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検索対象: 三国志演義 7
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1. 三国志演義 7

らくよう 聞くところによれば、東呉は洛陽に使者を遣わして魏と手を結び、魏は東呉に蜀を攻めるよう 命じたとか。幸いいまだ東呉に兵をおこす気配なし。右、探知し、丞相がすみやかなるご処置を 伏して望むものなり。 を読みおえて孔明はいたく驚き、諸将を集めて、 「東呉がわが国に攻めいるとなれば、わしはすぐ帰らねばならぬ」 せいせん 諸と言うと、ただちに祁山へ人をやり、「陣払いしていったん西川に引き揚げよ。司馬懿はわしが ちょうぎよく でここにいるのを知っておるから、決して追わないであろう」と命じた。かくて王平・張嶷・呉 出 ひ 班・呉懿は二手に分かれ、二つの道からしずしずと西川に退いていった。 上 たくら 隴張郤は蜀の軍勢が引き揚げるのを見ていたが、企みではないかと思って、追討ちに出るのを控え、 回手勢をひきいて司馬懿のところに来た。 第「蜀の軍勢が退去いたしましたが、なぜだかわかりませぬ」 たばかり 四「孔明は謀の多い奴ゆえ軽々しく動いてはならぬ。守りを固めておれば、兵粮が尽きて、討たず とも退いてゆく」 ねぎらった。ところへ永安の李厳から急を告げる書面が届いたとの知らせ。驚いて孔明が封を切れ えいあん とう ) 」

2. 三国志演義 7

四三月、魏の曹丕、濡須に出陣して大敗。曹仁 ( 五六 ) 没。四月、岡の劉備 ( 六三 ) 没。五月、蜀の後主劉禅 ( 一七 ) 即位。六月、魏の賈訒 ( 七七 ) 没。 一三四 五夏、蜀の鄧芝、呉に使いして同盟を結ぶ。 六三月、孔明、南蛮征伐、一二月帰還。 七五月、魏の文帝曹丕 ( 四〇 ) 没。曹叡 ( 明帝・二四 ) 即位。八月、呉の諸葛 瑾 ( 五三 ) ら襄陽を攻め司馬懿 ( 四八 ) に大敗。 一三七太和一三月、孔明「出師の表」を上す。 一一一月、司馬懿、新城で孟達を斬る。春、孔明、祁山に出陣、街亭で敗る。 馬謖 ( 三九 ) を斬る。◎魏の姜維 ( 二七 ) 蜀に降伏。五月、呉の周魴、魏に 降るとみせて曹休を誘い出す。八月、呉の陸遜、石亭で曹休を大破。曹休 没。一二月、孔明、陳倉を囲み、王双を斬る。 三春、孔明、陳式をして武都・陰平を占拠。四月、呉の孫権 ( 四八 ) 自立し て帝位につく ( 呉の大帝 ) 。九月、呉、建業に遷都。◎蜀の趙雲没。 四八月、魏の曹真、漢中攻略に失敗。 五二月、孔明、祁山に出陣、木牛・流馬を用う。三月、魏の曹真没。五月、 孔明、鹵城で司馬懿を大破、六月、木門道で張部を射殺。一二月、魏の華 歌 ( 七五 ) 没。

3. 三国志演義 7

るよう勧めたが、曹叡は陸遜の智謀のほどを知っていたので、 はかりと 「陸遜は謀の多い者ゆえ、わが軍を誘い出そうとしているのかも知れぬ。みだりに動くことはな らぬ」 とさとし、諸将も思いとどまった。数日して、物見から、 「東呉の三手の軍勢は、全部、引き揚げた」 との注進があり、魏主が信ぜすに、改めて物見を出してみたところ、果たしてすっかり引き揚げ たあと。魏主は、 そんごそんし 「陸遜の用兵は、孫・呉 ( 孫子・呉起 ) にも劣らぬものじゃ。これでは東南 ( 呉 ) はまだまだ平定で 受 キ、 ( い」 を がっぴとんえい 困 と言い、大将たちに諸方の要害を固めるよう命じおき、みずから大軍をひきいて合瀧に屯営する 馬 司 と、呉の出方をうかがっていた。 谷 方 、一うめい しよく 上さて祁山にあった孔明は、長期の対陣に備えて、蜀の兵士に魏の百姓といっしょに田畑を作るよ 回 う命じ、兵は三分の一、百姓は三分の二をとることとして、決して余計に取るようなことはさせな 第かったので、魏の百姓たちは落ち着いて仕事にはげんでいた。司馬師がまかり出て、父親 ( 司馬懿 ) 5 に一一 = ロった。 「敵は先には味方の莫大な兵粮を奪い取りましたに、このたびはまた兵士たちにわが国の百姓たち

4. 三国志演義 7

ではないか。わざわざ遠方まで討って出る許しを求めることもあるまいが。これは、司馬懿が将士 のいきり立つのに手をやき、曹叡を盾にみなの心を抑えたもの。またそれを大仰に言いひろめたの は、わが軍の士気をゆるませようとしたものじゃ」 ひき かく話しているところへ、とっぜん費幃の到着が取り次がれたので、幕中に迎え入れて来意を問 えば、 「魏主曹叡は、東呉が三手に分かれて出兵いたせしを聞いて、みすから大軍をひきいて合に出陣 まんちょうでんよりゅうしよう し、満寵・田予・劉劭の三手をもって迎え撃たせました。満寵は計略をもって東呉の糧秣・武器 をことごとく焼き払いました。呉の兵士たちは病いに倒れる者、多しと伝えられます。陸澄は呉王 受 と手を合わせて前後から挾撃しようといたしましたが、使者が途中にて魏の兵に捕えられたため機 を 困 密が洩れてしまい、呉の軍勢はついになすこともなく引き揚げました」 馬 - ) んとう たす 司 とのこと。この知らせを聞くなり孔明は長嘆一声、その場に昏倒した。諸将が急いで扶けおこせ 谷ば、ややあって意識をとりもどした孔明は、嘆息して言った。 上「わしは心乱れ、病いがまた起こった。おそらく長くは生きておれまい」 回その夜、孔明は病いを推して幕外に出、天文を按じていたが、ただならぬ気色で幕中にはいると、 第姜維に向かい、 たんせき 「わしの命はもはや旦タに迫っておる」 「なにゆ , んき、よ , つなことを」 たて あん おさ

5. 三国志演義 7

313 略年表 人名の下の ( ) は年齢、数え年 / * 印は正史に記載なく、この年齢は『演義』によっ 『三国士心演生我』一第一・略 . 年・ ~ 衣た / ◎印は時期不詳のもの / 魏成立以前は田 ~ 巻を参照のこと / 蜀・呉の年号は「三国 年代対照表」を参照のこと 西暦魏年代事項 一三〇黄初一一月、曹操 ( 六六 ) 没。曹丕 ( 三四 ) 丞相・魏王となる。四月、夏侯惇没。 ( 後漢・建七月、孟達、曹丕に降る。一〇月、曹丕 ( 魏の文帝 ) 、漢の献帝 ( 四〇 ) を 安二五年 ) 廃して魏を建国。一二月、洛陽に遷都。◎程昱 ( 八〇 ) 没。 一一四月、漢中王劉備 ( 六一 ) 自立して漢 ( 蜀 ) の皇統を継ぐ ( 蜀の昭烈帝 ) 。諸 葛孔明 ( 四一 ) を丞相とす。五月、劉禅 ( 一五 ) 蜀の太子となる。七月、劉 備、孫権討伐の軍をおこす。張飛没 ( 五 . 五 ) 。八月、孫権、曹丕に臣従を誓 って呉王に封ぜらる。 三二月、蜀の黄忠 ( 七五 ) 没。三月、蜀の劉備、琥亭に進出、六月、呉の陸 遜 ( 四〇 ) に大敗して永安 ( 白帝城 ) に帰る。九月、呉の孫権 ( 四一 ) 魏に 反して独立。一一月、魏、五路より呉を攻めて大勝。◎魏の張遼 ( 五四 ) 、 蜀の馬超 ( 四七 ) 没。

6. 三国志演義 7

かねてかの地の動静をさぐらせるがよろしゅうござります」 「では弁舌のたつ者をやらねばなるまい」 後主が言う時、言下に一人の者が進み出た。 「臣に仰せつけ下さりませ」 なんようあんしゅう そう とくえん 一同が見やれば、南陽郡安衆の人、姓は宗、名は預、字徳第、時に参軍右中郎将をつとめる者 である。後主はいたく喜び、ただちに宗預に、東呉へ喪を知らせにゆき、かねて様子をさぐってく るよ、つム叩じこ。 きんりよう ( 注三 ) そんけん あいさっ 宗預は命を奉じて金陵に急行すると、呉主孫権に謁見した。挨拶を終わって見れば、左右の 人々はすべて喪服をつけている。孫権は色をなして言った。 はくていえいあん 「呉・蜀はすでに一家同然であるのに、そなたの主はなぜ白帝 ( 永安 ) の軍勢を増したりするのか」 はきゅう 「東が巴丘の守りを増せば、西も白帝の守りを増す、これは勢いのしからしむるところで、わざわ ざご下問になるにもおよばぬことと存じまするが」 りゅうび 「そなたは鄧芝にも劣らぬ者じゃな」 ( 鄧芝は劉備の死後、呉へ使いして呉・蜀の同盟を結んだ。第八十六 回参照 ) と笑い みまか 「朕は諸葛丞相が身罷られたと聞いて以来、涙を流さぬ日とてなく、役人たちにも喪服を着けさせ ておるほどじゃ。朕は魏が喪に乗じて蜀を攻めるやも知れぬと思ったがゆえ、巴止の兵を一万増し、 よ

7. 三国志演義 7

しばしよう と命じゃった。諸方への下知を終わると、司縣師・司馬昭の二人に兵を授けて先手の陣屋へ加勢 四にゆかせ、おのれは一軍をひきいて北岸の台地へ加勢に向かった。 ばたい さて孔明は魏延・馬岱に渭水を渡って北岸の台地へかかるよう命じ、呉班・呉懿には筏の兵士を おうへいちょうぎよく ばちゅう りようか↓っトうよく ひきいて浮き橋を焼くことを命じ、王平・張嶷を先手、姜維・馬忠を中軍、廖化・張翼を後詰と して兵を三手に分け、渭水の岸の敵本陣に向かわせた。この日の午の刻 ( 昼の十二時前後 ) 、兵馬い っせいに打ち立ち、渭水を渡って陣形をととのえると、しすしすと進み出た。 ここに魏延・馬岱が北岸の台地に近づいた時は、すでに日も暮れ方。孫礼はこれをはるかに眺め ただけで、陣を棄てて逃げ出した。さては敵が備えていたかと、魏延が急ぎ軍を退こうとするおり かんせい しも、四方に喊声どっとわきおこり、左から司馬懿、右から郭淮が討って出る。魏延・馬岱は死に 物狂いでようやく斬り抜けたが、蜀の兵士たちは大半、川に落ちて死に、他の者たちは退路につま って右往左往するばかり。ところへおりよく呉懿が加勢にきて、討ち洩らされた兵士たちを対岸に 運んで陣を取った。呉班は呉懿に半ばを分けて残った者どもをひきい、筏を流れに浮かべて下って きたが、張虎・楽継に岸から矢を雨のように射かけられた。呉班は矢に当たって水中におばれ死に、 兵士たちは水に飛びこんで逃げたので、筏はことごとく魏の軍勢に奪われた。この時、王平・張嶷 は、北岸の台地へ向かった味方の敗れたのも知らず、魏の本陣へ押し寄せてきた。すでに二更ごろ であったが、四方から喊声が聞こえてくる。王平が張嶷に 「北岸の台地の方はどうなっているのだろう。南岸の本陣は目の前にあるが、ここまで来ても、敵

8. 三国志演義 7

126 、こ。しかし楚王が成得臣を自害させたので、これを聞いた文公はいたく の生きていることを憂えてしオ 喜んだという。 さんどう 三韓信がひそかに陳倉を越えた計韓信が項羽を討った時、桟道をつくろうがごとく見せて項羽勢の目 をくらませ、その隙にひそかに陳倉をまわった故事による。 四雑霸将軍雑号将軍の誤り。雑号将軍とは征伐のおこなわれる際、任命される下級の将軍で、時に応 じて種々の名が冠せられたのでこう呼ばれた。 五揚州の司馬・大都督曹休時に曹休は大司馬・揚州の都督であった。 六平北都元帥『呉志』では、この時、大都督に封ぜられたとある。輔国将軍に昇せられたのは、蜀を 破った時であって、この時ではない くるま 七親しく彼のために鞭を取った古代の王は、大将を遣わすとき、ひざまずいてその轂を押したといわ れ、これより王が大将を任命する時の儀式の一つとなったものであろう。 要離がおのれの腕を斬り云々要離は春秋・呉の人。呉の公子光より呉王僚の子忌を刺すことを命 ぜられた時、おのれの腕を斬り落として、公子光に斬られたといつわり、慶忌を信用させたのち、首 尾よく役目を果たした。

9. 三国志演義 7

りくそん 僭称し、蜀と同盟を結んだ。今、陸澄に武昌において軍勢の調練をおこなわせ、出陣の備えをして いる。近々のうち、必ず攻めいるであろう」とのこと。曹叡は東西の急を聞いてなすすべを知らす、 そうしん ただおろおろするばかりであったが、時に曹真の病いまだ癒えていなかったので、取り急ぎ司馬懿 を召し出して諮った。すると司馬懿の言うのに、 「臣の察するところ、東呉は決して軍をおこさぬと存じまする」 「どうしてそれがわかるのか」 りゅうび け「孔明はかねてより號亭の恨み ( 劉備が大敗したこと ) を晴らさんとの心を抱いており、呉を取るこ を とをあきらめているわけではござりませぬ。ただ呉と戦えばわが国に虚をつかれるであろうと懸念 誅 双し、かりに孫権と誼みを結んだもの。陸遜もそれを承知しておりますから、軍をおこすかのごとく て見せかけ、実は孔明の勝負のほどを眺めているのでござります。呉に備える要はなく、だけを防 っ 追げばよろしゅ , つ。こギ、ります」 を いかにももっともである」 漢 と言って曹叡は、司馬懿を大都督に封じて隴西の諸軍を統べさせることとし、側近の者に、曹真 回 のところから大都督の印を持ってくるよう命じた。すると司馬懿は、 十 第「臣が直接いっていただいて参ります」 と言って、ご前をさがった。その足で曹真の館におもむくと、まず人をやって取次ぎを頼んだう え、中に通って見舞いのあいさつを終えると、 おう ろうせい やかた

10. 三国志演義 7

「呉に人を遣わして祝賀の進物を届け、陸遜に魏討伐の軍をおこさせるよう頼んだらよろしゅうご ざります。さすれば魏が司馬懿に命じてこれを防がせるは必定。司馬懿がもし東呉に当たるため南 ちょうあん 下いたさば、それがしふたたび祁山に討って出で、長安を取ることもかなうでござりましよう」 ちんしん 後主はこの言に従い、太尉陳震に、名馬・玉帯・金銀珠玉・宝物などをもって呉におもむき祝い を述べてくるよう命じた。陳震が東呉について孫権にまみえ、国書を奉呈すると、孫権はいたく喜 び、もてなしの酒宴をもうけたうえで蜀に帰らせた。そのあと、孫権が陸澄を呼んで軍をおこして せいしよく 魏を討っことを西蜀と約束した由を物語ると、陸遜は、 「これは、司馬懿を恐れる孔明の謀でござります。さりながら、すでに約束いたしましたうえは、 従わぬわけには参りませぬ。ともかく軍勢をおこすように見せかけて、はるかに西蜀と呼応し、孔 明が魏をきびしく攻め立てるのを待って、虚に乗じて中原を取ることといたしましよう」 えら と言って、ただちに命令を発して、荊州各地の軍勢の調練を開始し、吉日を択んで出陣すると触 れた。 ちんそう さて陳震は漢中にもどって、この由、孔明に報告したが、孔明はなお陳倉には軽々しく進めない だろうと不安に思い、ます人をやって様子を探らせた。するとその者が立ち帰っての報告に、 かくし・よう 「陳倉城の那昭は重い病いにかかっておりまする」 とのこと。孔明は、