出陣 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 7
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1. 三国志演義 7

8 違いないではないか」 ちょうこがくちん と言われて、恐れ入った。司馬懿はただちに出陣を触れ、張虎・楽淋にそれぞれ五千騎をあたえ ごづめ て後詰とした。 さて孔明は、おりしも山の上にあって、魏の軍勢が四千五千、千二千と一団となり、隊伍もとと のわぬまま前後を顧みながら出てくるのを望み見るや、祁山の陣地に攻めかかるに違いないと見て とって、ひそかに伝令を出して大将たちに、 じきじき 「もし司馬懿直々、出陣いたしたなら、そなたたちは一挙に魏の陣屋に攻めかかり、南岸の敵陣を 残らず奪い取れ」 と命じゃり、大将たちは承知して支度をととのえた。 さて魏の軍勢が大挙して祁山の陣地へ押し寄せると、蜀の軍勢は四方から鬨の声をあげて駆け集 まり、陣地を守りにゆくように見せかけた。司馬懿は蜀の兵士たちがこそって祁山の陣地の加勢に ゆくのを見るや、二人の息子と本陣を守る屈強の者どもをひきいて、上方谷へ殺到した。魏延は谷 の前で司馬懿のくるのを今やおそしと待ち受けていたところ、一手の魏の軍勢が馳せ向かってくる のが見えたので、馬を躍らせて進み出れば、まさしく司馬懿。 「司馬懿、そこ動くな」 なぎなたふる と大喝一声、薙刀を揮って迎え撃てば、司馬懿も槍をしごいて渡り合う。三合もせずに魏延が逃 げ出せば、司馬懿は追いすがり、魏延は七星旗目指して走った。司馬懿は魏延ただ一人で手勢も少 とき

2. 三国志演義 7

きようい と、関興・張苞に伏勢するよう命じて打ち立たせ、姜維にも軍勢をひきいて出陣し、鉄車が繰り から 出したなら手向かいせすに退くよう命じると、陣の前に旗さし物だけを立てて陣中を空にしておく よう下知し、 いっさいの手はすをととのえて待ち受ける。 えっ 時に十二月も末のこと、果たしてはげしい雪となった。姜維が軍勢をひきいて討って出れば、越 きっ 吉が鉄車兵をひきいて出陣したので、姜維はただちに退いた。羌兵が蜀の陣屋まで追ってくれば、 姜維は陣屋を見棄てて逃げ去った。羌兵は陣屋の前まで来たものの、中で太鼓や琴の音がしている のにまわりには旗さし物が立っているばかりなので、取って返して越吉に告げ、不審に思った越吉 破 がたん をが進むのを控えていると、雅丹丞相が言った。 しよかつりよう 羌「それは諸葛亮の計略じゃ。旗さし物で軍勢のいるかのように見せかけたものゆえ、攻め破った じ 乗らよい」 鰤越吉が軍勢をひきいて陣屋に迫ると、孔明が琴を抱えて車に乗り、数騎の供を従えて陣屋の裏へ ふもと 葛出てゆくのが見える。羌兵が柵を乗り越えて山の麓へ追ってゆくと、孔明の車は林の中へ姿を消し ロ 四「かほどの小勢では、伏兵などあってもなきがごときもの。恐れるにはおよばぬ」 十 九雅丹の言葉に、越吉が勢いこんで追い討ちすれば、姜維の同勢が雪の中を逃げ散ったので、怒り たんたん くるって急追させた。山中の道は降り積もった雪におおわれ、はるか先まで坦々と続いている。追 ううち、蜀兵が山の裏手に討って出たとの知らせがあったが、雅丹は、 カカ

3. 三国志演義 7

ではないか。わざわざ遠方まで討って出る許しを求めることもあるまいが。これは、司馬懿が将士 のいきり立つのに手をやき、曹叡を盾にみなの心を抑えたもの。またそれを大仰に言いひろめたの は、わが軍の士気をゆるませようとしたものじゃ」 ひき かく話しているところへ、とっぜん費幃の到着が取り次がれたので、幕中に迎え入れて来意を問 えば、 「魏主曹叡は、東呉が三手に分かれて出兵いたせしを聞いて、みすから大軍をひきいて合に出陣 まんちょうでんよりゅうしよう し、満寵・田予・劉劭の三手をもって迎え撃たせました。満寵は計略をもって東呉の糧秣・武器 をことごとく焼き払いました。呉の兵士たちは病いに倒れる者、多しと伝えられます。陸澄は呉王 受 と手を合わせて前後から挾撃しようといたしましたが、使者が途中にて魏の兵に捕えられたため機 を 困 密が洩れてしまい、呉の軍勢はついになすこともなく引き揚げました」 馬 - ) んとう たす 司 とのこと。この知らせを聞くなり孔明は長嘆一声、その場に昏倒した。諸将が急いで扶けおこせ 谷ば、ややあって意識をとりもどした孔明は、嘆息して言った。 上「わしは心乱れ、病いがまた起こった。おそらく長くは生きておれまい」 回その夜、孔明は病いを推して幕外に出、天文を按じていたが、ただならぬ気色で幕中にはいると、 第姜維に向かい、 たんせき 「わしの命はもはや旦タに迫っておる」 「なにゆ , んき、よ , つなことを」 たて あん おさ

4. 三国志演義 7

「わしは先帝より後事をおまかせいただいた者じゃ。力を尽くして賊を討っこそわしのっとめ、さ ような愚にもっかぬ変事にかかずらって国家の大事を怠るようなことはできぬ」 しようれつ と言うと、役人に命じて昭烈皇帝の廟に牛・羊・豚を供えさせ、涙ながらに参拝して言うのに、 「臣亮、五たび祁山に出陣して、いまだ寸土もえず、この罪軽からず。今、臣、ふたたび全軍を統 ちゅうげん べ、また祁山に出でんとす。誓って力を竭し心を尽くし、漢の賊を討滅して、中原を回復し、鞠 きゅうじんすい 躬尽瘁、死してのちゃまん」 いとま′」 かんちゅう 祭りをおわるや、後主に暇乞いして急ぎ漢中にもどると、諸将を集めて出陣の軍議をもよおし - 」んとう いた。ところへ、思いがけなく関興死すとの知らせ。孔明はわっと声をあげて泣くや、その場に昏倒 をして、しばらくして気を取りもどした。大将たちがこもごも慰めれば、孔明は嘆息して、 渭「ああ、あたら忠義の人を殺すとは、天も無情なことを。このたびの出陣に、また一人、大将を失 懿後の人がこれを嘆じた詩に 司 回 生死は人の常理にして かげろうごとむな 百 蜉蝣の一様空し 第 ただ 但忠孝の節の存せば きようしよう 何んぞ必ずしも喬松 ( 王子喬、赤松子の二人をさす。共に長寿の仙人 ) を寿がんや かん一一う びよう

5. 三国志演義 7

とができる。そなたは一万騎をもって、かしこに駐屯せよ。街亭に万一のことがあらば、ただち に加勢に向かえ」 高翔が打ち立っていったあと、孔明はなお不安に思い、高翔は張部の敵ではない、大将をひとり ぎえん 街亭の西に出しておけば間違いなかろうと考えたので、魏延に手勢をひきいて街亭の背面に駐屯す るよう命じた。すると魏延が言った。 「それがしは先鋒を承ったものゆえ、先駆けして敵を打ち破るのが役目、なにゆえさようなつまら ぬところへ参らねばならぬのでござりますか」 失 を「先駆けして敵を破るのは、とるにもたらぬ部将の役目じゃ。今そなたに頼むのは、街亭の後備え ようへい 一」である。かしこは陽平関に至る最も肝要な道筋を抑え、漢中ののどもとの固めともいえるところ。 殳目をおろそかにして万一の事でもあ 拒これは大事な役目であるそ。つまらぬところなそではない。彳 めらば、わが軍は万事休するのじゃ。よくよく心してやって参れ」 ちょう 謖と孔明に言われて魏延はいたく喜び、手勢をひきいて打ち立った。孔明はようやく安心し、趙 2 うんとうし 雲と鄧芝を呼んだ。 五「このたび司馬懿が出陣いたしたからは、これまでとは勝手が違う。そなたたちはおのおの手勢を 十 九ひきいて箕谷におもむき、伏勢して敵軍をまどわせよ。魏の軍勢が参ったら討って出るかのごとく や第く び 見せて引き退き、敵兵の胆を奪うのじゃ。わしは大軍をひきいて、斜谷から邯城へ攻めかかる。鄙 城を破ったうえは、長安はもはやわが手に落ちたも同然じゃ」 ちゅうとん

6. 三国志演義 7

すことができる。誰が攻め取りにゆくか」 「それがしが参ります」 おうへい と姜維が言えば、王平も、 「それがしも参りとう存じます」 と願い出たので、孔明はいたく喜び、姜維に兵一万を与えて武都へ、王平に同じく兵一万を与え て陰平へ向かわすこととし、二人は兵をひきいて打ち立った。 ここに張部は長安に立ち帰るや、郭淮・孫礼に会って、「陳倉はすでに奪われて、那昭は死に、 散関も蜀軍に乗っ取られた。いま孔明はまたも祁山に出陣し、兵を分けて進んでいる」と伝えた。 郭淮は、 「さらば雍城・鄙城に攻めかかるに違いない」 と仰天し、張部に長安の留守をゆだね、孫礼を雍城に差し向けると、みずから兵をひきいて邯城 らくよう へ馳せ向かい、同時に上奏文をもって洛陽に急を告げた。 そうえい さて魏主曹叡が朝廷に出て政事をみているとき、近臣が、 「陳倉城はすでに奪われて、邦昭も死に、諸葛亮がまたも祁山に出陣して、散関も蜀の軍勢に奪わ れました」 まんちょう と奏上したので、いたく驚くところへ、また満寵らの上奏文が奉られて、「東呉の孫権は帝号を まつり′、と

7. 三国志演義 7

と存じます」 とうき せっそく と進言したので、ただちに董禧に三万騎を与えて左側に伏勢させ、薛則にも三万騎を与えて右側 に伏勢させることとすれば、二人は手はずどおりに伏勢した。 どら あくる日、夏侯楙はふたたび銅鑼・太鼓・旗さし物をととのえ、軍勢をひきいて出陣し、趙雲・ 鄧芝もこれを迎えて出陣したが、鄧芝が馬上より、 たくら 「昨夜、大敗して逃げた魏の軍勢が、今日、ふたたび討って出たのは何か企んでおるのに相違ござ りませぬ。ご用心なされませ」 と言えば、子竜、 斬 「あんな乳臭い小僧など相手にもならぬ。今日こそ手捕りとしてくれるそ」 五 て と言い棄て、馬を躍らせて討って出た。魏の大将潘遂が迎え撃ったが、三合もせずに馬首を返し カて逃げはじめ、趙雲が追いすがれば、魏の陣中から八人の大将がいっせいに討って出で、先に夏侯 子楙を逃がしておいて、八人ともそろって逃げた。趙雲が勢いに乗って追討ちをかければ、鄧芝も軍 とき あと 趙 勢をひきいて後に続く。趙雲が敵陣深く衝き入づた時、四方にどっと鬨の声。鄧芝は急いで軍勢を 回ひ 二退かせようとしたが、 左から董禧、右から薛則が討って出で、無勢の鄧芝は救いにもゆけぬ。趙雲 九は真ん中に取り籠められ、西に東に馳せ回ったが、魏軍の囲みは厚くなるばかり。時に趙雲の手勢 5 はわずか千騎余り、山の下まで揉み合って来たが、ふと見れば夏侯楙が山上で采配を振っており、 趙雲が東へ走れば軍勢を東へ動かし、西へ走れば西へやる。趙雲は衝き破ることができないので、 っ はんすい

8. 三国志演義 7

人をやってさぐらせたところ、果たしてそうであったので、 「孔明は退いたそ。誰そ追討ちに出ぬか」 せんほうちょうこう と言えば、先鋒張郤が、 「それがし参ります」 「そなたは血の気が多いゆえ、ゆかせられぬ」 今日この大功をたてようとい 「都督には、出陣の時それがしを先鋒にお取り立て下さいましたに、 うときお用い下さらぬとは、なにゆえにござりますか」 を「敵は引き揚げながら、難所に必ず伏勢を残してあるはす。これを追うには、よくよくの用心が肝 要だからじゃ」 諸「それはとうに承知いたしております。ご懸念にはおよびませぬ」 で「そう申しても、これはあとで悔やんでもおよばぬことじゃそ」 出 「男と生まれ、身を棄てて国に報いようとするからは、命なそ惜しくはござりませぬ」 上 隴「どうあってもゆくと申すのなら、五千騎をひきいて先にゆけ。魏平に兵を二万やってあとに続か 回せ、伏勢に備えさせよう。わしも三千騎をひきいて加勢する」 第張郤は命を受け、兵をひきい馬にむちうって岡軍のあとを追った。ゆくこと三十里あまり、うし なぎなた ろで不意に鬨の声があがるや、林の中から一手の軍勢が討って出た。真っ先に立った大将が薙刀を ひっさげ馬を止めて、 とき

9. 三国志演義 7

差し添えてうち立たせた。いよいよ孔明が出陣することとなれば、後主は百官を随えて北門外十里 まで見送り、孔明は後主に暇を告げて、野をおおいつくす旗さし物を押し立て、戈や戟、林の如く、 堂々と軍をひきいて漢中目指しうち立った。 そうえい さて魏の境を守る軍勢は、これを探知するや、洛陽へ注進する。この日、曹叡が朝廷に出ている ところ、近臣が、 「辺官からの注進によれば、諸葛亮が大軍三十余万をひきいて漢中に押し出だし、先鋒の趙雲・鄧 くにギ、かい を芝を国境に差し向けて参っております」 と奏上したので、仰天して群臣に諮った。 相 漢 「誰か軍勢をひきいて、蜀兵を退けて参る者はおらぬか」 て っ と、言下に進み出た者が、 かたき 水「臣の父は漢中において殺され、まだ仇を取っておりませぬ。蜀の軍勢が攻め入って参ったうえは、 しも かんせい きか 瀘 麾下の勇将をひきい、関西の軍勢を賜わって出陣いたし、一命をなげうって上は国家に奉じ、下は 一父の仇を討ちとう存じまする」 しきゅう りんしよく かこうえん あざな カ - 一うばう 九 、性急、吝嗇な男で、幼い 一同が見やれば、夏侯淵の子、夏侯楙である。楙は字を子休といし 第 せいが か第一うとん こうちゅう あわれ 頃から夏侯惇の養子となっていた。後に夏侯淵が黄忠に斬られ、これを憐んだ曹操が己の娘清河 公主の婿に迎えたので、以来、朝廷で重んじられていた者。兵権は持っていたが、まだ一度も戦場 たま かみ ほ・、げキ、 おのれ

10. 三国志演義 7

こうめい さて大将たちは、孔明が魏の軍勢を追わぬと聞くと、うち連れてまかり出た。 破 を「魏の軍勢は雨に悩まされ、屯営しておれずに陣払いしたもの。今こそ勢いに乗って追討ちをかけ 曹るべき時と存じまする。なにゆえ討って出られぬのでござりますか」 ひ っ 「司馬懿は兵法にたけた者ゆえ、軍を退くに当たっては必ず伏勢を置いてゆくであろう。追討ちを 劫 かけるのは、進んで彼の術中に飛びいるようなもの。彼を存分に退かせておいて、わしは手を分け や・一く 兵て斜谷から祁山に出、敵の不意をつこうと思う」 ちょうあん 「長安を攻めるには、他にも道がござりますのに、毎度、祁山にご出陣なされますのはなにゆえ 回 百こごギ、りますか」 ろうせい 7 「祁山は長安の首ともいえるところじゃ。隴西諸郡より軍を長安へ上せようとすれば、必すかしこ ゃ一一く を通らねばならぬ。さらにかしこは、前は渭水の岸に臨み、斜谷を背にして、出没自在、伏勢によ 第百回 そうしん かん 漢兵寨を劫って曹真を破り ちゅうたつはずか 武侯陣を闘わせて仲達を辱しむ じんおそ とんえい たたか