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検索対象: 三国志演義 6
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1. 三国志演義 6

えんちょううん して、陸地の道は一方しかない。そこでただちに魏延・趙雲の二人に一手の軍勢を授け、陸路か % ら寄せかからせた。軍勢が城壁に迫るや、上からいっせいに矢を浴びせかけられる。もともと南蛮 やじり の兵士は弓の習練を積んでいて、一度に十本の矢を放っことができ、鏃には毒が塗ってあるから、 当たると皮肉ただれ臓物が飛び出して死ぬのである。趙雲・魏延は追い返されて、孔明に毒矢のこ とを告げた。孔明はみすから陣頭に車を進め、敵の様子をさぐって本陣にもどると、軍勢に数里、 はや 引き退がって陣取りするよう触れた。蛮兵は蜀の軍勢が退いていくのを見て、やんやと囃したて、 喜びあったものであったが、蜀の軍勢が恐れをなして退いたものとばかり思っていたので、夜の見 回りも廃してぐっすりと眠りこんだ。 さて孔明は軍勢を退かせると、陣門を固く閉ざして討って出す、そのまま五日というもの、何の 下知もしなかったが、この日、日暮れが近づく頃、ゆるやかな風が吹きそめるのをみるや、 「各人、着物の襟を一枚、初更までに用意せよ。ととのえられぬ者は打ち首とする」 と陣触れした。大将たちもその意味が分からなかったが、兵士たちは下知通りに用意した。する とまた、 「各人、襟に土を入れよ。違う者は斬る」 との下知があり、一同わけが分からぬままに、下知に従った。と、また下知があって、 ほうび 「土をいれたら、三江城の城壁の下へあけよ。一番にゆき着いた者には褒美をつかわす」 これを聞いて、兵士たちが土をもって城壁へ駆け出せば、孔明が土を積んで階段を作るように下 知し、一番乗りを第一の手柄とすると触れた。かくて、蜀兵十余万、降参した兵士一万あまりが、 えり たが

2. 三国志演義 6

220 め 魏延が孟獲を本陣に引き立ててくると、孔明はすでに牛馬を宰り、陣中に酒宴の支度を整えて待 まんまく ち受けていたが、幔幕の中には兵士たちが七重に立ち並んで、薙刀・槍・剣・戟などが雪の如く燦 えっふてんがい このえ 然と輝き、さらに、ご下賜の黄金の鉞斧、天蓋が並び、前後には楽隊、左右には御林の兵士たちが 厳しく立ち並ぶ。孔明は正面に腰を下ろして、蛮兵たちが続々と引っ立てられてくるのを眺めて いたが、彼らを前に呼び集めると、縄を解かせて、 もうかく 「お前たちは罪もない百姓であるのに、孟獲に使われてえらい苦労をしたものじゃ。思うにお前た ちの親兄弟、妻子はお前たちの帰りを待ちわびておることであろうし、このたびの敗戦を聞けば、 さぞかし嘆き悲しむことであろう。それでは余りに可哀相じやから、お前たちを放してやる」 ありがたなみだ と言い、各人に酒食を与え、途中の食糧を持たせて放してやれば、蛮兵たちは有難涙にくれて 立ち去った。ついで刑手たちに孟獲を連れてくるよう命ずれば、たちまち前後を取り囲んで引き出 ひざまず して来た。孟獲が前に跪くと、 「先帝陛下はそなたに十分なお手当を下されたはずではないか。なぜ謀反いたしたか」 りようせん あるじ 「両川の地は、すべて他人のものだ。貴様の主はそれを横取りして、勝手に天子だなそとぬかし たまで。わしは代々この土地に住んでおる者だ。貴様の方こそ無礼にもわしの土地にはいって来お って、謀反呼ばわりは片腹痛いわ」 「そなたは今、こうして手捕りとなっても、心から服従する気はないか」 「山道が狭かったため、間違ってつかまったのだ。貴様の言うことなぞきけるか」 ほふ さん

3. 三国志演義 6

こなごな と大いに怒り、書面を粉々に引き裂いて使者を斬り棄て、あくる日、軍勢をひきいて攻めかけた。 孟達は劉封が使者を斬ったと知って烈火のごとく怒り、同じく軍勢をひきいて討って出る。両軍、 な一なた 陣を布くや、劉封が馬を門旗の下に立て、薙刀をさしあげて、 「逆賊め、いらざることを申すな」 と罵れば、孟達が、 「首が今にも落ちょうとしているのに、まだ目が覚めないのか」 と答えたので、激怒して馬を躍らせ、薙刀を揮って打ちかかったが、孟達はわずか三合と渡り合 わすに逃げはじめ、劉封が気負いたって二十里余りも追い討っところ、どっと鬨の声がわき、伏勢 を が一時に討ってでて、左から夏侯尚、右から徐晃が斬ってはいるとともに、孟達もとって返して、 詩 植三方から揉み立てる。劉封は散々に討ち崩されて、夜を徹して上庸へのがれ、魏の軍勢はひしひし やぐら てと追い迫る。城下に至って開門を頼むところ、櫓から雨のような矢を射かけてきて、申耽が姿を現 っ 逼わした。 剃「わしはすでに魏に降ったのだ」 兄 大いに怒って攻め落とそうとしたが、追手が迫ったので、もはやこれまでと、房陵へと落ちてく 九れば、城壁には魏の旗さし物が立てつらねられている。申儀が櫓で旗をひと振りすると見るや、城 七の裏手から一手の軍勢が、「右将軍徐晃」と大書した旗を押し立てて討って出たので、かなわずに 西川目指して馬を飛ばせば、徐晃は勢いに乗ってきびしく追討ちをかける。 かくて、残るところ僅か百余騎になった部下を従えて成都に着いた劉封は、漢中王に目通りして ふる とき

4. 三国志演義 6

寂寞も豪華も皆意あり , うちゅう 書生軽しく塚中の人を議さば 塚中爾が書生の気を笑わん あいとう えんりよう さて曹操が死ぬと、文武百官はことごとく哀悼の泣き声を挙げ、同時に使者を世子曹丕・邸陵 りんし し - う・カい 侯曹彰・臨侯曹植・蕭懐侯曹熊のもとへやって訃報を伝えさせた。諸官が金の棺、銀の槨 ( 棺の 外側の箱 ) に曹操の遺体を納め、夜を日についで郞郡へ送ってくれば、曹丕は父親の死を聞いて、 つう , 一く 声をあげて痛哭し、文武諸官を従えて城外十里のところに出迎え、道のかたわらに平伏して柩を迎 えて入城すると、偏殿に安置した。官僚たちが喪服を着け、殿上に集まって泣いていると、一人の 者が進み出た。 「太子、いまはお嘆きになっておる時ではござりませぬ。まず大事を議さねばなりますまい」 ちゅうしよし ( 注三 ) しばふ 一同が見やれば、中庶子司馬孚である。 「いま魏王薨じられて天下はげしく動揺いたしております。早々に王位を継がれて民心を安んぜね ばならぬと申すに、お嘆きになってはおられますまい」 みことのり 「太子が御位を継がれるは当然なれど、天子の詔も待たずに、さような事は許されまいが」 へいぶしようしょ ( 注四 ) ちんきよう 一同が言うとき、兵部尚書陳矯が、 ちょうあい 「王が遠方で薨じられたいま、ご寵愛の御子 ( ここでは曹彰を指す ) がみだりに王位に立たれたりし ては、乱のもととなり、国も危うくなるでござろう」 せキばく かろがろ なんじ 、一う ふほう

5. 三国志演義 6

「わしの首を返せ」 せいりようとう 顔を上げてじっと見つめれば、中空に赤兎馬に打ちまたがり、青竜刀をひっさげた一人の者が、 したが ひげ 左に白面の将軍 ( 関平 ) 、右に真っ黒な顔にはねあがった髯をつけた者 ( 周倉 ) を随え、雲をふまえ ほっす いただき て玉泉山の頂へとさしかかるところ。普静は関公の姿を認めると、手にした払子で庵の戸を打っ て言った。 「雲長はどこにおるか」 関公の幽魂は、はっと悟って、ただちに馬を下り、風に乗って庵の前に下り立っと、拝礼して、 「師父にはどなた様でござりますか。ご法名をお聞かせ下さりませ」 し「わしは普静じゃ。むかし汜水関前の鎮国寺において将軍とお会いしたが、もはやお忘れかな」 きもめい を「おお、あの時のご恩は胆に銘じて忘れませぬ。今日、それがしは禍いにあって世を去りました。 公なにとそ、それがしの迷いをおさまし下されませ」 りよもう 関 「前世の是非は言われぬがよい。因果を説いていては、きりがない。将軍はいま、呂蒙に殺害され がんりようぶんしゅう 泉たからといって、『わしの首を返せ』と言われたが、それでは顔良・文醜・五関の六将など ( 関羽 玉 の手にかかって死んだ者 ) は、誰に ( 首を ) 返してくれと一言うであろうか」 じようぶつ こっぜん 回 七 ここにおいて、関公は忽然大悟し、成仏して消え去ったが、その後もしばしば玉泉山に霊験を みたまやこんりゅう 七現わして住民を助けたので、土地の人々はその徳に感じて山頂に廟を建立し、四時祭祀をたやさ いちれん なかった。彳 麦の人がその廟に題した一聯に わざわ

6. 三国志演義 6

って馬にまたがると、門を押し開いて討って出た。呉の大将丁奉がさえぎろうとしたが、関平がカ 闘して駆け散らし、丁奉が逃げるところを、廖化、しやにむに重囲を突き破って上庸目指して駆け 去った。関平は城にもどり、守りを固める。 たいしゅしんたん さて劉封・孟達が上庸に押し寄せたところ、太守申耽が手勢をひきいて降参したので、漢中王は 劉封を副将軍に昇せて、孟達とともに上庸を守らせていた。この日、関公が敗れたことを探知して 二人が協議しているおりしも、廖化の到着が取り次がれた。劉封が請じいれれば、 きたい いくさ 「関公には戦に敗れて、いま麦城にたてこもっておられますが、敵に取りかこまれて危殆に瀕して しよく おられます。蜀よりの援軍は、今日明日には間に合いませぬゆえ、それがし、重囲を破ってご当地 たす 輒に加勢を求めにまいりました。なにとぞ、速やかに上庸の軍勢を繰り出して、麦城の危急をお救け 下されませ。一刻でも遅れなば、関公のお命も危うござります」 「さらば、相談してみるほどに、しばらく待たれよ」 劉封に言われて、廖化はいったん客舎に引き取り、出陣の沙汰をひたすら待ち受けた。こちら、 公劉封は孟達に向かい、 徐 「叔父上がかこまれたとのこと、どうしたものであろうか」 けいじよう 六「東呉の軍勢は屈強のものどもばかり、しかもすでに荊襄九郡をことごとく手中に収めて、今残 七るは石ころごとき麦城のみでございます。しかも曹操までがみずから四、五十万の大軍をひきいて やまじろ 摩に陣どっておるとのこと。われらごとき山城の軍勢では、両国の精兵に敵うはずもござります うかつに出ることはできませぬそ」 かな ひん

7. 三国志演義 6

186 そうひちゅうげん 「曹丕は中原をおさえて早急には滅ばし難く、今もし逆らったりすれば恨みを買うことになりま しよかつりう す。しかしまた、それがしの見るところ、魏も呉もともに諸葛亮の敵ではござりませぬ。よって、 このところはひとまず承知しておいて軍勢をととのえておき、魏の四手の軍勢の出ようをさぐるが よろしいと存じます。もし魏が勝って、西川が危うくなり諸葛亮が支えかねるようになりましたな せいと ら、ただちに兵を発して魏に呼応し、魏に先駆けて成都を奪うが上策、もし魏が敗れたときは他の 策を考えることといたすがよろしかろうと存じまする」 と言ったので、孫権はげにもとうなずき、魏の使者に 「支度のととのい次第、吉日をえらんで打ち立つであろう」 せいへい ばちょう せいばんせんび と答えて使者を帰した。人をやって探らせてみたところ、西蕃 ( 鮮卑 ) の軍勢は西平関で馬超の も・つかく ぎえん 姿を見ると戦わずして引き返し、南蛮の孟獲は四郡に攻めいったものの、魏延の疑兵の計にかかっ じようようもうたっ そうしん て逃げ帰り、上庸の孟達は途中までいってにわかに病いになって進めなくなり、曹真の軍勢は陽 ちょうしりよう ばんぶ 平関に攻め寄せたが、まこと「一将、関を守れば万夫も開くなし」とか、要所要所を趙子竜に固め や - 一く られたため、斜谷道に陣取っていたものの、破ることができずに引き返したとのこと。この知らせ を聞いて、孫権は文武諸官に、 「さすが陸伯言はよくも申したものじゃ。もしわしがみだりに動いておったら、また西蜀の恨みを 買うところであった」 とうし と言ったものであった。ところへ西蜀から鄧芝が使者として到着したと取り次がれたので、張昭 が言った。 ) か

8. 三国志演義 6

かんあ いくせきよう 古木寒鴉幾タ陽 せきと 関公の没後、公の乗っていた赤兎馬は馬忠の手に落ちて孫権に献じられた。孫権はこれを馬忠に まぐ寺一 与えたが、馬は秣を食わず数日のうちに死んだ。 おかん しゅうそう おうほ ここに王甫は麦城にあったが、にわかにはげしい悪寒に襲われたので、周倉に、 まくら 「昨夜の夢に、殿が全身、血まみれのお姿で枕もとに立たれ、驚いてどうなされたのかお尋ねした ところで、はっと目がさめたのだが、殿に何か変事が起こったのではなかろうか」 しるし と一一 = ロうおりしも、呉の軍勢が城下にきて、関公父子の首級を差し上げて降参を呼びかけていると の知らせ。二人が仰天して櫓に駆け上がれ、 しいかにも関公父子の首である。王甫は一声叫ぶなり 櫓から飛びおりて死に、周倉はみずから首を刎ねて死んだ。かくて麦城も東呉の手に落ちた。 ゅうゆう さて関公の魂はなおこの世に残り、悠々、空に浮かんで、一つのところに飛び来った。すなわち、 ふじよう よくせん けいもんとう・よ - っ 荊門州当陽県の玉泉山なる山である。その山には法名を普静 ( 第二十七回参照。そこでは普浄となって しすい ちんこく いる ) という老僧が住んでいた。この人は、もと汜水関鎮国寺の長老であったが、のちに天下を雲 そうあん 遊してこの地に至り、山明らかに水清げなるのを見、ここに草庵を結んで坐禅参道に明け暮れし、 こずえ たくはっ 身辺にはただ一人、小僧を置いて、托鉢によって日を送っていたもの。この日、月白く冴え風梢を 吹きわたるおりから、三更 ( 夜の十二時 ) も過ぎて、普静は庵中に坐禅をくんでいたが、とっぜん 空中で叫ぶ者の声。 やぐら は きた

9. 三国志演義 6

して参りまする」 そんけん そうひ しようほちん 「東には孫権、北には曹丕がおる。相父は朕を棄ててお出かけになると言われるが、もし呉・魏が ともどもに攻めて参ったなら、防ぎようもないではないか」 「東呉はこのたびわが国と和睦いたしたばかりのことゆえ、さような不届きな考えは起こさぬと存 りげんはくてい りくそん じます。もし二心を抱いたとて、李厳が白帝城を固めており、彼は陸遜にひけを取るような者では しございません。また曹丕は大敗を喫したあとではあり、士気を失って遠征を企てるような気力もご ばちょうかんちゅう をざいません。しかも馬超が漢中の要所要所を固めておりますうえは、お気づかいの要はさらにご かんこうちょうほう ざいません。臣はまた関興・張苞に二手の軍勢を与えて諸方の危急に備えさせておきましたゆえ、 そうとう ちゅうげん 大陛下にはお心安うおいで下されませ。臣はまず蛮族を掃蕩いたしたのち、北伐をおこなって中原 こた 丞を手中にし、先帝の三顧のご恩義と陛下をお託しいただいた重責にお応えいたす所存にございま 征と、その言葉も終わらぬうち、列中より進み出た者がある。 を 寇「それはなりませぬぞ」 なんよう れんあぎなぶんぎ かんぎたいふ 一同が見やれば、南陽の人、姓は王、名は連、字は文儀、この時、諫議大夫をつとめる者である。 回 しようえき 七「南方は不毛の地、瘴疫の国にござります。国家を荷う重責にあられる丞相が、おんみずからご どなた 遠征なされるのは、よろしくはござりませぬ。しかも雍闔らはとるにもたらぬ者ども、誰方か大将 をお遣わしになるだけで、たやすく平定のかなうことでござります」 「南蛮の地はわが国を遠く離れ、陛下のご仁慈に浴す者もおらす、平定することは至難の術である とう」 おう

10. 三国志演義 6

が討ち死にし、溺れ死んだ者、数知れずというありさま。大将たちが奮戦して魏主を救い出した。 あし さらに進むこと三十里たらず、河中一帯に葦の茂ったあたりにはいるや、あらかじめ魚油を注いで あったところへいっせいに火がかけられた。火は追風を受けて燃えくだり、はげしい風にあおられ て、天をこがさんばかりとなって、竜舟の行手をさえぎった。仰天した曹丕が急いで小舟に乗り移 り岸に漕ぎ寄せる間に、早くも竜舟に火が移る。あわてふためき馬にまたがる時、一手の軍勢が殺 到した。真っ先に立つ大将は丁奉である。張遼が馬を躍らせて迎え撃たんとするところ、丁奉の放 たす った矢を腰に受け、徐晃がこれを救けてともどもに魏主を守って落ちのびたが、討たれる者は数知 れず。追手の孫韶・丁奉に馬・車・船・武器なぞ無数を奪い取られ、さんざんな目にあって逃げも どった。かくて呉の大将徐盛は大勝を収め、呉王から重い恩賞にあずかった。張遼は許昌にもどっ て、矢傷がはりさけて死んだ。曹丕がこれを手厚く葬ったことはさておく。 じようしよう ここに趙雲は軍勢をひきいて陽平関を討って出たが、途中、丞相からの書面を受け取った。益 ばちょう ・ - 画・つんい もうかく 州の老将雍闔が南蛮王孟獲と結んで蛮兵十万をおこし、四郡に侵入しているゆえ、馬超に陽平関を 固めさせて趙雲を呼びもどし、丞相みずから南征の軍をおこす所存とのこと。趙雲は急ぎ軍勢をま とめて帰途についた。ときに孔明は成都にあって軍勢をそろえ、みすから南征に出ようとしている。 正に、東呉は北魏に立ち向かい、西蜀は南蛮と戦わんとす、というところ。さてこの勝負はどうな るか。それは次回で。 えき