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検索対象: 三国志演義 7
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1. 三国志演義 7

そうえい しゆっぎよ 時に魏の太和元年 ( 一三七 ) 、魏主曹叡が朝廷に出御するところ、近臣が、 えびす 「夏侯坿馬はすでに三郡を失って羌中へのがれられました。蜀の軍勢はすでに祁山に現われ、その 先鋒は渭水上流の岸辺まで参っております。早急に軍勢を差し遣わされまするよう願い上げます」 と奏上したので、大いに驚いて群臣に諮った。 しりぞ ちん 「誰そ、朕のために蜀の軍勢を退けてくる者はおらぬか」 しとおうろう すると司徒王朗が進み出た。 そうしん 「臣は先帝陛下が大将軍曹真殿をお用いになり、ゆくところ必す勝利を収められましたのを見て参 りました。曹真殿を大都督にご任命になり、蜀軍を退けるが至当と存じまする」 曹叡はこれを裁可し、曹真に言った。 ちゅうげん 「先帝は朕をそなたに頼んでおかくれになった。今、蜀の軍勢が中原に攻めいっておるのに、そ なたとて坐視してはおれまい」 曹真は、 「臣のような非才な者では、このお役目はっとまりませぬ」 と答えたが、王朗に、 しやしよく 「将軍は社稷の臣でござる。ご辞退はなりますまい。およばすながら、それがしも将軍のお供い たす」

2. 三国志演義 7

に恐れをなしている今こそ、その不意をついて退去すべき時じゃ。ただ陳倉道口にて王双と対峙し ておる魏延が、急には引きさがれぬのが気にかかっていたが、今、人をやって密計を授け、王双を ごづめ 斬って魏の者どもが追い討ちをかけることもできぬようにしておいた。これより後詰から先に引き 揚げることにする」 どら その夜、孔明は陣中に銅鑼・太鼓を打つ者だけを留めて時刻を打たせておいた。そして、一夜の から うちに全軍、引揚げをおわり、あとには空になった陣屋ばかりが残った。 ちょう - 一う さて曹真が陣中にあって思い悩んでいるところへ、とっぜん左将軍張部が軍勢をひきいて到達 受 をしたとの知らせがあり、張部が馬を下りて幕中にはいってくるなり言った。 双「このたびは聖旨を奉じ、対陣のご様子を伺いに参りました」 て「仲達に会って参ったか」 追「仲達殿は、『わが軍が勝たば、敵は引きさがらぬであろうが、もしわが軍が敗れれば、敵は必す 軍やただちに引き揚げるであろう』と申されました。このたび敗れてから、都督には敵の様子をお探 りになられましたか」 回 「、まだじゃ」 十 九 と、曹真が、人をやって探らせれば、果たして蜀の陣屋には人影もなく、数十の旗さし物が立て 第 てあるだけで、すでに二日も前に引き揚げていったあと。曹真は後悔の臍をかんだ。 かんちゅう さて魏延は密計を受けるや、その夜の二更に陣払いし、急いで漢中へ引き揚げた。この知らせ ほぞ

3. 三国志演義 7

っておるなら、必ず奪いに参りましようゆえ、陣中に引きいれて車に火をかけ、外から伏勢が斬り いりますれば、必す打ち破ることができると存じます」 「うむ、それは妙計じゃ と喜んだ曹真は、孫礼にぬかりなくやるよう命じて打ち立たせ、また王双のもとへ人をやって間 ~ い一、い 道を見回ることを命じ、郭淮には箕谷・街亭を回って、諸方の軍勢に要害の守りを固めさせるよう ちょうりよう がくちん ちょうこせんはうがくしん 命じゃった。また張遼の子張虎を先鋒、楽進の子楽継を副先鋒として、二人に前備えの陣地を守 らせ、討って出ることを固く禁じた。 受 を 双 ここに孔明は祁山に陣を構え、毎日、人をやって戦いをいどませたが、魏の軍勢が守るばかりで 王 きようい ていっこうに討って出てこないので、姜維らを呼んで諮った。 追「魏の軍勢が討って出ぬのは、わが軍の兵粮の尽きるのを待っているからじゃ。いま陳倉の道筋は を りようまっ 軍ふさがれ、ほかの間道は険しくてとても運べぬ。ここに持って来てある糧秣はあとひと月と持ち そうにないが、どうしたものであろうか」 回 ちゅうちょ 一同、躊躇しているおりしも、隴西の魏軍が糧秣車数千輛を連ねて祁山の西に現われた、大将 十 第は孫礼である、との知らせ。 四「それはどのような者か」 と孔明が尋ねると、降参してきた魏の者が答えた。

4. 三国志演義 7

そうそう し・ようはく ・本巻の主な登場人物・ 曹爽 ( ? ー二四九 ) 字は昭伯。曹真の長子。曹 叡に仕えて軍政の大権を握るが、司馬懿と対 そうそう あざなもうとく あまん 曹操 ( 一五五ー一三〇 ) 字は孟徳。幼名阿瞞。権立して斬られる。 ぶんか とうたく 謀術数にたけた英雄で、文学にも深い理解を賈訒 ( ? ) 字は文和。はじめ董卓に仕え、のち ちゅうげん 曹操に仕える智将。 もつ。後漢献帝を擁して中原を統一し魏王 ちょう - 一う しゅんがい かんふくえんしよう となる。 張部 ( ? ー二三一 ) 字は儁又。韓馥・袁紹に そうひ しかん かんと 曹丕 ( 一八七ー一三六 ) 字は子桓。魏の文帝。曹仕えたのち、官渡で曹操の配下となる。智謀 そうしよく がいてい ・はしく 操の長子。文武両道にたけ、特に弟の曹植 にたけた武将で、街亭で馬謖を破る。 けんあん - 1 うめい と並んで建安文学の代表的存在として名高い。徐晃 ( ? ー二二七 ) 字は公明。強力無双。はじ えん ト - うほう 献帝を廃して魏を建てる。 め楊奉に仕え、曹操の部将となって偃城で関 う そうしよく 曹植 ( 一九二ー二三一 I) 字は子建。曹操の第一一一羽を大破する。 ちん りゅうきよう 物子。詩人として有名。晩年、陳国に封じられ、劉協 ( 一八 ー二三四 ) 後漢第九代の皇帝。献 しおくりな ちんし さんよう 場思と諡されたので陳思王と呼ばれる。 帝。曹丕に廃され山陽公となる。 登 そうしん したん おい ちゅうたっ 曹真 ( ? ー二三〇 ) 字は子丹。曹操の甥。武将司馬懿 ( 一七九ー二五一 ) 字は仲達。権謀術数 主 しよかつりよう にたけ、諸葛亮の好敵手としてしばしば祁 巻として曹操・丕・叡の三代に仕えた元老。大 しよく ちんそう 本 司馬として蜀平定を計画したが、陳倉道出陣山で亮と対峙し、ついにその中原進出の企図 そうそう で失敗し病を得て死ぬ。 を挫折させる。斉王曹芳のとき曹爽を殺して ぶん だい じよ第一う か かん

5. 三国志演義 7

165 第九十八回漢軍を追って王双誅を受け・・ と、兵をひきいて長安に至り、孔明と雌雄を決せんとする。正に、大将ここにいれかわり、祁山に 集まる敵味方、というところ。さてこの勝負はどうなるか。それは次回で。 そんびんはうけん 注一孫・戦国時代の兵法家、孫臚、廳涓のこと。ともに鬼谷子の門人で、のち孫は斉に、は魏に仕 え、孫がを破って有名となった。

6. 三国志演義 7

313 略年表 人名の下の ( ) は年齢、数え年 / * 印は正史に記載なく、この年齢は『演義』によっ 『三国士心演生我』一第一・略 . 年・ ~ 衣た / ◎印は時期不詳のもの / 魏成立以前は田 ~ 巻を参照のこと / 蜀・呉の年号は「三国 年代対照表」を参照のこと 西暦魏年代事項 一三〇黄初一一月、曹操 ( 六六 ) 没。曹丕 ( 三四 ) 丞相・魏王となる。四月、夏侯惇没。 ( 後漢・建七月、孟達、曹丕に降る。一〇月、曹丕 ( 魏の文帝 ) 、漢の献帝 ( 四〇 ) を 安二五年 ) 廃して魏を建国。一二月、洛陽に遷都。◎程昱 ( 八〇 ) 没。 一一四月、漢中王劉備 ( 六一 ) 自立して漢 ( 蜀 ) の皇統を継ぐ ( 蜀の昭烈帝 ) 。諸 葛孔明 ( 四一 ) を丞相とす。五月、劉禅 ( 一五 ) 蜀の太子となる。七月、劉 備、孫権討伐の軍をおこす。張飛没 ( 五 . 五 ) 。八月、孫権、曹丕に臣従を誓 って呉王に封ぜらる。 三二月、蜀の黄忠 ( 七五 ) 没。三月、蜀の劉備、琥亭に進出、六月、呉の陸 遜 ( 四〇 ) に大敗して永安 ( 白帝城 ) に帰る。九月、呉の孫権 ( 四一 ) 魏に 反して独立。一一月、魏、五路より呉を攻めて大勝。◎魏の張遼 ( 五四 ) 、 蜀の馬超 ( 四七 ) 没。

7. 三国志演義 7

目次 かんしようぐんかえ 瀘水を祀って漢相師を班し 第九十一回ちゅうげんう 中原を伐たんとして武侯表を上す ちょうし . りトっ・つと 趙子竜カめて五将を斬り 第九十二回しよか「呈う 諸葛亮知をもって三城を取る きようはくやく 、一うめい 姜伯約帰して孔明に降り ぶきよう おうろう 第九十三回 武郷侯罵って王朗を死せしむ しよかっ - りし画う きよう 諸葛亮雪に乗じて羌兵を破り さだ もうたっとり・一 第九十四回 司馬懿日を尅めて孟達を擒とす ばしよく 馬謖諫めを拒みて街亭を失い ちゅうたっしりぞ 第九十五回 武侯琴を弾じて仲達を退く 、一うめい ふる ばしよくき 孔明涙を揮って馬謖を斬り ロしゅうほう そうきゅうあぎむ 第九十六ロ 周魴髪を断って曹休を賺く ぶ 魏国を討たんとして武侯再び表を上り きようい 第九十七回そう 曹兵を破らんとして姜維詐って書を献ず かん おうそうちゅう 漢軍を追って王双誅を受け ロちんそう 第九十八ロ 陳倉を襲って武侯勝を取む まっ ののし た くだ おさ ふたた たてまっ 127 146 108

8. 三国志演義 7

くちき きんじゅう びようどう 天子を奪って民草をしいたげた。廟堂には朽木のごとき輩が官となり、朝廷には禽獣のごとき輩 - 一ろうともがら まつりごと が禄を食んで、狐狼の輩が競って出仕し、奸姦の徒がむらがって政事に参与して、ついに社稷を とたん 廃墟とし、民草に塗炭の苦しみをもたらすに至ったのである。それがしは、貴様の所行をよく存じ とうかし さんとう・一うそ ている。代々、東海の浜に住み ( 王朗は東海郡の人。今の山東・江蘇両省にまたがる海岸沿いの地方 ) 初め りゅう たす 孝廉にあげられて朝廷に上った者ではないか。さらば、天子を輔け国を支え、漢室を安んじて劉氏 さんだったくら くみ を盛り立ててこそ理の当然であるところ、なんと逆賊に与して、ともに簒奪を企むとは思いもよら ぬところであった。その罪、天地の間に容れがたく、天下の者はこぞって貴様の肉を喰らおうと思 しようれつ せいせん えんかん っておるのだ。今、幸いにして天、炎漢を棄てたまわず、昭烈皇帝が西川において大統をお継ぎ ちよくめい になった。それがしは今、天子の勅命を奉じて大軍をおこし、逆賊討伐に出向いて参ったもの。 ねいしん 貴様のような佞臣は、片隅にひっこんで私腹を肥やすことを考えておるがほどほど、陣頭に出てみ はくぜん だりに天数を口にするなど痴がましいことだ。白髪頭の下郎。白髯の国賊。今日にもあの世にいっ て、漢の二十四帝に会わせる顔もあるまい。老賊、さがりおろう。いざ勝負してくれん」 王朗これを聞き、胸ふさがって、ひと声おめくなり、馬からころげ落ちて死んだ。後の人が孔明 をたたえた詩に 兵馬を西秦に出だし 雄才万人に敵す こうれん せいしん ( 注二 ) おこ かんかん やから

9. 三国志演義 7

311 第百五回武侯預め錦嚢の計を伏し・・・ 死後、始皇帝は彼のために銅像を鋳たといわれる。これより、後世、大きな銅像もしくは石像のこと を「翁仲」と呼ぶようになった。 五少傅少府の誤り。「少府」は天子の御物を管理する職。 六芽茨を尚ぶ堯は屋根を葺いた茅の先を切り揃えなかったといわれる。質素を旨としたことをいった もの。 だっき 七傾宮・鹿台「傾宮」は一鮃 ( 百畝 ) の田はどの広さの宮殿。「鹿台」は紂王が妲己と遊んだ台。大い さ三里、高さ千尺といわれる。 かや うてな

10. 三国志演義 7

ちんじゅしんへいよう 「のち陳式の子陳寿は晋の平陽侯となって『三国志』を編み、魏延の ( 洛陽をも取れただろうという ) にゆス′・一ノ 言葉を証拠として、孔明が中原に入寇したと極言したのである」 ばーしレ今、 ただし『晋書』陳寿伝によれば、寿の父親は、馬謖が斬られたさい、連坐して髭刑 ( 髪を切りおとす 刑 ) に処せられたことがあり、寿はこれを根にもっていたという。 きよう ちんそう ぶとたいしゅ 三虞訒の法後漢中期の人。武都の太守となって赴任の途中、侵入した羌人のため陳倉において道をさ そんし ぞうそう えぎられたが、増竈の計をもって破った。なお、前出、孫臚の故事は『史記』孫子・呉起伝に見える。