りますゆえ、将軍には一挙に攻め下られるよう。力を養って敵の疲れを待つものゆ え、勝利は疑いごギ、るまい」 黄忠はいたく喜んで、その計に従った。 ここに杜襲が軍勢をひきいて逃げもどり、夏侯淵の前にまかり出て、黄忠に向かいの山を奪われ た由を告げると、夏侯淵は激怒して、 「黄忠が向かいの山を取ったからは、討って出ねばならぬ」 張部が諫めた。
玄徳は再三、辞退したが、ついにやむをえす聞きいれた。かくして、建安二十四年 ( 二一九 ) ペんよう ぎじよう 秋七月、壇を汚陽に築いた。周囲九里、五方の旗をつらね、旗さし物、儀仗をととのえて、群臣、 きよせい じじゅ 位階にしたがって居並ぶ。許靖・法正が玄徳の登壇を請うて、王冠・璽綬を奉呈したのち、玄徳は りゅうぜん たいふ 南面して席につき、文武百官の拝賀を受けて漢中王となった。子劉禅を世嗣に立て、許靖を太傅 しようしよれい りよう とうかっ かんう ちょううん に、法正を尚書令に封じ、諸葛亮を軍師として、諸軍を統轄せしめ、関羽・張飛・趙雲・馬超・ こ、っち・ゅう ぎえん たいしゅ 黄忠を五虎大将に、魏延を漢中の太守としたほか、その他の者たちもすべて功に応じて爵位を与 えた。 玄徳は漢中王の位につくや、上奏文をしたため、使者を許都へ遣わした。その上奏文にいわく かたじ 備、非才をもって上将の大任を忝けのうし、三軍を総督し大命を奉じて外地にありしが、国難 を除きて王室を安んすること能わず、久しく陛下が稜威をして地にまみるるにまかせ、天下を危 殆におくに至りしこと、思うだに苦しく、正に病いの頭にあるが如く、夜も眠るあたわざるあり。 みだ てんか さきには董卓、大権を紊り、これより後、群兇横行して、海内の民を苦しめしが、陛下がご聖 徳により、臣下、力をせ、或いは忠義に立ちて奮い戦い、或いは上、天罰を降したまいて、逆 賊、次々に亡び、ついに消滅したるに、ただひとり曹操のみ久しく除くこと能わず、みだりに大 しやき とう・しう 権を侵し、ほしいままに国を乱る。臣かって車騎将軍董承と図りて曹操を討たんとせしが、事 洩れて董承、賊手に仆る。臣、外に逃れて身を託するの土地なく、忠義を果たし得ずして、つい び とうたく ほろ たお あた きよと