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検索対象: 三国志演義 7
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1. 三国志演義 7

ちょうよく こうしよう いると知らせたので、いたく喜んだ趙雲は、すぐさま張翼・高翔のところへ人をやり、途中で馬 遵を討ち取るよう言いやった。この二手の軍勢も孔明が前もって伏勢させておいたものである。 さて趙雲は五千騎をひきいて天水郡の城下に馳せつけるや、大音に呼ばわった。 じようざんちょうしりよう 「われこそは常山の趙子竜じゃ。われらの計にかかったうえは、早々に開城して命を全うせよ」 りっしょ やぐら すると櫓から梁緒がからからと笑って、 きようはくやく 「貴様こそ、わが姜伯約の計にかかりながら、まだ気がっかぬか」 と言ったので、さらばと攻めかかろうとした時、にわかに鬨の声がわいて、四方に天に冲する火 の手が上がるとみるや、一人の白面の将軍が、槍を小脇に馬を駆って躍り出た。 降 用「天水の姜伯約を知らないか」 て趙雲は槍をしごいて打ちかかったが、数合渡り合ううち、姜維の槍先はますます鋭くなる。仰天 し 帰して、『ここにこんな人物がおろうとは知らなんだ』と心中舌をまいて、なお打合いを続けるとこ 伯ろ、左右から二手の軍勢が攻めかかってきた。これぞ、馬遵・梁虔が軍勢をもどして来たもの。趙 姜 雲が挾み討たれて支えかね、血路を切り開き、討ち洩らされた軍勢をひきいて逃げれば、姜維は逃 ロ 三さじと追い迫る。ところへ幸い張翼・高翔二手の軍勢が討って出て、危機を脱することができた。 九趙雲は立ち帰って孔明に見え、敵の計にかかったことを告げた。 「わしの計略を見抜いたか。それは誰じゃ」 -4 なんあん と孔明が驚くと、南安の者が、 まみ とき まっと ちゅう

2. 三国志演義 7

168 挈」 , つ」 孫礼の言葉に、うなずいた郭淮が引揚げの下知をするおりしも、石火矢の音一声、山かげから一 じようしようしよかつりよう 手の軍勢が討って出る。『漢丞相諸葛亮』と大書した旗を押し立て、中央の四輪車には孔明が端 かん一一う ちょうほう 坐し、左には関興、右には張苞が控える。孫・郭両名がこれを見てあっと驚くところ、孔明から からと笑って、 「郭淮・孫礼、そこ動くな。司馬懿ごときにわしが欺かれると思ってか。連日、われらが陣地に打 ちかからせておいて、貴様たちにわれらの背後をつかせようとしたのであろうが、武都・陰平はも はやわしがもらった。降参するか、それとも戦うか」 かんせい 郭淮と孫礼があわてふためくおりしも、とっぜん背後に天にこだまする喊声があがり、王平・姜 維の軍勢が押し寄せた。関興・張苞もすかさず前から攻めかかる。前後から揉み立てられて魏の軍 勢は大敗し、郭・孫二人は馬を棄て山によじ登って逃げた。はるかにこれを認めた張苞は馬を飛ば せて追いかけたが、何としたことか人馬もろとも谷底へころげ落ちた。彳し こ続く兵士たちが急いで たす せいと 救け上げれば、頭が割れている。孔明は彼を成都へ送り帰して養生させた。 さて、郭淮と孫礼は、ほうほうの態で逃げ帰り、司馬懿に目通りして言った。 「武都・陰平はすでに奪われており、孔明が途中に待ち伏せていて前後から揉み立てられたため、 さんざんに打ち破られて歩いて逃げのびて参りました」 「これはそなたたちの罪ではない。わしが孔明にしてやられたのじゃ。そなたたちは改めて雍城と かくわい いしびや

3. 三国志演義 7

「魏の大将たるわれらが、蜀の者どもにかような辱しめを加えられて黙っておるわけには参りませ ぬ。討って出て雌雄を決しようではござりませぬか」 「わしとて討って出る気がなくて、このような辱しめを甘んじて受けたわけではない。ただ天子よ り、守りを固めて動いてはならぬとの詔をいただいておるのであるから、軽々しく討って出たりす れば、君命に背くことになるのでのう」 ふんまん 大将たちがなお忿懣やる方ない面持ちでいるのを見て、司馬懿はつづけた。 「それほど討って出たいのなら、わしより天子のお許しを得るゆえ、それから一挙に攻めかかるこ とにしょ , つではない力」 がっぴ 受 一同が承知すれば、司馬懿は上奏文をしたためて使者を合の陣へ遣わし、魏主曹叡にこの由、 を 困 願い出た。曹叡がそれを開いて見れば、およそ、 馬 司 谷 臣、才薄くして重任をかたじけのうし、固く守って戦わす、蜀人のおのすから疲るるを待てと 方 上 の詔を仰ぐ。しかるに、今、諸葛亮、臣に巾幗を送り、臣を女の如く扱う。恥辱甚し。臣、謹ん じようぶん 回 であらかじめ上聞に達し、ここに一死をなげうって一戦し、もって朝廷の恩に報い、三軍の恥 きようく すす 第を雪がんとす。臣、恐にたえず。 とある。曹叡がこれを読んで諸官に、 きんかく

4. 三国志演義 7

278 孔明は書き終わると、ふたたび楊儀に、 むくろ 「わしが死んだなら喪を発してはならぬ。大きな龕を造って、わしの屍をその中に坐らせ、ロの中 に米を七粒入れて、足もとに一基の燈明を置いておくよう。軍中、常の如く平静にして、決して哀 しみの声をあげてはならぬ。かくすればわしの魂がもどって将星を鎮め、なお天上にとどめるであ ろう。司馬懿は、将星の墜ちぬのを見て疑うに違いない。わが軍は後詰より、一陣ごとにしずしず と引き揚げるがよい。もし司馬懿が追って参ったなら、そなたは陣を布いて待ち受けよ。彼が近づ いて参らば、わしが先に彫っておいた木像を車上に安置し、左右に将士を控えさせて陣頭に押し出 すのじゃ。司馬懿はこれを見れば、必ず驚いて逃げるであろう」 と言った。楊儀はいちいち承知する。この夜、孔明は人に抱えさせて外に出、北斗を仰いだが、 遙かに一つの星を指さして言った。 「あれがわしの将星じゃ」 一同が見れば、その色は暗く、ゆらゆらと揺れて今にも落ちなんとしている。孔明は剣をあげて じゅもんとな 星を指し、ロ中に呪文を称えたが、称え終わって急いで幕中にもどった時は、すでに気を失ってい 大将たちがあわてふためくところへ李福が引き返して来たが、孔明がすでに絶え入ってロも動 かぬありさまを見るや、わっと泣いて、 「わしは国家の大事を誤ってしもうた」 がん

5. 三国志演義 7

「わが事成れり」 ぎえんきようい と、ただちに魏延・姜維を呼んで命じた。 「そなたたちは五千騎をひきいて急ぎ陳倉城下へ馳せつけ、火の手があがったなら、力を合わせて 攻め立てよ」 二人はわけがわからす、改めて尋ねた。 「いっ打ち立つのでござりましようか」 いとま 1 ) け「三日以内にいっさいの手はずをととのえ、用意のでき次第、打ち立つのじゃ。わしに暇乞いにこ をよ / 、レ」 7 も、よい」 双 二人は承知して引きさがった。孔明は次に関興・張苞を呼ぶと、耳もとで何事かささやき、二人 王 ては密計を受けて打ち立った。 ちょう第一う 追ここに郭淮は邦昭の病いあっしとの知らせを聞き、張郤に諮って言った。 を 軍「邦昭が重態とあらば、そなた、急いでいって代わってやってくれい。朝廷にはわしから奏上して おく。ご沙汰を待ってはおれぬ」 回 張郤は三千騎をひきい、那昭と代わるべく馳せ向かった。時に邦昭はもはや頭もあがらぬありさ 十 しんぎん 第まで、その夜も病床に呻吟しているところへ、にわかに蜀の軍勢が押し寄せたとの知らせ。急いで 守りを固めるよう下知した時には、早くも城の各門に火の手があがり、城内は上を下への大騒ぎと なった。それと知った邦昭は仰天してそのまま息絶え、蜀の軍勢は一団となってなだれこんだ。 かくわい

6. 三国志演義 7

軽く三寸の舌を動かし 罵って老奸臣を死せしむ 孔明は扇を挙げて曹真をさし、 「わしはしばらく待ってやる。軍勢をととのえ、明日、勝負をつけよう」 かばねひつぎ と一言うや車をもどし、かくて両軍とも退いた。曹真は王朗の屍を柩に収めて長安に送り帰したが、 副都督郭淮が言うのに、 り「諸葛亮はわが軍が葬儀をおこなっているとみて、今夜、夜討ちをかけてくるに相違ござりませぬ。 町よって兵を四手に分け、二手には間道から、蜀軍が出たあとをついて夜討ちをかけさせ、他の二手 ては陣の外にひそんで、敵のくるところを左右から攻めるがよろしゅうござります」 帰「わしも今それを考えていたところじゃ」 そうじゅんしゆさん 約 喜んだ曹真は、曹遵・朱讃の二人を呼んで先鋒を命じた。 姜 「そなたたちは、それぞれ一万騎をひきいて祁山のかげにまわれ。そして、蜀の軍勢がわれらの陣 三地に夜討ちをかけに出たら、すかさず敵陣へ斬りこむのじゃ。もし敵が動かなかったならば、軽々 九しく討って出すにもどって参れ」 二人が承知して打ち立ったあと、彼は郭淮に言った。 「われわれも各自、一軍をひきいて、陣の外に待ち受けよう。陣中には柴を積んで数人だけ残して ののし

7. 三国志演義 7

じだんだ と知らせれば、司馬懿は地団駄ふんで、 「さては孔明は本当に死んでいたのか。これよりすぐ追討ちをかけよう」 「都督、軽々しく追われるのは禁物にござります。誰か部将を先にやるのがよろしゅうござりまし じきじき 「今度は、わしが直々ゆくぞ」 と兵をひきい 、二人の息子を連れて、いっせいに五丈原へ殺到した。旗を打ち振り、鬨の声をあ げて蜀の陣地へ衝きいれば、なるほど一人の兵もいないので、二人の息子を顧みて言った。 「お前たちは、あとから全軍を駆りたてて参れ、わしは先にゆく」 しばしよう かくて司馬師・司馬昭はあとに残って軍勢を急がせ、司馬懿はみずから一軍をひきい、真っ先駆 けて蜀軍の後を追ったが、とある山の端をまわったとき、ほど遠くないところに蜀の軍勢が見えた いしびや かんせい ので、勇躍、馬を飛ばす。ところへ山かげに石火矢の音一発、どっと喊声がわくとみる間に、蜀の ぶきようしよかっ 軍勢がくるりと向き直る。木かげにひらめく中軍の大旗に大書された字は、『漢丞相・武郷侯諸葛 りよう 亮』。あっと顔色を変えて目をこらすとき、軍中から数十人の大将が一輛の四輪車をとりまいて現 かんきんうせんどうほうこくたい われ出た。車に端坐しているのは、綸巾羽扇、道袍黒帯、まぎれもない孔明その人である。仰天し て、 「孔明めまだ生きておったか。うかうかと深追いして、手にのせられたか」 とひと声、急いで馬首を返して走り出すところ、背後より姜維が、 っ とき

8. 三国志演義 7

198 挑戦状を送った。 孔明は、 「曹真が死んだそ」 と、諸将に言いながら、明日、戦いを交えようとの返事をそれに書きつけ、使者を帰した。その きようい 夜、孔明は姜維にかくかくのごとくおこなえと密計を授け、また関興を呼んで何事か命じた。あく る日、孔明は祁山の全軍をあげて渭水の平地に進み出た。一方は川、一方は山、中央は広々とした さんかい 平地という絶好の戦場である。両軍、相対峙するや、まず矢合わせし、三通の太鼓、鳴り終わって うせん 魏軍の門旗さっと開けば、司馬懿が諸将をしたがえて出馬する。見れば、孔明が羽扇を手に四輪車 に端坐しているので、 ぎようしゅん 「われらが天子は、堯が舜に位を譲った例にならわれ、すでに二代に伝えられて、いながらにして 中原を鎮めたまえるお方である。なんじら蜀・呉二国を滅ばされずにおるのは、ひとえに天子の寛 なんよう 仁のお心より罪もなき民草を苦しめるのを恐れたもうからにほかならぬ。南陽の名もなき百姓風情 の貴様が、天の定めも知らずにみだりにわが境を侵したるは、その罪、生かしてはおけぬところな さんぶんていりつ れど、もし悔い改めるならすみやかに引き揚げよ。おのおの境を守り、三分鼎立の勢いを形づくっ とたん て民草を塗炭の苦しみより救い出すならば、貴様たちも命を全うできようぞ」 孔明はからからと笑い 「わしは先帝より幼主をたすけよとのご遺命を拝したもの。一命をなげうっても賊を滅ばさずには

9. 三国志演義 7

曹真が信じないと、彼は重ねて言った。 「お信じにならぬとなら、それがし、孔明が必す二つの谷から出て参ると思いますゆえ、われら両 名にてそれそれの谷のロを守ってみようではござりませぬか。十日を期限として、もし敵が参りま せなんだら、それがし、顔に紅・白粉をぬり、女の着物を着て、お詫びに参上っかまつります」 「さらば、敵が参ったなら、わしはご下賜の玉帯と、お召し馬をそなたにやろう」 かくて兵を二手に分けると、曹真は祁山の西の斜谷口に、司馬懿は祁山の東の箕谷口に向かい、 それそれ陣取りを終わった。司馬懿はまず一手の兵を山あいに伏せておき、その他の兵馬を諸方の 要路に陣取らせたうえ、みずから雑兵の身なりをして、それとなく各陣を見て回った。とある陣地 をに回った時、一人の部将が天を仰ぎ、 くだ 曹「あのひどい長雨の最中には帰ろうともせず、今度はまた下らぬ賭からこんなところに陣取りか っ 少しは軍勢の苦しみも考えてくれたらよいのに」 劫 を と愚痴を言っている。司馬懿は黙って本陣にもどるや、部将たちを全員、幕下に呼び集め、その 兵部将を前に引き出してなじった。 「天子がそなたたちを千日も養っておくのは、ただ一日の役に立てようとの御心からではないか。 回 第愚痴をいうとは、わが軍の士気をみだそうとの所存か」 その者が罪を認めようとしないので、司馬懿がその時いっしょにいた者を呼び出して証言させる と、ついにかくしきれずに白状した。司馬懿は、 おしろい ばっか

10. 三国志演義 7

置き、敵が参ったら合図の火の手を上げさせることにする」 かくて諸将を左右二手に分け、おのおの所定の場所に向かった。 さて孔明は、幕中にもどると、まず趙雲・魏延を呼んで下知を伝えた。 「そなたたちは、手勢をひきいて魏の陣地へ夜討ちをかけよ」 魏延が進み出て、 「曹真は兵法に明るい者ゆえ、われらが王朗の喪に乗じて夜討ちに出るのを見越しておるに相違ご ざりませぬ。備えておらぬということはござりますまい」 と言うと、孔明は笑って、 「曹真が、こちらの夜討ちを知っておってくれれば、わしの思うつばじゃ。彼は祁山の裏に伏勢し て、わが軍が出たあと、逆に夜討ちをかけてくるに違いない。そこで、わざとそなたたちを出すの じゃ。そなたたちは手勢をひきいて山かげの道を通り過ぎ、少し離れて陣を取って、わざと魏の軍 ぶんちょう 勢に夜討ちをかけさせるのじゃ。本陣から合図の火の手が上がったら、二手に分かれ、文長 ( 魏 しめ , よう 延 ) は山あいの退路を絶ち、子竜 ( 趙雲 ) は手勢をひきいて引き返せ。敵勢の逃げてくるのに出会 うであろうが、見のがしておいて、あとから追討ちをかければ、敵は必ず同士討ちをやって、ちり ぢりになるだろう」 二人が承知して打ち立ったあと、孔明は関興・張苞を呼んだ。 「そちたちは手勢をひきいて祁山の間道にひそみ、魏の軍勢を通らせておいて、敵の来た道から、