劉備 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 6
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1. 三国志演義 6

じよ - 一う らく 一一うめい 徐晃 ( ? ー二二七 ) 字は公明。強力無双。はじ・楽公に封じられる。 し画うほう えん ばちょう もうき め楊奉に仕え、曹操の部将となって偃城で関馬超 ( 一七六ー一三一 l) 字は孟起。蜀の五虎将の かばう 羽を大破する。 一人。葭萌関で曹操を危地に追いつめた勇将。 、いいノ、 ちゅうとく ちょうひ ト ` くとく 程昱 ( 一四一ー一三〇 ) 字は仲徳。曹操の幕僚。張飛 ( 一六 ー二二一 ) 字は翼徳。蜀の五虎将 りゅうきよう 劉協 ( 一八一 ー二三四 ) 後漢第九代の皇帝。献の一人。劉備・関羽の義弟。三国屈指の豪傑 さん・よ、つ 帝。曹丕に廃され山陽公となる。 だが、生来の短気がわざわいして部下に寝首 ちゅうたっ 司馬懿 ( 一七九ー二五一 ) 字は仲達。権謀術数をかかれる。 しよかつりよう こうちゅう かんしトっ にたけ、諸葛亮の好敵手としてしばしば祁黄忠 ( 一四八ー一三一 D 字は漢升。蜀の五虎将 山で亮と対峙し、ついにその中原進出の企図 の一人。弓の名手。老いてなお定軍山で魏の せいそうほう そうそう を挫折させる。斉王曹芳のとき曹爽を殺して夏侯淵を斬り勇名をあげる。 ド」 4 うしよう ちょううん しり・よ、フ 丞相となり、魏の大権をにぎる。 趙雲 ( ? ー一三九 ) 字は子竜。蜀の五虎将の一 〔蜀〕 人。槍の名手で沈着勇敢。劉・関・張なきの りゅうび げんとく しようれつ 劉備 ( 一六一 ー二二三 ) 字は玄徳。蜀の昭烈帝。ちも諸葛亮を助けて活躍する。 せいと しよかつりよう 第一うめい がり、よう 曹丕が魏を建てるや、成都で蜀を建てるが、諸葛亮 ( 一八一 ー二三四 ) 字は孔明。別名臥竜。 りくそん 呉平定を志して陸遜に大敗し、白帝城で死ぬ。 劉備なきのち、蜀の運命を双肩にって粉骨 りゅうぜん 劉禅 ( 二〇七ー二七一 ) 字は公嗣。幼名阿斗。 砕身する不世出の大軍師。 かんう うんちょう 劉備の長子。劉備が蜀の先主と呼ばれるのに 関羽 ( 一六二 ー二一九 ) 字は雲長。蜀の五虎将 対し、後主と呼ばれる。魏に降伏したのち安 の一人。劉備の義弟で文武兼備の名将。劉備 は′、一、い あん ていぐん

2. 三国志演義 6

278 人名の下の ( ) は年齢、数え年 / * 印は正史に記載なく、この年齢は「演義』によっ 『三国士演我』 3 一略 . 年・表た / ◎印は時期不詳のもの / 魏成立以前は田 ~ 3 巻を参照のこと / 蜀・呉の年号は「三国 年代対照表」を参照のこと。 西暦魏年代事項 一三〇黄初一一月、曹操 ( 六六 ) 没。曹丕 ( 三四 ) 丞相・魏王となる。四月、夏侯惇没。 ( 後漢・建七月、孟達、曹丕に降る。一〇月、曹丕 ( 魏の文帝 ) 、漢の献帝 ( 四〇 ) を 安二五年 ) 廃して魏を建国。一二月、洛陽に遷都。程昱 ( 八〇 ) 没。 一一四月、漢中王劉備 ( 六一 ) 自立して漢 ( 蜀 ) 一の皇統を継ぐ ( 蜀の昭烈帝 ) 。諸 葛孔明 ( 四一 ) を丞相とす。五月、劉禅 ( 一五 ) 蜀の太子となる。七月、劉 備、孫権討伐の軍をおこす。張飛没 ( 五五 ) 。八月、孫権、曹丕に臣従を誓 って呉王に封ぜらる。 三二月、蜀の黄忠 ( 七五 ) 没。三月、蜀の劉備、亭に進出、六月、呉の陸 遜 ( 四〇 ) に大敗して永安 ( 白帝城 ) に帰る。九月、呉の孫権 ( 四一 ) 魏に 反して独立。一一月、魏、五路より呉を攻めて大勝。◎魏の張遼 ( 五四 ) 、 蜀の馬超 ( 四七 ) 没。 四三月、魏の曹丕、濡須に出陣して大敗。曹仁 ( 五六 ) 没。四月、蜀の劉備

3. 三国志演義 6

彼は劉備と桃園において兄弟の契りを結んだ時、生死をともにせんと誓い合った者。いまや劉備は りようせん しよかっ - りレ - う ちょう・一う ばちょう 両川の兵を手中に収め、加えて幕僚に諸葛亮、武将に張・黄・馬・趙などの剛の者をかかえてお ります。雲長父子の死を聞けば、必ずや国中の兵をこぞって報復にまいりましよう。されば、わが 国はなかなか支えきれぬのではござりますまいか」 じだんだ 聞いて孫権はあっと驚き、地団駄ふんで、 あやま 「おお、わしの過ちであった。その時はどうしたらよいものであろうか」 せいしよく 「ご懸念にはおよびませぬ。西蜀の兵にわが国の境を犯させす、荊州を磐石の安きにおく謀が 。こ、ります」 孫権がそれを尋ねると、 よう 「されば、今日、曹操は百万の大軍を擁して天下を窺いおり、劉備が急いで報復の挙に出ようとす れば、曹操と手を結ぶことは疑いなく、もし二国の軍勢がともどもに攻めかかって参ったなら、わ が国とて支えきれませぬ。この際、まず使者を立てて関公の首を曹操のもとに届け、劉備にこれが キ、しず 曹操の指図であったかのように思いこませれば、曹操を痛恨いたすに違いござりませぬ。さらば、 ぎよふ 西蜀の兵はわが国には参らず、魏に向けられましよう。われらはその勝負を見守っていて漁父の利 を占めればよろしゅうござりましよう。これこそ上の策かと存じまする」 孫権はこれを聞きいれ、関公の首を箱に納めて使者に持たせると、夜を日についで曹操のもとに らくよう とう 1 」 しるし 届けさせた。おりしも曹操は摩陂から軍を返して洛陽にもどってきていたが、東呉から関公の首級 を届けてきたと聞いて、 うかが ばんじゃく はかり′一と

4. 三国志演義 6

こくそ 操の子丕、ここに兇逆をほしいままにし、神器をぬすむ。 ( わが ) 群下の将士、漢の国祚すたれん っ び とするをみて、備 ( 自分 ) 、これを延ばし、二祖 ( 高祖・光武帝 ) の歩を嗣ぎ、躬天罰をおこなう べしとなす。備、徳なくして帝位をかたじけのうするをおそれ、庶民 ( 民衆 ) に詢るに、外は遠 すた 境の首長におよぶまで、みな日く、天命に応ぜざるべからず、祖業久しく替るべからず、四海、 そっど おそ 主なからざるべからすと。率土 ( 天が下 ) 望むところ備一人にあり。備、天が命を畏れ、また 高・光の業のまさに地に墜ちんとするをおそれ、吉日を択び、壇に登りて祭告し、皇帝の璽綬を ぶりん とわ 受けて、四方を撫臨せんとす。匯うに神、漢家にとどまりて、永久に安んぜしめたまえかし。 読み終わると、孔明が百官を従えて玉璽を奉り、漢中王は壇上にそれをおしいただいて、再三、 を 辞退した。 で「わしには才徳なきゅえ、才徳ある者を択んで授けるべきであろう」 廃「王には四海を平定せられて、功徳は天下にあまねく、しかも大漢のご宗室にあらせられまするゆ を 帝え、大位におっきになるは当然にござります。すでに、天の神々にもお告げになったものを、いま 曹さらお六りになることは、こギ、りますまい」 しようぶ 回孔明の言葉に、文武百官、こぞって万歳をとなえた。儀式とどこおりなく終わって、章武元年 りゅうえい りゅうぜん ( 二二一、魏の黄初二年 ) と改元し、妃呉氏を皇后に立て、長子劉禅を太子とした。また次子劉永を め・ゅ - つり りよう しよかつりようじようしようきよせい 魯王、劉理を梁王に封じ、諸葛亮を丞相、許靖を司徒に封じて、百官の位を進め、天下に大赦を おこなったので、両川の軍民は喜びにわき立った。 ひ おも いちにん みずから

5. 三国志演義 6

「雲長が死んだからは、わしも枕を高くして眠れるというものじゃ」 と喜んだ。その時、一人が階下に進み出た。 「これは禍いをわが国にふり向けようとの東呉の策謀にござりまするそ」 しゅば 見れば主簿の司縣懿であったので、そのわけを尋ねると、 「むかし劉・関・張三人は桃園の契りを結びましたおり、生死をともにせんと誓い合いました。こ のたび東呉は関羽を殺したものの、報復を恐れて首を大王に献じ、劉備の怒りを大王に振り向けて、 呉を攻めずに魏を攻めさせるように仕向け、彼はその中にあって漁父の利を図ろうとしたものでご ざります」 「いかにも、そなたの申すとおりじゃ。して、どうしてそれを避けたらよいかな」 を「それはいとやすいことにござります。大王には、関羽の首を、香木で刻んだ驅に合わせ、大臣の 公礼をもって手厚く葬られればよろしいのでござります。劉備がこれを知れば、孫権に深い恨みを抱 ひつじよう 関 いて、国を挙げて攻めかかるは必定。われらはその勝負のほどを見きわめて、蜀が勝てばともに 泉呉を討ち、呉が勝てばともに蜀を討つのでござります。かの二国のうち一方を得ますれば、他の一 玉 ・万も一長くは。こ、りますまい」 七曹操はいたく喜んで、その計に従うこととし、呉の使者を引見した。箱が差し出されたので蓋を 七開いてみれば、関公の顔は生きているかのごとくである。思わず笑って、 「雲長殿、その後お変わりなかったか」 ひげさかだ と、その言葉も終わらぬうち、関公のロが開き目が動いて、髪も鬚も逆立ったので、あっと驚い ふた

6. 三国志演義 6

しゅうたい の入蜀後、荊州を固めていたが、呉と事をか周泰 ( ? ) 字は幼平。孫策・孫権の部将。 ちトっしよう しふ まえて麦城で敗死する。のちかずかずの霊験張昭 ( 一五六ー二三六 ) 字は子布。孫策・孫権 をあらわす。 の幕僚。 ていふ ぶんちょうりゅうひょう レ」くば、つ 魏延 ( ? ー二三四 ) 字は文長。劉表の部将。の程普 ( ? ) 字は徳謀。孫堅父子三代に仕えた文 ち劉備に仕える。 武両全の部将。 しゅうそう こうきん しようえん り 4 うきゅう・一う 周倉 ( ? ー二一九 ) 黄巾の残党で、関羽を慕っ丁奉 ( ? ) 字は承淵。孫権・亮・休・皓の四帝 てその部将となる豪傑。正史には見えない。 に仕えた名将。 ほうとう しげん ほ、つすう かんねい 廠統 ( 一七八ー二一三 ) 字は士元。別名鳳雛。諸甘寧 ( ? ー一三三 ) 字は興霸。長江の盗賊出身 じゅしゅ 葛亮と並び称される智恵者。軍師として劉備の孫権の部将。濡須の合戦で、わずか百騎を ・つ′、ほ・つ . は の入蜀に随行し、落鳳坡で戦死する。 率いて曹操の本陣に突入し、威名をあげる。 り・よもう しめい 〔呉〕 呂蒙 ( 一七八ー二一九 ) 字は子明。孫権に仕えた そんけん 孫権 ( 一八二ー二五一 I) 字は仲謀。呉の大帝。 文武兼備の名将。関羽を破って大功を立てる 物 父兄 ( 孫堅・孫策 ) の業をついで江東に人材 が急病で死ぬ。 人 はくげんおうてい 場を集め、魏・岡につづいて呉を建てる。 陸遜 ( 一八三ー二四五 ) 字は伯言。亭で劉備を 第一うふく 黄蓋 ( ? ) 字は公覆。孫堅父子三代に仕えた部大破した智将。のち丞相となる。 主 せきへき * 印は正史に記載なく『演義』によった。 巻将。赤壁の合戦に際し苦肉の計を献じる。 木・しよかっきん 諸葛瑾 ( 一七四ー二四一 ) 字は子瑜。諸葛亮の兄。 孫権の幕僚。 第」う力い ぎえん けん キ一く ちゅうばう りくそん ていほう よ う

7. 三国志演義 6

馬良が諫めたが、 くち・はし こわっぱ 「朕は長年戦さをしてきた。嘴の黄色い小僧などに負けはせぬ」 さきて とみずから先手の軍勢をひきいて、各所の要害へ攻めかかった。 韓当が先主の軍勢の押し寄せたのを見て、人を陸遜のもとへ走らせたので、陸遜が韓当の妄動を きゅうきょ 恐れて急遽馬を飛ばせてきてみれば、韓当はおりしも山の頂に馬を止めており、はるかに山野を きめがさ うすめて、押し寄せる蜀の軍勢が望まれ、その中に黄色の絹傘が見えかくれするのが見えた。韓当 は陸遜を迎え、馬を並べてこれをながめたが、手をあげて、 「あの中に必すや劉備がおる。それがし討って出たいと存するが」 「劉備は東征に出て以来、十余の合戦に勝ちつづけて意気、大いにあがっている、今はこの要害に とくれい ぼうぎよ こもって出ぬがよい。討って出れば負ける。しばらくは将士を督励して広く防禦の策を講じ、形勢 の変わるのを待とう。敵が平原を馳せまわっておるいまは、得意のところであろうが、われらが討 って出ねば合戦もできす、必ず森の中に陣を移す。その時には、奇計をもって打ち破ってくれる」 韓当はロでは承知しておきながら、内心いたく不満を感じていた。先主は先手を繰り出して戦い をいどみ、さんざんに罵らせたが、陸澄は耳をふさいでそれを聞かぬよう下知して迎え撃っことを 禁じ、みすから各要所を見回って、はやる将士をなだめ、守りを固めるよう命じて歩いた。先主は 呉の軍勢がいっこう討って出ないので、しだいにあせってきたが、馬良がこれを見て言った。 「陸遜は謀略に長けた男にござります。陛下のこのたびのご遠征は、すでに春より夏にわたってお られますが、彼が討って出ぬのはわが軍が戦法を変えるのを待っておるものにござります。この段、 ののし

8. 三国志演義 6

かえ 呉に降るを可ならずとして却って魏に降る 忠義安んそ能く両朝に仕うるをえんや 嘆くべきは黄権が一死を惜しみしこと しよう ( 注一 ) かろがろ 紫陽が書法軽しく饒さじ はか 曹丕は賈訒に言った。 託「朕は天下を統一しようと思うのだが、まず蜀を攻めるべきか、それとも呉を攻めるべきか」 そんけん りゅうび しよかつりよう 児「劉備は英雄の器にして諸葛亮のごとき能臣をかかえており、東呉の孫権は深謀を蔵して陸遜が て いま要所を固め江湖の険をたのんでおりますゆえ、早急に取ることはむずかしく、かっ臣の見ます 遺ところ、わが諸将のうち孫権・劉備に敵しうる者は遺憾ながら一人もおらぬと存じまする。いかに 詔陛下が天威をもって臨まれましても必勝は期し難く、しばらくは守りを固めて両国に異変の起こる 洗のをお待ちになるが至当かと存じまする」 「朕はすでに三手の大軍を呉に出しておる。敗れるはすはない」 回 しようしよりゅうよう 五曹丕が言うと、尚書劉曄が、 「このほど東呉は陸遜が蜀の七十万の大軍を破ったばかりにて上下心を一にしており、加えて川や 第 湖を控えておりまするゆえ、にわかに破ることはできかねると存じます。それに陸遜は智謀にたけ た者でござりますから、備えを怠っておるはずはござりませぬ」 ゆる

9. 三国志演義 6

孫権が嘆息するおりしも、列中から一人の弱年の大将が奮然として進み出て平伏した。 「臣は弱年とは申せ、いささか兵書を読んでおりまする。数万の軍勢をお貸しいただけますれば、 岡の軍勢を打ち破ってお目にかけまする」 ゅ カ しゆくぶ そんかん 孫権が見やれば、孫桓であった。孫桓、字を叔武という。父親の名は河で、もとの姓は兪であっ ちょう そんさく たが、孫策 ( 孫権の兄 ) の寵を受けて孫姓を賜わり、以来、呉王の一門に連なることになった。河 かん には四人の子があり、桓はその長子で弓馬にすぐれ、常に呉王に従って出陣し、数々の大功を立て ぶえいと て、このとき武衛都尉の職にあった。時に二十五歳。 「そなたに良い策があるか」 ばんぶふとう を「臣には、李異・謝旌と申す大将がおりまするが、ともに万夫不当の勇士にござります。兵、数万 りゅうび 九がござりますれば、劉備めを手捕りとして参りまする」 っ 「、かにもそなたの武勇は存じておるが、まだ若すぎる。誰か助ける者がいるであろう」 降 しゅぜん 朱然が進み出た。 物「臣が若将軍のお供をいたし、劉備めを引っ捕えて参りまする」 ゅう 孫権はこれを許し、水陸の軍勢五万を勢そろいさせて、孫桓を左都督、朱然を右都督に封じ、即 回 二日、打ち立たせた。物見の者が、蜀の軍勢がすでに宜都に陣を取った由をさぐってきたので、孫桓 は二万五千の軍勢をひきいて、宜都の境に進み、前後三つの陣を取って蜀軍を待ち受けた。 ここに蜀の大将呉は先鋒の印を拝領して蜀を出て以来、進むところ敵は戦わずして降り、一滴 の血も流さずに宜都に至ったが、孫桓が陣取っている由を探知して先主へ飛報した。時に先主はす しやせい

10. 三国志演義 6

三国年代対照表 魏 二一一〇文帝黄初一 ( 曹不 ) 二二七明帝太和一 ( 曹叡 ) 西暦 青竜 二昭烈帝章武一 ( 劉備 ) 四後帝建興一 ( 劉褝 ) 六五四 O 丿し八七 六五四 呉干支西暦 庚子一一三四 辛丑二三五 」一大帝黄武一壬寅一一三六 ( 孫権 ) 四乙巳一一三九 五丙午二四〇廃帝正始一 ( 曹芳 ) 六丁未二四一 七戊申二四一一 黄竜一己酉二四三 一庚戌二四四 三辛亥二四五 嘉禾一壬子二四六 一癸丑二四七 魏 景初 四 四 八し 延熙「 蜀 四 〇丿し八七六五四 呉干支 四乙卯 五丙辰 六丁巳 赤島一戊午 二己未 三庚申 四辛酉 五壬戌 六癸亥 し甲子 八乙丑 儿丙寅 一〇丁卯